毒が効かない体質を「気味が悪い」と婚約破棄されたので、王太子殿下の毒見役に ~毎晩どなたかが盛ってくださるので、豪華料理が食べ放題!~ 作:月城 友麻
名簿の間は、文机がひとつきりの、小さな部屋だった。
燭台がひとつ。硯がひとつ。あとは壁一面の、綴りの棚である。王宮でいちばん大きな企みの帳尻は、王宮でいちばん小さな部屋で合わせられようとしていた。侍従長オルデン様は皺ひとつない侍従長服で文机に向かい、静かに墨を磨っておられる。しゅ、しゅ、と規則正しいその音は、置いてきた懐中時計の、代わりのようでもある。開かれているのは、殉職者の名簿である。
「……来なさると、思っておりましたのじゃ」
顔も上げずに、あの湯たんぽの声が言う。文机の端には、湯気の立つ椀がふたつ。蜂蜜の甘い匂いが、狭い部屋に薄く満ちている。この匂いに何度救われて、何度騙されたのか、勘定はもう合わない。
「夜分は、冷えますでな。ひとつは、ヴィオラ殿の分ですのじゃ」
「検めてから、いただきます」
「ほっほ。……それでこそ」
近衛が戸口を固め、記録官が筆を構える。殿下が、静かに一歩、前へ出られた。
「侍従長。なぜ、とは訊かん。だが、これだけは聞かせろ。……三年、俺の食卓に毒を並べたのは、お前か」
墨を磨る手が、止まった。
「五十年、王家の台所と紙とを整えて参りました。会食は国の背骨、食卓は王のもうひとつの玉座ですのじゃ。……食えぬ王は、国を養えませぬ。弱った枝を庇うて、木ごと倒すわけには参りません。枝を落とすのは、庭師の情けですじゃ」
「その枝を弱らせたのは、誰の毒だ」
「……試しに耐えた枝だけが、幹になれますのじゃ」
悪びれる色は、どこにもない。声はどこまでも柔らかく、柔らかいまま、皺だらけの手が名簿の頁を撫でた。殿下の手が、剣の柄の上で白くなっている。抜かれない剣は、抜かれた剣より、たぶん重い。
「毒見役の方々には、相すまぬことをしましたじゃ。じゃからせめて、線の墨は一人ずつ変え申した。……作法ですのでな」
「次の幹の名は」
「ワシの帳面には、書いてありませんのじゃ」
それが、この方の最後の御奉公であるらしい。金貨と文で人を釣り、使い終えた端から皿ごと片付けてきた網の元締めは、自分の口も同じ作法で片付けるつもりなのだ。
「年寄りの長話は、これまでですじゃ。……最後の一服を、お許し願いたい」
袖から落ちた何かが、白湯の椀に音もなく溶けた。老いた手が、椀を持ち上げる。
「その白湯、検めがまだです」
私は椀を両手で受け取るように取り上げて――飲み干した。温かい。あの夜々と、同じ温かさである。一服ぶんの毒で、私は沈まない。それを誰より知っているのは、四月半、盛り続けてきた側である。
まぶたが、上がる。今夜いちばん、高いところまで。
「兜草。玄人の精製。北の黒土。風の通る日陰で、時間をかけた陰干し。……九度目です。仕舞い、ですね」
部屋が、静まり返った。記録官の筆の音だけが走っている。近衛が袖を検め、油紙の包みの残りが文机に置かれる。八度の毒と同じ干し手の毒を、この方は自分の袖に、自分のために持っていた。物は、紙より嘘が下手である。人よりも、である。
「……ほっほ」
オルデン様は、笑った。垂れ目が深く下がり、笑い皺はいつもの形で――目だけが、笑っていない。初めて見る顔で、ずっと見てきた顔だった。
「完食、ですか。まこと……怖い方が、来てくださったものじゃ」
「出してくだされば、見つけますので」
「見事、見事。……のう、ヴィオラ殿。ワシの毒は、九度のうち一度でも、あの卓に届きましたかな」
「いいえ。一皿も」
「……そう。それは、それは」
どちらの意味の返事かは、訊かなかった。人の言葉は毒と違って、検めようがないので。
連行の間際、オルデン様は殿下の前で足を止め、深々と、いつもの角度の礼をした。
「殿下。……近ごろ、よう食べておられますなあ」
「ああ。……いい毒見役がいる」
「それは、それは。……王宮も、変わりますのじゃなあ」
懐中時計のない胸元で、鎖の擦れ跡だけが薄く光っている。足音が廊下の先に消えるまで、誰も口を開かなかった。
文机の名簿は、末尾に一行、書きかけで残されている。自分の名の、一文字目だけが乾きかけの墨で置かれ、線はまだ引かれていない。
引かせない。この帳面の続きは、白いまま仕舞いである。
検めずじまいのもう一椀が、文机の端で、静かに湯気を細らせていく。あの白湯だけは、たぶん最後まで白かった。それを確かめる夜は、もう来ない。
手帳を開き、四月半ぶんの行の下に書き足した。
『九度目。仕舞イ』
仕舞い。……ただし網の竿は、まだ何本か、水の中である――。