転生ニトロは幸せを手放したくない   作:元洋菓子職人II

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次郎が野生の勘を取り戻したことにより、二鳥が三弟子最弱になりました。


隠さない隠し味

 次郎が俺の左胸に軽く指先を当て、ノッキングを解除した。 瞬間、全身を縛り付けていた完全な停止状態から解放され、細胞が心地よい血流を取り戻す。

 

 「ふぅ……」

 

 俺はズレた帽子の位置を少し直し、軽く息を吐き出した。 コートの汚れをポンポンと手で払いながら、敗北の悔しさよりも、弟の圧倒的な成長に対する清々しさを胸に、いつもの口調で苦笑いを浮かべる。

 

 「あ〜あ。次郎にも負けちゃったな。俺がアカシア様の弟子の中で『最弱』になっちゃったよ……こりゃ、一から修行のやり直しでもするかなぁ」

 

 俺が少し遠い目をしながら呟くと、その様子をずっと腕を組んで見守っていた一龍兄さんが、呆れたような、だけどどこか優しい笑みを浮かべて歩み寄ってきた。

 

 「おいおい二鳥、何をお前は贅沢な悩みを言ってやがる。別に、今のままでも十分だろう?」

 「え? 一龍兄さん……?」

 「お前はブルーニトロの肉体のスペックを完全に支配した上で、力任せじゃない大工の解体技術を完成させたんだ。それだけの力と技術があれば、家で待ってる嫁を守るのに、十分すぎるほどのお釣りが来るぞ?」

 

 一龍兄さんのその真っ直ぐで温かい言葉が、焦る俺の胸にストンと綺麗に落ちてきた。

 

 そうだ。俺は孤独を経験し、一度手に入れたカカさんとの幸せに対する凄まじい『執念』だけでここまで足掻いてきた。

 

 世界をひっくり返したいわけでも、最強の男として歴史に名を残したいわけでもない。

 

 俺が死ぬ気で欲した力は、ただ、あの最高の新居を、そして毎晩「検証実験です!」と強気に微笑んで待ってくれている最愛の妻を守るための盾だ。

 

「……うん。一龍兄さんの言う通りだね。これ以上、過度に力を求める必要もないか」

 

 俺は自身の左手の指輪をそっと見つめ、静かに微笑んだ。

 

 「これからの修行は、今のこの感覚を衰えさせないように、キープしていくくらいで十分かな。カカさんと過ごす夜の『検証実験』の反復回数も、落としたくないしね」

 「おいおい、結局はそこへ行き着くのかよ、お前らは」

 

 一龍兄さんが呆れたように笑い、それを見た次郎も「もう、二鳥兄ちゃんったら!」と顔を赤くして照れ笑いを浮かべている。

 

 遠くで見守っていた節乃ちゃんも、ようやく安心したように微笑み、アカシア様もまた、俺たちの固い絆に深く満足したように静かに頷いていた。

 

 そして、それまで静かに戦況を見守っていたアカシア様が、ゆっくりと俺たちの元へ歩み寄ってきた。

 

 世界の命運を握る美食神の瞳には、かつてないほどに穏やかで、深い慈愛の光が灯っている。

 

 「弟に花を持たせつつ、しっかりと成長を促す……。二鳥、兄として立派に役目を勤めたね。本当によくやった」

 「……! ありがとうございます、アカシア様」

 

 偉大な師からの至高の言葉に、俺は少し照れくささに頭を掻きながらも、心の底から誇らしい気持ちで満たされた。前世の過酷な孤独を思えば、こうして師に褒められ、弟の成長の土台になれたことが何よりも嬉しかった。

 

 すると、アカシア様はすっと次郎の方を向き、その口元にいたずらっぽい、だけど完璧に楽しげな笑顔を浮かべた。

 

 「さぁ、次郎――次は一龍と手合わせだ」

 「ひゃ、ひゃあぁぁぁぁぁっ!? い、一龍兄ちゃんと!?」

 

