満たされたような心地のまま、胸に手を当てる。染み渡るような温もりがあった。
それを噛み締めていると、ノックが響く。返事をする前に、扉が開いた。
「みんな、喜んでいたよ。これから、仕事もはかどりそうだね」
そう言いながら、ディヴァリアは俺の隣に腰掛ける。緩んだ顔を見せながら、そっと肩に触れてくる。
「それは良かった……のか? まあ、問題ではないのか」
「うん。リオンが、みんなに希望を与えたんだよ」
「そうか……。俺は、誰かに……」
胸のあたりで、手を握る。目を閉じると、リリィさんの笑顔が思い浮かんだ。
たとえ娼婦の仕事を望んでいないのだとしても、俺にできることはない。代わりの仕事を用意することなんて無理で、そもそも際限がない。
少しでも関わった人すべてに望む未来を与えるなんてこと、できるはずもない。
それでも、俺が助けたことで生きる活力になってくれるのなら、きっと素敵なこと。
「リオンが頑張ったおかげだよ。だから、ゆっくりと休んでね」
そう言って、そっと頭を撫でてくれる。穏やかな心地のまま、横になった。眠気がゆっくりと広がって、意識が薄れていった。
目が覚めたら、もう朝陽が出ていた。制服に着替えて、ディヴァリアと一緒に学園に向かう。校庭で空気を吸うと、少しだけ爽やか。
教室では、元気な声が聞こえてくる。いつもの日常が、帰ってきたんだ。
シャーナ先生の授業を受けて、少しだけ体を動かす。調子は完全に元通りで、自在に剣を操れた。
そして、休み時間。自然と、サクラの方に足が向いた。手でうながされて、一緒に歩いていく。
サクラは、話があることに気付いているのだろうか。それとも、ただ用事があったのだろうか。
何も言えないまま、空き教室にたどり着いた。サクラは机のへりに腰掛ける。足をばたつかせながら、俺の方を見てきた。
「リオンのおかげね。あたしが心奏現出にたどり着けたのは。マリクに勝てたのは」
憑き物の落ちたような顔で、俺のことを見てくる。慈しみが、感じ取れた。だからこそ、想いがよぎる。
心奏現出の時に、言っていたこと。いつも心に灯火を。あれは、俺と琴葉しか知らないはず。だとすると、サクラは……。
ほんの少しだけ、足が動く。すぐに、元の場所に戻る。わずかに口を開いて、また閉じた。
結局、言いたいことは何も出てこない。ずっと会いたかった人が、目の前にいるかもしれないのに。
琴葉だけが、俺の生きる理由だった。
治療費のために、学校にも通わず毎日毎日働き続けた。朝から晩までずっと。次の日を迎えてやっと、泥のように眠るくらいに。
誰が止めようが、聞きやしなかった。
琴葉が笑顔で出迎えてくれるだけで、俺だって笑顔になれた。食事と風呂のためだけに家に帰る日々にも耐えられた。まだ硬いままの冷凍食品を食べていても、ちょっと冷めたお湯に浸かっていても、胸は暖かかった。
年に数度の休日に、一緒に過ごせるだけで良かった。ただ手を握ってくれるだけで良かった。
手のひらから伝わる温もりのためだけに、人生のすべてを捧げられたんだ。
サクラ。お前は琴葉なのか? それを問いかけるだけのことが、どうしてもできない。口を開こうとすると、喉が引きつる。
代わりに出てきた言葉は、なんてことのないもの。
「こっちこそ、サクラに助けられた。俺ひとりでは、みんなを守れなかった」
「あんたの気持ちは伝わってるわ。あたしだけじゃなく、みんなにね」
「そうだな……。みんなにも、お礼を言われたよ」
「あんた、また娼婦たちに会いに行くつもりはある?」
サクラは首を傾げている。俺としては、少しでも幸せに生きてくれさえすれば良い。だからといって、できることはないが。
身請けをしたところで、必ず幸せにできるわけじゃない。俺はあくまで貴族。そんな場所に娼婦だった人間が混ざって、正しく扱われるとは限らない。
「顔くらいは、見たいかもな……。どうすれば良いのか、悩みどころではあるが……」
「買いたいわけじゃ、ないものね。確かに、難しいか」
「ただ元気でいてくれたら、それが一番なんだよな」
「ふふっ、あんたらしいわね。だからこそ、尊敬できるのよ」
優しげに目を緩めている。本音だと、間違いなく伝わるくらい。サクラ。俺は、お前の友達としてふさわしいのか?
