女性3人組がアカシア様の家で最高糖度の女子会を開いている、まさにその同時刻。
アカシア様、一龍兄さん、次郎、三虎、そして俺の男5人は、人間界の境界線で血を吐くような実技修行をしている……はずだった。
だが、俺たちが今いる場所は荒野などでは断じてなく――人里の賑やかな路地裏に佇む、大衆居酒屋の畳部屋だった。
なんと、アカシア様が直々に一部屋を丸ごと貸し切りにし、「今日は次郎のための『特別な講義』を開くからね」と宣言したのだ。いわゆる『男子会』というやつである。
テーブルの上には、炭火で香ばしく焼き上げられた焼き鳥の盛り合わせや、だし巻き卵といった居酒屋定番の極上のおつまみが所狭しと並べられている。
「がははは! 修行をサボって食う飯はまた格別だな、次郎!」
「ちょっと一龍兄ちゃん、サボりって言うなよ! アカシア先生が講義だって言ったんだからさ!」
次郎が嬉しそうにリーゼントを揺らし、一龍兄さんと共に並々と注がれた酒の器を豪快に傾ける。まだ子どもの三虎は、俺の隣で特製の生搾りオレンジジュースを飲みながらモグモグと唐揚げを突いていた。
「よし次郎、改めて節乃ちゃんとの正式なコンビ結成、そして将来の約束……本当におめでとう!」
一龍兄さんが器を高く掲げて次郎の婚約を改めて祝福すると、俺と三虎も「おめでとう、次郎」と声を揃えて笑顔で乾杯を交わした。
「へへ、ありがとな、一龍兄ちゃん、二鳥兄ちゃん、それに三虎! 俺、絶対に節乃ちゃんを世界一幸せな料理人にしてやるんだからな!」
みんなからの温かい祝福を全身に受け、次郎は照れくさそうに鼻の下を指でこすりながらも、漢としての誇らしげな笑顔を弾けさせた。
すると、おつまみの焼き鳥を美味しそうに頬張っていた次郎が、ふと器を置き、俺の顔をじっと見つめて疑問を投げかけてきた。
「……あ、そういえばさ、二鳥兄ちゃん。ここ最近の兄ちゃんってさ、なんか妙に『色気』があるっていうか……なんていうか、雰囲気が変わった気がしねえか?」
「ん? 俺がか?」
俺は頭を軽く傾けながら、不敵にニヤリと笑ってみせた。指輪がはめられた自身の左手を、これみよがしに堂々と胸元へと当ててみせる。
「あはは。それはな、次郎……あのドレスとタキシードの夜を経て、最愛のカカさんとの『愛』が、より深く、魂のレベルまで強固に深まった。ただ、それだけのことさ」
俺はふんすと強気に胸を張り、これ以上ないほどの絶対的な【既婚者の余裕】を、ウブな弟の前でありありと見せつけてやった。
「な、なんだよその自信満々な惚気はよぉ! 惚気るなら家に帰ってカカねえちゃんの前だけでやってくれよ、胃が焼けちまうだろ!」
次郎が顔を真っ赤にして叫び、一龍兄さんも「おいおい二鳥、男だけの飲み会でまでバカップルを維持すんじゃねえよ!」とゲラゲラと大爆笑している。
「さあ次郎! 既婚者の俺の格好良さに嫉妬してないでさ! アカシア様がわざわざ開いてくれた、お前のための『漢の花婿修行講義』、ここからが本当の本番だからな! 徹底的に楽しもうぜ!!」
「おうよ! 二鳥兄ちゃん、俺に男の磨き方、たっぷり教えてくれよな!!」
俺たちは賑やかな笑い声を大衆居酒屋の貸切部屋へと響かせながら、三虎の温かい視線を浴びて、世界で一番温かい我が家の最高の男子会賑やかに、深く楽しむ。
「――よし。それではこれより、次郎のための『漢の花婿修行講座』を正式に開講するとしようか」
