無機質な音が空間内に響き渡る。
壁の一面が軋みをあげてせり上がり始め、停滞する穴底に侵入してくる外のにおいを強く感じると、この特別な日がまた来たのだと実感する。
獣として進み、場を盛り上げ、最後には動けなくなった相手を殺す。
三十日から四十日程度の期間が空いて、また闘技場へ出ていく。
ただ、それは単純な定型作業ではなかった。
特別な日を繰り返すごとに憎悪が色濃くなる様々な形をした勇士の瞳。
観客からの際限なく上がる要求への対応。一度大した盛り上がりを見せず終わらせてしまったときがあり、それ以降は餌の回数が半分となった。
それでも何一つ変わらず、ひたすらに繰り返される興行。
強まる憎しみによって力が増した勇士は初戦のようにはいかない。特に身体が大きかったり、海の生き物の特徴がある勇士と相対したとき、無傷での勝利は決して望めなかった。
なによりも、新鮮で美味しい刺激を求め続ける観客が、画一的な催しを許さない。そういう意味では、要求を満たす基準を自然と引き下げることに一役買っていると考えられる。私がこうして血を流すことは、歓迎するべきことなのかもしれない。
けれども日に日に強まる空腹感だけは如何ともしがたい。
この上ない飢餓によって思考は薄く引き伸ばされ、時間感覚は圧縮されている。記憶も希薄で、穴底に響く足音を聞いたとき、興行に出るときだけ意識があるような状態だった。
私は目に流れ込もうとする赤い血を腕で拭い、それを嘗めとった。
世界は今も白黒なのに、血だけは綺麗に赤く色付いて見える。
血は赤い。私のようなヒトも、足元で血だらけになって倒れ伏す牛のような角を持つヒトの血も赤い。果たしてそれは本当だろうか。血が赤いなんて保証はどこにもないはずだ。視覚に異常がある私にそれを証明することなんてできやしない。
私は裂けてしまった肌を口に含んで吸った。
この傷はふらついて倒れこみそうになったとき、たまたま突き出されていた剣の刃がなぞった痕だ。今日の勇士は小さくて泣き虫で戦おうとせず、憎悪の欠片も寄越さない珍しいヒトだった。
私は白い土を濡らす自身の血を視界に入れながら、酷く乱れた呼吸を整えていた。
今までで一番強い勇士だった。見慣れたはずの憎悪の瞳も別物と言ってよく、殺意に満ちていた。戦闘技術は間違いなく格上で、盾を破壊し剣を折らなければ身体に攻撃が届きすらしない。今日は死が目前に迫っていた。
水の中のようなくぐもった音が全身を包み込んでいる。
私は温かい血だまりに座り込んで爪の間に入り込んだ欠片を口にしていた。
ウサギの耳を生やし、電気を身に纏う初めて見るヒトだった。全身がモコモコした色濃い毛に覆われていて、顔をうずめたり掌で触るととても気持ちがいい。
いつになく気が散る周りの音に顔を上げれば、さらに増大し統制が取れなくなっていく。興行主に顔を向けてみれば、満面の笑みを浮かべてふくよかな体を震わせながら拍手をしている。その姿が妙に記憶に残った。
黒い種子が与えられなくなった。
穴底から外へ出るまでの間隔が狭くなった。
それからの興行は観客たちはこれを求めていたのだとでもいうように、毎回熱狂的な歓声に包まれるようになる。そして彼らの底知れない欲は変化を求め、私もそれに合わせて客を楽しませた。
穴底の隅で横になり身体を丸めていると、懐かしい足音に身体が反応する。
しかしその音は、以前と違ってどこかよそよそしい。穴の蓋を開ける音も静かで、差し込む光も弱々しく頼りなかった。
いつものように餌を求めるが、種子は降ってこない。もしかして別人だろうかと考えるも、上方から微かに漂う汗臭さは同一人物であることを示していた。
不思議に思っていると、種子の代わりに食欲を刺激するスパイスや香ばしさ、旨味が詰め込まれた多様な匂いが穴底へ充満した。匂いの発生源には編み込みのカゴが置かれていて、取っ手には縄が括り付けられていた。
これは食べても良いものなのだろうか。
様々な考えが頭の中を巡っていく中で一つ気付きがあった。いつの間にか昼と夜が分からなくなっていたのだ。賑やかな音はもう聞こえない。私はいつのまにか終着点に足を踏み入れていたようだ。
ならばこれは役目を全うした獣への労りとして与えられた晩餐かもしれない。
消え入りそうな光に違和感を覚えて見上げると、穴を塞ぐ役目をもつ蓋が見当たらないことに気が付く。その代わりに揺らぐ光が穴の縁から流れ落ちて、カゴと穴底を柔らかな光で満たしていた。
カゴの中に入っていたのは、両の手のひらに収まりきらないほど大きなパンに溢れるほど多くの具材が挟まれたものだった。香ばしい匂いの分厚い肉やほんのりととろけたチーズ、瑞々しい色合いの野菜類、それらを引き立てるように輝く様々な色のソース。
