浅い微睡の中、聞き慣れた足音が穴の中に木霊している。
上方からの騒がしい音によって揺蕩う身体がゆっくりと覚醒し、手を翳して差し込む白い光の強さを調整した。
そうしてしばらく待っていれば、光の筋を遮る黒い種子が放り込まれる。私はそれを受け止め、つま先と踵を使って舞うようにくるりと一回転半。そのまま勢いを殺しつつ腕の中に収め、流れるように壁に背を預けて座り込む。
指骨でリズムよく叩けば小気味よい軽い音が返り、食べ頃には今少し時間が必要なことを教えてくれた。
私は種子を抱えつつ、穴底に立てかけられた光芒を見つめながら一喜一憂する。この光の梯子は外の世界との架け橋であると同時に、決して触れることのできない幻でもあったからだ。
感傷的になっているだけかもしれない。悲観する余裕がないのは果たして良いことなのか。取り留めもないことを考えていると、光の梯子は縦穴に満ちる音とともに細くなっていき、反響音を残して消え去った。
闇に包まれた私の精神状態は、世界との繋がりを知ったあの時以降、良好な状態だと言える。細くはあるが、生きる道筋が示されていたのだから当然だ。
提供される餌も変わらず美味しくない種子一つではあるが、五日に一回はこうして与えてくれる。空腹感は消えないものの食事の問題は解消したと言えよう。
とはいえ食事の問題もさることながら、知り得なかった時間を大まかにでも分かるようになったことが精神に一番良い影響を与えているのではないだろうか。
じっと耳を澄まして、ドタバタと音が聞こえてくるなら昼、そうでないなら夜と、あたりを付けることができるようになっていた。たった二つの大まかな時間しか分からないが、生物にとっての時間はきっとその程度で良いのだろう。
私に餌を与えるあの男が来るのは、ドタバタが始まってしばらく経ってから。
事務的でしっかりとした歩調は耳心地がとてもいい。客観的に見れば、あの音が聞こえれば餌がもらえると学習させられただけなのだが、不快に思うなんてあるはずがない。私には飼われる者の才能があったのだ。
三十九日目。空腹感が最高まで高まり、理性とせめぎ合う腹の機嫌を宥めすかす日が始まった。明日になれば餌がもらえるが、それまでにできることはそう多くはない。じっとしているか、口当たりがよくなるように種子の皮に生えた毛を一本一本抜いて、小さく千切ったものを噛み続けるくらいだ。
しかしながら、今日は何か空気が違っているように感じる。
私を包む闇が本来与えるだろう影響を今更ながらに感じているのか。
手製の噛み物では腹の虫が我慢できなくなったのか。
とにかく心が落ち着かない。私に与えられたこの穴底は普段通りであるというのに。
原因が私の空間にないのであれば、外の世界で何かが起こったのか。
その答えを示すように聞いたことのない、無機質な音が空間内に響き渡る。
音の正体を注視していると壁の一面が軋みをあげてせり上がり始めた。
壁の隙間からは熱のような異様なにおいを感じ、吐いた息が白く染まっていた。
壁の先は部分部分が灰色の木枠で支えられている通路。洞窟か、掘り進められた鉱山跡という様相で、外の光をわずかに拾い集めたような明るさが保たれていた。
通路は広く、奥へ続いていて、その先に私が思いを馳せていた外の世界があるのだろう。
いつかは外に出る日があるのだろうと考えることもあったが、初めて嗅ぐ外のにおいはあまり好ましいものではなかったこともあり、どうにも気は進まない。
それでも私が外に出ないという選択肢はなかった。開かれた扉には私の意思が介在していないからだ。
誰かが扉を開け、その誰かは私に外に出てほしいと考えた。
もちろん誰かに命令されたわけではない──機械的な音の中に「外へ出ろ」という命令があったかもしれないが、私は言葉が分からない──とはいえ、誰かの意思によって事は成された。ならその誰かによって私の餌が減らされることだってあるかもしれないのだ。
誰かの意思を台無しにするなら、私の意思だって台無しにされる。
自由がない私には横道に逸れて回避する手段がない。
