リズミカルな音が快晴の大海原へ広がっている。
分厚い板を持ち、押さえ、咥えた釘を手に取って板へ金槌で打ち付けていく。手慣れた様子のガープがつるの船を修繕している音だ。
だが彼の眉間には皴が刻まれ、険しい顔をしていてどこか不満げであった。普段の陽気さとはまるで違う、近寄りがたい雰囲気につるの部下である海兵たちも遠巻きに眺めるばかりだった。
ガープの不満は他人の船を修繕しているからではなかった。彼の不満の源泉は怪鳥──いや自身の養女とした少女の顔を、あの夜から一目見ることも許されていないことにあった。
少女が眠りについてからすでに十日が経っていた。
ガープが部屋に行ったところで、眠る少女に対し助けになることなど何一つないのは彼自身も分かってはいた。つるには「邪魔だ」と水をかけられてしまっていたが、様子を見るくらいは良いんじゃないかという思いが燻っていた。
少女が目覚める気配は未だないが、無理もないだろうとガープは思う。元々満身創痍だった上に自身が行った拷問紛いの殴打を何度も受け、最後は船を粉砕せぬよう力を抑えたとはいえ本気で殴ったのだ。
あの一撃によって怪鳥の限界を超えたことで、止まることを知らない怪物は活動停止した。当然死んだわけではないが、そう表現しても誇張ではないほどに、獣型が解けて現れた少女はボロボロだった。
全身に残る殴打痕、一際大きな刀傷。赤黒く染まる薄汚れた裸同然の襤褸切れ。血に濡れた純白の髪に褐色の肌。身長と同程度の大きさの一対の白い翼。そして横腹に小さく刻まれた歪な形の忌わしい文様。
自らが纏う分厚いコートを少女にかけてやるのに躊躇はいらなかった。
それからつるの自室まで無我夢中で運び込み、乱暴に扉をあけて入ってきた船医が来るまでどれだけの時間を待ったか見当もつかない。
呼び出された船医はなぜ生きているのかが不思議なくらいだと驚愕していたが、つるの船に乗っているだけあって、腕は確かなようだった。ガープ自身も見たことがないほど少女は重い傷を負っていたが、一命を取り留めたと聞かされた際は胸が軽くなった。
船医には異常な生命力に感謝するんだなと恨み言を吐かれてしまったが、少女を傷つけたのは他でもない自分だという自覚はあるため、素直に頭を下げて感謝を告げた。
残り一本となった釘を打ち付ければ、とりあえずの応急処置は完了である。ガープ自身にできるのはここまでだ。あとは本部のドックに戻らなければ直せないだろう。
甲板に座り込み一息ついて空を見上げると、太陽が流れる雲に隠れ始めていた。
陰りゆく中、つるの寝台に寝かせた少女のか細い呼吸音が頭の中で反響していた。
あの小さな丸窓が三つあるだけの薄暗い部屋で──。
「ガープ。なにぼーっとしてんだ。修繕は終わったのかい?」
ガープの背後からつるの声がかけられた。
「今終わったところだ」
「……ツバメを養女としたことを後悔しているのかい」
「後悔か……」
今にして思えば、少しばかり判断を急いだとは思うが、後悔はしていないはずだ。
つると話し合ったあの夜、少女が抱える問題を背負えるのは己だけだと直感したのもあった。
「……いや、してねぇな」
「だろうね」
「おい、何で聞いた!!」
「湿っぽい面して、心あらずの雰囲気を感じれば誰だってそう聞くだろうさ」
からからと笑い声を上げるつるに、ガープはむすっとした顔を作った。
そしてつるは真面目な顔をしてさらに言葉を続ける。
「杞憂で良かったよ。最近のアンタの様子を聞いていたから、もしやと思っていたけどね……後悔の欠片でもあるようなら取り上げて私の娘にしたさ」
「あんな張り紙しておいて、そんなこと考えてたのか……」
「腑抜けた男にツバメだって育てられたくないだろうしね」
ガープは鼻を鳴らして立ち上がり、船べりに肘をついて果てのない海原を眺めた。
つるの船は現在、風に任せて漂流中だった。
漂流しているのは航行不能なほどに壊したからではない。つるの任務であった船食いの処理が、ガープの介入によって終わってしまったからだ。本部へ戻ればいいだろうと思うが、つるに聞けば「辻褄合わせってのも大変なんだよ」と悪態混じりに答えられていた。
そんな船中でガープ自身がすることと言えば、掃除くらいで何もすることがない。
ならばつるはどうだろうか。この船の長であり、マメな彼女であればやることなど尽きることはないはずだ。そうであるなら小突くような視線をぶつけ続けるのは一体何を意図しているのか。
「なんだ。まだなんかあるのか?」
己は名付け親であるにも関わらず、少女に会いに行くこともできない。用がないなら一人にしておいて欲しいものだ。
「……ツバメが目覚めたよ」
「本当かッ!!」
「おい! 待ちなガープ!!」
「なんだよおつるちゃん! 目が覚めたら会わせてくれるって約束だったろ!」
