「──将! 起きてください。ゼファー中将!!」
自身の名を呼ぶ声に瞼を上げて見れば、白と黒のグラデーションに染まった海兵が緊張した面持ちでこちらを見ていた。
少しの疲労を感じたために、心地よい風の当たる船のへりに座り込み、目を瞑っていたがそのまま眠りに落ちていたようだった。
「……ん、ああ……すまない、眠っていたか」
命令が絶対とはいえ、眠る上司を起こす役目を進んで引き受けようと思うものはいないだろう。ましてや己の瑕疵によって発生した、本来不要な行動ともあれば、なおさらである。
気まずそうな様子を見る限りでは、彼にとっても気の重い役目だったのだろう。ゆえにゼファーは謝罪の言葉をかけていた。
「いえ、お気になさらないでください。中将は近頃、休む間もなく任務に励まれていると伺っています。我々の連絡船が一時でも安らげる場所になれたなら本望ですよ」
真面目な海兵らしい控えめな笑みを浮かべつつ、彼は謝罪を受け取った。
「そうか。感謝する」
尊敬の念が込められた若い海兵の眼差しに、ゼファーは返答を短く済ませ、任務へ臨む気持ちへと切り替えた。
ゼファーは任務地である島を見据えた。
この島周辺の特異な環境のためか、視線の先に広がる森も、崖の上の大きな屋敷も、空さえもすべてが白黒に染まっている。冬島で見られるような美しさを側面に持つ銀世界とも違う、何かが欠落したような物悲しい景色。ともすれば映画の中に迷い込んだようであり、現実であることを忘れていくような錯覚を覚えてしまう。
周囲を見渡すと海軍船は石組みの堅固な桟橋に係留されているようだった。そして多くの海兵たちが島へと上陸し、島の奥へと進んでいるのが己の視界に映りこむ。
失態だ、と心の中で毒づき、弛んでいた気持ちを引き締めなければと自身を叱咤した。
「新世界の島は驚かされることばかりです。白黒の世界はこのエイシャ島近海に薄く漂う霧が原因なんだそうです。何もかもが白黒になるので、気が滅入って体調不良になる人も出てきているみたいですよ」
自身の発した低い唸り声に何か勘違いをしたのか、若い海兵は任務地であるエイシャ島についてゼファーに語りかけていた。
「……お前も他に仕事があるだろう。オレばかりに構わずさっさと行ってこい」
「申し訳ありません! すぐに向かいます!!」
尾を踏まれた犬のように走り去っていく後ろ姿を見ながら、ゼファーは今回の任務について思い返していた。
任務内容はこの島で起こった事件に関連するすべての情報の収集であった。
しかしながら実態は天竜人の痕跡を抹消することに主眼を置いていることが端々から読み取れていた。海兵であればいつかは通るとされる、天竜人の行った悪事のもみ消しへの加担であった。
考えすぎ、ということはないだろう。同期のセンゴクから助言されていたポイントを追った結果、この結論に至ったのだから。
当然覚悟はしていたが、やはり気持ちのいいものではないなと改めて思う。とりわけ腑に落ちないのは、天竜人だけが例外とされていることだった。
世界政府加盟国の王族や上級貴族は処罰される。同じ人である天竜人だけが、なぜなのか。
目の前にある悪を見逃すことが、どうして正義を成すことに繋がるのか、どう考えてもゼファーには分からなかった。センゴクやつるのように、大局を見据えることができる目を持っていれば、この意味を理解することができるのだろうか。
天竜人。そのワードから桟橋に降り立ったゼファーの脳裏に、一年前に起こったゴッドバレー事件についての記憶が呼び起された。
ここしばらく続く忙しさの原因でもあった事件のあらましを、ガープから無理やり聞かされていたのだ。相当気に食わないことがあったのか、苛立ちを隠さず、天竜人はクズどもだと己にぶちまけていった。
今回の任務もガープなら無視するだろうことは容易に想像がつく。命令を無視するなど考えられぬことではあるが、アイツなら迷いなくそうするだろう。