お酒の器をそっと置き、アカシア様が悪戯っぽい笑顔を浮かべて高らかに宣言した。焼き鳥の香ばしい匂いが漂う居酒屋の貸切部屋で、男子会の本番がドカンと幕を開ける。
「さて、まずは最初の講師として……そうだな、二鳥。君に指名に入ってもらおうか。カカさんとの夫婦関係をそこまで完璧な構造に保つための『愛のシステム』を、次郎にレクチャーしてやっておくれ」
「え、俺からですか? あはは、分かりましたよ、アカシア様」
俺はコートの袖を少し引き、並んで座る次郎と三虎を真っ直ぐに見据えた。
「いいかい、次郎。俺のカカさんへの愛のシステム……それは、ズバリ【完璧な受けの姿勢】にあるんだよ」
「受けの姿勢ぃ? なんだよそれ。兄ちゃんいっつも自分からカカねえちゃんをお姫様抱っこしてイキってるじゃねえか」
次郎が不思議そうにリーゼントを揺らしてツッコミを入れてくる。俺はニヤニヤとした笑みを浮かべ、人差し指をピシッと立ててその本質を諭した。
「分かってないねぇ、次郎。俺の言う受けの姿勢っていうのはね、カカさんが毎日、毎秒、愛を隠さずに全力のフルパワーで注いでくれるあの膨大な情愛のエネルギーを一欠片も、爪の先ほども『絶対に逃さない』ってことなんだよ」
「逃さない、のか……?」
三虎が生搾りオレンジジュースのグラスを両手で包み込みながら、じっと俺の解説に耳を傾ける。
「そうさ。我が家での毎日の家事の分担を一緒に並んでやるのはもちろんのこと……。例えば、俺がカカさんの素晴らしさを極限まで引き出すために独断でプレゼントした香水、それをカカさんが嬉しそうに身に纏ってくれたのに気付いた瞬間、俺は一ミリの躊躇もなく即座に『今日も世界一いい匂いだね、カカさん』って、本気で、ダイレクトに褒めちぎるのさ。言葉だけじゃなく、そのまま背後からガシッと抱きしめて、四六時中彼女の傍に寄り添って生活空間を共にする。これが俺の無敵の受けの姿勢だ!」
「 やっぱり最初から最後までただの限界突破の惚気じゃねえか!!」
次郎が顔を真っ赤にして器をひっくり返しそうになり、一龍兄さんも「おい次郎、こいつを講師に指名したのが間違いだったわ、胃が完全に焼け死んだぞ!」とお腹を抱えて大爆笑している。
――するとその時、俺の隣で焼き鳥のつくねをモグモグと美味しそうに咀嚼していた三虎が、ふと何かを思い出したように大きな瞳をパチクリとさせて、ぽつりと呟いた。
「……そういえば、二鳥の兄者。兄者はここ最近、リビングや菜園にいる時……カカの『腹』のあたりを、もの凄く優しく、よく撫で回しているな? あれも、その受けの姿勢というやつなのか?」
「――え? 俺が……カカさんのお腹を撫でてる?」
三虎のそのあまりにも純粋な指摘に、俺は「そうなのか?」と、自分の行動の記憶に全く心当たりがなく、あっけらかんとした顔で首を傾げた。
「ふふふ。二鳥とカカさんは、結婚して20年近く経つというのに、相変わらず本当に仲が良いねぇ」
「本当だ、見てるこっちが照れるわ」
アカシア様はただ「愛おしくて無意識に触れているのだろう」と穏やかに目を細めて笑い、一龍兄さんたちも「またいつものバカップルか」と呆れ顔で頷くだけで――二鳥のその無意識の行動の真意を誰一人として理解していなかった。
「さあ次郎! 俺の完璧な受けの姿勢を脳裏にバチッと刻み込んだことだしさ! 次は一龍兄さんの不器用な恋愛妄想、あるいはアカシア様の本物の大人のエスコート理論を聞こうぜ!」
「おうよ二鳥兄ちゃん! 俺、節乃ちゃんのために、もっともっと格好いい漢の構造を勉強してやるんだからな!!」
