ロジャーが怪鳥を焚き付けたことを端に発する小競り合いも、船の揺れとともに収まり始めていた。
薄く残る霧の合間から穏やかな日差しが甲板に降り注ぎ、ロジャー海賊団にまとわりついていた緊張感も徐々にほぐされていった。
「よしっ! もう大丈夫だ、おれは寝る。ガープはもう追ってこれねェしな」
愛刀を鞘に納めたロジャーの一言に、船員たちは怪鳥が跳ばされた方向に海軍船があることを察し、互いに顔を見合わせた。
船長の気分も晴れ、海軍船の邪魔もできた。まさに一石二鳥。ギャバンの傍らで未だに気を失っているシャンクスが不憫ではあるが、それ以外に何も損害はない。無鉄砲な船長にしては随分と良い落としどころに収めたものだと、甲板には張り詰めた中に安堵した空気が漂い始めていた。
大きく伸びをしたロジャーは欠伸をかきながら船室の奥へと消えていき、バタンと船室の扉が閉まった。
それに合わせて船員たちは持ち場に戻りつつも、再び思い思いの時間を過ごし始める。
先と違うのは、気の抜けた麦酒に似ただらけ顔ではなく、熟成された蒸留酒のような風格が宿っている点だった。
彼ら本来の日常が戻ったのだ。
オーロ・ジャクソン号は追い風を深紅の帆に受けて速度を上げた。
次の目標は
その手掛かりは未だ何も掴めないままではあるが、ゴールまでの過程を楽しむことこそが冒険と知るロジャー海賊団は、相も変わらず海を進んでいた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「ん?」
宿敵と定めたロジャーの乗る船が霧に紛れてしばらく経った頃、船首で戦意を滾らせていたガープは豆粒のようなものが霧の中から飛び出すのを視界に捉えた。
「……なんだァあれは」
手を翳し目を凝らすが、漏れ出た吐息の揺らぎですら見失ってしまいそうなほど、その輪郭はおぼろげだった。
「止まった……ように見えるが、鳥か?」
首を傾げつつも「まーいいか」と再びロジャーの消えた霧の壁を睨みつけた。
「なあ、ガープ」
「どした? おつるちゃん」
ガープの後ろから勝気そうな女性の声が投げつけられた。声色から苛立っていることは明白で、言葉の圧だけでガープを船首から突き落としかねない凄みがあった。
「どうしただって? アタシがアンタに言ったこともう忘れちまったのかい? なら何度も言ってやるよ。自分の船で追いかけろ、私の船を使うな」
「あー……おれの船は昨日壊れちまってな。ロジャーを追いかけるとなると速度が足りない。だから頼むよ、おつるちゃん!」
「言い訳は聞きたかないねッ! さっさと降りな!!」
鋭い剣幕でガープの言葉を切って捨てた女性の名はつる。凛々しく鼻筋の通った顔立ちに備わる知性を湛えた瞳は、今や怒りに染まっていた。
対してガープは両の手を合わせ、申し訳なさそうに頭を下げてはいるが、そこに反省の色はない。信念に基づく行動であれば規律違反すら躊躇しないのがガープという男だからだ。
その自由すぎる振る舞いは初対面の者に危うさを感じさせるが、彼を深く知る者ほど、この男が海賊に堕ちることは絶対にないと知っていた。
そして、つるとガープは共に海軍の中核を担う中将であり、何かと縁のある同期でもあった。
英雄と呼ばれる実績とそれに見合う実力を持つガープに対しても、つるは容赦なく苦言を呈する。かつて世界へ羽ばたく野心を抱いた若い新聞記者にその点を問われた際も、彼女の答えは明快だった。
「悪いことを悪いと言って何がいけないんだい」
少しの溜息とともに返されたその言葉は確かに紙面へ掲載されたが、地方紙の一記事でしかないそれは話題になることもなく埋もれていった。
なにはともあれ、このようなやり取りが今日の朝方、つるの船にガープが急に飛び乗ってきてから既に三回は行われていた。今日に限ったことではない。つるの部下となり、同じ船の上で過ごすようになれば度々目にする光景であり、皆その対応には慣れていたのだ。
「あの……おつるさん……目的地は変わらないですし、乗せてあげても良いのでは?」
若い海兵が遠慮がちにつるへ妥協案を進言する。つるが海兵から視線を外し、後方へ目をやると、古参の部下たちが「がんばれー」とエールを送っていた。
「ハァ……アンタらもそうやってこの馬鹿を甘やかすから毎回こうなってるんだよ」
「そうだぜ、おつるちゃん。別に目的地を変えろって言ってるわけじゃねェんだ」
