修行が終わり、みんなで帰路に着いてる途中のことだった。 次郎は、朝の俺が干からびた姿への恐怖もどこへやら、今度はまた別の問題で頭を悩ませ始めたらしい。
羽毛をちょんちょんと引っ張りながら、今度はさらに具体的なアプローチについての質問をぶつけてきた。
「あのさ、二鳥兄ちゃん。俺、その子に好きな想いを伝えたいんだけど……どうすればいいかな? 二鳥兄ちゃんみたいに、指輪とか……あげればいいかな?」
少年らしい背伸びをした次郎の言葉に、俺は思わず頭を押さえながら苦笑してしまった。
「はは、次郎。さすがに今の次郎の年齢で指輪は早すぎるって。恋愛にはさ、ちゃんと段階を踏まなくちゃ駄目なんだよ。まずは一緒に美味しいものを食べに誘うとか、お互いのことを少しずつ知っていくのが先なんだから」
俺がいつものように良識ある兄貴分として真っ当なアドバイスを授けていると――すぐ隣を歩いていた一龍兄さんが、耐えきれないとばかりに盛大に吹き出した。
「ぶふっ……! おいおい二鳥、お前が『段階を踏む』だなんて、よくそんな大層なことが言えたもんだなぁ!」
「えっ……ちょっと、一龍兄さん?」
腹を抱えて爆笑し始めた一龍兄さんに、俺は嫌な予感がして冷や汗を流す。そんな俺の動揺を他所に、一龍兄さんはにやにやと意地悪な笑みを浮かべ、二郎に向かって暴露を始めた。
「いいか次郎、騙されるなよ? この二鳥兄ちゃんはな、カカと出会ってから恋人になって、おまけに誰も見つけられない隠れ新居を建てて同棲、結婚に至るまで、文字通り『一瞬』だったからな! 段階を踏むどころか、すべての過程をすっ飛ばして超特急で突っ走った張本人だぞ!」
「うひゃあ!? そうなの、二鳥兄ちゃん!?」
次郎が驚愕の声を上げて俺を見上げる。うっ、と胸が痛んだ。反論の余地がない。前世の反動もあり、一度手に入れたカカさんという幸せへの執念が強すぎた俺は、出会ってから全てを最短ルートで爆走していた。
カカさんの仮説である『検証実験』のスピード感も相まって、周囲から見れば段階もへったくれもない超スピード婚のようなものだったのだ。
「お前がそれを言うか、って話だよな。なぁ、二鳥?」
一龍兄さんからの容赦のない茶化しに、俺はすっかり形勢逆転され、顔を赤くするしかなかった。
「……う、うるさいなぁ一龍兄さん。俺たちの場合は、ほら、色々と特殊な事情があったんだよ。とにかく! 次郎はまだ子供なんだから、俺たちの真似はしちゃダメ。分かった?」
必死に威厳を保とうとする俺の姿を見て、アカシア様までもが遠くから楽しそうにクスクスと笑っている。アカシア様ぁ…。
◆
更に翌日。 集合場所であるアカシア様の研究所に集まった時、次郎は何やら意を決したような、今までに見たこともないほど引き締まった表情をしていた。
小さな拳をぎゅっと握り締め、緊張で肩を震わせながらアカシア様を見上げる。
「あの……アカシア先生。俺、今日の修行……休みたいです」
その言葉に、一龍兄さんも俺も思わず驚いて次郎を見た。いつもなら誰よりも真っ先に猛獣の元へ飛び出していく次郎が、自ら修行を休みたいと言うなんて前代未聞だ。
けれど、師であるアカシア様は驚く風もなく、次郎がこれから何をしようとしているのか――昨日俺たちが話していた好きな女の子の元へ向かおうとしているのだと、すぐに察したようだった。
「いいとも、次郎。自分の心に誠実に動くことも、立派な修行の一つだからね。行ってきなさい」
アカシア様は、理由を何も聞かずに優しい笑みを浮かべ、快くそれを認めてやった。
「う、うん! ありがとう、アカシア先生!」
パッと顔を輝かせた次郎は、そのまま自慢の脚力を爆発させ、弾かれたような勢いでアカシア様の家を飛び出していった。あいつのあんなに必死で、だけど嬉しそうな背中を見るのは初めてかもしれない。