「アカシア様、次は誰を指名するんですか?」
「よし! 二鳥のこれ以上ない惚気講義の次は……そうだな、一龍。お前の番だ。長男としての威厳を見せて、次郎に漢の真髄を教えてやってくれ」
アカシア様が楽しそうに器を掲げ、次なる講師として一龍兄さんを指名した。
だが、その瞬間に隣の次郎が「えー?」と露骨に不満げな顔をして、リーゼントを揺らしながら容赦のないド直球のツッコミをぶちまけた。
「ちょっとアカシア様、一龍兄ちゃんに講師を任せるのは論外じゃないですか? だって一龍兄ちゃん、知っての通り『恋人』がいないんですよ!? 独り身の兄ちゃんに、漢の花婿修行の講義なんてできるわけねぇでしょ」
「――あぁん!? お前、今なんつった次郎ぉおおおっッ!!」
その次郎の無慈悲な事実の指摘に、一龍兄さんの額にピキピキと激しい青筋が一瞬で何本も跳ね上がり、その導火線に特大の火がついた。
一龍兄さんはテーブルをバンッと叩いて身を乗り出し、顔を真っ赤にして猛烈な勢いで捲し立て始めた。
「いいか次郎、よく聴けよ! 恋人が今いるかいないかなんてのはな、漢の『花婿としての資質』にはただの一ミリも関係ねえんだよ! むしろ、特定の相手がいないからこそ、俺は常に俯瞰的な視点から理想の漢の理論を極限まで完璧に組み立てて蓄積しているんだ! 舐めるんじゃねえぞ!!」
「一龍兄さん、必死すぎる言い訳が最高に格好悪いよ…」
俺がツッコむと三虎もオレンジジュースのコップを持ったまま「一龍の兄者、怒ると血圧が上がるぞ……」と、心配そうに?今度はイカ焼きをモグモグしながら見つめていた。
三虎の言葉に一龍兄さんはコホンと一つ咳払いをし、ぐっと拳を握り締めて、長男としての圧倒的な覇気をまとった【真の漢の講義】を開始した。
「……いいか、次郎。お前のようなガサツな奴が節乃ちゃんのような最高の女の子を一生のコンビとして隣に立たせ続けるために、何よりも必要不可欠なもの。……それは、ズバリ【包容力】だ!!」
「ほうようりょく……?」
次郎が不思議そうに首を傾げる。一龍兄さんは深く深く頷き、その熱い魂を言葉に乗せて諭した。
「そうだ。女の子というのはな、日々の修行や生活の中で、時には不安になったり、自分の料理のセンスに悩んだり、感情の波形が乱れることが必ずある。……その時だ、次郎! 漢が一緒になって慌てたり、あるいは『何悩んでんだよ』なんてガサツに片付けちまうのは最悪の言動だ! 相手のどんな弱音も、どんな涙も、その広い大きな器、背中で『全部まとめて笑顔で抱きしめてやる』。この圧倒的な包容力こそが、新妻を世界一安心させる秘訣なんだよ!!」
一龍兄さんのその真っ直ぐで壮大な【王の包容力】。 後に人間界の平和を統べる国際グルメ機関、IGOのトップとして、世界中の飢えた人々をその圧倒的な慈愛の背中で守り育てることになる男の、これが若き日の真の花婿理論、原点だった。
「……なるほど。相手の弱いところも、全部まとめて包み込んであげるのが、一龍の兄者の言う『包容力』なんだな。……俺、それすごく格好いい漢だと思う」
三虎がその言葉を深く噛み締めるように何度も呟き、一龍兄さんへとこれ以上ないほど深い尊敬の眼光を向けた。
次郎も「相手の全部を、笑顔で抱きしめる、か……」と、自分の大きな両手を見つめながら、漢としての確かな覚悟をその胸の奥にバチッと刻み込んでいるようだった。
「意外と最高に立派な講義だったよ、一龍兄さん! 独り身なのが本当に勿体ないくらい!」