笑い声を上げながら嘯くガープへ、つるが射殺すような視線を向けると至近にいた若い海兵は小さな悲鳴を上げた。
海兵の様子を見たつるは「鍛え方が足りないね」とぼやいたが、一向に離れようとしない海兵に続く言葉を促した。
「ですから、おつるさん……ガープ中将もこう言ってるわけですし、進行方向が変わったら、そこで降ろせばいいと思います」
至って真面目な顔で告げた海兵の言葉は快晴の穏やかな海を行く船上で良く響いた。
皆が目を丸くする中、いち早く思考を持ち直したつるが感嘆の吐息を漏らす。
「……なるほどね。こいつなら海に放り出しても死ぬことはないか」
「えっ、いや、それは困る……」
「なら自分の船で追いかけな。それか今回は運がなかったと諦めるんだね」
そんな海軍の日常を遮るように甲高い鳥の鳴き声が響き渡った。
聞き慣れぬその音に片眉を上げたつるは皆に声をかけようと振り返った──瞬間、鈍い衝突音が甲板を揺らした。
「将来有望な海兵を狙うたァいい度胸してるじゃねェか……」
「……わっ、えっ、なに?!」
つるが次に目にしたのは崩れ落ちた若い海兵。その海兵の視線の先にはガープが海兵を守るようにして突き出した腕と握りこぶしがあった。いや正確には、はためく何かをその手で掴み取っていた。
それは鳥だった。バサバサと翼を無茶苦茶に動かし、くぐもった鳴き声を発しながら暴れる体長五十センチほどの怪鳥。黒と白に分かれた四枚の翼が印象的であり、翼と長い尾羽が巻き起こす風がその力強さを物語っていた。
そしてガープの手からは血が滴っていて、受け止めた衝撃の凄まじさを示している。
「ガープ、中将……」
若い海兵の顔は青ざめ、震える口元を抑えていた。
「ん? ああ、これは気にするな。俺の血じゃないからな……あとおつるちゃん、先に謝っとく」
その言葉に怪訝な顔を浮かべたつるの返答を待たず、ガープは雄たけびを上げ船室の壁に向かって怪鳥を投げ飛ばすと、怪鳥はその勢いのまま壁を破壊して粉塵の中へと消えた。
異変を聞きつけた海兵たちが甲板へと集まり騒然とし始めていた。
「おいッ! ガープ!!」
「だから先に謝っただろ、ごめんって!」
ガープとつるの口論は崩れた船室の瓦礫を弾き飛ばした怪鳥によって中断された。
怪鳥は四つ羽を器用に動かして空中に静止していた。
可愛らしくもある顔つきを怒りに染めてガープを見下ろしていたが、周囲に届くほどの荒い呼吸と胸元の白い毛から垂れ落ちる血液から、怪鳥がすでに満身創痍であることは誰の目にも明らかだった。
しかし黒真珠の瞳から迸る殺意が衰える気配はなく、その視線は目の前の敵だけを捉えていた。
怪鳥はそれから何度もガープへ突進しては打ち返されていく。
ガープの拳と甲板は赤く染まり、あまりの惨さに顔を背ける海兵も現れていた。
「ただの獣にしては妙だね……」
未だに殺意が衰えぬ怪鳥をじっと見つめていたつるがポツリと呟いた。
「それはおれも同感だ。タフすぎるってのもあるが、あれは……たぶん悪魔の実の能力者だろう。野生の獣がおれに向かってくることは早々ないしな」
「ああ、そうだね。痛めつけられたら普通は逃げを選択するはず──」
再び突進してきたもはや肉塊と変わらぬ姿の怪鳥をガープの拳が打ち払えば、ガープのしかめた顔に血飛沫が飛んだ。
「クソっ! もう殴りたくねェぞ! 虐めてるみたいで気分が悪りぃぜ、まったく!!」
「……だからね、ガープ。あれをどうにか気絶させられないもんかね」
「もうやっとるわ! 頑丈すぎるせいでうまくいかねェだけだ!!」
ガープは苛立ちを隠さず怪鳥を睨みつけ舌打ちした。
三つに減った翼でふらふらとしながらも高度を上げて突進の準備を進めている怪鳥の姿が、甲板に立つ者の瞳に映りこんでいた。
「死にたがりめ……今度は、殺す気で殴る」
バチリと空気が弾けた。
ガープの拳が黒く染まり、放たれる重圧で大気が歪んで軋みを上げていく。
そして──。
▲▽▲▽▲▽▲▽
日付が変わる夜半の頃、男女の争う声が船内から響いていた。
「さっさと自分で壊した自室に戻りな。今日は絶対目覚めないよ」
「でもさ、あれは、おれのせいでもあるんだ。だから今日くらいは……いいだろ、おつるちゃん」
「うじうじしてんじゃないよ。そんな姿をこれからもあの子に見せるつもりかい? 壊したところでも直しながら頭冷やしな」