バタン、と玄関の扉が閉まり、次郎の気配が遠ざかっていくのを静かに見送った後。俺と一龍兄さんは、お互いににやにやとした視線を交わし、同時に一歩前に踏み出した。
「アカシア様。……実は俺たちも、今日は修行を休みたいんですけど」
俺がコートの襟を少し触りながら、わざとらしくそう告げると、一龍兄さんもすかさず腕を組んで乗っかる。
「そうそう、アカシア様。やっぱりほら、可愛い弟分の人生の大一番です。放っておくわけにはいかないって言うか、兄貴分として見届ける義務があると思うんですよ」
要するに、次郎の後をこっそり追いかけて、その初々しいアプローチを特等席で覗き見しにいこうという魂胆だった。
そんな俺たちのあからさますぎる企みを見て、アカシア様は呆れたように肩をすくめつつも、どこか楽しそうにクスクスと笑い声を漏らした。
「やれやれ……。君たち兄弟は本当に仲が良いね。いいだろう、今日に限り特別に許可するよ。ただし、次郎の邪魔だけはしないようにね」
「「もちろんです!」」
俺と一龍兄さんは綺麗に声を揃えて返事をすると、すぐにシルクハットを深く被り直し、気配を完全に遮断して次郎の後を追うべく駆け出した。
◆
俺と一龍兄さんはグルメ細胞の気配を完全に遮断し、HMPの大きな草葉の陰へと身を潜めていた。ブルーニトロの超五感と一龍兄さんの卓越した索敵能力をもってすれば、次郎に気づかれることなく、特等席からその一部始終を視界に収めるのは容易いことだった。
「ほら、二鳥。次郎の奴、めちゃくちゃガチガチに緊張してやがるぞ」
「本当だ……。あんなに肩に力が入ってちゃ、ノッキングの精度も落ちそうだな」
草むらの隙間から覗き見ると、そこには原始人さながらのかなり野生味溢れる衣装を纏った、見事なピンクの髪色の女の子――少女時代の節乃ちゃんがいた。
最初は、いつものように追いかけっこをしたり、端っこにいる大人しい野生動物の生態を観察したりと、ただただ普段通りに遊ぶ二人の姿があった。
「あはは、なんかほんわかするな。次郎もあの子の前だと、本当にただの子供だな」
「ああ。いつも猛獣を問答無用でドンドン殴り倒してる怪物とは思えねえくらい、微笑ましいじゃねえか」
最初のうちは、俺たちも腕を組んで温かい笑みを浮かべながら、その可愛らしい光景を見守っていた。 だが……時間が経つにつれて、俺たちの表情に少しずつ焦りと心配の色が混ざり始める。
「……なぁ二鳥。あいつ、いつになったら本題に入るんだ?」
「さぁ……。もう何時間も遊んでる気がするんだけど。このままじゃ、ただ普通に楽しく遊んで解散になっちゃうぞ」
「おいおい、意を決して修行を休んだんじゃなかったのかよ次郎。いつもの度胸をここに回せってんだ」
一向に行動に移そうとしない次郎のチキンぶりに、覗き見中の兄貴二人は草葉の陰でやきもきし始める。特に二鳥は、思わず自分の帽子を何度も弄ってしまうくらいハラハラしてしまうほどだ。
そうこうしているうちに空はゆっくりと紫色から、綺麗な夕暮れの茜色へと染まっていく。楽しい時間はあっという間で、ついに節乃ちゃんが「じゃあ、そろそろ暗くなるし、あたし帰るね!」と、次郎に手を振って歩き出そうとした。
――その時だった。
「あ、待って……! 待ってよ、節っちゃん!」
次郎が、切羽詰まったような声を上げて、慌てて彼女の服の裾をぎゅっと引き留めた。
「……ッ、来たか!」
「おい二鳥、ガン見だ、ガン見!! 一瞬たりとも見逃すんじゃねえぞ!」
草葉の陰の俺たちは、弾かれたように身を乗り出した。それまでののんびりした空気は一瞬で吹き飛び、目を限界まで見開いて二人の姿を猛烈に注視し始める。
夕日に照らされる二人の影。顔を真っ赤に染めながら、一生懸命に言葉を紡ごうと唇を震わせている弟の姿に、俺は数年前、カカさんに葛藤しながらも一途に愛を叫んだ自分自身の記憶を重ねていた。