ゆえに選択肢などなかった。
私は外の世界へ一歩を踏み出した。
足裏に湿り気を帯びた冷たさを感じる。穴底の床とはまた少し違った感触に新鮮な気持ちが湧いて出てくる。やはり外の世界はこうでなくてはならない。不穏な空気はあれど、楽しみのない外の世界など必要ないのだから。
壁のざらつきや木目の感触を堪能しながら、私は出口まで辿り着き、そして落胆した。言葉が分からないだけでなく、視覚も異常があるのだと知ってしまったからだ。
出口から見える、そのすべてが白黒だったのだ。濃淡はあれど様々な色を期待していただけに残念でならない。視界に広がる壁の上で叫ぶ多様な人々の服は色どり鮮やかで見る目を楽しませただろうに。
通路の出口の先は穴底の何十倍も広い場所だった。
地面は乾いた白い土が敷き詰められ、天井はなく灰色の雲に覆われている。周囲は高い壁に囲まれていて、背後は崖がせり立っていた。壁の上には様々な姿の人が詰め込まれていて、まるで何かを観戦しに来たかのようだった。
数十歩先にはろくろ首のような長い首を持つ珍妙なヒトが立っている。軽装で右手に両刃の剣、左手に丸盾を装備していた。緊張しているのかなんとなく身体が固くなっているように見える。口を開いて何か言葉を発しているようだが、当然私には理解できなかった。
広場を一際大きな声が支配する。その音源を確かめてみると、四方に配置された鉄塔頂上部の拡声器からでているようだ。
そして大きなカタツムリのような何かが頂上部付近の土台にいた。随分とコミカルな見た目をしていて、付け髭のようなモノを生やしたそれは、生み出される大きな声に合わせて口が動いていた。
私や目の前のヒトがいるのだから、ああいったヘンテコな生物もいるのだろう。おそらく司会進行のような役割を持っているのだろうが、まさか人ではなくあんなのに任せているとは思わなかった。
定型業務をこなす機械と考えるほうが妥当かもしれない。無味無臭なデザインよりもあのような見た目のほうが皆、受け入れやすいのだろう。
外の世界を知り、また少し満足した私は改めて視線を前に向ける。
相変わらず目の前のヒトの顔は敵意を見せつつどこか怯えており、よく観察すれば震えているようにも見える。
観客席に視線を向けて同じように表情を確認してみれば、彼らは目的があってこの場にいることが分かった。貪欲なまでに刺激を求めていることがはっきりと顔にでていたからだ。
以前から私は自身を獣と称していた。この状況から判断すれば、実際その通りだったのだ。例えばこの場は闘技場と考えれば辻褄が合うのではないか。
己は場を盛り上げる猛獣であり、それを迎え撃つ勇士が目の前のヒトなのだ。
ただ、どこまでも及び腰なこの勇士から得る印象は、無理やり連れてこられた一般人にしか見えない。何かが掛け違っているような違和感を覚えた。
動かぬ状況に観客が痺れ途切らしたのだろうか、騒がしさが増してきている。
私は戦闘の構えなど知らない。対する相手も立派な両刃剣と丸盾を装備して構えてはいるものの、それらから受ける威圧はまるで感じず、まるでお遊戯会のような様相だった。淡々と事務的に餌をくれるだけのあの男のほうが凄みがあるだろう。
私の想像する見世物の開始の合図は、勇士が獣を挑発するために掲げた剣と盾をかち合わせる音だと思っている。そうして挑発に乗った猛獣が襲い掛かるのだ。
現状ではどれだけ待とうとそんな状況が訪れる未来は見えない。
しかしながらこのまま見つめ合っていても、会場の火は燃え盛るどころか鎮められていく一方だろう。これでは観客も興行主も面白くないはずだ。
私にできることをするしかない。腰を落として、おもむろに拳を握りこむ。
これが闘技であり見世物であるなら、一撃で倒すのはやはり問題があるのだろうか。無手である私に火を出したりといった大道芸のような派手なことはできないから、盛り上げる手段に欠けていて悩ましい。
まずは様子見。狙うは顔より腹か。曲げた膝をバネにして前方へ滑るようにジャンプする。
相手が動き出したというのに、勇士は未だに立ち尽くしていた。私の行動はこれで良いのかと不安が募る。
