目覚めた場所は見知らぬ場所。覗き込む顔が二つ。
大きな屋根の影に隠れて世界の知識を吸収していく。
好きなもの、嫌いなもの、どちらでもよいもの。
夢心地に任せた先、鳥かごが口を開けていた。
06.怪鳥
どこでもない海の上、鮮やかな深紅の帆が印象的な船は穏やかな海の風を受けて進んでいた。
酒を飲んで顔赤くした者、樽の上に広げた遊戯盤で遊びに興じる者、船室の壁に背を預けて本を読む者──皆が皆、船の上で自由に過ごしていた。そんな滅多に得られない幸福を噛み締めてしまえば、誰かが「平和だなァ……」なんて呟くのは仕方のないことなのだろう。
彼らの乗る船の名はオーロ・ジャクソン号。GOL・D・ROGERと名入れされた、青い海で一際目立つ深紅の帆。はためく白いドクロの旗は、彼らが世界屈指のロジャー海賊団であることの証左であった。
自らが持つその知名度ゆえに、彼らは年がら年中、戦いに明け暮れていると言っても過言ではなかった。戦わない日もあれど、天候の移り変わりやすい偉大なる航路によって、双方が戦闘するような状況に置かれなかったにすぎないのだ。
最近は高まった名声のおかげか、避けるようにして逃げていく船も多くなっているのも事実だ。しかし裏を返せば名声を一挙に高めるチャンスと見て、積極的に襲う命知らずもまた増えている。以前とそう変わっていないだろうというのが副船長レイリーの談であった。
そんな中生まれた、揺りかごに包まれた赤ん坊のような時間。彼らの気を緩めるには十分だったのだろう。
しかしながら、すべての物事は終わりを迎えるのが常である。
メインマストのヤードに腰かけていた麦わら帽子を被った赤髪の少年が、「ロジャー船長!」と声を上げたのだ。
「なんだシャンクス。なんか見つけたか?」
「前にすごい霧がみえるよ!!」
「霧だァ? そんなもんこの海じゃよく見るだろうよ」
「ほんとにすごいんだって、見てよ船長!」
シャンクスと呼ばれた赤髪の少年は目を輝かせて、ロジャーにだだをこねていた。
言葉を操るようになってから日も浅い幼子の笑みに照らされたロジャーは息を吐きながら、深く腰掛けていた椅子から立ち上がり前方を見据える。
そこには空の雲が海の上まで落ちてきたかのような濃い霧が漂っていた。船を十隻は飲み込めそうなほど広い範囲で発生していて、このまま進めば霧の中を進むことになるのは明らかだった。
「船長、迂回しますか?」
船員の一人が軽食を口にしながらロジャーに指示を仰いだ。
ロジャーは「そうだな」と相槌を打ちつつ、伸ばし始めた髭を撫でつけて、しばし瞑目した。
「こんなに良い日に霧の中を進むなんてのは風情がねェか! 迂回するぞ!!」
「OK、船長! 面舵いっぱーい!」
舵取りが操舵輪を回して、船は進路を変えていく。
霧から逸れるようにして進みだした頃、赤髪の少年が何かを思い出したような声を出した。
「シャンクス、まだなんかあるのか?」
ロジャーは再び椅子に腰かけ瞼を閉じながら、少年に声をかけた。
「後ろからでかい船が近づいて来てる。たぶん、海軍船だと思う」
それを聞いたロジャーは勢いよく立ち上がり、壁に叩きつけられた椅子が大きな音をたてた。
「それを先に言えクソガキ!! 見張りはなにやってんだ!!」
「ロジャー船長すいません。寝てました!!」
「ガキに仕事取られてどうする!! 早く誰が追いかけてんのか確認しろッ!!」
ロジャーに怒鳴られた船員は、首から下げていた双眼鏡で赤髪の少年が指し示す方を見渡し始める。見つかった海軍船はたった一隻。しかし船首に仁王立ちする人物を目視した瞬間、船員の顔にどっと汗が噴き出た。
「ガープですッ!! 大参謀つるの軍船に乗ってまっすぐこっちに向かってきています!!」
「やっぱりお前かガープ!! お前ら、準備はできてるか!!」
「おれはできてるぞ! ロジャー船長!!」
皆が恐れる名を聞いた途端にロジャーの目は爛々と輝きが増していく。まるで大好きな玩具を与えられた子供のようだった。
いつのまにか甲板まで下りてきていた赤髪の少年もそれに呼応するように両の拳を突き上げ、口角を釣り上げて笑っていた。
だが、興奮し始めた男たちに待ったの声がかかる。
