次郎が反抗期を乗り越え、節乃ちゃんを守るための牙を研ぐようになってから、さらに数年の時が流れた。
あの日以降、俺は過度に力を求めることをやめていた。一龍兄さんや次郎たちとの修行に参加する回数は目に見えて減っていたが、少なくなったとはいえ、獲得した力をキープするために参加する際は誰よりも積極的に、集中して取り組んでいる。
だが、時間の経過と共に一龍兄さんや次郎との力の差はドンドンと広がり、手合わせをしても勝つことはもうない。だけど、俺はそれを気にすることはなかった 。
三弟子最弱だろうが構わない 。俺の肉体と、これまでに積み上げてきた限界突破の出力、そして精密な大工の解体技術があれば、あの隠れ新居を、そしてと最愛の妻であるカカさんを守るには十分すぎるほどのお釣りが来るのだ 。これ以上は求める必要はないだろうと、俺は今の状況を穏やかに受け入れていた。
修行をしない日は、前世の記憶を活かして大工として働いていた。組織には属さず個人で誰とも組まない隠居のようなスタイルだったが、腕前は超一流。どんなに複雑な建築や修繕も、俺の超スピードと精密な技術を使えば、驚くべきことにたった一日で終わらせることができた。
そのためか、人里での評判はすこぶる良く、大工としての依頼は引きも切らなかった。
「よし、今日の現場もこれで完璧だ」
今日はいつも下りてる人里から遠く離れた民家の補修を夕方前に片付け、コートの襟を正して帽子を深く被り直す。いつもと違う人里の賑わいを離れ、お土産を抱えて我が家への帰路についていたそんなある日のことだった。
人里から少し離れた町外れの寂しい荒野の境界線。そこに、行き倒れている一人の子どもを見つけた。
「おい、大丈夫か……っ!?」
俺は慌てて買い物袋を置いてその子どもへと駆け寄り、その細い身体を優しく抱き上げた。相当な長旅をしてきたのか、全身は傷だらけで泥にまみれ、極度の飢餓状態で呼吸も虫の息だ。
だが――抱き上げた彼の顔を間近で見た瞬間、俺の全身の細胞がこれまでにないほどの驚愕でガチガチに染まった。 子どもの、固く閉じられた両目の上下に、三本ずつ縦に走った特徴的な『傷跡』。
そして、まだ幼く、衰弱しきっているにもかかわらず、その身から無意識に放たれている、底知れない飢餓の化け物――【捕食者】としての圧倒的なオーラ。
…俺が、その容姿と気配を、見間違えるはずがなかった。
「こいつは……三虎……っ!?」
ついに、出会ってしまった。一龍兄さん、次郎と共にアカシア様の弟子となり、そして世界を揺るがす最大の激動の中心となる、最後の兄弟弟子。最悪の飢餓の悪魔をその身に宿す悲しき獣、三虎だ。
(……なんて凄まじい餓えの細胞だ。だが、死なせやしない。俺の目の前に現れたからには、絶対に救ってみせる)
俺は自身の左腕にグッと力を込め、三虎を背負うと、カカさんの待つ我が家へと向けて、グルメ界の夜道を全速力で駆け抜けた。
◆
……腹が空いていた。 ただひたすらに……世界中のすべてに飢えていた…生まれた瞬間から…俺を取り巻く世界のすべてが敵だった…
何も持たずに産み落とされたこの俺が、一体何を持っていたかと問われたら。それはただ、誰かに殺されかけた無数の恐怖の記憶と、今この瞬間にも脳を狂わせ、気を失いそうなほどの凄まじい空腹感…それだけだった…
他者から奪うことしか知らない。それが俺の生きる術だった。だが、裏を返せば、奪うことができなければ俺には本当に何も残らない…
飢えを凌ぐためなら、なんだってした。血の混じった泥を啜り、苦い樹の皮を齧り、ただ胃を満たすためだけに砂を貪り食べる…そうしなければ、目の前の命を縮めるだけだということを骨の髄まで分かっていたんだ…
だけど、もう限界だった。 奪い取るべき食物が周囲に何一つなければ、そもそも奪うことすらできない。胃の腑が焼け付くような痛みを上げ、手足の先から感覚が消えていく…
俺の絶望的な空腹はついに限界に達し、頭の芯が急激に冷たくなっていった。 ゆっくりと意識を手放しながら、俺は思った…
(ああ、俺はここで死ぬんだな――)
そう思っていた。誰も俺を顧みず、ただのゴミのように荒野で朽ち果てるのだと、そう信じて疑わなかった。
――なのに…
「……ん、……っ」
不意に、鼻腔をくすぐる匂いがあった。 それは今まで嗅いだどんな血や泥とも違う、嗅いだだけで全身の細胞が狂喜乱舞して飛び起きるような、圧倒的に香ばしく、深い、極上の匂い。重い、鉛のような瞼を、奇跡的にほんの僅かだけ押し上げる。
(……ここは……どこだ……?)
