毒が効かない体質を「気味が悪い」と婚約破棄されたので、王太子殿下の毒見役に ~毎晩どなたかが盛ってくださるので、豪華料理が食べ放題!~   作:月城 友麻

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41. 宣誓の杯は、私が先です

 宣誓式の朝は、一番鐘より早く始まった。

 

 夜明け前の厨房は、すでに戦場である。竈という竈に火が入り、湯気の壁の向こうでグレゴールさんの号令が飛び、白い帽子の列が右へ左へ駆けていく。パンの焼ける匂いと、出汁の匂いと、磨き粉の匂い。検めの間にはリヒト様の器具が三列に並び、硝子の管が燭の火をちらちらと映していた。式に上がる品は、届いた端から検めていく。塩、白。油、白。祝いの菓子、白。手帳の頁が白の字で埋まっていくたび、窓の外が少しずつ明るくなる。庭では式の旗が、朝の風に鳴り始めていた。

 

「式の間、賄いは出ねえぞ。全部この朝のうちに検めさせる肚だ」

 

「望むところです。朝の舌は、よく回りますので」

 

「……変な女だ。今日ばかりは、頼もしいがな」

 

 大礼の間は、磨き上げられて冷たい匂いがした。床は鏡のよう、柱には白い花、高窓からの朝の光が石床に長い帯を落として、楽師が弦の音を合わせている。諸侯の席が衣擦れの音で埋まり、正装の近衛が壁を作る。三年、毒に揺らされ続けた宮廷の、帳尻を合わせる日である。

 

 式次第の写しは、昨夜から持たされていた。祝杯の項の脇に、几帳面な文字が一行挟まっている。『毒見役筆頭ノ検メノ後、御杯ヲ供ス』。建国このかた、式次第に毒見の職名が載ったのは初めてだそうだ。毒見役の舌は、俺が信じる――いつかの公開の信任が、紙の上の様式にまでなった。読み返すたび、腹の底があたたかいような、くすぐったいような、勘定の合わない心地がする。

 

 宣誓は、静かだった。

 

 国王陛下の御前で、殿下が誓いの言葉を読み上げる。低く、まっすぐで、揺れのない声である。三年間、会食の席にも立てなかった方だ。皿の向こうから見てきた背中が、いま王国のいちばん高いところに、まっすぐ立っている。毒見役として、誇らしい。……職分を三歩ほどはみ出して、誇らしい。

 

 ――祝杯の刻。

 

 王祖伝来という銀の大杯が、天鵞絨の台に載って恭しく運ばれてくる。御神酒が注がれ、私の検めの番になった。大礼の間じゅうの視線が、一人の毒見役に集まる。酒を、ひと口。……白。よく澄んだ、良い酒である。作法どおりなら、ここで御杯を捧げる。

 

 捧げなかった。鼻の奥に、場違いな匂いがひとつ。蜜蝋である。磨きたての銀の、白墨と布の匂いに混ざって、薄く、新しい蝋の匂いが立っている。

 

 杯の縁の内側を指の背でなぞり、舐めた。典礼官どのが、口を開けたまま固まる。王祖伝来の杯を舐めた人間は、建国このかた私が初めてらしい。

 

 まぶたが、上がる。

 

「――酒は、白です。杯が、毒です」

 

 大礼の間が、しんと固まった。

 

「縁の内側に、無色の蝋。砒素を練り込んで、薄く塗ってあります。口をつければ、体温と酒で溶け出す仕掛けです。粒の粗い、古い鉱山筋。……見覚えのある品ですが、練りが雑です。急いだ手ですね」

 

 器庫の当番表と蝋の出納の帳面が、その場で改められた。浮いたのは、磨き係がひとり。袖から出たのは金貨と、指図の文である。ただし、いつもの手ではない。文を書かせる筆耕の工房は、先日畳まれたばかりである。慌てたのだろう、今回ばかりは肉筆だった。筆跡は監査院の署名綴りと引き合わされ、あの晩から封蝋の下に眠っていた帳面の一行と、同じ主を指す。

 

 陛下が短く頷き、近衛が静かに、諸侯のある席へ歩み寄る。ざわめきは波ひとつぶんだけ立って、すぐに凪いだ。名は、式の格式に免じて読み上げられない。ただ、席がひとつ、音もなく空いた。金貨と名無しの文で人を使い続けた方の名が、初めて捕り方の帳面に、姓名の欄まできちんと載る。罰というものは、たぶんそこから始まるのである。

 

 式は、何事もなかった顔で結ばれた。検め直した新しい杯で殿下が祝杯を挙げ、鐘が鳴り、庭の旗がいっせいに翻る。歓声は壁の外の市中から先に上がって、大礼の間へ一拍遅れて届いた。杯を下げに来たリヒト様が、すれ違いざまに早口で囁く。「その蝋、あとで削らせて。絶対だよ」。式服でも、この方はこの方である。

 

       ◇

 

 夜の書斎の茶は、久しぶりに静かだった。燭がひとつ、湯気がふた筋。窓の外の月が、庭の旗の名残を照らしている。

 

「今日の杯。……式次第にない動きだったな」

 

「器の検めは、本日より様式に加えます。祝いの席と毒の相性は、骨身に染みておりますので」

 

「助かった。この国は、君の舌に二度、玉座を守られたことになる」

 

「三度です。執務室のお茶を、お忘れなく」

 

 ため息とも呼べない小さな息が、湯気の向こうでひとつ。それから殿下は窓の外へ目をやって、言いにくそうに切り出した。

 

「例の話だが。……論功の沙汰が済むまで、待ってくれ。順番というものが、あるらしい」

 

「昼寝と同じですね。予定は、崩れるためにあります」

 

「……すまん」

 

「いえ。待つ間も、三食昼寝つきですので」

 

 手帳を開き、今日の行を書き足す。

 

『杯モ検メル。以後、様式』――。

 

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