「頑張れ、次郎……! 自分の心に、誠実になれ……っ」
コートを握りしめ、弟の人生最大の大一番を前に、俺の心臓は今日一番の激しい鼓動を打っていた。
節乃ちゃんを引き留めた次郎は、そこですぐには告白をしなかった。あいつはあいつなりに、昨日俺たちから聞いたアドバイスを脳内でフル回転させ、ある『準備』をし始めたのだ。
「あのさ……節っちゃん。ちょっと、言いたいことがあるから……まだ帰らないでほしいんだ」
「ん? いいけど……。お家の人に怒られちゃうから、少しだけだよ?」
節乃ちゃんが不思議そうに小首を傾げながらも了承すると、次郎は「こっちに来て」と、彼女の小さな手を引いて公園の隅の数年前に俺が種を植えて地道に育てた綺麗な花畑の区画へと連れていった。
そこで次郎は、花畑に咲く色鮮やかな花を優しく、少しだけむしり取る。 そして、その小さな手を器用に動かしながら、編み込むようにして一つの『花の指輪』を作り始めた。
「……おいおい二鳥。次郎の奴、まさか本当に指輪を渡しちまう気か?」
「いや、待って、一龍兄さん。よく見て……」
陰から限界まで動体視力を引き上げて注視していた俺は、次郎の指先の『不自然な微動』を見逃さなかった。
次郎は節乃ちゃんに気づかれないよう、その超絶的な指先のコントロールで、編み上げた花の指輪の繊維、および植物細胞に対して、極小の正確な『ノッキング』を瞬時に施したのだ。
それは、摘み取られた瞬間に死へ向かうはずの植物の時間を完全に静止させ、永遠に「枯れない」ようにするための、規格外の工作だった。
「――あはは。参ったな」
俺は思わず降参したように苦笑いを漏らした。隣に立つ一龍兄さんも、驚きのあまり顎が外れそうな顔をしている。
「……俺は次郎に『指輪はまだ早すぎる』って言ったんだがな…恋愛には段階を踏まなくちゃダメだってさ。だけどあいつ……本物の指輪がダメなら、ノッキングで時間を止めた枯れない『花の指輪』で行くとはな……」
俺が持てる技術をフル活用して新居を建て、最愛の妻であるカカさんと生涯の絆を結んだように、未来のノッキングマスターである次郎もまた、自分の今持てる最高の超技術を駆使して、大好きな女の子のために『永遠』をカタチにしてみせたのだ。
これ以上ないほど誠実で、あいつにしかできない、最高のアプローチだった。
「やるじゃねえか、次郎の奴……。ノッキングをそんなことに使うなんて、アカシア様でも思いつかねえぞ」
「うん。……本当に、カッコいい弟だよ」
夕日に照らされる花畑の中、次郎の背中を見つめながら、俺たちの胸の中は熱い誇らしさで満たされていた。
次郎は出来上がったばかりの『枯れない花の指輪』を猛獣をノッキングする時すら震えたことのないその両手でそっと持ち上げ、節乃ちゃんの前へと差し出した。
「これ……あげる。……あのね、節乃。俺……」
真っ赤になった顔のまま、次郎は一生懸命に言葉を絞り出す。その言葉の端々には、昨日俺たちから聞いたアドバイスと、あいつがいつも見ている俺たちの姿が色濃く反映されていた。
「俺……二鳥兄ちゃんみたいになりたいんだ。二鳥兄ちゃんはさ、奥さんのカカさんと、いっつも凄く幸せそうに過ごしてて……」
「うん」
節乃ちゃんは、夕日に輝くピンクの髪を揺らしながら優しく頷いた。
「知ってるよ。カカおねえさんと二鳥さん、たまにこの花畑の近くでも、お互いにすっごく嬉しそうに手を繋いで歩いてるもんね」
「んな!? み、見られてたのか……っ!」
節乃ちゃんの言葉に、草葉の陰にいた俺は思わず帽子を落としそうになりながら大焦りした。
完全に油断していた。カカさんと手を繋いで人里の近くを話しながら歩いていた姿を、まさか子供たちにバッチリ目撃されていたなんて……!