なんにせよ、己が任務を放棄する選択肢は初めから存在しない。回り回って海軍の目指す正義に繋がるからこその任務であるとゼファーは考えているからだ。
ガープなら笑って我が道に必要ないと背を向けるだろう。
センゴクとつるならその視点の高さを持って疑問を抱きつつ、意図を理解し、己が信念と折り合いをつけて前へ進むだろう。
それらができない己は愚直に前へ進むしかないのだ。
胸に抱き直した信念とともに、ゼファーは島へと踏み入れる。ほどなくすると、開けた土地に多くの遺体が並べられていた。
装いから判断するに貴族の従者や護衛と思しき者が多い。軽く見渡した限りでは皆一様に腹に拳大の穴が穿たれている。銃ではこうはならないし、槍の刺突にしても相当な速度と技量が必要だろう。
検分を行っていた海兵に話を聞いてみれば、現時点で発見された遺体は皆、同じように大穴が空いているそうだ。
それに島に漂う霧のおかげで腐敗速度が非常に遅いらしい。本事件が発生してから半年以上経過してなお、綺麗な状態を保っていることもあって、証拠を集めるには理想的な環境ですねと、軽口を飛ばしていた。
ゼファーは事件の痕跡を追って、森の奥へ進んでいた。
そこに至る道は誰に聞かずとも分かるほど、明確な傷跡が森に刻まれている。
かまいたちを伴うような突風によるものか、木々をなぎ倒して出来上がった一本道が奥へと続いていたからだ。
何かがここを通った。それだけは確かだろう。
奥へ進みつつ見回せば、破壊痕に紛れて至る所に黒く染まった血痕が付着している。
この道を作り上げた者と遺体に穴を空けた者が同一人物と断じるのは尚早だろうか。一定以上の武力をもってすればこの程度は可能だろうが、まだ、情報が足りないと自身を戒める。
「中将殿」
足を進めていると、森の奥から顔色の優れない海兵が声をかけてきた。先遣隊として出ていた海兵だろう。連絡船の若い海兵が言っていた通り、ここはやはり気分が沈むようだ。
「何か見つかったか?」
「はい。何者かが書いた日記と思われるものが、崖の上の屋敷の一室で見つかりました」
報告とともに、海兵は十数枚の紙束を差し出してきた。
海兵に労りの言葉をかけ、紙束を受け取ったゼファーは近くにあった切り株の上に腰を下ろし、最初の一枚に目を落とした。
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──ああ、何を思ってペンを持ったのだったか。
獄中で俺の人生は終わりかと思っていたら、天竜人の奴隷になっていたことか。
白黒の気の滅入るようなこの島へ運ばれたことか。
多様な種族の子供の引率を命じられたことか。
とにかくあまりに想像できないことが、多くのことが起こりすぎて、気持ちを整理したかったのかもしれない。
ペンを走らせていると、海の上での暇な時間をこうして過ごすことも多かったことを思い出す。
自由に海をかけていたあの頃が今はただただ恋しい。
思い出に浸るために、今日から再び日記を書くことにした。
──ここでの俺の仕事はなんてことはない。雑用と大差ない簡単な仕事だ。
子供の見張り。でかい家の掃除。地下の獣にこのクソ不味い実を与えること。
あの獣はよくもこんなものを食えるものだ。味覚がないのだろうか。
俺が姿を見せると餌を早く寄越せとでもいうように、無邪気に笑みを浮かべて乞うのだ。
食い物はこれしか渡していないから仕方ないのかもしれないが、与えた後に大事そうに抱えるのを見ると不憫に思えてしまう。
獣。そう書いたが、あれは人だ。
何であんな場所に閉じ込められているのか分からないが、でかい翼を背負っているだけの俺が見張っている子供と同じ。
だが獣と呼べと言われているのだから、そうするしかない。
それに獣は俺の言葉が分からないようだった。