視界に飛び込んできたのは、冷たい荒野の空ではない。 温かみのある木の木目に包まれた、見知らぬ部屋の天井だった。身体の下には、驚くほど柔らかく、温かい、清潔な布団が敷かれている。死んだはずの俺の身体が、なぜかまだ温かい。
「ああ……目が覚めたか」
上から、優しく、だけどどこか聞き取りやすい落ち着いた声が降ってきた。視線を動かすと、そこには見たこともない、青い皮膚をした奇妙な大男が立っていた。仕立ての良いコートを着て、傍らには黒い帽子が置かれている。
そしてその後ろには、見事なロングのストレートヘアを揺らした、これまた見たこともない姿の女が寄り添っていた。黒いワンピースを纏った彼女の左手の薬指には、青い男と同じ、お揃いの指輪が優しく煌めいている。
まともな人間が見れば、一目散に悲鳴を上げて逃げ出すような化け物の姿。だが、俺は不思議と恐怖の感情を抱かなかった。 それどころか、目の前の二体の怪物が、俺に向けている感情が……心の底からの深い【慈愛】だということが、本能的に分かってしまった。
生まれてこれまで、周囲から殺意や敵意、捕食の衝動以外の感情を向けられてこなかった俺に、そんな温かい色を向けてくれる存在がいる。その事実に、俺の胸は激しい困惑と驚きに包まれていた。
……であると同時に、俺の口元から自嘲気味な乾いた笑いが漏れる。
(……ふっ。俺みたいな化け物に手を差し伸べてくれるのは、やっぱり同じ化け物しかいないのか……)
下等な人間たちにゴミのように見捨てられ、荒野で死にかけた俺と、目の前の奇妙な怪物たち。その境遇の皮肉に笑った、その瞬間だった。
「――っ、う……、あ……」
笑った衝撃が、飢餓でボロボロになった肉体へと激痛となって走り、俺は思わず小さく呻き声を上げた。胃が捩れるように痛み、手足の先から再び感覚が遠ざかりそうになる。
「無理に動いちゃダメだ。じっとしてな」
青い男がそう言うと、俺の身体を大きな手で、まるで壊れやすい物を扱うかのように驚くほど優しく、だけど絶対にブレない強固な力で支えて起こしてくれた。
「ほら、口を開けろ」
男の言葉と同時に、隣にいた女が、湯気の立ち上る温かい木のスプーンを俺の唇へと優しく運んでくる。
奪うことしか知らなかった俺の人生に、向こうから無償で与えられる、『施し』。 俺は激しい困惑に脳を狂わせそうになりながらも、本能的な飢えに抗えず、差し出されたその液体を、震える唇でそっと口に含んだ。
「――っ!?」
その瞬間、俺の全身の細胞が、これまでにないほどの激しい衝撃で跳ね上がった。 五臓六腑に染み渡るような深いコク。嗅いだだけで胃袋が歓喜の声を上げるような美味。それは今まで泥を啜り、樹を齧り、砂を食べて生を繋いできた俺にとって、この世界そのものがひっくり返るほどの、圧倒的な【おいしい】という暴力だった。
おいしい。温かい。美味い。 液体であるはずなのに、俺はそのスープの劇的な衝撃を、味を、喉越しを、この先一生、何があっても絶対に忘れないようにと――喉の奥で、何度も、何度も、激しく咀嚼するようにして飲み込んだ。
奪い取る食物がなければ死ぬしかなかった俺の目の前で、世界で一番温かい家の、そしてこの不思議な夫婦との出会いが、俺の死んでいた命を、今、圧倒的な熱量で土台から完璧に蘇生させようとしていた。
◆
……俺が見る夢は、いつだって同じ悪夢だった。 生きるために他者から必死に食物を奪い続けてきた俺が、自分より強い誰かに食物を奪われる夢…
(やめろ……っ! それは俺の、俺の食料だぞ……っ! 返せ……! 返せよ……っ、返してくれ……!)