 その瞬間、次郎はまるで今世紀最大の恐怖に直面したかのように、顔を真っ白にして全力で首を横に振った。

 

 無理もない。この数年間、俺以上の凄まじいペースでドンドン次元の違う強さを身につけてきた一龍兄さんだ。いくら野生の勘を取り戻して俺をノッキングできたからといって、今の次郎が正面から挑んで勝てるような相手では絶対にない。

 

 「え……? アカシア様、いくらなんでもそれは……」

 

 俺が思わず困惑の声を漏らした、その時だった。隣に立つ一龍兄さんが、拳をパキパキと鳴らしながら、般若のような恐ろしい笑みを浮かべて一歩前に踏み出したのだ。

 

 「おいおい次郎、アカシア様からの有難い特別メニューだぞ? ほら、サボってた分の根性、俺が徹底的に叩き直してやるからこっちに来いよ」

 「うわあああ! 嫌だあああ! マジで死ぬ! 一龍兄ちゃんのは次元が違うって!!」

 

 俺はハッと一龍兄さんの顔を見た。その目の奥は完全に笑っている。そうか、あのアカシア様が、珍しく次郎のことをからかっているんだ。

 

 一龍兄さんはそれに一瞬で気づいて、悪ノリして次郎に凄まじい圧をかけて楽しんでいるのだ。

 

 完全に絶体絶命のピンチに陥った次郎は、おまけにすぐ後ろでハラハラと見守っている最愛の節乃ちゃんにだけは、この無様な姿を見られたくなかったらしい。あいつは節乃ちゃんに背を向けるようにして慌てて俺の方を向くと、今にも半べそをかきそうな顔のまま、必死に『兄ちゃん、助けて……っ!!』と潤んだ瞳で強く訴えかけてきた。

 

 俺にだけ見せる、あまりにも可愛い弟の甘え。今まで頼れる兄貴として次郎の面倒を見てきた俺だ。そんな可愛い目をされたら、お兄ちゃんとしての責任を果たさなければならない。

 

 「はは……。流石にアカシア様も一龍兄さんも、もう十分でしょう? 次郎の甘ったれた根性は、今日で完璧に土台から叩き直されましたからね」

 

 俺が苦笑いしながら二人の前に立って次郎を庇うと、アカシア様はついに耐えきれないとばかりに、豪快に声を上げて笑い出した。

 

 「ふふふ、冗談だよ、次郎。君があまりにも素晴らしいノッキングを見せるものだから、ついつい少し意地悪をしたくなってしまってね」

 「な、なんだよー! 脅かさないでくださいよ、アカシア先生ぁ……っ!」

 

 冗談だと分かった次郎は、その場にへなへなとへたり込み、情けない声を上げて大きく安堵の息を吐き出した。

 

 その横で、一龍兄さんも「ちぇ、せっかくの機会だったのになぁ」と冗談めかして笑い、何も知らない節乃ちゃんも「あはは、次郎ったら大袈裟なんだから!」と嬉しそうに拍手を送っている。

 

 「よし、それじゃあアカシア様、俺たちはこれで失礼します。次郎、お祝いにカカさんの最高に美味い飯、今日は腹いっぱい奢ってやるから、節乃ちゃんも一緒に我が家へおいでよ」

 「わぁ! 行きます! カカおねえちゃんのご飯、すっごく楽しみ!」

 「…うん! ありがとう、二鳥兄ちゃん!」

 

 俺はシルクハットを深く被り直し、コートの裾を翻して、最愛の弟たちと肩を並べて歩き出した。新居で待つ、愛しい妻の笑顔の元へ。

 

 ◆

 

 次郎と節乃ちゃんを連れて、我が家の境界線を越える。引き戸に手をかけ、木の温もりが優しく香る玄関のドアを開けた、まさにその瞬間だった。

 

 「ただいま、カカさ――」

 

