最悪の重力地帯 100Gマウンテン。かつて多くの生物が死に絶え、バラバラに砕け散ったその過酷な泥の上で、俺とカカさんは、そっと息を合わせた。カカさんと俺の計120兆個の全細胞が、一本の美しい旋律のように完璧に溶け合っていく。
一分の狂いもない、愛の調和(猿武)。後ろの岩陰で一龍の兄貴が「ほう……」と本気で感嘆の声を漏らし、二郎が言葉を失って見つめる中、俺たちは孤独な王と愛しい我が子の前で、世界で一番温かくて、世界で一番美しい、二人だけの命懸けのダンスのステップを、力強く踏み出し始めるのだった。
俺とカカさんは同時に一歩を踏み出した。最初はゆっくり、腰を深く落とし、両膝を曲げる。両手を胸元へ引き寄せ、親指を立てる。そして、互いの動きを鏡写しにするように、身体を左右へ揺らした。
(右) (左)
右足を外へ。 左足を滑らせる。
(沈む) (伸ばす)
さらに腰を落とす。 右腕を斜め上へ。
(反対)
左腕を斜め上へ。
そのまま身体を大きく捻る。俺の背中とカカさんの背中が、一瞬だけ触れた。次の瞬間には、互いに反対方向へ身体を弾き出す。
――29――42――71――
数字を数える暇などない。10秒間に1000の振り付け。
一つの動作に許される時間は、わずか0.01秒。しかもここは100Gマウンテン。普通なら立っているだけで身体が地面へ押し潰される。
なのに……。
(右足、前) (左足、引いて)
踏み込む。 引く。
(腰を回して) (そのまま沈む)
回す。 身体を落とす。
カカさんの手が、俺の肩すれすれを通過した。俺はその軌道を邪魔しない。むしろ、その動きに自分の身体を重ねる。彼女が腕を振れば、俺の身体がその腕のための空間を作る。俺が身体を捻れば、カカさんがその回転に合わせて踏み込む。
触れているのは、ほんの一瞬。
離れているのも、ほんの一瞬。
なのに――決してズレない。
(回転) (低く)
身体を一回転。 着地と同時に腰を落とす。
(右手)
俺の右手が伸びる。
カカさんの左手が、それを受ける。
ぱしっ!
掌が重なった瞬間、俺の身体へ彼女の力が流れ込んできた。
(流して) (そのまま) (跳ぶ)
逆らわない。 身体を横へ。 地面を蹴る。
地面の屍肉が大きく跳ね上がる。空中で身体を捻り、互いの身体が交差する。俺の足がカカさんの足元を通り抜ける。 カカさんの身体が俺の肩の横をすり抜ける。そして二人同時に着地。
ぴたり。
まるで最初から、一つの身体だったかのように。
――100。
まだ残り900。
視界の端にカカさんがいる。彼女の呼吸。心臓の鼓動。細胞の動き。そのすべてが、自分のもののように感じられる。
(次)
カカさんの意思が届く。
だが、それはもう言葉ではない。彼女が「動こう」とする、その瞬間そのものが伝わってくる。
俺の足が先に動いた。
(……!)
カカさんの驚きが伝わる。次の瞬間、彼女も動いた。
俺が左へ。 すれ違う。
カカさんが右へ。 互いに背を向ける。
そして――同時に振り返る。
(上) (下)
二人の腕が上がる。 二人の身体が沈む。
(右) (左) (前) (後ろ)
右へ。 左へ。 踏み込む。 引く。
(捻る) (伸ばす)
腰を捻る。 腕を伸ばす。
(縮む) (開く)
身体を小さく丸める。 両腕を大きく開く。
まるで二人の身体で、一つの巨大な円を描いているようだった。その円の中心にあるのは――互いの存在。
――182――259――423――
数字だけが、頭の隅を駆け抜けていく。動作はさらに激しくなる。
腕―足―腰―肩―首―舌―目―髪―全身
一つの動作が終わる前に、次の動作が始まっている。
カカさんが身体を沈める。
俺も沈む。
俺が右腕を振る。
カカさんが左腕を振る。
互いの腕が交差する。
そのまま身体を入れ替える。
俺の背後へカカさんが回り込み、俺はその動きを利用して前へ飛び出す。
(跳んで) (回って) (低く!)