これ以上に制約を課すなら無理やりにでも会いに行く。そんな気概でガープはつるに食ってかかっていた。だが、つるの顔を見たガープは思わず動きが止まってしまった。見慣れた同期の顔にここまで複雑な心情を浮かべさせる出来事があったのかと、ガープは息を呑んだ。
「なんだ、何があった?」
「……ついてきな」
有無を言わせぬつるの気迫に、ガープは素直に従った。
船室が並ぶ廊下に続く扉を開け、そして角を曲がるとつるの部屋がある。その部屋の前には一人の海兵が直立不動で佇んでいた。
「私の部屋から誰も出ていないね?」
「はい。誰も出ておりません。物音もなく静かでした」
「……そうか。急に引き留めて悪かったね、元の作業に戻って構わないよ」
海兵は敬礼をして、持ち場へ戻っていく。
去りゆく海兵を横目にガープは「ツバメを一人にしたのか?」と苦言を呈したが、それにつるは答えることなく、部屋の中に入っていった。
ガープもつるの背を追って部屋へ入ると、散乱する書類や倒れたサイドテーブルが目についた。
「目が覚めてすぐ、ツバメはちょっとばかし暴れてね。今は船医に薬を打ってもらって眠ってる……書類を踏まないようにだけ気を付けてくれよ」
つるは転がっていた四脚の椅子を元に戻すと、そこに腰かけて寝台に眠る少女を見つめた。
「駆け付けた私が見たときのツバメは私の知らない言葉で慟哭していて、それから嫌だ、離れたくないと、助けを求めて泣き喚いていた……ガープ。絶滅したはずの希少種族に似た容姿もそうだけど、横腹の歪な文様、これは──」
腹の底に溜まった淀んだものをすべて吐き出すかのような、深く長いため息がつるの口から溢れ出した。
「これはアイツらがつけたもんじゃないね……ツバメ自身の爪で腹に刻んだのさ。自分達の権威の象徴である文様をアイツらが雑に刻むはずがない。どんな環境で過ごせばそうなるのか、考えるだけでもぞっとするよ」
それからしばらく無言になり、丸くなったつるの背にかける言葉をガープは持っていなかった。
「……こんな不幸が世の中にはありふれている。そんな当たり前のこと、海軍に入る前から分かっていたけれど、それを当たり前だと認めたくはないね」
「……そうだな」
珍しく弱音を吐いたつるの隣に立ったガープは相槌を打つに留めて、僅かに涙の痕が残るツバメの顔を眺めた。傷の具合もだいぶ良くなったのだろう。ゆっくりと上下する胸元の動きに胸を撫で下ろす気分になった。
波に揺られた船の軋む音を何度聞いただろうか。
少女はピクリと瞼を動かし、小さな口から吐息が漏れた。
ツバメに投与した薬の効果が切れたのだろう。ゆっくりと瞼を開けたツバメを前に、つるとガープの間に緊張が走った。
しかし取り越し苦労だったようだ。ツバメは視界に入り込む状況を確認するように視線をあちこちに泳がせていた。驚いてはいるようだが、先に聞いていたほどパニックになっているようには見えなかった。
そうして一時的な驚きも収まったのだろうか、ツバメのまっすぐな視線がガープとつるを射貫いていた。これは仕方のないことだろう。知らない場所、知らない人に寝起きで見つめられていては流石のガープも同じ行動をとるに違いないのだから。
ツバメがおもむろに起き上がると、首元までかけられていた毛布がずり落ちていった。現れたのはツバメの体形にフィットした子供用の海兵服だった。
子供用の海兵服など良く用意されていたものだとガープは感心した。そんな含意を込めた視線をつるに向ければ苦笑いを返される。その様子にガープは合点がいった。女性のみの部隊構成であるつるの船だからこそだろう。
再び視線をツバメに戻すと、彼女はずり落ちた毛布の裾を両手で繰り返し握りこんでいた。それから海兵服や寝台についても、押し込んだり擦ったりしながら感触を改めて確認していた。
どうにもその行為からは驚きと困惑が見え隠れしているように思える。やはりつるの読み通り、相当扱いの悪い場所で過ごしてきたのだろう。
そうして感触を確かめ終えたツバメは目覚めたときと同様に周囲を見回し始めた。ただし今度は念入りに、彼女の記憶に刻み込むようにじっくりと眺めていた。
ガープは少女に声をかける機会を辛抱強く待ち続けていた。下手に刺激することは逆効果だろうと考えたからだ。
ツバメが再びガープとつるを交互に見つめてきたとき、ガープは口を開いた。
「……気分はどうだ、ツバメ。痛いところとかないか?」
己の言葉を聞くのがつるで良かったとガープは思う。センゴクなら「お前そんな優しい声だせたのか」と揶揄われただろうから。
「お前はもう大丈夫だ。安心しろ、何があろうとおれが守ってやる」
身動ぎせず言葉を聞く彼女の様子を見ていると、ガープの胸中には拭いきれない違和感がにじみ始めていた。
「そうだ。お前の名前はツバメだ。名前が分からんかったからな、勝手に付けさせてもらった」
少女はこちらをじっと見つめていて話を聞いているようにも見える。