人生のほとんどを海で過ごし、多くの未開の島にも上陸した経験からしても、言葉が通じないやつは獣ぐらいしか見たことがない。ならばあれを獣と呼んでも、間違いではないのだろう。
まあ、将来は美女になりそうな見た目だから、いつまで獣扱いできるのか、賭けても面白いかもしれない。
──賭けは降りる。情けねえがどうせ俺だけしか参加者はいないんだ。
あれは本当に獣だ。しかも周りのことをよく見て、趣味の悪い奴らが喜ぶことを進んで行っているように見えた。あんな都合のいい奴は欲を満たしたいだけのクソどもにはいい見世物なのだろう。
それに俺の雇い主は今以上にこの興行を盛り上げたいらしい。
だから獣に与える実の回数を減らせと言ってきた。獣が空腹であるほど刺激的で興奮する出し物になるそうだ。
正直付き合いたくねえが、これも仕事だ。気楽に悠々自適に過ごしてはいるが、忘れちゃいけない。俺は天竜人の奴隷で、その命令は絶対だということだ。
あいつには悪いが我慢してもらうしかない。
──こんなに胸糞悪いのは生まれて初めてだ。
──俺が見張る子供も、ここへ来た初日と比べてだいぶ減ってしまった。
子供たちはなんてことないように、日々楽しく過ごしているのは気味が悪く見える。
少しずつ減っていく同類を見て、こいつらは何を思っているのか。
無知な子供だからと言って何も感じないはずはないだろう。
そうか、これは現実逃避か。
毎日美味い食事にありつけて、高い壁に囲まれた敷地の中なら好きに過ごしていい生活。痩せてた奴も今では肉がついて血色良く健康的な姿になっている。
定期的に連れ出された同類が帰ってこない理由を彼らは考えたくないのだ。
──正直に言おう。俺も現実逃避をしていた。
監視する子供が一人もいなくなったとき、俺の仕事は地下のあいつに餌を与えるだけだと思い込んでいた。
そうではなかったのだ。初めに仕事を言い渡されたとき、何と命令された?
獣が死んでいるか、まずは確かめろと言われたはずだ。
だが、あいつは死んでいなかった。だから最初の命令は有耶無耶になっていたが、本当は代わりの、新しい獣がいたんじゃないか?
なら俺の仕事はどうなる?
死んでいても構わない獣に餌をやる仕事なんていらないはずだ。
このまま俺は黙って運命を受け入れるのか?
──久しぶりに死ぬほど殴られた。
何十年ぶりだ、こんなに顔を腫らしたのは。
俺がまだ海賊の雑用だったとき以来かもしれない。
俺のしたことに後悔はない。クソ不味いモノしか知らないのは可哀そうだろうが。
雇い主様はなんと言っていたっけな。
最後はお前だ、だったか?
いや、そうか……最後、最期か……なら、今度はどうしてやるか。
自由の意味を履き違えた馬鹿どもに、真の意味を教えてやるしかないだろうよ。
▼▲▼▲▼▲
「あれ……どうかしましたか、ゼファー中将」
日記を読み込んでいたゼファーに声をかけたのは、海軍の制服を着崩した気だるげな雰囲気を纏う壮年の海兵だった。
「……レサジー、お前か……いや、なんでもねえ。誰かさんの日記を読んでただけさ」
ほら、とゼファーは片手に持った紙束で風を仰ぐ。
海兵はどこか深刻そうな顔をして、白い手袋の付けた空いた手を口元へもっていく。
「えっ……黒腕のゼファー中将ともあろう人が、まさか……サボりですか?」
「ちげえよ!! お前も手に持ってんのなんだ!? 酒じゃねえのか?!!」
ゼファーに怒鳴られた海兵は何食わぬ顔で後ろ手に酒瓶を隠した。冷ややかな目を向けられてなおその態度に淀みがないのだから、肝が据わっているとしか言いようがない。
実力は間違いなく少将でも通用する男だが、それでも尉官止まりなのは自身の実力をあえて抑えているからだ。
一年遅く入隊した後輩で、同じ船に乗り、共に任務をこなす機会も多かった。素性をよく知るゼファーには、その理由におおよその察しがついていた。
この男の中にある海軍の正義が揺らいでしまったのだろうと。
「いえ、これは違います。部下の報告を受けたから、あなたを探していたんですよ」