 俺がいつものように声をかけようとした言葉は、出迎えてくれたカカさんの行動によって完全に遮られた。ドアが開いた瞬間にすっと俺の胸元へ飛び込んできたカカさんは、何も言わずにその特徴的な顔を近づけ、俺の唇へとまっすぐに自身の唇を重ねてきたのだ。

 

 あの『記念日』を経て正式に夫婦となってから数年。家に帰ってきた瞬間から俺の【食欲】と自身の【細胞の興奮】を最高潮に高めるための、彼女なりの熱烈な帰宅の挨拶(スキンシップ)は、さらに情熱的に、そして激しくなっていた。

 

 じっくりと時間をかけるような、甘くて深いキス。 コートの袖にカカさんの小さな手が触れ、お揃いの指輪がカチリと音を立てる。俺の脳裏がその心地よい熱に侵されかけた、その時…

 

 「……あ」

 

 キスの最中、カカさんの視線が、俺の背後で完全にフリーズしている『二人分の気配』へと向けられた。

 

 そこには、顔をこれ以上ないほど真っ赤に染め上げ、手を繋いだまま目を丸くしてこちらを凝視している、青年次郎と節乃ちゃんの姿があった。

 

 「――っ、はわわわわわわっ!?」

 

 バッ!!! と、グルメ界の猛獣すら驚くような凄まじい速度とキレで、カカさんは俺の胸元から飛び退くようにして離れた。 いつもなら「検証実験の大義名分がですね……」と滑らかに溢れ出すはずの長話も完全に喉につまり、髪を激しく揺らしながら、顔を一瞬で茹だるような真っ赤に染め上げている。

 

 だが、そこは味仙人。数秒の猛烈なパニックの末、彼女はゴホンと一つ大きく咳払いをすると、何事もなかったかのように、驚くほど平然とした態度(を装った空気)で背筋をピンと伸ばした。

 

 「……お、お帰りなさいませ、二鳥さん。本日の修行もお疲れ様でした」

 

 完全に声が裏返りかけているし、顔の赤みも全く引いていないけれど、精一杯の気品を保って「良き妻」として改めて告げてくれるカカさん。そのあまりにも愛らしすぎるギャップと必死な強がりに、俺は愛おしさが限界突破して、吹き出しそうになるのを必死で堪えた。

 

 「う、うん、ただいま、カカさん。……ごめんね、今日は次郎の…修行のお祝いにさ、友達の節乃ちゃんも一緒に夕飯に招待したんだよ」

 

 俺がシルクハットの端を少し指で直しながら苦笑交じりにフォローを入れると、後ろの次郎はまだ顔を真っ赤にしたまま、頭をガシガシと掻いて視線を彷徨わせている。

 

 「あ、あはは……。カカねえちゃん、お邪魔します……。二鳥兄ちゃん、やっぱりお互いが好きだってこと、本当に全く隠さないんだな……」

 「わあ……! 二鳥さんとカカおねえちゃん、すっごく仲良しなんだね! あたしたちも負けてられないね、次郎!」

 

 節乃ちゃんだけは、その純粋な瞳をキラキラと輝かせながら、次郎の手をぎゅっと握り締め、無邪気に大喜びしていた。

 

 その言葉に、次郎もカカさんもさらに顔を赤くして硬直するという、なんとも賑やかで甘酸っぱい空間が玄関先を満たしていく。

 

 「さあ、カカさん。みんなでお腹いっぱい、カカさんの美味しい手料理をいただこうか。……その代わり、夜の寝室での『検証実験』は、いつも以上にたっぷりと付き合うからさ」

 

 俺は照れ隠しにそう耳元で囁き、愛しい妻と可愛い弟たちを伴って、世界で一番大好きな我が家の奥へと、これ以上ない幸福な足取りで進んでいくのだった。

 

 「それでは次郎さん、それからお友達の節乃さんも、早速お食事の準備をいたしますね」

 

 カカさんは、先ほどまでの茹でタコのような赤みをどうにか抑え込み、味仙人としての気品をまとって流暢に微笑んだ。

 