「待て、ロジャー。今日はダメだ」
薄い金の髪を風になびかせたロジャーの右腕、シルバーズ・レイリーだった。
気勢を削ぐ言葉に拗ねたような声をロジャーは上げた。
「なんでだ、レイリー!!」
「ここ最近を思い出せ。東の海のような日が続いたせいで皆、鈍っている」
「おれは鈍ってねェ!!」
「お前だけだロジャー!」
ロジャーに続くように、赤髪の少年もざわつき始めた船内に負けじと声を張り上げた。
「おれだっていつでもやれるぞ!!」
「シャンクス! お前はまだ早い!!」
「この前もそうだったじゃないか! じゃあいつならいいんだよ!!」
「剣をまともに振れるようになってからだって言っただろ!」
その白熱する言い争いに酒瓶を片手にした男がゆっくりと近づく。
顔を赤く染めたロジャーの左腕、スコッパー・ギャバンだった。
「俺ァ、レイリーに同感だぜェ、ロジャー……」
「ギャバン、お前もか……!?」
「俺らが海軍なんぞに負けるとは思えねェが、本調子じゃないのも確かだ……勝っても被害が大きくなりすぎる」
「……おれに尻尾巻いて逃げろと……そう言いやがるんだな!?」
声を震わせながら告げるロジャーの視線を真っ向から受け止めたギャバンは、その問いに答えた。
「……そうだ、バカロジャー」
回答を聞くや否や、ロジャーから刺し込むような空気が漏れ出る。同時に、愛刀エースを鞘から抜き放ち、ギャバンへ切っ先を向けた。その刀身は黒く染まり大気が弾けそうなほどに歪んでいる。
無言で睨み合う二つの視線はどちらも譲り合うようには決して見えない。
ざわついていた甲板が一瞬にして静まり返った。
余人の介入を許さない攻防は、海軍が迫っていることさえ忘れさせてしまうかのようだった。
不意にロジャーは背を向けて、海軍船の見える船べりへ向かう。
視線の先にある海軍船は目視でようやく輪郭を掴める距離ではあったが、ガープの投げる砲弾であれば、射程圏内に入るのは時間の問題だった。
片眉を上げていたギャバンだったが、直後、血相を変えてロジャーの名を呼びつつ背を追いかけた。
「ギャバン」
レイリーが腕を出し、ギャバンの行動を静止させた。
ギャバンは困惑の表情を浮かべ、レイリーに顔を向けたがその答えは爆発音によって知ることとなった。
巨大な水柱が幾本もオーロ・ジャクソン号の近くで立ち上がっている。
船べりの上に立つロジャーが愛刀を振り回しながら海に向かっていくつもの斬撃を放っていた。海面へ斬撃がぶつかるたび、爆発音とともに巨大な水柱が立ち上がっていく。
打ち上げられた冷たい海水は甲板に降りかかり、熱された空気を冷やしていった。
ずぶ濡れになったロジャーは赤髪の少年に貸していた麦わら帽子を奪い取り、船員に船長命令を伝えた。
「取舵だ……霧の中へ突っ込んでかく乱する……」
船長の指示に従ってオーロ・ジャクソン号は深く立ちこめる霧の中へ進んでいく。乳白色の霧に船は沈み込んでいき、やがて海軍船の視界から音もなく消えた。
ロジャー海賊団を乗せた船は霧の中を進んでいた。しかし──。
「思った以上に霧が濃いな……」
──船員の声が深い霧に沈んでいく。数多の特異な環境を旅した経験をもってしても、思わず口にしてしまうほどの驚きを彼らに与えていたのだ。
隣にいる仲間の姿はぼやけて幻のようであるし、自身の手さえ宝石を検分するかのごとく近づけなければ見ることは叶わない。足元の甲板でさえ霧に埋もれて見えず、屈んで手で触れなければ正体すら確かめられない。
文字通りに一寸先すら見えぬ霧に誰しもが息をのむ中、変わらずに香る潮の匂いと、子供の楽し気な声だけが響き渡っていた。
「すっげー!! 霧の中ってこんななんだな! ギャバンの顔がみえねェ!」
「見聞色使える奴以外は動くんじゃねェぞ! シャンクス! お前は俺の近くにいろ、いいな?」
ギャバンは船員に注意を促しつつ、目を輝かせてはしゃぎ回る赤髪の少年の頭を押さえている。
厳に警戒せねばならない環境ではあれど、純粋な好奇心から楽しむ子供の存在は、重ねた年月から必要以上に気負ってしまう大人を窘めているかのようだった。
船員たちの心の持ちように変化を感じ取ったレイリーは表情を柔らかくして、船首に近い甲板に胡坐をかいて座り込んでいたロジャーに近づき、声をかけた。
