あれから数週間が経った。 俺は一龍兄さんと共に、相変わらずグルメ界の最前線という名の地獄に身を置いていた。 毎日が死線。だけど、あれから必死に足掻き続けてきた結果、最近ではアカシア様から与えられる試練も、幾分か簡単にこなせるようになってきている。
それは単に戦闘のコツを掴んだというだけじゃない。俺の精神が、この『ブルーニトロ』としての肉体にようやく適応し、細胞本来の力を引き出せるようになってきたからだ。
かつては気配を察知するだけで精一杯だったグルメ界の猛獣たちが、今ではどこから現れても、ある程度余裕を持って対処できるようになっていた。
「――二鳥、来るぞ! 上空、および背後だ!」
一龍兄さんの警告が響く。だが、その声が耳に届くより先に、俺の肌は空間の僅かな歪みと殺気を完璧に捉えていた。
「大丈夫だ。見えてるよ、一龍兄さん」
かつての俺なら、焦って構え直していただろう。だけど今の俺の心は、驚くほど冷静に凪いでいる。上空から奇襲を仕掛けてきたのは、巨大な翼と鉄をも切り裂く爪で突っ込んでくる鳥型の猛獣『ツッコンドル』。
それと同時に、背後のブッシュをなぎ倒して、捕獲レベル三桁後半はあろうかという『ハトタウロス』が突進してくる。
挟撃
グルメ界では定番の、一瞬の油断が死に直結する状況だ。 しかし、俺は一歩も動かない。 適応したからこそわかるブルーニトロの超人的な動体視力と脳の処理速度が、迫り来る二頭の猛獣の軌道をスローモーションのように映し出す。
「まずは……こっち!」
背後の突進に対し、俺は振り返ることもなく、ただ一歩だけ横に踏み込んで軸をずらした。 大工が柱の垂直を見極めるように、ハトタウロスの突進の『重心』を見切る。
寸前で突進をかわしながら、すれ違いざまに俺の青い拳を、猛獣の顎の付け根――骨格の構造上、最も衝撃に弱い『結合部』へと軽く添えるように叩き込む!
『
鈍い音が響き、巨獣は自重の勢いも相まって、頭から地面に突っ込んで文字通り一撃で沈んだ。力任せの破壊じゃない。構造を知る大工だからこそできる、最小限の力での『解体』だ。
「んなっ……!?」
一龍兄さんが目を見張る中、俺はそのままの流れるような動作で上空を見上げる。 頭上から迫る鋭い爪。俺は愛用しているノミを具現化、まるで自分の手足の延長のように滑らかに回転させ、ツッコンドルの風切り羽の『芯』を正確に捉えて弾き飛ばす。
キィィィン!
高い金属音が響き、猛獣の体勢が大きく崩れた。 空中で無防備に晒されたその胸元へ、俺はブルーニトロの脚力を爆発させて一気に跳躍する。
「これで…終わりだ!」
胸骨の隙間、心臓へと繋がる一番柔らかい一点へ、ノミの柄を正確に突き立てる。
ずん…!
