異変の余韻がまだ身体に残るなか、サンズは壊れていない柵に体を預けた。
コアの底から照らすオレンジの光は、三文芝居のラストシーンみたいにわかりやすくセンチメンタルな空気を纏っている。
「吸っていい?」
ポケットから煙草を取り出しひらひらと振って見せる。
「……うん。……煙草吸うんだ」
「たまにね」
父親のデスクからくすねて随分になるそれは、わずかに湿気を含んでいた。サンズは柵にトントンと煙草を当て、薄く笑って火をつける。かつてこの研究所で、同じ匂いをさせていたのはあの人と自分だけだった。
あいつは、灰が落ちた先に居るんだろうか。それとも煙の先に居るのか?
「なあ、アルフィー。“観測”って、なんだと思う?」
唐突な問いに、アルフィーは少し困惑しながらも答えようとする。
「えっと……見て、記録して……確認すること?」
サンズは、少し笑ったような表情で、独り言のように続ける。
「……まあ、そんなところだ」
「向こう側。こっちのログには残らない領域。……死を通って、あいつは別の座標に行ったんじゃないか、ってな」
アルフィーが難しそうな顔で眉をしかめる。サンズはアルフィーを見ることなく、ずっと前を見据えている。
「……つまり、どういうこと?」
「量子力学の話だよ。観測されていない粒子は、状態が確定してない。無限の“ありうる”を全部持ったまま、どこにでも存在してる」
「……でも、誰かが観測した瞬間、そのうちの“ひとつ”に収束する」
「だから、あの人は……“観測されない”ほうを選んだのかもしれない。すべての可能性に戻るってことだ」
「……わかんないわ」
呼吸に合わせて、煙草という実体が灰と煙に変わる。吐き出した煙は、空気に溶けて見えなくなる。この手から煙草を取り上げて「こらこら」と呆れたように薄く笑った父の顔も、きっといつか、境界線を失って薄れていくのだろうか。
煙草をピンとはじき、灰を散らす。
「……ずっと間違い探しを続けるってことさ」
「誰かが“こうだった”って覚えてねーとさ、さみしいからな」
少し柔らかくなった瞳の奥に、かすかに決意がにじんでいた。
言葉少なにサンズたちはコアを後にする。
……その瞬間、空間全体に“ノイズのような音”が走る。
どこからともなく発せられる、遠吠えにも似た空気の振動。スピーカーからではない。
何も、起こらない。
ただ、世界が、誰かに「観測」されているような不気味な圧を残して。
「見てるな……」
サンズはちらりと目線だけを後ろにやった後、ぼそりとつぶやいて歩きだした。
あれから数日、サンズとアルフィーはもはや出勤することもなくなり、日々異変の調査をしている。
BやCは姿を消してしまった。このラボにはもう――俺たち二人だけだ。
相変わらず、軽微な異変は続いている。
壁にめり込むようにドアが埋まっている。まるで3Dゲームのオブジェクト配置に失敗したバグみたいだ。
今更驚かない。どうやって開けるんだかと横目で一瞥し、すぐに意識をアルフィーのどうでもいい話に戻す。
「それでね、その時主人公のエドガーが、真実とは」
すぐ隣を歩いていたはずのアルフィーの声がプツリと途切れ、背後から突然暗闇が迫り、突如世界が暗転する。
手に持っていたはずの資料、隣のアルフィー、存在したはずの床、壁、天井…それらが突如喪失し、その奥にぼんやりと犬が見える。
暗闇のラボ。モノクロの空間。どこにも何もない。いや、ここは本当にラボなのか?
奥に、ただ犬が佇んでいる。犬がハアハアと舌を出して微笑むような顔をしている。サンズは身動きができず遠く暗闇で佇む犬を凝視する。……いや、凝視する以外の行動が出来なかった。
空間感覚も時間感覚も消失し、犬の呼吸音だけが徐々に大きくなる。ただ、犬がいる。それだけだ。
塗り替えることのできない真実が……ここにあるのだろうか。
突然視界が、古いテレビの電源を入れた時のように一瞬白く弾け、気付けばラボの一階――エントランスに立ち尽くしていた。
無人の空間を前にようやく思考が戻り、まだ恐怖感が残る中ふたたび思考を巡らせようとしたところ、後ろからアルフィーの声がする。恐る恐る振り返ると、はじめて会ったときと同じ表情、同じ服装、同じ内容で。
「あ、ははは……はじめましてっ! わたしはアルフィー……!」
「……あ、ああ……よろしく」
アルフィーを見つめる。メガネが、少し変わっているような気がする。
「……"オイラ"はサンズ。スケルトンのサンズだ」
こうしてラボは「仕様確定」となった。
『暗く、暗く、さらに暗く』
『闇は濃度を増してゆく』
『影は次第に深くしみいる』
『フォトンの数値はマイナス表示』
『次なる実験』
『これは実に実に興味深い』
『君たち二人はどう思う?』
どこまでも続く、底のない暗闇。
かすかに声が近づいてくる。歪んだような、聞き取りづらい声。
「……ああ、すまないね」
「暗いといけないね、誰に話しているかわかりづらい」
蛍光管特有のか細い通電音。
頼りない明滅。ぼんやりとした薄い光。
「君だよ」
「今……これを読んでいる、そこの君」
暗闇の中、器具も配線もないむき出しの蛍光管を携えたガスターが笑っていた。