 「次郎さんの分の追加カロリー、および代謝量を計算に入れた特別メニューの調理を開始いたします。少々お時間がかかりますので、二鳥さん、先にお風呂を済ませておいてください」

 「うん、分かった。ありがと、カカさん」

 

 俺は帽子を壁に掛け、コートの肩を軽く回しながら、隣でまだ気まずそうにモジモジしている次郎を振り返った。

 

 「よし次郎、そういうわけだから先に風呂に入っちゃおうぜ。久しぶりに、男二人で一緒に入るか!」

 

 いつもの調子に戻ってガシッと肩を組むと、青年になった次郎は顔を少し背けながら、ぶっきらぼうに唇を尖らせた。

 

 「……ちぇ、俺はもうガキじゃないんだから、一人ずつでいいだろう。二鳥兄ちゃんと入ったら、またお説教されそうだしさ……」

 

 そう言って文句を並べ立てるものの、次郎は組まれた俺の腕を振り払うようなことはしなかった。反抗期特有の素気なさを見せつつも、大好きな兄貴分からの誘いを拒絶せず、しっかりと受け入れている。その不器用な優しさが弟らしくて本当に可愛い。

 

 「あはは、説教なんてしないよ。さ、行こうぜ」

 

 俺たちが脱衣所へ向かって歩き出そうとした、その時。後ろにいた節乃ちゃんが、自分の小さな顎に指を当てながら、楽しそうに声を弾ませた。

 

 「次郎がお風呂に入っちゃうなら、あたし暇になっちゃうし……どうしようかなぁ。――そうだ! カカおねえさん、あたしに料理を手伝わせてください!」

 

 ピンクの髪を揺らし、好奇心とやる気に満ちた瞳でカカさんを見上げる節乃ちゃん。後に世界中にその名を轟かせることになる料理人が、その才能の片鱗を輝かせるようにして、味仙人へとお手伝いを志願した瞬間だった。

 

 カカさんは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに母親のような、あるいは優しいお姉ちゃんのような温かい笑顔を浮かべた。

 

 「まぁ、お手伝いですか? ええ、もちろん良いですよ。味仙人の調理技術は少々特殊ですが、食材に対する誠実なアプローチの基礎から詳細に説明させていただきますね。まずは根菜の繊維の見極め方からなのですが――」

 「わぁ! よろしくお願いします、カカねえちゃん!」

 

 早くも詳細すぎる解説の助走を始めたカカさんと、それに目を輝かせてついていく節乃ちゃん。男二人の風呂場と、女二人の台所。新居の至る所から温かい日常の音が響き渡り始める。

 

 「ほら次郎、行くぞ。カカさんと節乃ちゃんに負けないくらい、男同士の熱い風呂にするからな」

 「だから、暑苦しいのは嫌だって言ってるだろ、二鳥兄ちゃん!」

 

 俺は次郎を伴って、湯気の立ち上るお風呂場へと、これ以上ない幸福な足取りで進んでいくのだった。

 

 ◆

 

 脱衣所で互いに衣服を脱ぎ、入浴の準備をしながら、俺と次郎はぽつぽつと言葉を交わしていた。 コートをハンガーにかけると、ブルーニトロとしての頑強な俺の身体が露わになる。

 

 隣では、この数年間の地獄のようなサバイバルを経て、青年ながらも恐ろしいほど引き締まった次郎の肉体があった。

 

 棚にタオルを置き、浴室の扉に手をかけようとしたその時、次郎がどこか決まり悪そうに頭を掻きながら、俺の背中に向かって声をかけてきた。

 

 「なぁ、二鳥兄ちゃん」

 「ん? どうしたんだ、次郎」

 

 俺が振り返ると、次郎は浴室の床をじっと見つめながら、昼間の激闘の中でずっと胸に引っかかっていたであろう疑問を口にした。

 

 「……さっきの修行のときさ。二鳥兄ちゃん、俺の成長した立派な顔がよく見えるから正面から来た、って言っていたけど……」

 

