……ただ、それはほんの束の間の安らぎだった。
次の瞬間、不意に天井スピーカーから、かすれた声が響いた。
『――暗く暗くさらに暗く、闇は濃度を増してゆく』
きゃ、と小さく悲鳴のように声を上げ、アルフィーがびくついて体を離す。
『影は次第に深くしみいる』
『フォトンの数値はマイナス表示。次なる実験、これは実に実に興味深い』
サンズは息をのむ。聞き取りづらい歪んだようなこの声は――……。
『君たち二人はどう思う?』
音声はノイズにまみれ、最後にひとつだけ。
『ワン』
という短い鳴き声を残して、消えた。
「わ、わたしたち……?」
アルフィーの不思議そうなおびえるような質問に返事をせずサンズは黙っていた。
沈黙に耐えられなかったのかアルフィーが続ける。
「いっ……今の声、聞いたことない声だった。誰の…」
「……親父だ」
一切の迷いもなく、はっきりと言い切った。
彼が、今もなおこの世界の“どこか”で見ている。
「お、お父さん……?」
訳が分からないという顔でアルフィーがつぶやくが、サンズは答えずポケットの中の手を握りしめて前を見据えた。
「……コアを見に行くか。親父とあいつが落ちた場所だ」
「現場検証……しないわけにもいかないだろ、やっぱ」
正体は分からない。だが、向き合わなければならない「何か」がそこにあると、サンズの胸中には確信に近い胸騒ぎがあった。
大きく息を吸って腰を上げると、アルフィーの返事を待つことなく歩き出す。置いていかれまいと、アルフィーは慌てて立ち上がり、小走りでその後を追った。
「ねえ、さっき……”親父”って、言ってたけど……」
道すがら、アルフィーが恐る恐る問いかける。
「ああ。あの声、ガスターだ」
「えっ……じゃあ……」
――アルフィーの脳裏に、王から聞かされた言葉がよみがえる。前所長である『ガスター』という科学者が事故で亡くなり、ラボの体制を刷新する。
確かにそう聞いていた。
まさか、その“ガスター”が……。
「ごめんなさい……知らなくて……」
サンズは一瞬だけ立ち止まり、しかし正面からの答えは避けるように視線を前へ戻す。
「いいさ。……分かんなくて」
それ以上、会話は続かなかった。前を歩くサンズの背中はどこか遠く、その表情を読むことはできない。居心地の悪さに身を縮めると、うつむきながら後を追った。
アルフィーは思い返す。
あの時は配属初日で気付かなかった。仲間のピンチに思わず飛び出すような熱血な人なのだと思い込んでいた。
でも違った。 あの日、彼は取り乱していた。おそらく仲が良かったのだ。
そして……今のサンズからは、それを遥かに超える、静かで深い喪失の気配が漂っていた。
「……」
サンズは、いつも飄々としていて、冗談混じりに物事を受け流す人だと思っていた。だが、その仮面の下はとても繊細だった。
たぶん、ギリギリで立っているのだろう。
足取りが、自然とサンズの隣に並ぶ。未熟で、探偵助手としても同僚としてもまだ半人前かもしれない。だが、それでも隣に立つことならできる――そう思えたのだった。
ふたりは静かに、コアの転落現場に立っていた。
ひしゃげた金属製の柵は一見、何も変わっていない。アルフィーを壁際に待たせ、ゆっくりと柵に向かって歩みを進める。
あと数歩で柵に触れることが出来る距離まで近づいて、手を伸ばしたときだった。前触れもなく「犬」が柵の前に現れた。
「……なっ!」
にこやかな表情でただこちらを見ている。あまりにも異様だ。
犬からノイズのようなジリジリした音が聞こえる気がした。
「サンズ!!」
アルフィーが大声を上げる。どうやら彼女にも見えているらしい。
異音と共鳴するように視界にノイズが混じる。体がビリビリと震えるような、しびれるような感覚がして、何か干渉されているととっさに思った。
犬はその場から動いていないはずなのに、圧が増し、近づいてきているような錯覚さえ覚える。
全身が、脳細胞が、全力で警鐘を鳴らしている。
クソッ、これはヤバい――……!
その時聞きなれた……いや、聞きなれた声より幾分か優しい声で「危ないよ」とガスターの声がして、少し……後ろに引き寄せられるような感覚がした。
肩に触れたのは、確かにガスターの手の感触だった。
一瞬、視界がブラックアウトする。
自分の立っている位置が先ほどと変わっている。差し出していたはずの自身の手もぶらりと降ろされている。
――犬は、すっかり消えていた。
驚いて固まっていると後ろからアルフィーが穏やかなような、心配するような声で聞いた。
「……やっぱり、怖い?」
たぶん、アルフィーは『親父の死亡現場に近づくのが怖いのか』というニュアンスで聞いている。
犬を見たアルフィーの動揺を思えば、こんな聞き方はしないだろう。
「ん……大丈夫」
戻されている。おそらく犬が出現する5~6秒前に。
そしてそれをやったのは…。
サンズは左手でそっと右肩に触れる。
「……助けてくれたのか、あいつが」
呼吸を整え、慎重に足を踏み出す。
犬はもう、現れなかった。
柵の下を見る。
そこには、底の見えない黒。オレンジの光に満たされた水面に、ガスターの転落先だけが不自然に穴を開けていた。
深淵というより“抜け落ちた”空白だった。
「深くて、見えない……」
心配したのか、アルフィーが近づいてきて呟く。
サンズは、無言でひしゃげた柵から転げ落ちていたネジを拾い、それを投げ入れる。
数秒の沈黙。
音は返ってこなかった。
「……普通、何かに当たるか、落ちる音がするもんだけどな。……ここは、“空っぽ”だ」
まるで世界が最初からここを描いていなかったかのような、異様な静寂。
「あの、廊下みたいに」
あの時もしも落ちていたら。アルフィーの手が震えるのが目の端に映った。
サンズ自身も、足元の感覚が覚束ない。あの時、犬に触れていたらどうなっていたのだろうか。
物理法則すら破綻した、底のない空白。
二人はただ無言で、世界の異常を突きつけるように暗闇を晒す、その不自然な穴を見下ろしていた。