「……おい二鳥」
案の定、隣に潜んでいた一龍兄さんが、ジト目になって俺の肩を肘で小突いてきた。
「お前ら、いちゃつくにしても場所は考えたほうがいいぞ? 誰も見つけられない最強の新居を建てたって自慢してた割には、花畑で盛大に目撃されてんじゃねえか。毎朝の行ってらっしゃいのキスといい、熱気が外まで漏れすぎなんだよ」
「う、うるさいなぁ一龍兄さん……! 俺たちはほら、毎日『検証実験』をしてる夫婦なんだから、たまには外の空気を吸いながら手を繋ぐくらいいいだろ……っ」
「たまにはって頻度じゃねぇぞ…」
顔を真っ赤にして必死に小さな声で弁明する俺を余所に、花畑の中の次郎は、なおも熱烈に言葉を続けていた。
「そうなんだよ! 二鳥兄ちゃんとカカねえちゃんは、お互いが大好きだっていうことを……本当に、全く隠さないんだ。俺、そんな二人がすごく格好いいと思って。……だから、節っちゃん、俺も、二鳥兄ちゃんみたいに節っちゃんとずっと一緒に……」
震える手で枯れない花の指輪を差し出し、誠実に想いを告げる弟の背中。一龍兄さんは呆れたように笑いながらも、その瞳には弟の成長を喜ぶ優しい光が灯っていた。
「…次郎が俺たちの姿を見て、あんなに真っ直ぐに想いを伝えてるんだ。兄貴としては、ちょっと鼻が高いよ」
「へっ、よく言うぜ。……ほら、ガン見に戻るぞ二鳥。節乃ちゃんが指輪を受け取るぞ!」
節乃ちゃんは受け取った『枯れない花の指輪』を、夕暮れの光に透かすようにしてじっと見つめていた。その純粋な瞳に、次郎の不器用で真っ直ぐな想いが映り込んでいる。
そんな彼女の様子に勇気を貰ったのか、次郎はさらに一歩踏み込み、小さな拳を強く握りしめてはっきりと言い放った。
「あのさ、節っちゃん。二鳥兄ちゃんは『指輪はまだ早い』って言ってたけど……俺はそうは思わない。近い将来、俺がもっともっと強くなったら、必ず本物の指輪を節乃ちゃんにあげる!」
未来の結婚約束ともとれる少年の大勝負のセリフ。 草葉の陰で覗き見している俺は、思わず「お、おいおい次郎……!」と頭を押さえながら、弟のあまりの熱烈さに顔を赤くした。
隣の一龍兄さんも「やるねぇあいつ!」とニヤニヤが止まらない様子だ。
しかし、そんな次郎の決死の言葉に対し、節乃ちゃんはふっと優しく微笑みながら、意外な言葉を口にした。
「ううん、本物の指輪はいらないよ、二郎ちゃん」
「えっ……!?」
いらない、と拒絶されたと思った次郎は、一瞬で顔を真っ白にして固まった。草むらの俺たちも「ばかなっ!?」とハラハラして身を乗り出す。
だけど、節乃ちゃんは指輪の花を愛おしそうになぞりながら、言葉を続けた。
「だって……このお花の指輪、なんでか分からないけれど、絶対に枯れるって思えないの。ううん、ずっと枯れない。だから、これがいい」
その言葉に、俺は胸が熱くなった。 子供の鋭い感性というべきか、節乃ちゃんは次郎が施した極小の正確な『ノッキング』――植物の時間を永久に静止させた超技術を、本能的に察知していたのだ。
自分が作った『枯れない愛』をそのまま受け入れてもらえた次郎は、今度は嬉しさと気恥ずかしさで、顔をボッと限界まで真っ赤に染め上げた。
そして、照れ隠しと高揚感のあまり、脳のブレーキが完全に吹き飛んだ様子で、ものすごく恥ずかしがりながらキザなセリフを叫ぶように口にしてしまう。