跳ぶ。 回る。 身体を落とす。
(受けて)
伸ばされたカカさんの手を取る。
(返す)
その手を軸にして身体を反転。
(離す)
手が離れる。
――だが、離れたのは手だけ。
細胞同士の繋がりは、切れない。俺は彼女が次にどこへ行くのか知っている。カカさんも、俺が次にどこへ行くのか知っている。もはや「合わせる」という言葉すら違う。
――同じだった。
――556――632――777――
呼吸さえも一致していた。
「……!」
岩陰から、息を呑む気配がする。一龍も、次郎も、そして、何より――バンビーナも…
俺たちを見ている。
だが、今の俺には観客のことなんて考えられない。目の前にいるカカさんだけが、世界のすべてだった。
(右) (左) (回る) (落ちる) (伸ばす)
右。 左。 回る。 落ちる。 伸ばす。
(受ける) (返す) (跳ぶ)
受ける。 返す。 跳ぶ。
(合わせる)
――ぴたり。
――852――899――900――
残りの振り付けはあと100。
ここから先は、さらに速い。数えることすら困難になる。
しかし、身体が勝手に動く。
いや…違う。
俺たちの全細胞が、次の動きを理解している。
――952――963――977――
カカさんの身体が右へ傾く。
俺も右へ。
俺が身体を低くする。
カカさんも低くする。
二人の腕が交差。
そのまま互いの背中を滑るようにすれ違う。
振り返る。
目が合う。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
(――あと少しです!)
(ああ…!)
980。 981 982
身体を捻る。 足を踏み替える。 腕を伸ばす。
983 984 985
身体を沈める。 跳ぶ。 空中で回転。
986 987 988
着地。 互いの手を取る。 引き寄せる
989 990
そのまま身体を入れ替える。 背中合わせ。
991 992
同時に振り返る。 互いの腕を交差。
993 994 995
腰を落とす。 腕を広げる。 身体を寄せる。
996
互いの額が、ほんの一瞬だけ触れた。
そして――
997
カカさんの右手が、俺の左手と重なる。
998
俺の右手が、カカさんの肩へ。
999
上体をかがめ、背中から左腕をムチのようにしならせて頭上に掲げ、鋭い視線を一斉に左側へと向ける
――残す振り付けは、あと一つ。
身体は止まった。
世界そのものが、止まったように感じた。
100Gの重力も。
屍肉の感触も。
遠くから見ている一龍兄さん達の存在も。
膝の上で俺たちを見つめるアポロも。
全部、意識の彼方へ消えていく。
ただ、目の前にいるカカさんだけがいる。
そして――最後の振り付けが、俺の細胞へ伝わってきた。
(パートナーとの……キス!)
10秒のタイムリミットの直前、俺はカカさんの嘴にそっと唇を重ねた。1000の振り付けをすべてクリアした。完璧だ。これで猿武を踊りきった……!そう確信した。
――だが、膝の上にアポロを乗せて見ていたバンビーナの顔は、なぜかひどく不満そうだった。
(振り付けは完璧だったはずだ。タイミングも、細胞のベクトルも1ミリもズレちゃいない。なのに、何が不満なんだ……?)
首を傾げた俺の心の中に、突如、バンビーナの「言葉」のようなものが直接流れ込んできた気がした。
『違う。そうじゃない。最後の振り付けは、そんな冷めたもんじゃない……!』
――その瞬間、一瞬で理解できた。
俺たちは、10秒に1000の振り付けという「ルール」に縛られすぎていたんだ。最後の振り付けは、単なる記号としてのキスなんかじゃない。
お互いを狂おしいほどに求め合う、生物の本質である【最も剥き出しの愛】でなければならなかったんだ。
「……カカさん」
俺はもう、時間なんて、振り付けのカウントなんてどうでもよくなった。10秒の縛りを完全に無視して、俺はゆっくりと、けれどこれ以上ないほど深い愛おしさを込めてカカさんの身体を抱きしめた。
カカさんは、規定のタイムリミットを破った俺の行動に一瞬困惑し、フードの奥から大きな瞳で俺の目を見つめてきた。
俺は何も言わなかった。だけど、繋がった細胞を通じて、カカさんは――俺の意図を、完璧に理解してくれた。
目の前では、バンビーナと、その膝の上のアポロが俺たちをまじまじと見つめている。後ろの岩陰からは、一龍兄さんや次郎の視線も感じる。だけど、今のカカさんの瞳には、いつもの理屈っぽい長話も、恥じらいの色も、一切存在していなかった。
あるのは、俺という存在をすべて受け入れるという、底なしの情熱だけ。カカさんは、その細い、温かい両手を俺の首の後ろへと回した。俺はカカさんを抱きしめる腕の力をぐっと強めて、その嘴へと、もう一度顔を近づけた。
ただの、優しいキスじゃない。かつて同胞たちを過酷な歴史の中に縛り付けてきた、あの【ブルーニトロ】としての…
――傲慢で、支配的で、相手を骨の奥まで貪り尽くすような、激しく凶暴なディープキス。
「ん……っ、ん……っ……!」
カカさんも、俺のその激しさに怯むどころか、レッドニトロとしての全生命力を爆発させ、俺に負けず劣らず、俺のすべてを貪るように激しく吸い付いて、絶対に離さないとばかりに舌を絡めてきた。
お互いの唾液と、グルメ細胞が、口腔の中でドロドロに溶け合って熱く沸騰していく。誰の目も関係ない。この世界で、お前だけを愛している。お前だけを食べてしまいたい。
その剥き出しの「食欲」の結合こそが、俺たちの、本物の1000手目の振り付けだった。
◆
どれほどの長い時間、そうして貪り合っていただろうか。ようやく唇が離れ、お互いに荒い息を吐きながら真っ赤な顔で見つめ合った時。それを見たバンビーナは、腹を抱えるようにして、本当に、本当に嬉しそうにガハハと大笑いしていた。
(――ひっひっひ! まぁ、オラとあいつの方が、もっともっとラブラブで激しいキスをしていたがな!)