どれだけ叫んでも、真っ黒な闇は俺の声を嘲笑うように全てを飲み込んでいく。 孤独で、真っ暗闇で、骨の髄まで凍りつきそうなほど冷たい――それが、俺が生まれてからずっと見続けてきた、世界の全てを現したような夢だった。 なのに…
「……ん……っ、……あ」
いつの間にかまた眠っていた。今、俺が全身で感じているのは……あの身を切るような冷たさじゃない。 陽だまりの中にいるような、あまりにも心地よくて、深い、圧倒的な【温もり】だった。 その温かさに導かれるようにして、俺は眩しい光が差し込む世界へと、ゆっくりと目を覚ました。
ぼやける視界を何度も瞬かせ、光に慣れてきた俺の目に飛び込んできたのは――あの、青い方の怪物の姿だった。 怪物は、俺のすぐ傍に静かに座り込んでいた。 そして体温を、その大きな手から分け与えるようにして、俺のボロボロの肉体を優しく温めてくれていたのだ。
「――っ!?」
俺が驚いて息を呑み、小さく身体を強張らせると、その青い怪物はハッとしたように顔を上げ、俺が完全に目を覚ましたことに気付いたようだった。
その瞬間、怪物の特徴的な瞳に、まるで自分の大切な身内が危機を脱した時のような、心の底からの深い安堵の色が浮かぶ。
「……悪い夢でも、見てたろ?」
怪物はやはり聞き取りやすい、落ち着いた声でそう呟くと、俺の頭を、まるで宝でも扱うかのようにそっと、優しく大きな手で撫でてくれた。
誰かに触れられる時といえば、いつも暴力を振るわれるか、殺されかける時だけだった俺の頭を、こんなにも温かい手掌が包み込んでいる。そのあまりの心地よさに、胸の奥の細胞が熱く締め付けられていく。
「おはよう」
怪物は俺の頭からそっと手を離すと、その大きな身を起こした。 そして、差し込む朝日の光を背に受けながら、笑顔を俺に向けて、本当に楽しそうに笑ってみせた。
「さあ、朝ごはんの時間だ!」
怪物はそう言うと、俺の細い肩を大きな手でそっと支え、布団から引き上げるようにして、居間に置かれた椅子までゆっくりと連れて行ってくれた。
台所からは、昨夜嗅いだあの劇的な『美味しい』匂いが、すでに湯気と共に部屋いっぱいに広がり始めている。あの黒いワンピースの女も、こっちを振り返って優しく微笑んでいた。
悪夢の真っ暗闇から、眩しい光の温もりへ。 奪うことしか知らなかった化け物の俺の前に現れた、世界で一番温かい光が、俺の凍りついていた心を、今、ゆっくりと、だけど完璧に溶かし始めようとしていた。
テーブルを埋め尽くした料理は、どれもこれもが見ただけで「おいしい」と細胞レベルで分かる料理ばかりだった。
すぐにでも理性をなくして食らいつきたい――そう思った瞬間、俺の身体は、男の「まだ駄目だぞ」という穏やかな、だけど絶対に逆らえない言葉によって優しく止められた。
すぐに、奥の台所から女がやってきて席に着く。 今度こそようやく食事が始まるのだと思ったが、二体の怪物たちはすぐには手を付けなかった。胸の前で両手をそっと合わせ、「いただきます」、そう綺麗な声で揃えて言ってから、ようやく食べ始めるのを見た。
他者から力任せに奪い、獣のように食らうことしか知らなかった俺は、その怪物たちの仕草を不器用に「真似」してみた。
「……いた、だきます……」
生まれて初めて口にする、食前の言葉。 そうしてようやく口に運んだ料理は――熱い。いや、違う。言葉にできないほど圧倒的に【温かい】。
食べ物とは、本来こんなに温かいものなのか?この世界には、こんなに……美味しいものがあるのか?泥を啜り、樹を齧り、冷たい砂を胃袋に詰め込んで生を繋いできた俺の感情は、その二つの瑞々しい衝撃によってぐちゃぐちゃにかき回された。
もう周りの目なんてどうでもよかった。俺はただ、涙が出そうになるほどの美味に突き動かされ、がむしゃらに、必死に目の前の料理を貪り食った。
女の口から、何か成分の解説らしきものが滑らかに喋られているようだったが……今の俺の耳には、ただの一言も入ってこない。それくらい、目の前の奇跡のような『ごはん』に夢中だった。
――生まれて初めて。 本当に、死にたいほどの飢えから解放されて、腹いっぱいになるくらい飯を食った……っ!
気がつけば、自分の視界がボロボロと溢れる大粒の水分で激しく滲んでいた。俺は自分が、そのあまりの幸福と感動に涙を流しているということすら、自覚していなかった。
けれど……。 お腹がいっぱいになって、心も細胞もこれ以上ないほどに満たされて、それでもなお、それ以上に『嬉しい』と思ったことがあった。
それは、男が俺の涙を拭うように大きな手掌でそっと頭を撫で、「ほら、まだあるぞ? もっと食え」 そう言って、コートの袖を少し揺らしながら、左手で、新しい温かい食べ物を俺にそっと『分けて』くれたことだ。
他者から奪うことしか知らなかった俺に、向こうから無償で差し出され、さらに「もっと食べていい」と自分の分まで分け与えてくれる優しさ…
俺は、一生忘れないだろう。温もりに満ちたこの家の匂い、 初めて命の歓喜に優しく弾む、自分自身の愛おしい鼓動…そして……俺をただの飢えた獣から、一人の【人間】にしてくれた、この奇跡のような1日を。
あの真っ暗闇で冷たい、食べ物を奪われる悪夢を、もう二度と見ることのなくなった、この最高に温かい始まりの日を――俺は、生涯を賭けて胸の奥に刻み込み続けるのだった。
二鳥は腕がいいのでね…馬鹿みたいに稼いでます。
皆さんはどっちだと思います?二鳥は…
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攻め?
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受け?