王立研究所の管理区域、コア。
地下世界に魔力由来の電力を供給する巨大な建造物の吹き抜けに、唐突に緊張が走った。
何の前触れもなく、所長のガスターがその身を翻したのだ。両手を大きく広げ、背中から、まるで浮かぶようにゆるやかに落ちていく。表情には恐怖も苦悶もなく、ただ静かな満足と高揚が浮かんでいた。
その姿は演技じみていて現実感がなかった。金属の柵を突き破り、スローモーションのようにゆったりと体が宙へ投げ出される。研究員たちはその理解しがたさに、一瞬反応が遅れた。
「何やってんだ、アンタ!!」
研究員と一緒に機器の数値を確認していたサンズが叫ぶ。体が咄嗟に反応し、ガスターに向かって走り出す。
左手をいっぱいに伸ばして柵を越えて身を乗り出す――危険を顧みない行動に研究員たちの時が動き出し、怒号が飛び交った。
「だめ! サンズ、お前まで落ちちゃう!」
「戻って、サンズ!」
不安定な体勢で柵から身を乗り出す彼を周囲の研究員が必死に押さえ込む。だがサンズは一言も発さず、ただ、コアの深淵へ消えていくガスターの姿を黙って見送っていた。
――どうしてだ、親父。
コアの高温に焼かれ、塵ひとつ遺さず彼の身体は跡形もなく消えた。
それが、彼らの観測した“死”だった。
全員が、オレンジに光るコアの水面を絶望とともに見つめていた。
数日間、サンズは自室に戻りもせず、事務室脇のソファで仮眠をとるのみだった。目の下に疲れの色を浮かべたまま、絶えず何かに追われるように動き続ける。
事故報告、処理、片付け。騒がしさの中に身を置けば、考える暇もなくなる。
普段よりも、むしろ静かに、過剰なまでに仕事をこなす。所長の抜けた穴は誰かが埋めるしかない……魂の研究は、急務なのだから。
重力魔法――あのとき、もっと早ければ、もっと近くにいれば。助けられたかもしれない。そんな“たられば”の思考の槌を、幾度となく振り下ろしていた。
仕事の後、IDカードで退勤を打刻しそのままフラフラとガスターのデスクに向かったサンズは無言で椅子を引き、背中を沈めた。
大きな体に合わせた座面高の低い椅子が、ひんやりとその体を包み込む。
研究に没頭するあまり散らかし放題の父親のデスクだけが、彼の存在を証明するようだった。
放っておくと雪崩を起こしそうな書類の山に手をかける。
走り書きのメモや書きかけの論文の向こうで、小さな写真立てが目に入った。
写っていたのは、仕事中の自分だ。
研究所の片隅、やたら古いデスクで仏頂面のままパソコンをいじっている――なんかこう……もっとなんかあっただろ……。
「……キモいな」
苦笑しながら、そっとフレームに手を伸ばす。
明らかに、父親の撮ったものだ。
愛情表現がどうしようもなく不器用な人間が、遠巻きに息子を見ていた、その証。
ようやく写真立てに手が届き、引き寄せてフレームの後ろに何か貼ってあるのに気づく。
裏返すと、随分汚い字で書かれた走り書きのメモがテープ止めされていた。確かにガスターの筆跡だがいつもより字が荒れている。
――
暗く暗くさらに暗く、闇は濃度を増してゆく
影は次第に深くしみいる
フォトンの数値は……
そこまで読んで「ボフン!」と柔らかく質量のあるものが後頭部に直撃し、思考は停止した。
枕だ。振り返ると研究員のAが小さい身体で仁王立ちしている。
はあ~、と大きなため息とともにAがこちらを睨みつけた。あ、これは怒ってるな。
「……サ、ン、ズ~!」
「お前は! ほんと! ほっとくと無茶ばっかりするんだから!」
Aはキレながらずんずんとこちらに迫ってくる。
Aの後ろでBとCが心配そうな顔でこちらをうかがっているのが見えた。
迫りくるAと距離をとるために顔の前に手を出し身を護ると、Aはサンズのズボンの紐を思いきり引き絞った。
スケルトンなので当然肉はない。背骨の径まで思い切りズボンを引き絞られて思わず変な声が出る。
「ぎゃーっ! ……な、何して」
「寝て! サンズまで倒れたらやってらんないよ!」
真剣な顔に、一呼吸おいて「悪いことしたな」という気持ちになった。
かなり心配をかけていたらしい。それもそうだ、自分も彼らの立場なら同じように心配しただろう。
詫びようとした瞬間Aから追撃が来る。パジャマの上着、ズボン、ソファに置きっぱなしだったタオルケットが次々と顔に押し付けられた。謝るなということらしい。