そんな風に、自慢げにマウントを取ってくるような、どこか寂しくて、けれど世界で一番優しい笑顔で、バンビーナは俺たちの猿武の完成を、心から祝福して笑っていたんだ。
(あぁ、やっぱり王様は、本気で俺たちを祝福してくれてるんだな)
荒い息を整えながら、カカさんの細い肩を抱きしめたまま、俺は目の前でガハハと大笑いしているバンビーナを見つめていた。
その笑顔の奥に、少しだけ混ざる、何百年も消えない寂しさの成分。最愛の恋人を失い、その悲しみを紛らわせるために、たった一人でこの100Gマウンテンの頂で踊り続けてきた孤独な王――バンビーノ。
この王が思い出させてくれた、千切れた腕の記憶。そして、俺たちに本当の猿武を教えてくれたその優しさを、俺はどうしても放っておけなかった。
そして、その時だった。俺の全身のグルメ細胞が、100Gマウンテンの重力を超えて、妙な『気配』を捉えた。確証なんてない。科学的なデータじゃ絶対に弾き出せない、ただの勘だ。
だけど、確かに……そこに『誰か』がいるのが分かった。俺とカカさんの、あのすべてを貪り尽くすような本気の
あるいは……自分の愛する『バンビーノ』が、新しくできたトモダチと一緒になって笑っているのを、優しく見守るために。
(そこに……いるんだろ? アンタの恋人、本物の『バンビーナ』が)
すぐ近くの、バンビーノの隣あたりから、何物にも代えがたい、優しくて温かい風がふわりと俺たちの頬を撫でた気がした。
それは、死霊でも食霊でもない、ただこの場所にずっと残り続けている、王を想う一途な愛の残滓のようだった。
俺は、カカさんの手を引いたまま、胡坐をかいてアポロを膝に乗せているバンビーノの前に、ゆっくりと歩み寄った。
そして、瞳をまっすぐに向け、悪戯っぽく、けれどこれ以上ないほど親愛を込めて、バンビーノに語りかけた。
「なぁ、バンビーノ。……アンタの恋人に、会わせてくれないか?」
「キキッ……?」
バンビーノが不思議そうに首を傾げ、その膝の上でアポロも「ピっ?」と小さな嘴を鳴らす。
「俺さ、これでも大工だからさ。……アンタがずっと一人で守ってきたあのお墓を、もっと綺麗で、グルメ界のどんな嵐が来ても絶対に壊れない、世界一立派で素敵な『二人の家』に、俺の手で改築させてほしいんだ」
俺はにっと笑ってみせた。
「アンタの恋人、とびっきり美人なんだろ? だったらさ、最高の家を作って、そこにアンタたちの思い出を全部綺麗に飾ってやろうじゃねぇか。それが、俺に猿武を教えてくれた、世界一格好良い王様への……大工の俺からの、最高の恩返しだ!」
「二鳥さん……っ」
俺の言葉に、隣のカカさんがはっと息を呑み、それから瞳を温かい涙でいっぱいに潤ませた。
「……素晴らしい提案です、二鳥さん。あの墓標の周囲の土壌成分を分析するなら、私の特殊調理によるスパイスを調合して、永遠に枯れない美しい花畑を周囲に形成することが可能です。それが、このエリア7の生態系を統べる王に対する、味仙人としての最高の礼儀であり……」
「キ、キキッ……!」
俺たちのその言葉、そして何より、俺たちの繋いだ手から溢れ出る『愛』の輝きに。バンビーノは一瞬だけ、大昔に死んでしまった恋人の顔を思い出したかのように呆然と固まり、それから――
「――キャキャキャキャキャッ!! ♪♪」
今までで一番激しく、今までで一番嬉しそうに、地面をドカドカと叩いて大喜びし始めたんだ!その瞬間、俺たちのすぐ横で、見えないはずの「猿の影」が、嬉しそうにクスクスと笑いながら、バンビーノの頭を優しく撫でたような、そんな幻が一瞬だけ見えた気がした。
種の壁も、生者と死者の境界すらも、俺たち大工と味仙人の職人魂、そして王の愛の力が、すべてを優しく、美しく調和させていく。
後ろの岩陰で、一龍兄さんが「やれやれ、これじゃあ俺らが出る幕は本当になかったな」と、本気で感服したように、そして嬉しそうに目を細めていた。
カカさんとアポロを守るために求めた猿武。それは、いつの間にか、このエリア7の王様をも救う、世界で一番温かい『大工の仕事』へと繋がっていった。
100Gマウンテンの中心には恋人の棺がある。それ即ち、肉体はそこにある。であるならば…療水があれば…
皆さんはどっちだと思います?二鳥は…
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攻め?
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受け?