「うるせえ二鳥! そこを強調すんじゃねえ!第一、俺は出来ないんじゃない。作らないんだ! よしアカシア様、次はトリを飾る最高のエスコート理論、お願いします!」
「よし。それではトリとして、私がフローゼを――」
アカシア様が優雅にグラスを傾け、大人の極上のエスコート理論を語ろうとした、まさにその瞬間だった。
「――待ってくれ。アカシア、俺にも言わせてほしい」
三虎がオレンジジュースのコップをそっと置き、小さな手をキッと握りしめて待ったを掛けた。男4人が驚いて視線を向ける中、三虎は自分の内に眠る真剣な熱量をその大きな瞳に宿し、真っ直ぐに口を開いた。
「俺はまだ子どもだから、恋人のこととかはよく分からないが……。でも、一人の漢として、絶対に必要不可欠な『言葉』があるんじゃないかと思うんだ」
「ほう、三虎。お前が思う漢の真髄か、聴かせてくれよ」
一龍兄さんが腕を組んで興味深そうに目を細める。
「うん。……二鳥の兄者が、前に俺に教えてくれたんだ。これから大切な人が出来たなら、付き合い始めた『記念日』だけは何があっても絶対に脳に刻み込んでおけって。忘れたら、身体が干からびるほど大変な目に遭うからって……」
三虎が真面目な顔をして、かつて授けたあの強固な教訓を切り出す。
「あはは! 三虎、お前、兄ちゃんが教えたあの教訓をちゃんと覚えていてくれたんだね! 完璧に相続されているみたいで本当に嬉しいぞ!」
俺が誇らしげに喜ぶと、三虎はジト目を少しだけ次郎の方へと向けた。
「次郎。お前も、その大切な教訓をちゃんと覚えているよな?」
「う、うぐっ……! ま、まあ……覚えてはいるよ……。節乃ちゃんとの記念日を忘れたら、悲しむに決まってるんだ……忘れるわけねえじゃんか……」
次郎はリーゼントをガシガシと掻きながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。
もっとも、現在、節乃はカカのあの肉食全開のお仕置きの教訓を教授して、悲しむことはあまりない可能性は大なのだが。
そして三虎は、次郎のそんな不器用な考えを置き去りにするように、その声音に一人の人間としての、生涯消えない無敵の『優しさと執念』を熱く込めて語り始めた。
「俺は、その記念日の話のように……漢にとって一番大切なのは、相手のすべてを【忘れないこと】なんじゃないかと思うんだ」
「忘れないこと、か……?」
アカシア様がその言葉の真意を測るように、深く頷く。
「そう。ただ特定の記念日っていう数字だけじゃなくて、あの日に大切な人と何をやったか、どんな言葉を交わしたか、その『思い出』のすべてを脳裏に完璧に保存しておくのが大事だと思う。……俺は、あの凍えるような荒野で、二鳥の兄者とカカに優しく拾ってもらった日のことを、いまだにただの一秒も忘れていない」
三虎の大きな瞳に、じわりと温かい涙が滲む。
「あの日、兄者の差し出してくれたあの大きな手の温もりも。カカが作ってくれた、あの日食べた温かいスープの味も。……俺の細胞の隅々まで、全部、嘘一つない本当の宝物として今でも完璧に覚えているんだ。それをずっと覚えているから、俺は二人のために世界一の農家になりたいと思える。……だから、大好きな人のことを絶対に『忘れない』強さこそが、一番格好いい漢なんじゃないかって……そう思うんだ」
他者から奪うことしか知らなかった飢えた獣が、今、自分を救ってくれた家族への尽きない感謝と愛を、これ以上ないほど理性的な【忘れない執念】に変えて熱弁してくれている。