そんなこと、言えるはずもない。結局、口に出せることは決まっているんだ。
「特別なことなんて、言っていなくないか?」
「あんたは、娼婦を見下したりしない。可哀想な子だと同情もしない。ただ、そこにいる人として受け止めている。とても、すごいことよ」
「そこまで言われるほどだとは思わないな。俺は、ただ目の前で起こる悲劇が許せなかっただけだ」
「じゃあ聞くけど、あんたは娼婦をどう思っているの?」
「言葉にするのは、難しいな……。なんと言えば良いのか……」
「それこそが、答えよ。だから、あんたは、目の前の相手にまっすぐに向き合える人なの。だから、あたしは……」
じっと目を合わせてくる。そして、手を握られた。感情を込めるように、ぎゅっと。
「サクラだって、とても素敵な人だ。俺は、そのおかげで生きているんだから」
「だとしても、よ。あんたの生き方は、誰にでもできることじゃないわ。あたしにも、きっとヒカリにも」
「そんなことは……。ふたりなら、きっと簡単なことだ」
「違う、違うのよ……。あたしは、娼婦を見下していた。ヒカリは、憐れんでいた。あんただけが、ただまっすぐに向き合っていたのよ」
「あの人たちを、少しでも勇気づけられたのかな。なら、嬉しいんだが」
「ええ。あんたなら、もしかしたら……」
「言いたいことがあったら、なんでも言ってくれて良いからな。もちろん、言いたくないのなら黙ってくれても良い」
「ふふ。もっと早く、会いたかったものね。そうしたら、あたしたちは……」
サクラは深く目を伏せる。こちらまで、苦しみが伝わってくるくらいに。きっと、つらい過去があったのだろう。だが、俺たちは出会わなかった。サクラを助けることも、できなかった。それだけだ。
「サクラ……」
「もう、バカね。あたしより悲しそうな顔をして、どうするのよ」
「わ、悪い」
「でも、嬉しいわ。あんたの気持ちが、何よりも伝わってくるもの」
満足げな顔を、見せてくれた。何を返せば良いのか、俺には分からない。少しだけ沈黙が走る。
サクラは一度あごに手を当てて下を見て、それから目を合わせてきた。
「ディヴァリアには、確かに裏がある。間違いないわ」
「それは……」
「何も言わなくて良いわ。ただ、覚えておいて。孤児たちも娼婦たちも、確かに救われたのよ。たとえ、利用価値のためだったとしてもね」
「……やはり……」
「責めているわけじゃないわ。あんたも、ディヴァリアもね。だから、それ以上苦しまなくてもいいのよ」
そっと、肩に手を当てられる。どうしようもなく、ノエルたちの顔が見たくなった。会って、話がしたかった。
「サクラ……。俺は……」
「どんな形であれ、ディヴァリアは自分の庇護下にいるものをちゃんと守る。その一点だけで、有翼連合となんて比べる気にもならないわ」
「確かに、そうなのかもな……」
「ええ。そもそも、無理やり変えることなんてできやしない。あたしには、よく分かるわ」
「それは、いったい……?」
「ディヴァリアの心奏具が池なら、あたしの心奏現出なんて水滴。それどころか……」
サクラは手のひらをじっと見て、開いて閉じている。俺は、どうしていただろうか。
「まさか……」
「ディヴァリアの心奏現出は、湖? いや、それどころじゃない。海? そう、海かもしれないわね……」
サクラは、自分を抱きしめるように震えていた。俺だって、まともな顔をしていたか怪しい。だって、サクラの言葉は正しすぎる。
ディヴァリアを前にしたら、軍隊ですらあっけなく葬り去られて終わりだ。俺は、誰よりも知っている。勝てる存在なんて、この世にはいない。いるはずもない。
「そう、かもな……」
「だから、付き合い方を考えるしかないのよ。災害とでも思ってね」
「そうだとしても、何かを伝えることは……」
「できるかもね。ディヴァリアは意思を持っている。災害のような力を抱えたまま」
「力の向かう方向さえ正しければ、きっと……」
「あたしも、できる限りの力は貸すわ。だから、抱え込みすぎないようにね」
「どうして、そこまで……」
「あたしは、無心の民で孤児。後は、分かるでしょ?」
かつて、炊き出しで生き延びたと言っていた。要するに、相当苦しい思いをしたということ。飢えに震えるだけじゃなく、きっと他にも。
だからといって、かけられる言葉もない。俺には、正しくサクラの苦しみを理解できないのだから。
「サクラ……」
「嬉しかったのよ。あんたみたいな男に会えたこと。その分くらいは返すわ。ちゃんと、あたしに頼りなさい」
肩を叩いて、サクラは去っていく。認められたことは、分かる。他の男とは違うのだと。だけど、俺の知りたいことは分からない。どういう信頼を、俺に抱いているのか。どんな過去を生きてきたのか。そして何より、琴葉なのか。
俺はただ、後ろ姿を見ていることしかできなかった。
ひとりになって、それでも歩き出せない。うなだれることすらも。ただ、俺は立ち止まり続けていた。
そこに、ディヴァリアがやってくる。俺の顔を見てニッコリと笑って、隣に並ぶ。
「リオン、なにか悩み事?」
