※腕欠損有り。
バタン、と二鳥さんが「ちょっと難易度が高いダンスを覚えてくるよ!」と言って家を出てから、今日で3日が経ちました。
最初の二日間、私は待ちました…あの人なら、きっと大丈夫だと信じて。
けれど――3日目の朝になっても、帰ってこない。
その時になって初めて、私は認めざるを得ませんでした。
あの日、出発する前に私にくれたあの「行ってらっしゃいのキス」を、私は今でも唇の、いえ、細胞の奥深くで生々しく覚えているのです。
昔は私がキスを求め、二鳥さんが真っ赤になりながら応えてくれる初々しいもの。今は朝のスキンシップの一つ、習慣として繰り返す愛おしいキスへと変わっていました。
けれど、あの日のキスは全く違っていた。まるで……数日先、いえ、自分が帰ってこられないかもしれない日の分のぬくもりまで、すべて私の唇から吸い取ろうとしているかのような、あまりにも切なくて、狂おしいほど濃厚なディープキスだったのです。
(……二鳥さん、あなたはどうして、いつもそうやって一人で全部の恐怖を抱え込んで、先へと走ってしまうのですか……っ)
「ピ、ピー……。ピ、ピィ……」
我が家の静かなリビングに、アポロの心細そうな鳴き声が小さく響きます。
あの日以来、アポロは父親の姿が見えないことに、本能的な不安を感じ取っているのでしょう。私はアポロを胸に抱き上げ、私の肌が持つ体温をもって温もりを与え続けていますが……どれだけあやしても、その小さな震えが完全に収まってくれる様子はありません。
「アポロ……寂しいですね。私の温もりだけでは、あなたのグルメ細胞が満足してくれないのでしょう……。あなたの半分を形作っている、あの大きくて不器用な、お父さんの温もりも……欲しいのでしょうね……っ」
アポロの小さな頭を撫でながら、私は胸元をぎゅっと握りしめ、胸の奥から湧き上がる強烈な『飢え』のような衝動に、深く、深く頷きました。
――私は、決意いたしました。
二鳥さんが、どこへ行ってしまったのか。彼が言った「ちょっと難易度が高いダンス」という比喩表現を解析すれば、答えは一つしか導き出されません。
それは、……グルメ界エリア7に伝わる、細胞を一丸とする究極の武術、「猿武」のことです。
あそこが、どれほど過酷な猿たちの巣窟であるか、味仙人である私は誰よりも熟知しています。通常なら、子連れで足を踏み入れるなど言語道断、自殺行為に等しい暴挙です。
ですが、論理的なリスクの計算など、今の私の心には1ミリも届きません。今すぐに……あなたに会いたい。あの大きな腕に、壊れてしまいそうな程強く抱きしめられたい。あなたの、あの熱いほどに優しい温もりが欲しい……っ!
「アポロ。お父さんを、連れ戻しに行きましょうね」
私はアポロをより一層しっかりと抱き上げ、玄関へと力強く歩み出しました。扉を開けようとした、まさにその時。
トントン、と、小気味よい音を立ててドアが外からノックされました。
「おや、カカ。……こんな荷物を抱えて、どこかに出かけるのか?」
そこに立っていたのは、いつも通りの豪快で、けれどすべてを見透かしたような大人の笑みを浮かべた、一龍でした。
「……ええ、一龍。はっきりと、お答えいたします」
私は昔羽織っていた懐かしのフードを深く被り直し、そのまっすぐな瞳を見つめ返しました。
「私は今から、二鳥さんに会いに行きます」
「…場所は、分かっているのか?」
「もちろんです。私の推測と、二鳥さんのあの不器用な情報を分析すれば、答えは一つしかありません。グルメ界エリア7……あの方はあそこで、一人で命を懸けた『ダンス』を踊っているはずです」
私の淀みのない回答に、一龍さんはフッと優しく目を細め、それから自分の大きな肩をすくめて見せました。
「なるほど、エリア7か。あそこはちと、子連れのニトロの散歩にしちゃあ風通しが強すぎるな。……よし、グルメ界は危険だ。俺も、お前たちのお供として、一緒についていってやるよ。何、ちょうどあいつに用事もあったところだしな」
「一龍……ありがとうございます。非常に、心強いです……っ」