その三虎のピュアで、だけど何よりも強固な想いを聴いた瞬間、俺の胸の奥は、これ以上ないほどの激しい感動と熱い涙で破裂しそうになっていた。
「……三虎……っ!! お前、本当に……本当に最高の弟だよ……っ!!」
俺はたまらなくなって、三虎の小さな身体をガシッと両腕で強く、愛おしそうに抱きしめた。
一龍兄さんも「うおおおっ、三虎ぁあああっ!! お前はなんて立派な漢なんだよぉおおおっ!! 兄ちゃん、またお前の優しさで涙が止まらねえぞぉおおおっ!!」と盛大に大粒の涙を流して号泣していた。
次郎も「三虎のクセに、俺より格好いいこと言いやがって……っ」と涙目でリーゼントを揺らしていた。
トリを奪われたアカシア様もまた、男たちの優しさと、三虎のその美しすぎる精神の成長に本当に深く感心し、目元を熱くしながら静かな微笑みを浮かべて見守っていた。
「ありがとう、三虎。兄ちゃんもお前とのあの日を、カカさんとの毎日も、一生絶対に忘れないからね」
「うん、兄者……っ!」
◆
私、アカシアは傾けていた酒の器をそっとテーブルへと戻した。
まさか、トリを飾ろうとした私のエスコート理論が、一番小さな愛弟子によってこれほど完璧な講義、真髄へと塗り替えられてしまうとはね。
「ふふふ。どうやら今日の私の出番は、この賢い三虎にすっかり持っていかれてしまったようだね。よし、それじゃあ今日の『漢の花婿修行講座』は、これにてお開きにしようか」
「えぇーっ!? ちょっと待ってくださいよアカシア先生! 俺、アカシア先生がフローゼ様を射止めた時の世界一スマートな大人の理論、めちゃくちゃ楽しみにしてたのに!」
次郎が頭をガシガシと掻きながら、本当に名残惜しそうに身を乗り出して抗議してくる。私はそんな次男坊の様子にクスクスと肩を揺らしながら、いつもの穏やかな、優しい父親としての笑顔を向けて諭した。
「はは、次郎、そう焦るんじゃないよ。私の話はまた今度にしよう。窓の外をごらん、もうすっかり日が暮れて人間界の街にも綺麗な夜の灯りが灯り始めてきた。フローゼやカカさん、節乃ちゃんが首を長くして待っている。そろそろ我が家へ帰る時間だよ。それにね……」
私は三虎の頭を優しく、愛おしそうに撫でた。
「今日の三虎が語ってくれた『忘れない強さ』はね、私が用意していたどの大人のテクニック理論にも決して劣らない、一人の気高き漢としての本当に立派で、最高に美しい話だったからね。私は今日の講義の結末に、一人の師としてこれ以上ないほど満足しているよ」
「……っ、アカシア……! ありがとう……っ!」
三虎が嬉しそうにその大きな瞳を輝かせる。
そうして私たちは貸切部屋の代金を支払い、夜風の心地よい大衆居酒屋の店先へと全員で並んで出たのだが――私の視線は、先ほどから先頭を歩く、あの青い大柄な弟子『二鳥』の背中へと、静かに、冷徹に注がれていた。
(……二鳥。君は自分でも気づいていないようだがね……)
私は「ほら次郎、お前の新居の図面は格安で引いてやるからな!」といつも通りに賑やかに笑っている彼の、その大きな手の動きを記憶から反芻していた。
三虎が先ほど指摘した、あの一言。
『最近の兄者は、カカの腹をよく優しく撫で回している』
(無意識に、自らの番のお腹を、まるで壊れ物を扱うように何度も優しく愛おしむように撫でる……それは、ただの夫婦としての惚気、スキンシップなのかい? それとも……生命の根源に刻まれた、抗うことのできない【本能】が、君にそうさせているのか……?)