という手応えと共に猛獣の瞳から光が消え、俺は着地と同時にその巨躯を静かに地面へと横たわらせた。
息一つ乱れていない。傷も汚れもない。数週間前、ボロボロになってカカさんを泣きそうにさせていた俺は、もうそこにはいなかった。
「おいおいおい……」
一龍兄さんが呆然とした様子で歩み寄ってきて、俺の顔と、一瞬で物言わぬ肉塊に変わった猛獣たちを交互に何度も見つめた。
「おい二鳥、お前化け物か。いや、元からブルーニトロなんだが……一ヶ月前とは完全に別人の動きだぞ。今の受け流しとピンポイントの打撃、アカシア様の身のこなしにそっくりじゃねえか」
「そんなことないさ。ただ……この身体の使い方が、やっと分かってきたんだ」
俺は青い自分の両手を見つめ、そっと拳を握り締めた。ブルーニトロとしての戦闘技術の適応。それは、俺の『執念』が肉体を強制的に進化させた結果だ。
これなら、守れる。あの温かい家も、毎晩俺の帰りを待ってくれているカカさんの笑顔も。そして、あの愛しい長話も、毎日の『検証実験』も、誰にも邪魔させない。
「よし、一龍兄さん、次へ行こう。俺、もっと完璧にこの力を馴染ませたいんだ」
「……頼もしいねぇ。二鳥、そのうち俺を追い抜くんじゃねえか?」
「それは絶対にない」
一龍は頼もしそうに笑いながらも、二鳥の奥底にある凄まじい執念を察したのか、少しだけ真剣な目で弟の背中を見つめていた。
◆
一龍兄さんと共に、俺たちはグルメ界のさらに少し奥へと足を踏み入れていた。この領域まで来ると、ただ力任せに殴るだけの戦い方では通用しない猛獣が次々と姿を現す。
毒や麻痺、あるいは空間を歪めるような絡め手を使ってくる相手には、俺も細胞の感覚を研ぎ澄ませて慎重に対処していた。
――だが、その猛獣の『能力』だけは、俺の理性を完全に消し飛ばした。
「おい二鳥、気をつけろ! そいつは『真似菌』だ! 精神に干渉して――」
「あ゛……?」
一龍兄さんの警告が遠く聞こえる。 薄暗い霧の向こうから、一匹の猛獣、いや菌類の塊が姿を現した。
それは俺の記憶の底、一番大切な領域を強引に読み解き、その姿を不気味に変形させていく。霧が晴れたそこに立っていたのは、見間違えるはずもない、愛しい人の姿だった。
「……二鳥さん」
真似菌の化けた『カカ』が、優しく俺の名前を呼ぶ。 俺の側でのみターバンを外し、あの綺麗なロングのストレートヘアを揺らしながら、俺に向かって愛おしそうに両手を広げて微笑んでいる。
その瞬間、俺の頭の中で何かが決定的にブツリと切れた。心臓がドクンと激しく脈打ち、ブルーニトロの細胞がこれまでにない猛烈な速度で沸騰し始める。
俺の中からは、冷静さも、大工としての計算も、数秒前までの慎重さも、そのすべてが綺麗に消え去っていた。後に残ったのは、ただ一つ。 五臓六腑を真っ黒に焼き尽くすような、底なしの…
『怒り』だ。
「……………」
前世で孤独に死に、今世でようやく手に入れた、俺の唯一の光。 毎晩、不器用で愛らしい長話をしながら、俺の帰りを待ってくれているカカさん。 俺の腕の中で赤くなりながら、俺との未来を望んでくれる、この世界で一番愛おしい笑顔。
その姿を…その言葉を…グルメ界の薄汚いバケモノ風情が…俺を騙すための『道具』として真似事にした…!
二鳥が一度手に入れた幸せに対する凄まじい執念が…今、最悪の逆鱗となって爆発する…!
「……っ……!!…………!!!」
怒りと共鳴するかの如く、地鳴りと共に俺の足元の大地が爆散した。 ブルーニトロとしての細胞の出力を、理性のリミッターごと強制的に限界突破させる。
「な……っ!? おい、二鳥、待て――!」
一龍兄さんが止める声すら、今の俺の耳には届かない。 真似菌が驚愕に顔を歪めた瞬間には、俺はすでにその眼前に到達していた。
技なんざ必要ない。拳を固めて…圧倒的な怪力と、ドス黒い殺意のすべてを乗せて!偽物の顔面へと叩き込む…!!
ゴガァッ!!!
グルメ界の頑強な空間そのものが軋むような絶叫が響いた。 俺の一撃は、真似菌の『幻覚』ごと、その肉体を容赦なく粉砕する。
だが、それでも俺の怒りは収まらなかった。カカさんの姿を汚した罪の代償は、一撃や二撃で許されるものじゃねぇ…
「……ッ!!」
倒れ込み、幻覚を維持できずに本来の醜悪な菌の集合体に戻ったゴミに対し、何度も拳を打ち下ろした。
ドゴォン! ドゴォン!