 そこで次郎は一度言葉を区切り、意を決したように俺の目を真っ直ぐに見上げてきた。

 

 「それって……俺が二鳥兄ちゃんに、本気でノッキングを決められるって、最初から信じててくれたって考えていいの……?」

 

 その純粋で、どこか確信を求めているような弟の眼差し。 俺は頭を少しだけ軽く傾げ、それからこれ以上ないほど誇らしげに、優しく微笑んで答えた。

 

 「当たり前だろ、次郎」

 「――っ」

 「お前のそのノッキングの才能も、野生の勘も、本来は俺なんかが太刀打ちできるようなものじゃないんだ。お前は本物の怪物だからな。お前がくっだらない雑念を全部取っ払って本気になれば、俺の隠密も罠も正面からぶち破って、完璧にノッキングを決めてみせるって、俺は一秒も疑ってなかったよ」

 

 俺のまっすぐな肯定の言葉に、次郎は一瞬だけ驚いたように目を見張った。だが、すぐに嬉しさと気恥ずかしさが限界突破したようで、顔を真っ赤に染め上げると、大慌てで浴室の引き戸をガラガラと開けた。

 

 「も、もう! 二鳥兄ちゃん、恥ずかしいこと真面目な顔で言うなよな! 先に入るからねッ!!」

 

 そう叫びながら、次郎は逃げるように湯気の立ち上る浴室へと飛び込んでいった。 バシャバシャと勢いよくかけ湯をする音が聞こえてきて、俺は「はは、照れなくてもいいのに」と苦笑しながら、愛おしい弟の後を追って浴室へと一歩を踏み出した。

 

 湯気の立ち上る浴室に入ると、次郎は広々とした浴槽や、大工としての俺のこだわりが細部まで行き届いた美しい木目調の壁を見渡して、目を輝かせた。

 

 「うわぁ……! 二鳥兄ちゃんの家の風呂って、すっげぇ広いんだな……! アカシア先生の家の風呂よりゆったりできるかも!」

 

 感動しながら湯船の縁に腰掛ける次郎を見て、俺はシャワーの温度を調節しながら、ごく自然に、さりげなく惚気を口にした。

 

 「あはは、ありがと。大工の技術を詰め込んで作った自慢の風呂だからね。……まぁ、普段はカカさんと一緒に入ってるからさ。二人でゆったり浸かれるように、この広さに改築したんだよ」

 「……え?」

 

 俺の何気ない言葉に、次郎の動きがピタリと止まった。あいつは茹でタコのような赤みから一転、少し戦慄したような顔になって、恐る恐る俺を振り返る。

 

 「一緒に入ってるって……もしかして……毎日?」

 「うん、ほぼ毎日。あの『検証実験』の反復データの効率を高めるためには、1日も欠かすわけにはいかないからね」

 

 俺が満面の笑顔で当然のように肯定すると、次郎は「うわぁ……毎日混浴なんて、ブルーニトロの精神力ってどうなってんだよ……」と、畏怖すら混ざった顔でぶつぶつと呟いていた。

 

 俺が記念日を忘れた罰として徹底的に吸いつくされた姿を知っているだけに、余計に想像が膨らんで戦慄しているらしい。

 

 そんな弟の反応が可笑しくて、俺はクスクスと笑いながら手元のお湯を桶に汲んだ。

 

 「ほら、そんなことより、せっかく男二人で入ったんだ。久しぶりに、俺が次郎の背中を洗ってやるよ。小さかった頃は、よくこうして洗ってやったろ?」

 

 俺が優しく微笑みながら声をかけると、次郎はまだ顔を少し赤くしながらも、どこか懐かしそうな、嬉しそうな表情を浮かべるのだった。

 

 「…しかし…その…だな。次郎…」

 「ん?どうしたん兄ちゃん?」

 

 嬉しそうな表情から一転、次郎が疑問符を浮かべながら俺の顔をみる。そして、俺の視線は自身の股間へと注がれていることに気がついた。

 