私の生体計算、考察の歯車が、誰も見ていない夜の闇の中で、恐ろしい速度で回り始める。
もし、あれが肉体の放つ本能的なシグナルなのだとしたら、今、カカさんのお腹の中には、彼らが重ねてきた検証実験の奇跡として、新しい命が――いや、ダメだ。
理性的な生物学の常識が、私の脳内で即座に待ったをかける。
何百億年ものグルメ細胞の歴史において、ニトロという種族はあったとしてもクローンで個体数を維持することしかできず、男女が愛し合って新しい命をその身に宿すことなんて、絶対に構造上ありえないはずだ。
だが……二鳥自身は己の変化に全く気づいていないようだが、私の鋭い索敵能力は、ある恐るべき不条理な『歪み』を、あの日から明確に感知していた。
(明らかにあの日……あのドレスとタキシードを纏って、朝まで濃厚な検証実験を繰り返したという、あの夜の直後から……二鳥、君の放つグルメ細胞のエネルギーレベルと出力は、不自然なほどに『低下』している……)
レベルの低下。それは彼が弱くなったわけではない。まるで、自らの内に眠るエネルギーのすべてを、隣にいる愛しい妻の肉体へと注ぎ込み、新しい土台を建てるために『分け与えて』いるかのような、奇妙で、だけどこれ以上ないほど神秘的な生命のエネルギー対流。
(もしかすれば……二鳥の、あの前世の餓死という絶望をぶち破るほどの強固な【人間の執念】が、カカさんの絶対的な愛の熱量と完璧な結合を果たし……ニトロの歴史を完璧にぶち破って、本当に新しい命という『世界の奇跡』を創り上げようとしているのではないか……?)
だが、今の私の知識では、それが真実であるという絶対的な確信にまでは至らなかった。世界の不条理な運命の裏側で、まだ見ぬ奇跡の蕾が、静かに息づいているのかもしれないという、あまりにも壮大な予感――
(……ふふふ。やれやれ、私の可愛い弟子たちは、本当にどこまでも私の常識を軽々と限界突破して楽しませてくれる。……もし本当にそうなら、フローゼも私も、一人の親としてこれ以上ないほど誇らしいよ、二鳥、カカさん)
私は胸の中でそんな深遠な、だけどどこまでも温かい父親としての独白を静かに紡ぐと、いつもの穏やかな笑みを浮かべて四兄弟の真ん中へと歩み寄った。
「さあみんな! 街の夜風は冷えるからね。カカさんやフローゼ、節乃ちゃんがとびきり温かい食事を作って待ってくれている我が家へと向けて、4人仲良く、しっかりと手を繋ぎ直して力強く帰るとしようか!」
私たちはどこまでも賑やかな笑い声と確かな幸福を人間界の夜空へと響かせながら、温かい灯りが待つ我が家への帰路へと、5人仲良く足取り軽く、歩み進んでいくのだった。
◆
アカシア様の家でみんなと解散した後、俺は駆け足で帰り、我が家への引き戸を開けた。
「ただいま、カカさん。遅くなってごめんね」
「お帰りなさいませ、二鳥さん……」
玄関を入ると、いつものように黒のセットアップの裾を揺らしながらカカさんが出迎えてくれた。その頬はほんのりと赤く染まっている。
だけど、そのまま俺の胸元へ、すとん、と力を抜くように顔を埋めてくるその佇まいは、20年近く毎日見てきた彼女の姿であるはずなのに、俺の目から見ても、何処かいつもと違う神秘的な柔らかさを帯びている気がした。
「カカさん? どうしたんだい、何かあったの?」
俺が頭を傾け、優しく問いかけるとカカさんは俺の胸に顔を埋めたまま、くぐもった、だけど最高に愛おしそうな声で教えてくれた。