研究の末に生まれた自分を弟のようにかわいがってくれたAもまた、ちょっと不器用で優しいヤツだと思う。
「着替えて!」
仁王立ちのAに促されて「ここで?」と思いながらもどうせ骨しかない身体、しかも相手は自分を作り出した研究員たちだ。どうでもいいか、と思いながらいそいそと着替えるとAに背中を押され事務室を後にした。
「ちゃんと寝てよね!」
部屋まで付いてきたAにベッドに押しこまれた。ベッドに横になるとAが雑に布団をかぶせてくる。頭からつま先まですっぽり覆われ、視界がわずかに暗くなったことでようやく自分が相当疲れていたことを思い知る。じんわりした眠気が骨の髄から染みだすのを感じた。
ちゃんと寝ろというAに短く「……ん」とだけ返事する。こちらの眠気が伝わったのか、Aが扉に向かって歩く音がする。
カチャリとドアを開ける音がし、少しの静寂が訪れた。
「……泣けるときには泣いときなよ」
そう言い残してAは部屋を後にした。
シンとした空間に布団を手繰り寄せる音をさせた後、ふっと、堰を切ったように涙があふれた。
誰にも見せたくなかった心の底が、やっと声になった気がした。
翌朝。サンズはいつもどおり事務室に姿を現した。表情は少しすっきりしていて、昨夜の涙がほんの少し心を軽くしたようだった。
「大丈夫?」
Bが声をかけると、サンズはわずかに目をそらしながら答える。
「ん、……心配かけたな」
持参したキッシュをつまみながら、ふと一言。
「……ま、本物の男失格だな。……キッシュを食うような、ヤワな奴だ」
ずいぶんとレトロなジョークで勢いは今ひとつだったが、それでも、口に出せたこと自体が回復の兆しだった。
「貰っても? サンズのキッシュ、美味しいんだよね」
「ぼくにも一つちょうだい」
BとCは顔を見合わせ、小さく笑う。そんな日常のやりとりが心地よかった。
この日、新人のアルフィーが配属された。
「あ、ははは……はじめましてっ! わたしはアルフィー……!」
「ああ、よろしくな」
サンズは軽く会釈しながら、人数分に切り分けたキッシュが乗った皿を差し出した。
キッシュを手に取ったアルフィーに、白衣を手にしたBが背後から声をかける。
「これ、アルフィーの! 私服の上からでいいからね」
振り向いたアルフィーは眼前で揺れる白衣相手に、手に持ったキッシュを上下させている。
どうやら白衣を受け取りたいが手に持ったキッシュをどうしようか考えあぐねているらしい。
「ははは、食べてからでいいよ」
Cの声に反応してアルフィーがキッシュを口に運び、Bはケタケタと笑った。
こいつ、わざとだな。
そのとき、ふと気づく。Aの姿が見えない。
「あいつは?」
BとCは顔を見合わせ、少しだけ間を置いて答える。
「柵が壊れてたの、気にしてたから……資材、取りに行ったのかも」
言いづらそうなBを見て、また気を使わせたなと思う。ガスターの壊した柵の話をするのは少しためらわれたのだろう。
つとめて平静に「まあ、事故現場をそのままにするわけにもいかないしな」と返す。この件を腫れ物にする必要はない。
それに状況から見て自殺だ。現場を保存する必要もないだろう。
サンズは頷きながらも、胸の奥に小さな違和感を覚えていた。
その違和感は、やがて確信に変わる。
昼になってもAは戻らない。
昼休憩のため研究フロアから戻ったBが「え、帰ってきてないの? 遅くない?」などというが、別に資材調達に行った確証もないのだ。
Cが「ん~」と少しうなり声を上げた後、指示を出した。
「アルフィー、監視映像の操作手順を教えるよ」
「で、ひとまず正面口のカメラを遡って、モンスターの出入りがないか見てくれる?」
結局気になって、全員でぞろぞろ連れ立って監視映像が記録された保安監視室に来る。
映像を早戻しするが、この日、正面口には誰の出入りもなかった。
「ん~、じゃあ悪いんだけど他の映像も確認してもらえる?」
その場はアルフィーに任せ、事務室に帰る。
黙々と仕事をしているとアルフィーが随分と慌てた様子で「た、大変よ!」と叫びながら飛び込んできた。
彼女はよほど動揺しているのか発言が要領を得ない。
だが、その尋常ではない怯え方に、その場の全員が言葉を失った。何が起きたのかは分からない。ただ、得体の知れない恐怖が背筋を駆け抜け、ゾッとした。
次の瞬間には、確認し合う暇もなく席を蹴り、弾かれたように廊下へ飛び出していた。