「か、枯れるわけないよ……! だって、それには俺の『好き』だっていう気持ちが、たっくさんこもってるんだから……っ!!」
――あ。
叫んだ本人が、一番にハッとして自分の口を手で押さえた。 「気持ちがこもってる」というキザなセリフの流れで、うっかり、一番肝心な「好き」という言葉を完全にダイレクトに口走ってしまったのだ。
「ぶふっ……! ふひひひひ! おい二鳥、あいつ言っちまいやがったぞ!!」
「うわぁぁ、次郎のやつ、なんてキザなセリフを……! でも、よく言った……っ!!」
草葉の陰の兄貴二人は、もう興奮と可笑しさで身悶えしながら、声にならない大爆笑と熱いガッツポーズを激しく交わし合っていた。
気配を消そうとしていなければ、腹を抱えて笑う衝撃で地盤が割れていたかもしれない。割とマジで。
夕日に照らされた花畑の中、うっかり口走って茹でダコのように真っ赤になって硬直している次郎と、その言葉を聞いて、同じように顔をこれ以上ないほど赤くして、だけど世界で一番嬉しそうにハニカミながら次郎の手をぎゅっと握り返す節乃ちゃん。
可愛い弟の純粋な愛が、今、最高のカタチとなって結実したのだ。
「……最高だな、次郎」
節乃ちゃん花の指輪を薬指にはめて、愛おしそうに見つめた後、照れ隠しをするように俯く。そして、繋いだままの次郎の手をぎゅっと握りしめながら、今にも消え入りそうな、だけど確かに熱を帯びた声でそっと呟いた。
「……じゃあ、今度。お返しに、あたしの『好き』がたっくさん詰まった料理……作ってあげる」
それは、後に世界を震撼させる料理人となる少女が、人生で初めて、特定のたった一人の男のためだけに捧げると誓った、最高に贅沢なフルコースの約束だった。
「え……?」
あまりにも予想外で、あまりにも愛おしすぎる逆告白のような言葉に、今度は次郎が完全に唖然として言葉を失った。
けれど、自分の口から出た言葉の破壊力に、節乃ちゃん自身の恥ずかしさはもう限界に達してしまったらしい。
「あ、もう時間だから帰るね! バイバイ!!」
節乃ちゃんは真っ赤な顔のまま叫ぶと、繋いでいた手をパッと離し、野生的な脚力を爆発させて、脱兎のごとき勢いで夕暮れの道の向こうへと走り去ってしまった。
小さな背中があっという間に遠ざかり、バタバタという足音だけが静かになった公園に木霊する。
「……あ」
次郎はぽかんと口を開けたまま、節乃ちゃんが走り去っていった方向を、彼女の姿が完全に見えなくなって、夕闇が静かに辺りを包み込み始めた後も、ずっとずっと見つめ続けていた。
自分の手に残る彼女の手の温もりと、先ほどの消え入りそうな約束の言葉を、噛み締めるように。
「……いやぁ、ご馳走様だったな、二鳥」
一龍兄さんが本当に嬉しそうに、かつ深く感心したようにため息をもらした。
「ああ、本当だな。次郎のやつ、完全に一本取られちゃったな。しかし兄さん、弟の恋愛模様を覗き見するのがこんなに楽しいとは思わなかったぞ」
俺は兄として誇らしげな、そして邪悪な笑みを浮かべ、昔を思い出していた…
『料理を作ってあげる』
――その言葉は、かつて出会ったばかりの頃、カカさんがブルーニトロという種族への何百年もの恐怖や葛藤の壁を乗り越え、俺への恋心を受け入れてくれた日を思い出させてくれる。