一龍のその圧倒的な強さがもたらす安全保障に、私がホッと胸を撫で下ろした、まさにその瞬間でした。
「お、おい! 待てよ一龍兄ちゃん! カカ姉ちゃん!!」
背後の荒野から、地面の岩盤を凄まじい脚力で踏み砕きながら、全力で走ってきたのだろう次郎さんが、息を弾ませて俺たちの前に滑り込んできました。その瞳には、かつてないほどの熱い光が宿っています。
「二鳥兄ちゃんを連れ戻しに行くんだろ!? だったら、俺もついていく……っ! 俺だって、あの兄ちゃんの背中をずっと追いかけてたんだ! 兄ちゃんがボロ雑巾みたいになってるなら、今度は俺がその肩を貸してやる番だ! お願いだ、俺も連れていってくれよ!!」
次郎さんが、一人の立派な『家族』として、涙を堪えながらそう強く願い出てくれたのです。
「次郎さん……」
アポロが、次郎さんのその熱い気配に安心したのか、「ピピッ、ピー!」と、今日初めて嬉しそうに小さな羽をパタパタと震わせました。
(……二鳥さん。あなたという方は、本当に……)
私は、胸の奥が温かい涙で満たされるのを感じていました。あなたが自分の命を限界まで削ってでも守ろうとしているこの「家族」は、あなたを一人で地獄に行かせるほど、薄情な集団ではありません。
一龍と次郎さん、そして私もアポロも、みんながあなたを、心から愛しているのです。
「……分かりました、次郎さん」
私は涙を拭い、静かに頷きました。
「戦力が増えるのであれば、二鳥さんを連れ戻せる可能性も高まります。合理的に考えても、同行を拒む理由はありません」
そして――私はアポロを抱きしめる腕に、少しだけ力を込めました。
「それに……私も、もう一人で待っているのは嫌なのです」
「カカ姉ちゃん……」
「さあ、行きましょう。みんなで、あの不器用な旦那様を迎えに」
一龍が笑う。
「待ってろよ、二鳥兄ちゃん!」
次郎さんが拳を握る。
最強の兄と覚醒した弟、そして愛する妻と我が子は、二鳥が一人で運命と戦っているエリア7へ向かって、温かい『家族の足音』を響かせながら、一歩力強く踏み出すのだった。
◆
「が……はっ、あはは……っ! さすがは王様だ、挨拶の角度が、一分の狂いもないな……っ!!」
肩の付け根から綺麗に消失した右腕を見つめ、俺はボロボロの口を限界まで歪めて不敵に笑って見せた。
バンビーナは、俺のその反応をじっと見つめたあと、「ついてこい」と手招きをして歩き出した。
(へっ……。歓迎されてるみたいで、光栄だねぇ、王様)
俺はバンビーナの小柄な後ろ姿を必死に追いかけた。走りながらグルメ細胞に無茶な命令を下す。
体内の全エネルギーを右肩の付け根に集中させ、千切られた腕をその場で急速に「再生」させていく。数秒という短時間での強引な急速再生は、細胞を内側から焼き尽くすほどの凄まじい負荷とエネルギーを消費するが、今の俺にそんなものを気にする余裕は全くなかった。
バンビーナの後を追って辿り着いたのは、エリア7の象徴であり、最悪の重力地帯――「100Gマウンテン」だった。
凄まじいGが全身の骨を圧迫し、再生したばかりの右腕がピキピキと悲鳴を上げる。
バンビーナは麓で立ち止まると、足元から「ビービーダンゴムシ」をひょいと拾い上げた。
(成る程……。お手玉をしろって訳か)
原作のトリコたちが必死に修行していた、あの猿武の基礎トレーニング。早い、重い、軽い、毒、臭いを不規則に利用することで逃げるダンゴムシ。全細胞を完全に一致させてお手玉を維持する練習。今までアカシア様の元で沢山修行してきたんだ。ダンゴムシの軌道くらい一瞬で見分けてお手玉できる――
そう思った……だが、違った。
「――キキッ!」
バンビーナは悪戯っぽく口を歪めると、凄まじい速度でその細い腕を振り上げ、それを、真っ直ぐに俺に向かって「投げて」きたのだ。
「――っ、しまっ……!」
途轍もない風圧が俺を襲う。その瞬間、俺の反射神経が最悪の選択を下した。俺は咄嗟に、再生したばかりの右腕を前に突き出し、その凶悪な砲丸を「防ごう」としてしまったんだ。
――パァァァァンッッ!!!