 「…顔は立派になったが…ソッチも見ない間に随分とご立派ぁ!なモノに成長したな…」

 「急に何言ってんの兄ちゃん?!」

 

 次郎はまだ湯船に浸かったわけではないのに顔を真っ赤に染め上げる。そして、俺は兄として、そして既婚者としての最大のアドバイスを送る。

 

 「…節乃ちゃんとそういうことするようになったら…優しくするんだぞ…うん…」

 「だから何を言ってんの兄ちゃん?!」

 

 ◆

 

 風呂上がり、身体をホカホカと芯から温めた俺と次郎は、そのまま香ばしい匂いに誘われるようにして居間へと向かった。

 

 テーブルの前に足を踏み入れると、そこにはすでに湯気を立てる色鮮やかな夕食の準備が完璧に整えられていた。グルメ界の希少な食材をふんだんに使った特製スープや肉料理が、大皿に所狭しと並べられている。

 

「うわぁ……! すっげぇ美味そう!!」

 

 次郎が青年らしい無邪気な笑顔で、卓上の料理を見て目を輝かせた。すると、エプロン姿のままピンクの髪を少し揺らした節乃ちゃんが、自分の小さな手をモジモジとさせながら、少し残念そうに口元を尖らせた。

 

 「でもね、次郎。この料理、ほとんどはカカさんが作ったんだけどね……。あたしはまだ下ごしらえとか、簡単なことしか手伝えなかったの」

 

 大好きな男の子のために自分の『好き』が詰まった最高の一皿を振る舞いたかった少女は、味仙人のあまりにも高度な技術の壁を前に、少し悔しそうに肩を落としている。

 

 だが、そんな健気な節乃ちゃんに寄り添うように、髪を揺らしたカカさんが、ふわりと温かい微笑みを浮かべた。

 

 「そんなことはありませんよ、節乃さん。節乃さんが食材の細胞の声を正確に聴き取り、完璧な下処理を手伝ってくれたお陰で、料理人の私はとても調理がしやすかったのです。……それにですね…」

 

 カカさんはそう言って、ニヤニヤと見守っている俺と、腹を空かせている次郎の方を交互に見つめ、いつもの流暢な長話のトーンでありながらも、どこか確信に満ちた、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

 

 「本日並べた大皿の料理群のうち、次郎さんが一体どの料理を口にした瞬間に『一番美味しい!』と叫ぶか……。検証データを積み重ねてきた料理人の私には、すでにハッキリと予測がついております。それは他でもない、節乃さんが私の指示以上に、その熱烈な【食欲】と【愛情】を細胞レベルでたっぷりと込めて包丁を入れてくれた、あのひと皿ですからね?」

 「ひゃあ!? カ、カカおねえちゃん、それ言っちゃダメぇ!!」

 

 カカさんの鋭すぎる、だけど愛に溢れた指摘に、節乃ちゃんは一瞬で顔を真っ赤にして大慌てでカカさんのワンピースの裾を引っ張った。

 

 隣の次郎も「えっ、あ、そうなんだ……っ」と、再び顔を真っ赤にして照れくさそうに頭を掻いている。

 

 「ふふ、さぁ、データの実証を始める前に料理が冷めてしまっては、食材の旨味分子の結合が損なわれてしまいます。冷めてしまう前に、皆さんで美味しく食べましょう!」

 

 席に着き、「いただきます!」と綺麗に声を揃えた後、俺たちの賑やかな夕食会が始まった。

 

 腹を空かせた次郎は、目の前に並ぶ希少な食材を使った肉や魚といった豪華な主菜を、文字通りドンドンと口へ運んでいく。

 

 「うめぇぇぇ! なんだこれ、肉の旨味がじゅわりと弾けるみたいだ! こっちの魚も脂が乗ってて最高!」

 

 主菜を食べるたびに無邪気な笑顔を弾けさせ、大絶賛する次郎。その様子を見ながら、節乃ちゃんは嬉しそうにしつつも、自分が手伝った料理ではないため、どこか少しだけ寂しそうな視線を卓上へと走らせていた。 