「気にしないでくれ。きっと、俺の力で解決してみせるから」
「そっか。なら、頑張ってね。じゃあ、私の相談に乗ってもらっても良い?」
いつものように、問いかけてくる。俺はブレスレットを見てから、まっすぐに目を合わせた。きっと、サクラの想いに応えることにもなると信じて。
「もちろんだ。何でも聞いてくれ」
「リオンにとって、一番頑張れる状況ってどんな時かな?」
「もちろん、大切な誰かのために行動する瞬間だ。それが一番だな」
「例えば、ノエルみたいな?」
「ノエルだけじゃないが、そうだな。きっと俺は、自分のためだけじゃ全力を出せない。ある意味で、弱い人間なんだ」
「そっか。これまでずっと、誰かを守ってきたもんね」
「言われてみれば、そうかもな。もしかしたら、俺は感謝が嬉しいだけなのかもしれない」
「でも、助けられた人にとっては関係ない。そうだよね?」
「ちょっとだけ、違うかもな。助けたことを後悔なんてしていたら、きっと嫌だろう」
「だったら、リオンは胸を張るべきなんだよ。少なくとも、ノエルたちの前では。そうでしょ?」
ディヴァリアの言葉は、きっと正しい。俺の罪悪感に付き合わせて、何の意味があるというのか。
ノエルたちの前でくらい、最高の笑顔でいるべきなんだ。どんな感情を抱えていたとしても。
「そう、だな……」
「リオンって、守るべきもののために戦うんでしょ?」
「いや、きっと違う。守りたいもののために戦うんだ」
「好きな相手を、選んで守っているってこと?」
「もしかしたら、そうかもな。決して、正義のためじゃないんだ」
そう。ディヴァリアに殺される人を見過ごしている。それでも、俺はサクラたちや娼婦たちを守った。理由なんて、エゴにすぎない。
だからこそ、俺はサクラやヒカリとは釣り合わない。まっすぐに、ただ誰かのために戦える人たちとは。
ディヴァリアは、満面の笑みで頷いていた。
「そっか、だから……。ありがとう。参考になったよ」
「なら、良かった。俺の感覚が、役に立つのなら」
「やっぱり、リオンには大切な人が必要なんだね。あらためて、よく分かったよ」
「そう、だな。俺はきっと、大切な人と笑い合って生きるために戦っているんだ」
「サクラやヒカリ、ノエルたちみたいな人だよね。うん、リオンらしいね」
「もちろん、ディヴァリアもだ」
「ふふっ、ありがとう。ふふっ、聞いて良かったよ。知りたかったことは、よく分かったからね」
「これからも、なんでも聞いてくれ。絶対に、嘘なんてつかない」
「うん、リオンの気持ち、伝わってくるよ。私も、リオンにだけは嘘なんてつかないよ。本当に大事な人を、遠ざけるだけなんでしょ?」
どこまでも真剣な顔で伝えてくる。
かつて、俺が教えたことだ。嘘をつけば、いずれ気づかれる。重ねれば重ねるほど、信頼から遠ざかる。間違いなく、心に刻んでくれている。
なら、俺を本当に大事な人だと思ってくれている。そうなんだよな、ディヴァリア。
「分かった、信じる。なら、聞かせてくれ。お前は、ノエルを大切に思っているのか?」
「ノエルのことは、大切に思っているよ。私には絶対に必要だってね」
なにか、ズレのようなものを感じた気がした。ネジを付ける場所を、間違えてしまったような。
それを確かめるために、じっと目を見つめる。ほんの少しも、違和感を見逃さないために。一瞬だって目を離さないようにしながら、俺は問いかけた。
「お前にとって、愛せる存在なのか? 答えてくれ」
「私たちの妹みたいなものでしょ? ふふっ、分かっているよ」
わずかにすら、目は揺れていない。逸らそうともしていない。ただまっすぐに、俺の目を見るだけ。きっと、ノエルにだけは情を抱いてくれている。そのはずだ。
「なら、良いんだ。これからも、ノエルたちを大事にしてくれ」
「もちろんだよ。リオンにも私にも、欠かせない存在なんだから」
「お前にとって大切な人でいられたのなら、嬉しいよ」
「リオンだけが、私に分かる言葉で話してくれた。その気持ちは、ずっと忘れないよ」
とても晴れやかな笑顔を見せてくれた。だから、少しは意味のあることができたはず。たとえ小さなことだとしても。
「なら、良かった。これからも、何でも聞いてくれ」
「ふふっ、ありがとう。じゃあ、リオンにもお礼をしないとね。ノエルたちと一緒に、ね」
「孤児院にでも行くのか?」
「穏やかな時間になるでしょ? こっちで用意しておくから、楽しみにしていてよ」
「ありがとう。俺も、みんなに会いたいと思っていたんだ」
俺の頬に手を当てて、深く頷く。そして、軽く手を振って去っていった。
なんとなく、椅子に深く座り込む。しばらく、ぼーっと窓の外を眺めていた。
太陽は、とても明るい。息を吸い込むと、爽やかな空気が胸いっぱいに満たされる。それなのに、渇きのようなものが胸の奥で広がり続けていたんだ。
孤児院での時間を楽しみにしながら、残りの授業を受ける。シャーナ先生の話が、ちょっとだけ耳からこぼれ落ちる中で。
それでも、もっと強くなるという意思だけは持ち続けていたはず。先生は、俺をずっと見ていた。