「どうした?」
「この霧には何かが居やがるな……」
「何かが居るのは分かるが、動物だろう。放っておけばなにもしてこない」
「……そうだな」
いつになく歯切れの悪いロジャーの言葉にレイリーは視線を向けたものの、続ける言葉はなく、ロジャーが見据える先へ視線を戻した。
そうして静かな霧の中を進んでいると、唐突にロジャーが口を開いた。
「霧が晴れるぞ」
言葉通りに霧は徐々に晴れていく。未だ水平線を見ることはできないが、十分な視界が確保できていた。そして目線の先に現れたものに船員達は口々に声を上げる。
「ありゃなんだ? ボロボロじゃねぇか」
「幽霊船か!?」
「海賊旗はないから商船かもな」
前方には船腹を大きく抉られ、主帆も半ばから裂け落ちた船が、軋みを上げながら潮流に身を任せ漂っていた。
「あれじゃあ、いつ沈んでもおかしくねェな……」
近づくにつれ、それが自然に傷んだ船ではなく激しい戦闘を経た姿なのだと、誰の目にも明らかになった。すれ違うようにして後方へ流れていく船を見た船員に警戒感が強まっていく。ましてやこの視界の悪い霧の中ではその予感は否応にも高まっていた。
じっと状況を見守っていたロジャーの口元が吊り上がり、獰猛な笑みを浮かべて立ち上がった。
「おいロジャー、なにするつもりだ」
「イイことを思いついたんだ。邪魔するなよ、レイリー!」
ロジャーを中心に底冷えするような重圧の嵐が巻き起こり、すれ違う船へと叩きつけられたが、余波は船員たちにも影響を及ぼしていた。
「なんだァ!? って、シャンクス大丈夫か!? バカロジャー!! 覇気を無差別にまき散らすたァどういう了見だ、テメェはよ!!」
「わっはっはっは!! すまねェ!! 鬱屈してたもんだからよ、制御ミスっちまった!」
「ガキかおめェは!!」
ギャバンに続いて船員たちからも抗議の声が上がる中、甲高い鳴き声が周囲に響き渡った。
「来いよ、おれはここにいるぞ?」
再び甲高い鳴き声が上空から響き、ロジャーの元へ一直線に黒い弾丸が空気を割いて貫いた。
その姿を辛うじて目視できたのは状況を俯瞰していたレイリーと、ギャバンを始めとする鳴き声に警戒した者だけ。
「──えっ?」
ロジャーの愛刀と四つ羽の怪鳥の嘴が、激しい音を立てながら競り合っていた。
「おお! チビッコのくせにすげー力じゃねェか。だが、もっと力を込めねェとおれは殺せないぞ?」
「ロジャー船長!!」
「手ェ出すなよお前ら、これはおれの獲物だ」
力任せにサーベルを振り抜いたロジャーは改めて怪鳥と対峙した。
黒と白が入り混じる体長五十センチに満たないツバメのような姿の怪鳥は、四つの羽を器用に使って空中に静止している。感情の見えない無機質な瞳に映るのは、鬼のような笑みを浮かべたロジャーただ一人。
怪鳥はひと鳴きすると、上空へと駆け上がっていった。
「そうだそうだ、それでいい。お前の全力を見せてみなッ!」
「なに煽ってんだロジャー……」
呆れた顔のレイリーはロジャーを非難する。
「自分の意思すら忘れたバカなガキを思い切りぶん殴ってやる。それだけのことだ」
先のワガママとは違う、己の信念に忠実な男の横顔に、在りし日に抱いた憧憬を覚えたレイリーはそれ以上の言葉を紡げなかった。
「……そうか、なら、好きにすればいいさ」
「ああ、おれはいつも思うがままやらせてもらってるぜ」
「まったく、おまえってヤツは……さあ、皆、下がった下がった! 巻き込まれたくなければな!」
上空で怪鳥の鳴き声が響き渡る。
ロジャー海賊団の皆が空を見上げた。
そして、弾丸となって大気を切り裂きながらロジャーの愛刀と再び衝突する。
衝撃は凄まじく、オーロ・ジャクソン号は海を押し開きつつ大きく傾いた。
「言い忘れてたが、おれは今、腹の虫の居所が悪りィんだ……手加減はできねェ。だからよ、生きてェなら歯ァ食いしばりなッ!!」
「ピィッ?!」
「神避!!」
大気の弾ける音とともに降りぬかれた愛刀エースは、込められた思いを黒い斬撃に変えて怪鳥を吹き飛ばす。その進行上にあったボロボロの船を破壊しながらも勢い収まらず、霧の奥深くへと突き進み、襲撃者の姿は消え去った──。