つるの自室に居座ろうとするガープだったが背を力強く押し出され、たたらを踏んで廊下へ放り出された。直後、有無を言わさずバタンと閉められた扉の重い音が船内に反響した。
「……まったく」
深く息を吐いたつるの口からぼやきが漏れる。
それからつるは自室の机に向かうと不満を散らすように座りこみ、天井を見上げると背もたれがギィと軋みを上げた。
静まり返った室内で瞑目していたつるは、おもむろに袖机から一枚の紙を取り出した。そしてランプを灯した後、使い古したペンを手に取り文字を書き起こし始める。
さらさらと淀みない音が流れる中に遠慮がちな扉のノック音が紛れ込んだ。
「入りな」
「おつるさん、夜遅くに申し訳ありません」
つるの自室に入った海兵は音を立てずに扉を閉めた。そして書類に何かを書き込むつるの姿と、彼女の寝台を占拠する包帯でぐるぐる巻きにされた姿で眠る少女を繰り返し眺めた。
「……もう少し待ってな」
書類に目を走らせながら、つるは海兵に声をかけた。
波に揺られ軋む音を奏でる船の中、ランプの中で揺らめく灯火が静かにつるを照らしていた。
小さな音を立ててペンが置かれた。
「さて……用件を聞こうじゃないか」
手を組んだつるの視線が海兵に向けられる。
海兵はほんの一瞬、視線だけを眠る少女に向けてから口を開いた。
「あの怪鳥……いえ、船食いをなぜ元の姿に戻そうなどとお考えになったのですか。我々の任務は船食いの出没する海域の安全確保……つまり目標の排除、可能であれば捕獲と理解していました」
「元に姿に戻すことは任務内容に含まれていない……そう言いたいんだね?」
「はい。ただ私はつる中将の部下です。命令であれば従うことが義務であり鉄則です。私はつる中将の決定事項に対して、納得する機会を頂きたいのです」
部下の言葉につるは目じりを下げた。
「本来なら、甘ったれたこと抜かすなと叱るべきところだけど……アンタ、支部上がりだったかい? ならまだ天竜人の任務に関わったことはないね?」
「……はい。本部の教官からは、覚悟だけはしておけと」
「そうだろうね……」
つるが立ち上がると椅子の脚が床を擦って音をたてた。
「……その任務に関わったものは皆、己が抱く正義と強制的に向き合うことになる。そうして向き合った結果、反発するか、折り合いをつけるか、心に背負いこむか……あるいは海軍から離れるか」
机の上に置かれた書類を一枚手に取ったつるは、そのまま海兵の前まで進む。
「どの選択をするにせよ、自身に合った納得のいくやり方を覚えるもんだ。教官の言ったことは正しい……けれど私に言わせればそれじゃ遅すぎる。海軍で長く続けたいなら、答えが見つからなくても良いから考え続けることだね」
「分かりました……肝に銘じます」
海兵の答えに、一つ二つとつるは頷いた。
それからつるの顔に諦念が混じったような微妙な表情が浮かぶ。
「今回のことなら、そうだね……ガープが居た、それで納得してもらうしかないね」
「……ガープ中将が?」
「あいつはね、自分の手の届く領分を良く分かっていて、その内にあるものであれば信念を絶対に曲げないんだ。ただ、困ったことに性格と実力の高さも相まって、他人の領分まで浸食するから手に負えない」
気の抜けた海兵の声が漏れた。
その海兵の様子を見たつるは「察しが悪いね」と小言を漏らす。
「私の船にこれからも乗るなら、ガープの件で苦労するってことだよ……この文書を食堂の扉にでも貼っておきな」
海兵の目の前に突き出された書類からは生乾きのインクの香りが漂っていた。
「了解しました…………船食いを、養女に……え?」
目を丸くした海兵は、寝息を立てる少女にくぎ付けとなった。
通達
海円歴1506年8月15日
以下の内容について指示する。
乗船している者は、本通達の内容を厳守し、外部への漏えいを固く禁ずる。
一 本通達の日に発生した事象に関し、箝口令を敷くものとする。
二 中将モンキー・D・ガープは、動物系悪魔の実の能力者であるツバメを養女としたものとみなす。
三 養女ツバメは、当該能力の副作用により羽が生じている状態にあるものとする。
四 本件に関連する費用については、規定に基づいたうえで、全て中将モンキー・D・ガープへ請求するものとする。
五 本通達は、他船との接触又は寄港の日をもって掲示先から取り除く。