翌朝、アルフィーは目をこすりながらサンズの部屋をノックした。
「おはよ……サンズ。その後どう?」
返事はない。そっと扉を開けると、サンズは暗い部屋でモニターにかじりついていた。
「サンズ?」
アルフィーが近づくと、サンズは振り返らずに画面を指さす。
「事務所の端末をミラーリングしてるんだが……こいつを見てくれ」
画面を覗き込むと、勤怠管理端末の画面が表示されている。
そこにはBのIDによる出勤打刻が、異常な速度で何度も更新され続けていた。
「な、なにこれ……どうなってるの?」
「今朝見たらこれだ。どうも深夜から、アイツが何度も出勤打刻を繰り返してるらしい」
やがて、Bの出勤打刻はエラーを吐き出して止まった。
――[ERROR] ID_NOT_FOUND : Unregistered ID.
IDが、未登録。
「うそ……、今まで打刻されてたのに……!」
呆然とするアルフィーの横で、サンズは低く呟く。
「……消されたのかもな。“今この瞬間”にな」
しん……と静まりかえる部屋に、かすかにPCのファンの音だけが響く。
「……なにが起きてるの……?」
アルフィーの声に、サンズは少し考える素振りを見せた後、立ち上がった。
「とにかく、ラボに行こう。あいつがどうなったかも気になるし」
アルフィーが小さくうなずく。
「……うん、わたしも、直接確かめたい」
二人は部屋を出ると薄暗い廊下を抜け、エレベーターへと向かう。
途中の分岐廊下で、サンズは不意に足を止めた。
「あいつの部屋……」
アルフィーも振り返り、Bの部屋のドアを見やる。一応ノックするが、応答はない。
「……まあ、打刻もあったし部屋には居ないんじゃないかしら」
ただ、サンズには何となく違和感があった。はっきりとはわからないが、何かが昨日までのBの部屋とは違うような嫌な直感があった。
「……開けるぞ」
「えっ!? なんで!?」
扉を開くとそこは暗闇だった。ドアの先には何もない。時空が切り取られたように暗闇が広がっていた。
「……」
二人は絶句する。記録だけじゃない。
存在した事実すら抹消されたかのように、彼の痕跡は何一つ残されていなかった。
サンズは無言でBの部屋の扉を閉める。
そして、ドアノブを握ったまま小さく息を吐くと、ゆっくりとその手を離した。
「……行こう」
サンズの一言で、ふたりは薄暗い廊下を抜けてエレベーターに乗り込んだ。
少し気が緩んだのか、アルフィーが疲れたように息を吐きながら言う。
「このラボって大きいし、似た景色が続くわね……迷ったりしない?」
「俺はここが生まれ育った家だからな、迷ったことないぜ」
「まあ! 頼もしいわ、サンズ!」
エレベーターが中央制御フロアに到着し、自信ありげなサンズに続いてアルフィーが足取り軽くついていく。
雑談をしていればこの何とも言えない気味の悪さも少しは……と、その時。
「チャッ、チャッ……」
聞き慣れない音が背後から聞こえる。
ゾクリとして振り返ると暗い廊下の奥から、誰かが見ているような変な気配がした。
「……な、何の音かしら?」
何かが床を蹴って走る音が響いてくる。小型の獣が走るような軽い足音。
「チャッ、チャッ、チャッ、チャッ……」
二人は一瞬顔を引きつらせて固まっていたが迫ってくる音にハッとし後ずさる。先に動いたのはサンズの方だった。
「なんか知らんが逃げるぞ!」
「……う、うん!」
サンズはアルフィーの腕をつかむと勢い良く廊下を駆け抜けた。この先にメンテナンスフロアの点検口へ続く通路がある。相手が動物なら梯子は下りられまい。
「こっちだ!」
勢いよく突き当たりを曲がった先、廊下は途中で壁になっていた。
ドン、と鈍い音を立てて、サンズはアルフィーと壁の間に挟まれ情けない声を上げる。……ぶえ。
「いった〜! ちょっと! 全然廊下じゃないじゃない!」
「知るかよ! ここは廊下だったんだよ!!」
もみ合いながら口論する、その背後から。
「チャッ、チャッ、チャッ、チャッ……」
音が近づくのに気付き二人は一瞬で沈黙し、目を合わせた。
やはり小型の獣が走るような軽い足音だ。
「……」
「……」
息をひそめ、背中を壁にぴたりとつけて身を固める。
「チャッ、チャッ……」
音は、すぐ近くまで来ていた。
続いて――「ハアッ、ハアッ」と荒い息遣いが聞こえる。
見えない。だが確実に“何か”がこちらを見ている。そんな気配。
アルフィーは恐怖のあまりサンズに抱きつき硬直している。
足音が止まった。
…………
……やがて、それは背を向け、遠ざかっていったようだった。
「今のって……」
「“犬”……か?」
アルフィーがゴクリと唾を飲む音が聞こえる。
沈黙のあと、視線を交わして二人は動き出した。
サンズは少しこわばらせたまま、壁に手をつき息を整える。
「……はー、肝が冷えたぜ」
アルフィーも小さく頷きながら、眼鏡を直している。
「もう、怖かった……あんな音、現実じゃないみたい」
ふたりは再び歩きだす。事務室への道は――
「……あれ?」
サンズが立ち止まる。無い眉を、少しひそめている。
「こっちだったはずなんだが……」
いつも通っているはずの廊下が、妙に長い。分岐も増えている気がする。