案の定、何の抵抗もなく腹に拳が捻じ込まれ、その衝撃で六メートル近い距離を転がっていく。勇士は立ち上がろうとするも痛みからか蹲り、首が長いためか顔面を土に擦り付けながら嘔吐していた。
観客の歓声が上がり口笛も聞こえてくることで不安は払拭されたが、私は二の足を踏んでいた。
目の前のヒトがあまりに脆く、この調子で攻撃を続ければあと数回で気絶して動かなくなってしまうことが容易に想像できたからだ。
それでも手を止めるわけにはいかない。客が戦いを求めていることは明白で、客の要望を聞かない獣は見世物にはいらないはずだから。
そこから始まるのはあまりに一方的な蹂躙劇だった。試合がすぐ終わらないよう加減して蹴りを入れ、掴み投げ飛ばし、馬乗りになって殴打する。可能な限り派手に見えるよう場を広く使う。
歓声は上がっているようだから、きっとこれで間違っていないはずだ。
そんな中で一つだけ気がかりなことがあった。観客の中でも一際目立つ奇抜な恰好の人がつまらなそうな反応をしていることに。他の観客よりも高い位置で、色の分からない私でも煌びやかだと分かるほどの席に座っていた。
彼の両側には控えるようにしてスーツを着た人が立っているが、あれは護衛だろうか。
ただ、彼が興行主なのだろうと直感した。
その宇宙服のような服を着た偉そうな人が席を立ち、柵から乗り出して何かを口走っている。
もちろん意味は分からないが、不意に嫌なものを感じたために腕で防御姿勢を取ると、強い衝撃に襲われ、相手と距離を取らされる。衝撃を感じたところは、はたかれたように痺れが走っていた。
見れば蹲るばかりのヒトが剣を杖にして立ち上がっていた。
おそらく剣の腹で叩かれたのだろうと察するが、剣筋が立っていたと思うと肝が冷える思いだった。
改めて私と相対した勇士の様子はそれまでとまるで違っていた。
未だに恐怖心は見えるものの鬼気迫る表情で何か言葉を吐きながら、こちらへ向かってくる。やはりあの変な興行主に何か言われたのが原因なのだろう。殺す勢いで迫る剣を避けながら、興行主を盗み見れば丸く太った顔は少しだけ満足げだった。
それからの時間は見世物として十分なものだったと思う。
幾度かの攻防で丸盾を破壊し、三度の蹴りと八度目の拳を受けた勇士はついに地に伏せる。当然の帰結であった。いくら逸る気持ちがあろうと、精神的な面だけではどうにもならない。前提となる身体能力が違い過ぎたのだ。
少しばかり息の上がった身体を落ち着けつつ、観客席を見回す。
しばらく静寂に包まれていたが、やがて彼らは同じ言葉を連呼し始める。
異様な空気が肌を焦がしていくような気分だった。
興奮する客の表情はもっと刺激を、最高級の刺激をと語っている。
興行主を見ると、こちらに気が付いたのか口元が動く。
周囲の熱狂に紛れて聞こえないが、きっと同じ言葉を口にしたのだと理解した。
「殺せ」と。
私は両刃の剣を勇士の握りこまれた手から奪い取る。
勇士だった珍妙なヒトは、これから起こることを想像したのか泣きべそをかいている。腫れた顔をさらに歪めて、溢れ出そうになる涙を必死にこらえていた。
こうしてまじまじとみると、子供のように若そうだった。
首にある丸と三角を組み合わせた印は勇士の証なのだろうか。彼が何をしてこんな場所で勇士をすることになったのか知る由もないが、私だってただ死ぬつもりはない。
剣を両手で掴み、高く掲げる。場の雰囲気が高まっていくのを感じた。
掲げられた刃を止める者は誰もいない。
垂直に振り下ろした刃は吸い込まれるような抵抗を残して、彼の長い首の中ほどを断った。その瞬間、割れんばかりの大歓声が会場を覆った。
断面からは灰色の血が溢れ出て、白い地面を汚していく。染み込み切れなかった温かい血だまりが足先に触れた。血液には粘性があるのか、数歩ばかり後退すると、残された灰色の足跡を血だまりと繋ぐようにして橋がかけられた。
私の役割はここまでだろう。少なくとも今、この場では。
熱狂冷めやらぬ空気の中、私は背後の穴へと戻っていった。