毒が効かない体質を「気味が悪い」と婚約破棄されたので、王太子殿下の毒見役に ~毎晩どなたかが盛ってくださるので、豪華料理が食べ放題!~ 作:月城 友麻
いつの頃からか、殿下の夜食に付き合うのが習いになっていた。
執務が長引いた夜の、小さな書斎である。焼き直した
給仕を下がらせた後の、燭台一つきりの時間だ。窓の外で、細い夜風が生垣を撫でる音がする。書類の山は隅に追いやられ、湯気だけが小さな卓の真ん中にいる。毒見役が同席する理由は、むろん検めのためである。茶が二人分である理由は……事務の効率、ということに、してある。
最近、気づいたことが一つある。殿下の目の下の隈が、薄くなってきた。頬にも、わずかに肉が戻っている。初めてお会いした夜、食卓に着きながら食卓からいちばん遠い顔をしていた方が、いまは湯気の高さまで、ちゃんと降りてきている。三年ぶんの絶食めいた警戒が、食卓から少しずつ引いていくのだ。それを近くで眺めるのは、給金に含まれない類の、悪くない報酬だった。
その夜の異変は、湯気の向こうにあった。
二つ並んだ茶器の、私の側。ひと口含んで、まぶたは――上がらない。上がるほどの毒では、ないのである。
「……私の茶にだけ、眠り草が入っています」
「なに?」
「南方の株を、蜜で渋抜き。面接の時と同じ配合ですが、量はさらに優しい。眠っても、朝にはすっきり覚める程度です」
「俺の茶は」
「白です。ごゆっくりお冷ましください」
殿下の眉間に、危険な皺が寄った。夜半に衛兵を呼びかねない顔である。私は先回りして、残りの茶を飲み干した。
「毒の帳簿には、載せません。これは毒ではなく――仕返しですので」
◇
茶を運んだのは、殿下付きの古株の侍女さんである。翌日、洗い場の裏でお話を伺うと、彼女は三度目の瞬きの前に、ぽろぽろ泣き出した。
曰く。三年間、食の細い殿下を案じて、粥の炊き方を七通り覚えた。曰く、匙の進まない膳を下げるたび、自分の不甲斐なさを数えたという。見せてもらった彼女の小さな帳面には、三年ぶんの「お残しの品」が、日付ごとに細かく書き付けてあった。何なら召し上がれるか、明日は何なら――そういう祈りの形をした帳面である。私の毒の帳簿と、ちょうど対になる。
曰く――近頃の殿下は夜食を綺麗に平らげるのに、その席に自分は要らず、いつも毒見役がいる。
「……悔しくて。あの、ほんの、少しだけ、居眠りでもしてくださればと」
「量の選び方が、お見事でした」
「え」
「朝には覚める量。障りの出ない蜜の渋抜き。……あなたは殿下のお体に障る一服を、選びませんでした。三年ぶん、殿下の食卓を見てきた方の量です」
侍女さんは、しばらく黙って、それからまた別の泣き方をした。眠り草の残りは没収である。次は帳簿に載ります、とだけ申し添えた。仕返しは可愛いもので済むうちが、花である。
別れ際、彼女は洗い立ての前掛けで目元を押さえて、深々と頭を下げた。
「……殿下の膳を、お願いします。あの方は、その、お残しになる時、必ず一度、匙を置いてから謝る目をなさるので」
「存じています。最近は、その目をなさいませんが」
「はい。……はい、それが、悔しくて、嬉しいんです」
嫉妬というのは、たぶん、忠義の裏地の名前である。彼女の帳面の続きが、白いままでありますように。柄にもないことを、少しだけ思った。
◇
その夜の夜食は、平和だった。麺麭と、汁物と、何も入っていない茶が二人分。
「……茶が、うまいな」
「今夜は、何も入っていませんので」
「そういう意味では、ない」
殿下は湯気の向こうで、少しだけ言葉を探して、それから諦めたように言った。
「会食も、茶会も、政の卓も、騒がしい。……君のいる食卓だけが、静かだ」
静かなのは、私が口数の少ない毒見役だからである。そう返すつもりだったのに、なぜか言葉が匙より重く、私は汁物を一口飲んで誤魔化した。燭台の火が、二人分の湯気を橙色に染めている。壁の影が、卓の上でひとつに重なっている。……契約範囲の、はずである。この胸の妙な温度に、項目名は付けない。付けたら負けな気がする。何にかは、知らないが。
「――そうだ。伝えておく。隣国の使節が来る。三年ぶりの、公式の会食だ」
湯気の向こうの隈の薄い顔が、政の顔に戻る。三年ぶり。つまり、失敗の許されない食卓である。
昼寝の予定表を、また書き直さねばならない――。