「……え、まさか、迷ってる?」
サンズはしばらく真顔で黙りこくったあと「迷ってないよ」と堂々と言った。
「いや迷ってるよね!?」
と、ふいに。
十字路の向こうから、誰かがゆっくり歩いてくる。
「あっ……!」
アルフィーが指差す。
横から現れたのは――Cだった。だが、どこかがおかしい。
その顔が、ぼんやりとしている。見えているのに、判別できない。
細部がまるでモザイクのように崩れているのだ。
「副所長さん……?」
呼びかけに応じることなく、Cは無言のまま、十字路を横切っていく。
ゆっくりと、視線も言葉もなく。
ふたりは黙って、その背を見送った。
「……今の、本当に副所長さんだったの?」
「……いや。わからねぇ」
これまで起きた全ての異変。
ガスターの死はログデータの破損、Aの事故は監視映像のノイズ、Bの安否は不明だがIDが削除された。すべての異変に何かしらの記録……もしくはデータが関わっている。
そして今、目の前を通り過ぎたCはまるで壊れたデータのように姿があいまいになっていた。
これは――。
「今ならまだ、どうにかできるんじゃないかしら」
ふいに、アルフィーの声で現実に呼び戻される。
アルフィーは不安そうにサンズを覗き込んでいたが、目が合うと、Cの去って行った廊下へまっすぐ向き直った。
策はないが、確かにCはまだ消えてはいない。
もしかすると、もしかするかもしれない。
「追うか」
アルフィーが廊下の先に視線をやったまま小さく「うん」と頷き、歩き始める。
だが、角を曲がった瞬間――半歩先のアルフィーの姿を一瞬見失った。
「きゃあ!」
アルフィーの悲鳴とともに、彼女の体が虚空に放り出される。
廊下の先が……ない。
存在しているはずの廊下がまるごと消失し、アルフィーを飲み込んだのだ。
「アルフィー!」
サンズがとっさに左腕を突き出し、魔法を使う。
青白い光に包まれて、アルフィーの身体が勢いよく引き上げられる。
――くそ、もっと慎重になるべきだった。
アルフィーは天井で尻もちをついたあと、蛍光灯にしがみついて悲鳴とも呼吸ともつかない音をあげている。何が起きたのかわからず、パニックになっているようだった。
「アルフィー! 聞いてくれ!」
サンズの鋭い声が響く。ビクッと肩を跳ねさせたアルフィーが、逆さまの視界でサンズを見下ろした。
「下は見なくていい。天井を這って、俺の真上まで来るんだ」
「い、嫌……むりっ、こんなの……!」
アルフィーはとうとう泣き出してしまった。逆さまの顔から大粒の涙がこぼれ、天井を濡らしていく。
「アルフィー!ゆっくりでいいからこっちに……」
「無理よ、無理っ!できっこないわ!もう嫌……助けてよ……」
ひゅ、とアルフィーの喉が鳴って呼吸が浅くなっていく。これ以上の自力移動を望むのは無理だと、サンズは瞬時に判断を切り替えた。
サンズは突き出した左腕に一気に力を込め、重力のベクトルを進行方向とは逆の壁へと強制的に書き換える。
「ひっ!?」
唐突に真横へ引っ張られたアルフィーの手が、蛍光灯から強引に引き剥がされる。
アルフィーの体が天井を勢い良く滑るように動き出したその瞬間、サンズは即座に魔法を解除した。 直慣性と本来の重力が交差し、アルフィーの身体が斜め下――サンズのいる床側に向かって勢いよく放り出される。
無理な力が加わった蛍光管が器具から外れ、重力にしたがいそのまま先ほどの「無」の空間へと落ちていくのが目の端に映った。
「ぐ……ッ!」
サンズは両手を広げてアルフィーを受け止めたが、勢いを殺しきれずにそのまま滑るように後ろ手に倒れてしまった。サンズの手をすり抜けたアルフィーが後方へと転がっていく。
……あまりにも格好がつかない。なんとか起き上がって駆け寄る。
「だ、大丈夫か……?」
「……」
床に投げ出されたアルフィーは、膝をついて激しく肩を揺らし、恐怖で震えていた。
サンズも、ひと息ついたはずなのに――どこか呼吸が荒いままだった。そしてへなへなと床に座り込む。
また……失うところだった。
そっと自分の手を見下ろす。微かに震えていた。
それを悟られまいと、さりげなくパーカーのポケットに手をしまう。
ガスターは魔法の効果範囲外だった。Aは現場に居合わせることもできなかった。
助けられる力があったのに、助けられなかった二人が脳裏をよぎった。
無力だ。
――
アルフィーはようやく顔を上げ、震えながらサンズを見た。
サンズの顔はいつもの飄々とした表情ではなく、どこか張り詰めた、割れ物のような繊細さを帯びていて、アルフィーはハッとした。
探偵ごっこのような浮ついた気持ちで踏み込んだが、これはサンズにとっては親しい同僚の死に向き合うことなのだと。そして彼らは、わたしのように転落して…
アルフィーの表情が変わる。
――わたしが……しっかりしなくては。
アルフィーは、まだ手の震えが残るまま、そっと隣に腰を下ろす。
「……ありがとう、助けてくれて」
一瞬だけ、視線が合った。ほんの一瞬――でも、その瞳の奥に言葉にできない痛みがあった。
「……」
少しだけ彼を抱き寄せる。ほんの少しだけ、世界の歪みが遠のいたように感じられた。