組み合わせなんて考えていない雑多な料理ではあったが、白黒でさえなければ唾液が溢れそうになるほどのご馳走であった。
ずっしりと重いそれはあまりに大きくて、口をいっぱいに広げてもうまく齧ることができない。仕方なしにパンを皿のようにして食べてみれば、私の舌には辛いと感じるほどに味が濃く、異物と判断したのか咳き込んでしまった。
それでも一口入れれば、かきこむようにして味わうことすら忘れて食べ尽くしてしまった。
膝に顎を乗せて最期の時間を過ごしていると、カゴから漂う残り香に後ろ髪を引かれ穏やかに過ごせない。一息に食べてしまうのはやはり失敗だった。
こんな料理を彼らは毎日のように食べていたと思うととても羨ましい。なぜ私はここまで飢えて過ごさなければならなかったのだろうか。
勇士の印を入れた彼らが妬ましく思えてくる。
彼らと私の扱いの差はそこにあるかもしれない。
私にもその印が付いていれば、獣という役割や過ごす場所は変わらずとも、美味しいごはんが食べられたのだろうか。
──ああ、少し眠っていたようだ。
あれだけ気になった残り香もそのほとんどが希釈されていて、カゴにこびり付くようにして残るばかり。あの料理は夢だったのかもしれないと思えてしまうほどに、痕跡が失われていた。
見慣れた暗闇に視線を巡らせる。何が見えるわけでもない。ただ何も変わらぬ様を視界に入れて、私はまだ死んでいなかったという事実を認識した。
そのことを素直に喜ぶ気持ちが湧いてくるが、その隣では役割で蓋をしていたはずの積み重なった疲労が顔をのぞかせている。
私は与えられた役割を未だに全うできていないのだろうか。
毒を飲ませて穏やかに終わらせるつもりはないということか。
答えの見つからない問いがぐるぐると廻っている。
思えば息苦しさを感じるほどの静けさは、私が目覚めたとき以来かもしれない。
よくよく考えてみれば、こんな生活に順応している私をほめてあげたくなるような環境だろう。外での役割を考えればことさらに。
この順応の早さは記憶を失う前にも同じような生活をしていた、そう考えるのは早計だろうか。これしか道がないゆえに、と考えるのが妥当かもしれない。
なんにせよ、私はここまで生き延びて、最後の晩餐のような豪勢な食事にもありつけた。
正直に言って、もう十分満足している。外の世界を知りたい欲求はあるけども、そんなことを上げていったら際限がない。どこかで線を引いて、終わりにしたい。
穴底の暗闇しか知らずに終わる可能性もあった当初に比べれば、想像以上に多くを知ることができた。
それで、十分なのだ。
思いもよらぬの食事によって鳴りを潜めていた空腹が再び私を悩ませる頃、機械的な音が穴底へ響き渡った。ぼんやりとした頭は私に役割を果たすよう無理やりに身体を動かしている。
おそらくはこれを最後に私は死ぬのだろう。結果がどちらに転がろうとも変わらない、そんな予感がしている。
二歩三歩と踏みなれた冷たい地面を進んでいると、最後まで好きになれなかったにおいの中に、懐かしさを感じる匂いが含まれていた。出口に近くなればなるほど、その匂いは強まっていく。
そうして、見慣れた外の世界に一人の血濡れの大男が立っていた。
血濡れなのは返り血ではなく自身の血なのだろう。その証拠に上半身は最近刻まれたとわかる生傷や痣が、縦横に走る多くの古傷を上書きするようにして身体を覆い尽くしていた。
同様に顔も元の形状が分からないほどに腫れ上がり、トレードマークのような立派な髭も血に濡れて固まっていた。
しかし片方しか開かれていない瞳からは気迫が迸り、はち切れんばかりの筋肉と大柄な体格も相まって、決して私では勝てないと思わせるほどの威圧がそこにはあった。
例えこの男の気迫が仮初であり、本来は死に体であろうと万に一つも勝ち目はない。それほどの重圧──。
──私はこの男に蹂躙されて死ぬのだと容易に想像がついた。
今まで私が行ってきた結果による因果がここに収束したのだろう。
しかしながら、私は震えた脚の言うがまま、いつまでも出口に立っているわけにはいかない。中央で不敵に佇む男の元へ進み、場を盛り上げることが私の役割なのだから。
男との距離が縮まるにつれて、その威圧感に押し潰されそうになる。
私の身長は男の膝くらいしかない。私が戦ってきた勇士たちの身長でさえ、せいぜいが私の倍に届かない程度。見上げる他ない体躯は悪い想像を確信へと変えていった。
私が歩みを進めていると、不意に男がニカっと笑みを浮かべた。
男の顔に嫌な雰囲気を感じ取って思わず後退り身構える。
すぐにそれは見た目から来る勘違いだと気付いたが、急激に高まった緊張は高止まりしたままだった。
そんな私を見ていた男は突然腹を抱え吐血しながら盛大に笑い出した。