菌を一匹残らず潰すためだけに殴るたび、周囲の地盤が陥没し、凄まじい衝撃波が霧を吹き飛ばしていく…普段の理性的で温厚な次郎の「二鳥兄ちゃん」の面影は、そこには微塵もなかった。
「おい二鳥! もういい、そいつはもう死んでる! 落ち着け!」
一龍兄さんが背後から俺の身体を必死に抱きとめ、力任せに引き剥がす。
ふぅ…!ふぅ…!と激しい呼吸を繰り返しながら、俺は自分の青い拳に付着した菌類の粘液を見つめていた。真似菌の塊は、もはやどこにもいない…
「……カカさんを、汚したんだ……」
ぽつりと呟いた俺の声は、自分でも驚くほど冷たく、そして未だに怒りに満ちて震えていた。
引き止める一龍兄さんの腕の中で、俺の荒れ狂っていた細胞が、ようやく静かに凪いでいく。だけど、胸の奥にある狂気は、この日、完全に牙を剥いて固まっていた。
◆
修行を終えて、新居へと帰る道中。 グルメ界の荒涼とした大地を踏みしめながら、俺たちの間には少し重い沈黙が流れていた。
いつもなら「今日もよく頑張ったなぁ」と笑ってくれる一龍兄さんが、今は真剣な、どこか厳しい横顔をしている。
「……二鳥」
一龍兄さんが立ち止まり、俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「さっきのお前の戦い方ははっきり言って危なっかしすぎる。……恋人を大切に想うのはお前の美徳だ。あいつを許せないって気持ちも、男としてよく分かる」
一龍兄さんはそこで一度言葉を切り、俺の肩を強く掴んだ。
「だけどよ。どんなに激しい怒りがあろうが、戦場で完全に理性をなくしちまったら、勝てる相手にすら勝てなくなるぞ。お前のその熱すぎる『執念』は、時に最大の武器になるが、一歩間違えれば自分を焼き尽くす刃だ。それじゃあ……守りたいものも、守れなくなっちまう」
その言葉が、冷水を浴びせられたように俺の胸へと突き刺さる。
――理性をなくせば、守りたいものも守れなくなる。 その瞬間、俺の脳裏に、最悪の最悪を想定したシミュレーションが冷酷に広がっていった。
さっきの真似菌は、怒りに染まって力任せに暴れた俺よりも、純粋な実力が遥かに格下だったから勝てた。ただ、それだけの幸運に過ぎない。
だが……あいつはどうだ? ブルーニトロの一員であり、原作でカカさんを殺してその姿を奪った、あの『アトム』。
もしもあいつが、俺の弱点を見抜いてカカさんの姿を真似て俺の前に現れたら……?
原作であいつがカカさんに擬態したあの化け皮で、俺を嘲笑うように目の前に立ったら…俺はきっと、今日の真似菌の時と同じように、理性を完全に失って激昂するだろう。
そして……理性をなくした俺は、技術のすべてを忘れて力任せに殴りかかり――アトムに、無残に殺される。
あいつは強い。数億年もの間、惑星を調理し、戦い続けてきた本物の怪物だ。1か月しか経っていない、戦闘技術の拙い今の俺が、頭に血を上らせて勝てるような相手では絶対にない。
(……今の俺じゃ、駄目だ。このままじゃ、カカさんを…奪われる!)