再び、耳を劈くような大爆発の音が響く。
「防ぐ」という行為は、その衝撃のすべてを肉体で真っ向から受け止めるということだ。バンビーナの怪力が籠もったダンゴムシの砲丸は、俺の強靭なはずの肉体を木の葉のように容易く粉砕した。
「……ぐ、ああああああっ!!」
衝撃で数十メートル後方へ吹き飛ばされ、泥の中に背中から叩きつけられる。視線を落とすと案の定、さっき再生させたばかりの俺の右腕は見るも無惨に千切れ飛び、100Gマウンテンを形成している屍の一つになっていた。
バンビーナはボロボロになって倒れている俺を見つめ、両手を横にパタパタと振って「違う違う」とでも言うように、心底呆れたような顔をして見せていた。
「がはっ……、げほっ……! はは、……あぁ。そういうことか……よ」
俺は溢れ出る血を拭い、ボロボロの肉体を強引に起こしながら、ようやく意図を理解して、乾いた笑いを漏らした。
……お手玉なんかじゃない。バンビーナが俺に持ちかけてきたのは細胞の全エネルギーを一致させ、飛んできた衝撃を「受け流し」、そのまま自分の力に変えて「投げ返す」という…
――『キャッチボール』
防いだら死ぬ。力を込めたらその瞬間に五体が消し飛ぶ。バンビーナの投げてくる砲丸を、『遊び』のように完璧にいなし、自分の力としてコントロールしなければ俺は一撃で確実に消滅する。
「待たせてる奴らがいるんだ……こんなところで…退場になってたまるかよ……っ!!」
俺はグルメ細胞に再び急速再生を命じた。右肩の肉が、激しい拒絶反応の痛みを上げながら急速に盛り上がっていく。
父親としての執念が千切れる腕の痛みさえ燃料に変え、俺は再び立ち上がる。
カカさんとアポロの未来を守るための、一分の狂いも許されない本気の『キャッチボール』が、100Gマウンテンの過酷な重力の中で、本格的に熱く、激しく幕を開けた。
だが………
……もう……何本の腕が千切れたのか……覚えていなかった………。
71本目……までは数えていた………けれど…そこから先は……感覚が麻痺し………記憶の糸がぷつりと……途切れている………
重力に抗い………音速で……飛来する…超高密度の大砲を……「受け流す」ことなど………俺の技術では……到底…不可能だった………無茶な急速再生を……限界を…超えて繰り返した……そのせいか……ついに…俺のグルメ細胞の……エネルギーは………完全に…底をついた………右肩の…付け根からは……もう………新しい肉の芽すら………盛り上がってこない……文字通りに……からっぽに……なってしまったんだ……
バンビーナは………そんなボロボロの………俺の様子を見て……つまらなそうに……あるいは………呆れたように……鼻を鳴らした………そして…俺にはもう……目もくれず………高い山頂へと……去っていって………しまった………
(……俺は、失敗したのか……?)
泥まみれの視界の中………遠ざかる背中を見つめる………バンビーナの……遊び相手に………俺は……なれなかった……のか………?
――あぁ、なれなかったんだな。
……そう……思った瞬間……張り詰めていた糸が………プツリと切れ……俺の身体は………重力に引かれるまま………うつ伏せになって………倒れ込んだ………
……屍肉の……冷たい感触………その感覚が………嫌なほどに……前世の記憶を……呼び起こしてきやがる………
……あぁ……思い出した………俺は………前世でもこんな風に…………床に……うつ伏せになって……倒れたな………毎日……毎日……誰かのために…家を建てて……木材を削って……自分の身体なんか………後回しにして………結局……誰にも……看取られないで………冷たい…床の上で…一人静かに……孤独に死んだんだ………
(……最悪だ。俺は今、絶望してる……)
……前世の……孤独な死に様………そして今……大切な家族を……守るための力を………掴むことが出来ず………王にすら……見捨てられた現実………その…二つの絶望が……冷たい涙となって……俺の…口の隙間に流れ込んでくる………けれど………なぁ…っ!
(……諦める、わけには、いかないんだよ……!)
………屍肉に……顔を伏せたまま……俺は動かない左の拳を……ギリっ…!と壊れるほどに……握りしめた……明日になったら……バンビーナは……もう…俺に付き合ってくれないだろう……ただの肉か……つまらない石ころを見るような目で……俺を無視するに違いない……
それでも………俺は絶対に……この「猿武」を……体得しなければならないんだ……!ここで諦めて死んだら……!前世の…!あの孤独な死と…!何も…何も変わらない!!!俺には…!あの家で…待ってくれているカカさんがいる!!そして…元気に鳴いて……俺の指を…!握りしめてくれた愛しい我が子、アポロもいるんだっ!!!
そして、俺の覚悟を受け取り、殴ってくれた、一龍兄さんたちがいる!!
俺の背中を見ている次郎、三虎たち弟たちがいる!!!
そして!俺の成長を!俺が掴んだ奇跡を!喜んでくれたアカシア様、フローゼ様という両親がいる!!!
だがら゛ぁ゛!!あ゛ぎら゛め゛る゛訳゛に゛ばい゛がな゛い゛ん゛だよ゛!!!
(これは……死ぬんじゃない……あくまで……ただの…休息だ……)
………今は…細胞を…少しでも……回復させるための……時間だ……この地面は…明日……また……あの王様の前に……這いつくばってでも………その技術を……毟り取るための………ベッドだ……!
………そう……自分に言い聞かせながら………俺は限界を迎え……意識を……暗い……闇の底へと……そっと……手放した………すぐ…近くまで……俺を呼び……俺を探す……愛しい誰かの……焦燥に満ちた……足音が……近づいていることなど………俺にはもう……気づく余力すら……残されていなかった………
次回は大きく動き出しますよ。猿武の使用方法が何なのか、よく復習しておいてください。
皆さんはどっちだと思います?二鳥は…
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攻め?
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受け?