毒が効かない体質を「気味が悪い」と婚約破棄されたので、王太子殿下の毒見役に ~毎晩どなたかが盛ってくださるので、豪華料理が食べ放題!~   作:月城 友麻

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37. 毒見役、薬も見ます

 翌朝の王宮は、静かに、おかしかった。

 

 老官吏どのが、自分の貼った付箋を前に、首をかしげている。曰く「これは、誰の綴りですかな」。次席監査官は同じ問いを二度口にして、二度目のほうが丁寧だった。皿を下げた給仕は三人、揃って昨夜の記憶に穴が空いている。物盗りに遭った屋敷より、よほど静かな被害である。盗まれた側が、盗まれたことに気づいていないのだ。

 

 そして殿下は、朝の茶の席で、ふと匙を止められた。

 

「……七日ぶりに君の検めた膳を食べた夜がある。あの晩、何の毒が出たか――思い出せない」

 

 徹夜明けのリヒト様が、結論を持ってきた。白衣の肘は灰色に汚れ、目の下の隈は、三年ものの誰かさんといい勝負である。

 

「二層目は、記憶阻害の術式だ。煙で吸わせる編み方――蝋燭と香に、皿と同じ担体が仕込んであった。香炉の風下は主卓と検め卓。狙いは最初から、絞ってある。火が出れば、宴ごと燃えて仕舞い。火を防がれたら、防いだ者たちの頭から、あの審問の七日が消える。……どちらに転んでも、あの方の勝ちだ」

 

 毒は、殺すためだけの道具ではない。忘れさせるのも、毒の仕事である。紙は燃やし損ねたから、今度は、人の中の紙を燃やしに来たのだ。

 

 効きは遅く、新しい記憶から、糊の剥がれるように白くなるという。狙われたのは監査院の並びと、殿下と――それから。

 

「君も、だよ。昨夜いちばん長く、編みの傍にいた」

 

 自分の舌を、初めて疑う朝である。八度の陰干し。四月半の味の帳簿。毒の味は、八つの歳の毒百合から書き足してきた、私のたった一冊の履歴書でもある。新しい頁から白くなるのなら、最後まで残るのはあの毒百合で――それは少し、笑える。笑ってから、指先が冷えていることに気づいた。

 

「手帳が、あります。……それから、口述を。味の記録を全部、いま紙に写します」

 

 記録官が三人がかりで筆を執った。兜草の項。白鈴の項。陰干しの数え。口に出すそばから、記憶が紙に移って軽くなる――そんな気がするのは、たぶん気のせいで、たぶん救いである。写しは三部、一部は監査の書庫へ。「紙は一枚だと燃えますのでな」と教えてくれた御本人は、いま自分の付箋に首をかしげている側である。だからこそ、写すのだ。

 

 殿下が、卓の上の手帳に手を置かれた。

 

「四人で持てば四分の一だと言ったのは、君だ。……記憶も、同じだろう」

 

       ◇

 

 解く方は、リヒト様の領分だった。

 

「編みは糊だ。乾いて剥がれる前に、留める。留め薬は組めた。ただし、これ自体が劇物だ。匙加減を誤れば、記憶より先に命が剥がれる」

 

「量は、私が見ます」

 

 毒を測る舌が、今夜は薬を測る番である。検めの間に燭を並べ、椀を並べ、留め薬をひと舐めしては、相手の目方と歳に合わせて匙を割っていく。老官吏どのには四半匙。次席監査官には、半匙から三滴戻して。給仕たちには、それぞれの椀で。匙の目方が皿より重い夜、というものを初めて知った。毒見役を四月半やって、初めて盛る側に回ったが、盛った相手が助かる盛り方というものは、存外、悪くないものである。

 

 殿下の番になった。劇物である旨を、作法どおり申し上げる。殿下は椀を受け取って、一拍も置かずに干された。

 

「毒見は、済んでいるのだろう」

 

「……済んでいます」

 

「なら、疑う理由がない」

 

 こういう飲み方をされると、匙の手が少し狂いそうになる。職務に障るので、やめていただきたい。

 

 夜明け前、老官吏どのが付箋の一枚を手に取り、目を細めた。

 

「ああ……これは、防虫燻蒸の払いの綴り。ワシの貼った、三枚目ですのじゃ」

 

 糊は、留まった。窓の外が白み始めて、誰からともなく、長い息が漏れる。

 

       ◇

 

 私の分だけが、残った。

 

「君には、薬が効かない。飲んだ端から、体質が薬ごと消してしまう」

 

 解毒剤の効かない体の、ちょうど裏返しである。この体質、詰めが甘い。

 

「だから君のは、原始的にいく。術式は術式で解く。丸一日、動かず眠っていること。編みは、眠りの中で僕が解いておく」

 

「……昼寝が、処方箋ですか?」

 

「国でいちばん贅沢な昼寝だよ。護衛付きだ」

 

 四月半、崩され続けた昼寝の予定表の最後の一枚が、処方箋の顔をして戻ってきた。寝床は検めの間の隣、毛布は二枚。夢の中でも例の皿の川は流れてきたが、今日ばかりは、検めなくてよい皿である。眠りに落ちる間際、扉の外に、聞き慣れた靴音がひとつ、立ち止まる気配がする。歩哨の交代にしては、長い。……契約の三本目の柱は、あの人が番をしてくださるらしい。

 

 目が覚めて、最初にしたのは諳んじである。兜草、白鈴、灰銀花。同じ干し手、八度。大宴の編みの、あの薄い担体の味。――全部、ある。毒百合も、ある。舌の帳簿は、白くならずに済んだ。

 

 入れ違いに、監査院が動く。蝋燭と香と砂糖細工、納入の判はすべて謹慎前の侍従長府。一流の編み手の工房も、支払いの筋から割れた。拘引の沙汰が、ついに出る。

 

 近衛が謹慎の間の扉を開けたとき、そこは空だった。

 

 卓の上に、磨き込まれた懐中時計だけが置き手紙のように残されて、几帳面に、時を刻み続けていた――。

 

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