背筋を冷たい汗が伝う。死に物狂いで、一龍兄さんの言う通りにしなきゃならない。アトムを、そして他のブルーニトロたちをいつか完全に叩き潰すためには、この凄まじい『怒り』と『執念』を消すのではなく、完全にコントロール下に置かなければならないのだ。
怒りを制御し、ブルーニトロの細胞の力を限界まで引き出しつつ、同時に大工として培ったような『力任せではない技術的な戦い方』を身につける。
それ以外に、あの冷酷な同族たちに勝つ方法はない。
「……ああ…。分かったよ、一龍兄さん」
俺は深く息を吐き出し、拳の震えを止めた。瞳の奥からドス黒い殺意が消え、代わりに、氷のように冷たく、かつ絶対に揺るがない強固な『決意』が宿る。
「からかわないで聞いてほしいんだけど……俺、さっき本当に怖くなったんだ。一龍兄さんの言う通りだよ。俺、もっと賢く、もっと圧倒的に強くならなきゃいけない。明日からの修行……今日までの何倍も厳しく、叩き込んでほしい」
俺の言葉を聞いて、一龍兄さんは一瞬だけ驚いたように目を見張った。だが、すぐにいつも通りの豪快で温かい笑顔に戻り、俺の背中をバチンと力強く叩いた。
「ははっ! その意気だ、二鳥! お前ならそう言うと思ってたぜ。よし、明日からはアカシア様にも頼んで、お前のその『大工の技術』を戦闘に完璧に昇華させるメニューを組んでもらおう。覚悟しとけよ?」
「うん。……望むところだよ」
カカさんの姿を汚される恐怖を、俺は本物の強さへと変える糧にする。 大切な新居が見えてくる境界線を前に、俺は一龍兄さんと固い拳を交わし、理性を研ぎ澄ませた職人としての第一歩を、静かに踏み出すのだった。
(…けどな二鳥。お前にはまだ理性は戻っていないぞ…)
◆
二鳥がグルメ界で目覚ましい成長を遂げていく中で、ついにその存在は世界の黒幕たちの知るところとなった。
世界の裏側、薄暗い空間で行われていたブルーニトロと美食神アカシアの密談。そこではペアが、冷徹な視線をアカシアへと投げかけた。
「……アカシア。お前の元にいる、あのブルーニトロは何者だ。なぜ我々の同族が、お前の所で修行などという人間の真似事をしている。我々に隠れて、独自の戦力を囲い込んでいるわけではあるまいな?」
ペアの問い詰めには、明確な不審と、計画の狂いを警戒する殺気が孕んでいた。 しかし、対するアカシアは慌てる風もなく、いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべたまま、静かに首を横に振る。
「おや、誤解しないでほしいな、ペア。――あれは、君たちの言う『ブルーニトロ』じゃないよ」
「……何?」
ペアの目が、不審に細められる。アカシアは続けて、世界の真理の一端を明かすように、淡々と言葉を紡いだ。
「あれは、ブルーニトロの肉体に転生した『人間』の魂さ。君たちも知っての通り、
アカシアの口から語られた「人間がブルーニトロの肉体に転生した」という突飛な事実に、ペアは一瞬だけ沈黙した。数億年の歴史の中でも、そのようなイレギュラーは聞いたことがない。
「人間、だと……?」
「そうさ。だから、中身はただの純朴で誠実な一人の人間に過ぎない。実際、君たちも彼の戦いを見ただろう? 転生してまだ約1か月、戦闘技術は拙く、実力は君たちブルーニトロに比べて遥かに格下だ」
アカシアはそう言って、ペアの警戒を解くように優しく微笑んだ。
「彼には世界をどうこうしようという野心もなければ、君たちの計画を邪魔する意志もない。ただ、大切な人と静かに暮らしたいだけの、不器用な大工の男だよ。何も我々の計画に問題はない。……そうだろう?」
アカシアのその言葉を聞き、ペアはフン、と鼻を鳴らして視線を逸らした。「中身が下等な人間」であり、なおかつ「自分たちに比べて遥かに格下」であるならば、確かに今のところ脅威にはならない。
ペアの頭の中で、二鳥の存在は『警戒すべき同族の裏切り者』から、『アカシアが飼っている、少し珍しい手駒の一つ』へと処理された。
――だが、彼らはまだ知らない。 その「格下の人間の魂」が抱く、一度手に入れた幸せに対する凄まじい執念の深さを。 そして一龍との修行を経て、その執念がどれほど恐ろしい力へと昇華されつつあるのかを、ブルーニトロたちは未だに侮り、見くびっているのだった。
ようやく特訓パートっぽいのが書けた。
皆さんはどっちだと思います?二鳥は…
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攻め?
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受け?