 

――だが、次郎がふと、副菜の小鉢に入っている丁寧に切り分けられた野菜に箸を伸ばし、それを口に含んだ瞬間だった。

 

 「……っ」

 

 次郎の動きがピタリと止まり、言葉が完全に詰まった。いつものガツガツとした食べ方を変え、ゆっくりと、まるでその料理に込められた何かを一つずつ確かめるように咀嚼していく。

 

 そして、静かにゴクリと飲み込んだ後――いつもの荒々しさは微塵もない、本当に穏やかで、心の底から満たされたような声で呟いた。

 

 「……これが、一番美味しい……! なんか、身体の芯からじわーって温かくなってさ。俺、この料理が一番好きだ……!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、節乃ちゃんは顔をボッとこれ以上ないほど真っ赤に染め上げ、嬉しさと恥ずかしさで両手で顔を覆ってしまった。

 

 カカさんはそんな初々しい少女の隣にすっと寄り添い、自分の薬指の指輪を優しく光らせながら、ほらね、と誇らしげに微笑む。

 

 「ほらね、節乃さん。私が言ったとおりでしょう? 食材の細胞の配列を傷つけないよう、節乃さんが真心を込めて包丁を入れてくれたあの一皿……次郎さんの身体に馴染まないはずがないのです」

 

 完璧に的中したカカさんの予言と、二人のあまりの甘酸っぱさに、俺はシルクハットのない頭を少しだけ軽く傾げ、にやにやとした笑顔で次郎たちをからかった。

 

 「へえ、隠し味は『愛』ってわけか。そりゃあ、次郎がどの料理を一番好きか、食べる前から分かるはずだよね」

 「ひゃあ!? 二鳥兄ちゃん、からかわないでよ……っ!」

 

 次郎が再び茹でタコのように赤くなって頭をガシガシと掻く。 

 

――だが、俺のそのからかいの言葉に、当の料理人であるカカさんがフンスと鼻を鳴らし、真面目な、だけど最高に愛おしげなジト目を俺に向けてピシッと人差し指を立てた。

 

 「おや二鳥さん。味仙人の料理技術において、そのような非科学的な隠し味など、一切投入しておりませんよ? そもそも……私から二鳥さんへの『愛』は、朝の行ってらっしゃいのキスから夜の検証実験に至るまで、最初からただの一ミリも隠してなどいませんからね……?」

 「うっ……」

 

 まさかのカカさん側からのストレートすぎる全力の逆惚気。 いつもは照れて捲し立てる彼女が、俺への愛を「一切隠していない」と堂々と言い切ったそのギャップに、今度は俺の方が顔を真っ赤にして言葉に詰まってしまった。

 

 お互いに顔を赤くして視線を交わし合う、俺とカカさんの姿。 そんな俺たちおしどり夫婦の様子を、次郎は赤くなった顔のまま、どこか深く感心したようにじっと見つめていた。

 

 (……なるほど。お互いが大好きだっていうことを、本当に全く隠さない……。これが、二鳥兄ちゃんたちの『夫婦円満のコツ』なんだな……!)

 

 青年次郎の胸に、未来のノッキングマスターとしての、そして一人の男としての、大切な極上の教訓がまた一つ刻まれた瞬間だった。

 

 「……うん、そうだね。カカさんの愛、いつも全力で受け止めてるよ」

 

 俺は照れ隠しに笑いながら、カカさんの小さな手をそっと握り直した。お揃いの指輪がカチリと音を立てる。 幸せな笑い声が満ち溢れる我が家で、俺たちは特別な夜のひと皿を、どこまでも深く、噛み締めるように味わい尽くすのだった。




愛は隠すと拗れると相場が決まっている。
二鳥は力を追い求めるのを辞めた…ので悪夢を見てもらいます。安心してください。あくまで夢です。いつになるかは分かりませんが覚醒イベントの一つに過ぎません。

皆さんはどっちだと思います?二鳥は…

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