「…よし、一龍兄さん。俺たちの可愛い弟の恋路も無事に見届けられたことだし、そろそろ帰ろうか。……今日の土産話、カカさんもきっと喜んでくれるよな」
「おう、そうだな! 最高の休日だったぜ」
夕闇が静かに公園を包み込む中、俺と一龍兄さんは「よし、次郎にバレないうちにずらかるか」と、草葉の陰からそっと足を抜き、足早にその場を去ろうとした。
――その時だった。
ふと、背後に妙な圧迫感を感じて、俺は振り返る。
「……なぁ一龍兄さん。気のせいか、次郎がこっちを見てる気がするんだけど」
「バカ言え、俺たちの索敵と隠密をあいつが破れるわけ――って、いや、気のせいじゃねえ! こっちをはっきり、ガン見してやがるわ!!」
一龍兄さんが叫んだ瞬間、夕闇の向こうから、次郎がこちらに向かって全速力で走ってきた。
その顔は、節乃ちゃんへの愛おしさによる赤みなのか、それとも俺たちへの怒りによる赤みなのか、もはや判別がつかないほど真っ赤に染まっている。
「ゔわああああ! 待てよ二人ともおおおおおっ!!」
地響きのような大声を上げながら、猛烈なスピードで距離を詰めてくる未来のノッキングマスター。グルメ界の猛獣をドンドン無力化するあの脚力が、今完全に俺たち兄弟子への殺意?となって牙を剥いていた。
「げっ、マズい! 二鳥、逃げるぞ!」
「ちょっと兄さん、置いてかないでくれよ!」
俺たちは慌てて全力で走り出したが、背後から怒髪天を衝く勢いの次郎の叫び声が、鼓膜をこれでもかと震わせる。
「兄ちゃんたちが朝からずーーーっと後ろでニヤニヤ見てるから! 俺はすぐに告白できなかったし、告白する時も、すっげぇ恥ずかしかったんだぞバカヤローーーッ!!」
「ええっ!? 俺たちのせいかよ!?」
「それは普通にすまんかった次郎ーーー!!!」
走りながら、俺たちは思わず叫び返した。
そうか、あいつが何時間も普段通りに遊び続けて、なかなか本題に入ろうとしなかった原因は、あいつがチキンだからじゃなかった。
最初から俺たちのヘタクソな尾行とニヤニヤ顔の気配を完璧に察知していて、「兄貴たちが見てる前で言えるかよ!」と、ずーーっとタイミングを失って大焦りしていただけだったのだ。
「とはいえさすが次郎だ、俺たちの完璧な隠密に気づいてやがったか!」
「褒めてる場合か!あ、やばいぞ一龍兄さん! 次郎のやつ、本気でノッキングしにくる目をしてる!」
戦場では無敵の天才少年、そんなあいつの最大級の『恥ずかしさ』が混ざった追撃から逃れるべく、俺たちはグルメ界の荒野を爆走した。
「次郎、悪かったって! お祝いにカカさんの最高に美味い飯、お代わりいくらでも奢ってやるから、その拳を収めろおおお!」
「絶対に許さない! 一発ノッキングさせろ二鳥兄ちゃん!!」
◆
――バチン!バチン!!
グルメ界の荒野に、小気味良い打撃音が二回響き渡った。
二鳥とカカのに比べたら書いてて恥ずかしくないどころかほっこりする感じで書けたな…
皆さんはどっちだと思います?二鳥は…
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攻め?
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受け?