何がツボにはまったのか分からないが、想像だにしなかったこの状況に私は酷く混乱していた。
笑い始めるまで気が付かなかったが、未だに一切の憎悪も敵意も感じ取れていない。男から自然とにじみ出る、戦歴を重ねた戦士の風格を私がそう勝手に解釈していただけだった。
何が何だか分からなかった。
この広場へ出たら、勇士と獣という役割に分かれて戦い、勝ったほうが相手を殺す。二つの役割をぶつけ合うシンプルな催し物であるはずだ。つまり、この男の態度は、与えられた勇士の役割を果たそうなどとは微塵も考えていない、ということになってしまう。
いつもは騒がしい観客もこの状況が予想外だったのか、ぽつぽつと声が上がるに止まり、盛り上がる気配を見せない。私と同じように、この状況に対してどう反応してよいのか迷っているようにも感じる。
興行主の様子が気になってみようとしても、大きすぎる男が目の前にいるせいで、その姿を視界にとらえることができなかった。
今の状況はきっと間違っている。それだけは確信できても、私にはどうすることもできない。
笑っていて隙だらけにもかかわらず、肌で感じる実力差を覆す手段は思いつかない。私から攻めても羽虫を払うようにいなされて終わりだ。カウンターを狙うしかないが、戦意がない男が攻めてくるようには思えなかった。
永遠に続くかと思われた笑いは、男が大きく咳き込み血を吐き出したことで唐突に終わりを迎えた。地面に叩きつけられた血液は勢いのままに跳ね、赤い雫が私の頬に付着した。
少し冷静になったのか、男は笑みを浮かべたまま何かを口走り始めた。時折私や観客を指差しながら、堰を切ったように言葉を並べまくし立てていく。私が言葉を理解できていないことも把握しているのだろうが、紡ぎ出される言葉は身振り手振りを交えつつも止まることがなかった。
先に付着した雫が頬を伝い落ちた頃、男はひとしきり話し終えて満足したのか、その締めくくりに、まるで悪人を思わせる笑い声を響かせながら自身の立派な髭の中へ手を差し入れた。
取り出されたのは、不思議な模様が浮かぶ林檎のような外見の物体。初めて見るモノに見た目通りに食べ物かどうかの判断が付かなかった。
男はそれを手にしたまま、私と目線を合わせるように屈んだ。
それから腕を伸ばし、不思議な林檎が目の前に差し出される。
私が反応できずにいると男は焦れたのか、私の手を摘まんで林檎を強引に受け取らせた。
思った以上に軽い林檎を見つめるうちに、言いようのない不吉な予感が胸をよぎった。同時に目を離すことができないほどの不思議な魅力も感じられる。
頭を小突かれて反射的に男を見ると、真面目な顔をして、手を口元に運び口を開いて閉じる動作を繰り返している。
「食べろ」とそう言われているのだろう。
有無を言わせぬ視線に私は試しに一口齧る。
その瞬間、吐き出したくなるような気分になった。あの黒い種子も美味しくはないが、これはその数倍酷い味だった。けれど非難がましい視線を向けられているのに、男は人好きのする優しげな笑みを浮かべていた。そんな男を見て吐き出すわけにもいかず、えずきながらも飲み込んでいく。
泣きたくなるほど不味い食べ物を完食すると、頭をぽんぽんと叩かれた。
苦手なものを食べた子供をあやすような仕草に抗議の視線を向けるが、身体の奥底から込み上げるものが邪魔をして、意図通りに伝わっているかは怪しい。いや、確実に伝わっていないだろう。私が動物のような唸り声をあげて男の手を払おうとしても、その動作をやめることはなかったのだから。
歪む視界を腕で拭っていると、再び身体の奥底がざわついた。
誰か私ではないナニカが内に潜んでいて、殻を破ろうとしているようなそんな感覚。余りに強い衝動に思わず膝をついて自らを抱きしめ、押さえつけようとする。
膨らみ続ける内からの力はついに私の身体を破って外へ出る。霞む視界に映ったのは、光沢をもった黒い羽根に覆われていく腕だった。
止まらず溢れ出る奔流に私の思考は徐々に塗りつぶされていくのを感じる。
そこからの記憶は曖昧だ。
自由を──空を──と自身のものとは思えぬ思考に振り回され、目の前の男へ突進していく。
歓喜に震えた鬼のような笑みを浮かべつつ、男は黒く染まった拳を振り上げ私のことを吹き飛ばす。それでも止まらない身体は脚が地面についていないのに、加速を続け、男の拳に構うことなく向かっていった。
何かを叫ぶ人の声。
暖かい水の中。
風を切る気持ちよさ。
眼下に広がる青い海。
食べ物を乗せた船。
サーベルを持った鬼。
次に気が付いたとき、私の視界に映ったのは、二人の男女が心配そうに私を見下ろす姿だった。
自由で豪快な気風をにじませる精悍な顔つきの男性。
知性を裏打ちしたかのような落ち着きを持った女性。
どちらもその瞳には、悲し気な光を宿していた。