楽して稼ぎたいクソザコ妖狐の怪異相談所 ~ネットで開業したら影を操る怪異の幼女に懐かれた~ 作:パッタリ
「影が、薄くなっている?」
依頼メールを読み上げると、私の隣でヨミがわずかに顔を上げた。
今回の依頼人は、大学生の女性。
同居している弟の様子がおかしいらしい。
数日前から急に無気力になり、ほとんど食事も取らなくなった。最初は体調不良を疑ったが、もっと奇妙なことが起きた。
弟の影だけが、日に日に薄くなっている。
そして昨夜、本人がこう呟いたという。
『黒い口が来る』
ヨミは画面をじっと見たまま言った。
「影を食べるものかも」
「そんなのいるの?」
「いる」
「たまに物騒な生態系があるから怪異は困る」
私は机の上に置いていた家計簿へ目をやった。
働きたくない。しかし、お金は欲しい。
私はこの二つの感情に挟まれて生きている。
***
依頼人の家に着いた頃には、日が落ち始めていた。
案内された部屋の隅には、中学生くらいの少年がベッドに座っている。
顔色が悪い。
そして何より、影がおかしかった。
西日が差し込んでいるのに、少年の足元に伸びる影だけが薄い。ところどころ虫に食われた布のように欠けている。
私はしゃがみ込み、影を覗き込んだ。
「これは……本当に食べられてるね」
「治せますか?」
依頼人の問いに、私はすぐ答えなかった。
わからないからである。
代わりにヨミを見る。
ヨミは少年の影に触れ、しばらく目を閉じていたが、やがて静かに手を引いた。
「まだ、つながってる。全部なくなる前なら戻せる」
「よし。なら大丈夫」
「でも、来る」
「何が?」
答えが返る前に、部屋の照明が消えた。
依頼人が息を呑む。
私は慌てて懐中電灯をつけた。
白い光が部屋を横切る。
その先。
壁際の影が、ゆっくりと膨らんだ。
黒い染みのようなものが床へ落ち、四本足の獣に似た形を作っていく。
頭らしき場所には目も鼻もない。
ただ、大きな口だけがあった。
歯ではない。
暗闇そのものを削り出したような、黒い口だった。
「……あれ?」
私は懐中電灯を向けた。
光を浴びても、怪異はまるで反応しない。
「光、効かないんだけど」
「普通の光だから」
「先に言って!」
とりあえず影喰いと呼ぶが、それが動いた。
音もなく床を滑り、少年の影へ食らいつこうとする。
ヨミの影が一瞬で伸びた。
黒い腕のように床を走り、影喰いの首へ巻きつく。
その瞬間。
ばくり、と影喰いの口が閉じてヨミの影が途中から消えた。
「っ」
ヨミの体が揺れる。
「ヨミ!」
私は思わず駆け寄った。
ヨミは顔色一つ変えていなかったが、足元の影が明らかに乱れている。
「これ、影を食べる」
「見ればわかる!」
「わたしと相性悪い」
「それも今わかった!」
影喰いが再び口を開く。
依頼人の弟は動けない。
このままでは影を全部食われる。
私は震える手で懐中電灯を床へ置いた。
普通の光が効かないなら、普通ではないものを。
「ヨミ、少しだけ下がって」
「だめ」
「大丈夫。たぶん」
「その言い方、大丈夫じゃない」
珍しく、ヨミの声に強い拒絶が混じった。
私は少しだけ笑った。
「でも、私がやるしかないでしょ」
クソザコ妖怪にも、できることはある。
私は手のひらを開いた。
小さな火が灯る。それは青白い狐火。
明るさは懐中電灯よりずっと弱い。
せいぜい蝋燭より少し明るい程度。
でも、これはただの光ではない。
妖怪の火だ。
「ほら。こっち」
私は狐火を床へ落とした。火は消えず、影の上を滑る。
影喰いがぴたりと止まった。
そして、初めて反応した。
大きな口が狐火へ向く。
「よし、効果あり」
私はもう一つ狐火を出した。
それを少し離れた場所へ飛ばす。
影喰いが追う。
「なるほど」
私の狐火は弱い。
攻撃に使っても、人間ならせいぜい熱いと感じる程度。
でも、影喰いにとっては違う。
妖怪の火が作る明かりは、影そのものを乱す。
「ヨミ、今のうちに弟さんの影を」
「わかった」
ヨミは残った影を細く伸ばし、少年の欠けた影へ触れる。
私は狐火を操りながら、少しずつ影喰いを遠ざけた。
うまくいっている。
そう思った瞬間だった。
影喰いが突然、狐火を無視した。
黒い体が床へ沈む。