「……はい。実は今日、アカシア様の家でフローゼ様と節乃さんと一緒にお茶会を開いていたのですが……節乃さんから『将来二郎さんと結婚した時のために、花嫁修行をつけてほしい』と、大変健気で真っ直ぐな相談を打ち明けられましてね。私とフローゼ様で、進んでその手ほどきをしていたのです」
「へぇ、節乃ちゃんが花嫁修行を。そいつは本当に素晴らしいね」
「ええ。ですが……その講義の中で、夫婦円満の秘訣として二鳥さんとの毎日のお皿洗いの肩ピト密着や、ありがとうの交換を詳細にアウトプットしているうちに……なんだか、私が遠い昔、世界一大好きな二鳥さんと出会ったばかりの頃の、あの新婚ホヤホヤだった初期の記憶が、細胞の隅々まで猛烈にリフレッシュされてしまいまして……ですから、今夜は……今夜は、二鳥さんに、思いきり甘えたいのです……っ」
顔をさらに大赤面させ、両手で俺の背中をぎゅっと、これ以上ないほどの愛を込めて抱きしめてくる最愛の妻。
「……はは。ずるいよ、カカさん。そんなこと言ったらさ…」
俺は最高の幸福感に包まれながら、その愛おしすぎる彼女の身体を両腕でガシッと強く抱きしめ返した。
静かな我が家の玄関で、お互いの手の温もりと、感触を確かめ合うような、少し長くて、どこまでも深い抱擁。
やがて名残惜しそうに一度身体を離すと、カカさんは恥ずかしさを隠すように「それではっ、二鳥さんのために最高に美味しい夕飯の準備を開始いたしますね!」と、パッと身を翻して台所へと歩き出そうとした。
――だが、その背中を見せられた瞬間。
俺の肉体は、自らの頭の思考よりも早く、抗うことのできない猛烈な衝動に突き動かされるようにして、弾かれたように一歩前に踏み出していた。
「――っ、二鳥さん……っ?」
俺は台所へ向かおうとしたカカさんの身体を、後ろから包み込むようにしてガシッ!!! と力強く、だけど壊れ物を扱うように繊細に抱きすくめた。
そして、自身の左手を彼女の衣服の上から――その愛らしい『お腹』のあたりへとそっと添え、本当に優しく、慈しむように【無意識】のうちに何度も、何度も撫で回し始めたのだ。
「ふふふっ……くすぐったいですよ、二鳥さん。突然どうしたのですか?」
カカさんは俺の腕の中でクスクスと嬉しそうに肩を揺らした。
「そういえば……二鳥さん、ここ最近、私のこのお腹の辺りを、もの凄く頻繁に優しく撫で回していらっしゃいますよね?」
「あはは……そうらしいね。今日、三虎にも言われたんだよ。 ごめんね、なんか、無意識に触りたくなっちゃうんだ」
俺はカカさんのうなじに顔を埋めながら、いつものように笑っていた…
――アカシアが居酒屋の帰り道に鋭く見抜いていた、あの恐るべき生体変化。あの日、あのドレスとタキシードを纏って朝まで濃厚な検証実験を繰り返した夜の直後から、二鳥のグルメ細胞のレベルが、自らのエネルギーを分け与えるようにして不自然に『低下』しているという、その不条理な歪みには、二鳥自身も、まだ全く気づいていなかった。
そして、何故自分がこうして彼女のお腹を撫でるたびに、胸の奥にある何かが、これ以上ないほど温かく満たされていくのか、その答えには、まだ気づいていなかった。
「さあカカさん! 最高の新婚ホヤホヤの気分のまま夜を過ごそうか! お皿洗いの時は、昨日以上に肩をピトッとくっつけて…ね!」
「はい……二鳥さん……っ!」
次回から忙しくなるぞ…
皆さんはどっちだと思います?二鳥は…
-
攻め?
-
受け?