毒が効かない体質を「気味が悪い」と婚約破棄されたので、王太子殿下の毒見役に ~毎晩どなたかが盛ってくださるので、豪華料理が食べ放題!~ 作:月城 友麻
半鐘は、二度目である。
乾いた音に叩き起こされ、官服を夜着の上に引っかけて廊下へ出た。窓の外、侍従長府の方角で、月が煤けたように濁っている。昼の眠りの次は、夜の眠りが戦死する番らしい。
噴いていたのは、府の文書蔵だった。火の赤より先に、乳色の重い煙。蔵の中には、監査院が押収して集めた封印の山と、検めの続きをしていた監査官が二人、残っている。
駆けつけた近衛が、入り口で崩れた。ひと吸いで咳が止まらず、涙で目が潰れる。燻蒸玉である。唐辛子の辛み、痺れ草の青さ。……四度目まして、の調合だった。
「私が入ります。皆さんは、吸わないでください。――殿下も、です」
報せを聞いて駆けつけた雇い主は、戸口の風上で足を止め、動かない構えである。頑固な人だ。押し問答をする時間が惜しいので、風上限定でお許しした。
効かない人間の、独壇場である。煙は目に染みるし涙も出るが、それだけだ。喉は焼けず、頭は曇らない。乳色の中を壁伝いに進むと、煙の濃い薄いが、舌に地図を描いてくれる。紙の焦げる匂いの底に、封蝋の溶ける甘さと、古い埃の匂い。奥で咳の音がふたつ。監査官どのたちの襟首を掴んで、順に戸口へ送り出す。人ひとりの重さは、皿とは比べものにならなかった。
次は、封印の山である。蔵の奥ではすでに小さな火が立ち、綴りの端を舐め始めていた。毛布ごと抱えられるだけ抱えて、煙の中を往復する。二度、三度。焼けた綴りも、ある。あるが、慌てない。写しは三部。紙は一枚だと燃えるから、あの几帳面な人たちは最初から三枚にしてある。燃やしに来た側だけが、それを知らないのだ。
三往復目の戸口で、煙が、人の形に割れた。
刃である。
油布を剥いだ短刀が、抱えた綴りごと私を突きに来る。毒は効かない。刃は、効く。あの晩餐の夜、頬に落ちた血の温かさを、体はまだ覚えている。頭より先に体が竦んで、足が半歩、遅れた。――その半歩の前に、鋼の音が割り込んだ。
殿下の剣が短刀を巻き上げ、返す柄で男の手首を打ち据えている。
初めて見る剣だった。三年、毒に囲まれて生きてきた人の剣は、静かである。振りかぶらず、急がず、二合で終わった。煙の際で殿下は目を細め、袖で口元を覆ったまま、倒れた男から視線を外さずにおられる。
「毒は、君の領分だ。……刃は、俺の領分だと思っていい」
「役割分担の条項として、規程に追記しておきます」
「そうしてくれ。……手が、震えているぞ」
「竦んだのは体だけです。頭は、勘定を続けていますので」
強がりの札を切ったら、上から外套を掛けられた。借り物の外套は重く、煙臭く、腹立たしいほど温かい。勘定が、少し狂う。
「……変な女だ。刃から下がって、煙には飛び込む」
「効かない方の敵を選んだだけです。合理かと」
「その合理が、変だと言っている」
倒れた男の顔には見覚えがある。いつかの「配管の点検」の二人組、その片割れである。懐からは例によって金貨と、差出人のない文。折り方の癖も、同じ。この網の作法は、もう諳んじられる。……諳んじられるようになるまで、四月半かかった。授業料の取り立て先は、もう決まっている。
◇
煙の抜けた蔵で、リヒト様が灰と燻蒸玉の欠片を検めた。夜明けにはまだ遠く、水を打った床に、燭の火が細く伸びている。
「巻きの手際に、花火師の癖。売り帳のあの店だ。……最後まで同じ筋で買い物をする人だね」
「几帳面な方ですので」
几帳面な人は、逃げるときも作法のとおりに逃げる。近衛の報せでは、今夜、城門はどれも開いていない。つまり、あの方はまだ王宮の内にいる。逃げていないのである。几帳面な人の仕舞いは、帳尻を合わせてから――。
では、あの方の帳尻は、どの帳面に残っているか。
思い浮かんだのは、面接の日の綴りだった。殉職者の名簿。墨を変えて引かれた、幾本もの横線。あのときは、几帳面な弔いだと思って眺めていた。墨を一本ずつ変える理由を、いまは知っている。一人ずつ弔う几帳面と、一人ずつ殺める手配とが、同じ手の中に住んでいた帳面である。
「名簿の間です」
侍従長府の奥、詰めの間のさらに奥。夜更けの廊下は冷えて、燭台の火だけが等間隔に並んでいる。急ぎかけた近衛を角で止めて、私は歩の速さを落とした。走り込む足音は、追い詰められた人に、最後の手を急がせるので。
扉の下から、細い灯りが漏れている。墨の匂いが、した――。