「はあ……で、その報告ってのはなんだ?」
「中将が以前捕まえた、キャンディ・マーカスと思われる遺体が見つかったんです。私が面通ししても良いんですが、あなたが中将となるきっかけにもなった海賊でしょう? あなたが見たほうが確実だと思うんですよね」
包み紙に包まれた飴玉の形をしたロケットを首元に下げていた男だ。
民間船、海賊船、海軍船──目についた船を見境なく襲っては物資を奪う。積極的に人は殺さないが、必要なら躊躇もしない。節操のなさによる危険性から二億ベリーの懸賞金が付いていた、典型的な悪党──。
「……キャンディ……あいつか」
「ええ、状態がとても酷いようで、私だと間違う可能性もあるので、ぜひお願いします」
「……分かった。案内しろ」
「了解しました」
二人の男の踏み込む音と霧だけが、白黒の森の中に漂っている。
自然の音が不自然なまでに排されたかのような静寂。自身の発する音が記憶を強引に掘り返しているようで、海兵たちが体調を崩すのも納得がいった。
少しばかり未来の話がしたくなったゼファーは黙って先導するレサジーに話かけた。
「なあ、二人の小人って話をお前知ってるか? 子供に見せるような絵本なんだが」
「偏った思想が前面にでた本だったと記憶してますが……それ。子供に読ませちゃいけませんよ。毒です。毒」
「まぁ……海軍から出てる本だからな。やっぱお前もそう思うか……」
将来を誓い合った彼女と似た回答を口にされ、顎に手をやり、難しい顔をしてゼファーは考え込む。
「お前も? ああ、奥さんですか……子供に読ませるっていうなら、やっぱり定番はうそつきノーランドでしょう」
歩きながら指を一本たてて、そう言い放ったレサジー。
無意識にゼファーの足が止まった。
「……まだ結婚してねぇよ。……というかお前、何で知ってる」
「中将の船に乗ってる中に、知らない人なんていないと思いますけど? 一部では結婚時期の賭けも始まってるみたいですね。本命は大将昇進時、大穴は結婚済み、らしいです」
身内の勝手な盛り上がりに、ゼファーは額を押さえて深いため息をついた。
「海賊じゃねえんだぞ……賭けは即刻やめさせろ」
「わかりました、改めて忠告しておきます。それよりも先を急ぎましょう。この島でやることは山積みですからね」
そうして森を抜け、辿り着いた先にあったのは所々に古めかしい劣化が残る壁だった。
壁の内側に案内されたゼファーは、薄っすら霧が漂うその広場の中に生臭い血の臭いと醜悪な声援を幻視する。同時にここが事件の始まりだと己の直感が囁いていた。
広場を囲う壁の傍らで横たわる大男の姿が見える。
その男の近くに寄れば、レサジーが言っていた通り顔の区別はもはやつかない。男の容姿に似合わないロケットを首元にかけていなければ、ゼファーでさえ判別は困難だった。
「なあ、キャンディ……お前は一体、最後に何をしたんだ」
今まで見てきた遺体と同様に、腹に大穴を開け、萎んだ腹部を晒した遺体にゼファーは語り掛ける。
黒く染まった地面の上で仰向けになり、天を見上げた亡骸の口角は上がっているように見えた。見間違いでなければ、それが意味することはこの男の願いは成就したということだろう。
「飲みます?」
隣に立ったレサジーが顔元で酒瓶を揺らしている。
ゼファーは視線だけ動かし、一瞥するに留めた。
「……任務中は飲まない。知っているだろう」
「そうでしたね……なら、ゼファー中将はいつ飲むことになるんでしょうか」
レサジーは小さく息を吐くと、どこからか杯を一つ取り出して、キャンディの元へとゆっくりと進む。盃を遺体の胸に乗せ、持っていた酒瓶をその脇に添えた。
そして遺体の正体の確認が取れたことに事務的な感謝を告げられて、部下を呼んできますと言い残し、背を向けて去っていった。
次回から雛鳥編です。
ストックが無くなったので、1~2週間間隔での投稿となります。