だが、言葉に対する反応があまりに希薄で、耳が聞こえていないか、あるいは動物に一方的に話しているような手応えのなさだった。
「ガープ……ツバメはこちらの言葉を理解していないよ」
「……おつるちゃん。いや、そんなあり得るのか? どれだけ酷い環境だろうと人と関わっているなら言葉を覚えんはずがない。耳が聞こえていないだけじゃないのか?」
パチリと指を鳴らす音が、つるの方から聞こえた。
ツバメは突然の音に目を見開いてピクリと反応するが、音の方向は分かったようだ。つるはネタ晴らしをするように自身の背の裏に隠していた手をツバメに見せてから、もう一度鳴らした。
「……私もこの目で見るのは初めてだけどね、ツバメは言葉を失ったんだろう……うちの船医が言うには、強い精神的なショックによって引き起こされるそうだよ」
俄かには信じがたい話だったがそれを裏付けるように、ツバメはちらちらと別の場所へ目を向けている。こちらの様子を伺いながらではあるが、理解できない言葉を話すだけで何の動きも見せない自分たちに飽きてしまったのだろうか。彼女自身の話をしているのに、それを彼女は理解していなかった。
「でも、こちらの顔色を伺って気持ちを察することはできるようだね……失ったものを補うようにそういった能力が発達したのだろうさ」
つるはツバメの視線の先にある瓶を手に取った。そして瓶を軽く振ると中に入っている飴玉がコロコロと鳴った。
その様子を見ていたツバメは指を差してにっこりと笑った。
「飴玉、がどうしたんだい? ツバメ、あめだま、が何かあるのかい?」
「……おつるちゃん、飴玉が欲しいんじゃないか?」
再びツバメは指を差してにっこりと笑う。
「あ・め・だ・ま。欲しけりゃ自分で言ってみな。言葉にして言わなきゃわからないよ」
「いや、おつるちゃん。なんでいじわるするんだ?」
「ガープ、いいかい? ツバメはね、こうすればもらえるって学習しちまってるんだ。人の形をした獣として扱うならそれでいい。だけど……ツバメは獣じゃない、人間だ」
ツバメは笑顔を浮かべているが、内心は混乱しているのか口元がひくひくと痙攣していた。
「無理にでも言葉を覚えさせていかなきゃ、こいつは一生を獣として過ごしていくことになるんだよ。それでも良いってんなら、お前が飴玉をやることだね。ツバメは周りをよく見てる。ガープが次の飼い主だとすぐに理解するだろうさ」
「……分かった、おれがやろう。おれはツバメの親だからな」
「そうだね。それがいい。せめて人と会話ができる状態……失われたものを取り戻さないとこの先、お前の手を離れたとき、こいつはまた元の生活に逆戻りだろうね……」
倒れたままのサイドテーブルを起こしたつるは、飴玉の入った瓶をその上に乗せた。
ガープは飴玉を一つ取り出すと、ツバメの目線に合わせて膝を折り、飴玉を乗せた手のひらを差し出した。そして少女がそれを手に取ろうとしたとき、飴玉を握りこんで隠した。
少女は一瞬驚きを見せたが、握りこんだ手を指差しにっこりと笑顔をつくる。その瞬間、己の拳に力が入ったのが分かった。つるが言っていた意味を真に理解したからだ。
ガープは空いたほうの手で自身を指差した。
「おれは、ガープ。言ってみろ。ガープ、だ」
小首をかしげるツバメにガープは根気強く繰り返す。
「……ぐらぷ」
舌足らずな可愛らしい声が少女の口から発せられた。
「おぉ! そうだ、よくやったぞツバメ! こっちは、つる、だ。言ってみろ」
「ちゅる……」
「よし、じゃあツバメ、もう一度だ、おれはなんだ?」
「ぐらっぷ……」
「う〜む……ちょっと違うが、まぁ最初はこんなもんだろ。ほらツバメ、飴玉だ……あっ」
先ほど拳を強く握りこんでしまったためか、ガープの手のひらの上で飴玉は粉々に砕け散っていた。
「すまんなツバメ。新しい飴玉を──」
立ち上がろうとしたガープの手にツバメが手が触れた。
正確には、砕けた飴玉が零れ落ちる手を小さな手で掴んで引き留めていた。ツバメの不可解な行動にガープは疑問の声を上げようとするが、続けてツバメが見せた振る舞いに言葉を失った。
ツバメは、砕けた飴玉の破片をガープの手のひらから舐めとっていた。一片たりとも無駄にしないよう、丁寧に、丁寧に。小さな舌が這う湿った生々しい感触は、ガープの神経を逆撫でていった。そうして舐めとり終わったツバメは、ベッドから降りて床に零れ落ちた破片に顔を近づけ──。
「やめろッ!!」
ガープは強い制止の声とともに、ツバメの両脇を抱え上げていた。
必死な形相にも関わらず、「なんで止めるの、もったいないでしょ」とでも言いたげなツバメは首を傾げていた。若干不機嫌にもなったのか、ぷらぷらと足を揺らしていた。
「まったく……言葉よりもツバメの染みついた癖を叩きなおすところからかね……」
つるは目頭を押さえながらボヤいた。