次の瞬間、私の足元から口が開いた。
「え」
逃げる暇はなかった。
足元の影を噛まれた。
全身から、力が抜けた。
「っ、あ……!」
膝をつく。
体が重い。
自分の手足なのに、何か別のものを動かしているようだった。
「ユズハ!」
ヨミの影が伸びる。
けれど、影喰いの口がそちらへ向いた。
まずい。
また食われる。
その瞬間、恐怖より先に腹が立った。
「私の助手を、食べるんじゃない!」
私は残った力で狐火を掴んだ。
そして、影喰いの開いた口へ直接叩き込んだ。
青白い火が、黒い体の内側で小さく弾ける。
影喰いが初めて音を立てた。
声ではない。
空気が裂けるような、不快な音。
でも、効いている。
「ヨミ!」
「うん」
ヨミの影が、部屋中へ一気に広がった。
机の下。ベッドの下。カーテンの裏。
そこにある無数の影をつなぎ合わせ、細い縄のようにして影喰いへ絡みつける。
影喰いの動きが止まった。
私は息を切らしながら、もう一つ狐火を作る。
「これで……終わり!」
狐火を投げ込む。
青白い光が大きく膨らみ、影喰いの輪郭を内側から焼いた。
黒い獣が崩れる。
最後に残った小さな影を、ヨミの影が包み込んだ。
そして、そのまま飲み込んだ。
「え……食べた?」
「少し」
「お腹壊さない?」
「大丈夫」
「ならいいけど」
そう言って立ち上がろうとしたが、立てなかった。
足に力が入らない。
影を食われたせいだ。
完全に奪われたわけではないが、しばらく体がうまく動かないらしい。
私はその場に座り込み、乾いた笑いを漏らした。
「……これ、危険手当を上乗せしてもいいよね」
「は、はい」
依頼人の女性は何度も頷いた。
***
家に帰る頃には、少しだけ歩けるようになっていた。
それでも足元はふらつく。
ヨミは帰り道、ずっと私の手を握っていた。
普段なら袖を掴むだけなのに、今日は一度も離さなかった。
部屋に着くと私は布団の上に倒れ込んだ。
「疲れた……」
その直後、視界が反転した。
「え?」
ヨミに肩を押され、そのまま押し倒されていた。
小さな体が私の上に乗る。
逃げようとしても、まだ力が入らない。
ヨミは何も言わなかった。
ただ、じっと私を見る。
黒い瞳が近い。
いつもの無表情だけど、何かが違う。
「……ヨミ?」
返事はない。
ヨミの手が、私の頬に触れる。
次に首から肩や腕へと、壊れていないか確かめるように、ゆっくりと触れていく。
「大丈夫だよ。ちょっと動きにくいだけで」
「本当に?」
声が低かった。
「本当。数日もすれば戻ると思う」
ヨミは私の手首を握って、じっと脈を確かめる。
それから、顔を私の胸元へ寄せた。
心臓の音を聞いているようだった。
「ヨミ?」
「生きてる」
「そりゃ生きてるよ」
「ちゃんといる」
「いるって」
その言葉を聞いても、ヨミは退かなかった。
むしろ、私の服を強く掴んだ。
足元から影が広がる。
部屋の床を覆い、壁際まで黒く染めていく。
「ヨミ。深淵は禁止って言ったよね」
「今日はいい」
「よくない」
ヨミは私を見下ろしたまま、ぽつりと言った。
「ユズハがいなくなったら、いや」
私は何も言えなかった。
ヨミの表情はいつもと変わらない。
なのに、怖いくらい真剣だった。
「ユズハの影を食べられたとき、消えると思った」
「消えないよ」
「わからない」
「……まあ、そうだけど」
「次は、前に出ないで」
「それは無理かな。私、一応所長だし」
ヨミの影が、私の手首へ絡んだ。
強くはない。
でも、逃がす気はない。
「出ないで」
「ヨミ?」
「ユズハがいなくなるなら、仕事はいらない」
ぞくりとした。
それは脅しではない。
ただの本音だ。
だからこそ、少し怖かった。
私はしばらくヨミを見つめたあと、動かしにくい手を持ち上げ、どうにか頭を撫でた。
「心配かけたね」
ヨミは何も言わない。
「でも、私は簡単にはいなくならないよ」
ようやく、ヨミの影が少しだけ緩んだ。
けれど、夜の間ヨミはずっと私の隣にいた。
尻尾を抱きしめるどころか、腕ごと私に絡みつき、眠ってからも一度も離れなかった。
翌朝。
私はぼんやりと天井を見ながら思った。
怪異との戦いには勝った。
でも、別の何かを少しだけ育ててしまった気がする。