大切なもの、あるいは価値あるものというのは人によって様々だ。
書類が散らかった部屋に据えられた棚の上段に置かれた、円筒形のガラスの瓶に収められたものを目にしたとき、私は確信した。その透明な覆いの内側でキラキラと輝く宝石が、私にとってかけがえのないものだということを。
それは視覚異常によって一生を白黒の世界で過ごすのだと思っていたことも関係しているのかもしれない。目の前の制服を着た二人からどこか重苦しい雰囲気を感じつつも、私はその瓶の中身から目を離せなくなっていた。
私の視線が少しばかり露骨過ぎたのか、難しい顔をした女性が立ち上がり、私の見ているものをそっと手で持ち上げた。それから私の興味の度合いを測ろうとしているのか、瓶の中にある飴玉を強調するかのように上下へ二度三度と振った。カラコロと懐かしさを感じさせる音が耳に馴染むと、反射的にそれが欲しいと私は求めていた。
しかし女性はその綺麗な顔を怒ったように険しく歪め、手に持った瓶を指差し何度も似た言葉を口にしていた。私は何かを失敗してしまったのだろうが、それが私には分からなかった。
私は謝るべきなのだろうか。私自身が原因ならそうするべきだと思う。けれど彼女らの言葉は解らないし、私の知る行為が謝罪を意味するものかどうかも定かではない。人間と似ているが、異種であろうヒトが存在するこの世界で、私の持つ常識が通じるとは考えにくいのだから。
でもこの目の前にいる二人の人間は誠実そうな雰囲気を感じるし、女性は視線だけで私が何を求めているのかを推察することのできる知性があった。
ならばこの二人を信じて、私の知る常識で謝るのがきっと正しいことかもしれない。
そうして私が考え込んでいると、様子を見ていた大柄な男性と口論のようなやり取りが始まっていた。
口論はすぐに終わって女性はこちらに近づいてきたが、倒れていたサイドテーブルを起こし、その上に持っていた瓶を置いただけだった。
飴玉の詰まった瓶は少し身を乗り出し、手を伸ばせば届くところに置かれている。
差し込んだ日の光が飴玉を照らしてキラキラと輝いていた。
横から伸びた男性の手がコルクの蓋を外してぽんと小気味よい音をたてて中の紅いルビーのような飴玉を一つ摘まんだ。彼は私と同じ目線まで屈むと、砂糖の甘い香りが私の元まで届いた。
手のひらに置かれた飴玉を手に取ろうと手を伸ばしたが、ごつごつとした硬い拳の中に隠されてしまった。
欲しいものがすぐそこにあるのに、なぜ彼はこんなことをするのだろう。どちらの手に隠されたかを当てるゲームでもするのだろうか。
とりあえず笑顔を浮かべてみても、固く閉じた拳は開かない。もしかすると、そんなはずはないと思うのだが、笑顔はこの世界では良い意味を持たないのだろうか。
そのうち、彼は飴玉を拳の中に隠したまま、空いている手で彼自身の顔を指差し、何度も同じ言葉を繰り返し始めた。
自身を指差し同じ言葉を連呼する、つまりこの音が意味するのは彼の名前だろうか。赤ん坊に名を呼ばせようとする親のように、この男性は己の名を私に呼ばせようとしているのかもしれない。
「……ぐらぷ」
できる限り同じ音を発したつもりだったが、言葉を話す必要がなかった私の口は酷く錆び付いていて、聞こえる音をそのまま模倣することすらできなかった。
それでも彼は大層な喜びようで、釣られてこちらまで嬉しくなってしまうほどだった。それに笑顔を浮かべているところから、やはりこの世界でも笑顔は好意的な意味を持つことは間違いないようだ。
続けて彼は隣に立った女性を指差して、同じ言葉を繰り返す。先ほどと同様に私はその女性の名を口にした。心なしか男性の名前より発声しやすく、私の声を聞いた彼女もその瞬間だけは険しい顔を綻ばせていた。
そうしてもう一度、彼は自身を指差し聞き覚えのある言葉を口にした。
名前を呼ばれることがそんなに嬉しいのかと内心少し呆れたが、それに構わず私も再び彼の名を口にする。今度は発声に気を使ったからさっきよりましだと思うが、どうだろうか──ああ、首を傾げられてしまった。微妙だったらしい。
それでも反応が良く彼のコロコロと変わる表情は分かりやすくて、早くも私はこの男性に絆され始めているのを感じていた。
彼は満足したのか握りこぶしを開くと、力が入っていたのか飴玉は粉々に砕けていた。
新しい飴玉を取ろうと立ち上がる彼を引き留めるように、その手を反射的に私は押さえていた。そして無意識に彼の手のひらを舐めた。
甘味と生暖かさ、薄く舌に残る塩味を感じながら、私は強い自責の念を抱いていた。
この行為は余りに軽率で思慮に欠けている。けれども膿のようににじみ出た暗闇の底での経験が、私の愚行を止めさせてはくれなかった。
この二人は私のことをあの場所の人たちよりもずっと対等な立場で見てくれている。だから、できることならこのまま良い関係を築きたいのだ。
先ほど見回して分かったが、この部屋は足の踏み場がないほどにモノが散乱していた。ならこの部屋の掃除と片付けをするべきだろう。私に今できることはそれくらいしかないのだから。
私は寝台から降りて、まずは零れ落ちた飴玉の破片を集めようと屈むと、男性が大きな声を上げて私の両脇を抱えた。より近くなった彼の顔は苦汁を舐めたような歪みようだった。
もし私を抱えた行動と一緒に発せられた言葉が制止を意味するのだとしたら、掃除は、余計なことはするなという意思表示なのか。対等に見てくれていたと感じたのは、私の勘違いだったのだろうか。
でもそれなら、なぜそんな悲しげな顔をするのだろう。
──とはいえ、彼らの言葉が分からない現時点でそれを知る手段など存在しない。考えるだけ時間の無駄だ。
そんなことより、いつまで彼は私のことを持ち上げているのだろうか。足が地面に触れない感覚はそれはそれで新鮮だからこのままでも構わないが、そんな顔でずっと見られていると居心地が悪いのだ。
彼は私にこれ以上何もさせたくないのか、降ろそうとする気配が感じられない。
隣の女性に助けを求める視線を投げてみても熟考しているのか、気づいている節がない。
彼の腕を叩いてみて嫌がる素振りを見せてみようか。いや、やめておこう。万が一悪い方向に行きでもしたら目も当てられない。これ以上関係を悪化させるわけにはいかないのだ。
やはり彼女が思考の海から浮かび上がるか、あるいは直情的なきらいがある彼が落ち着くまで私は待つしかないのだろうか。まぁ、彼らもお腹が空けば状況は動くだろう。待つのは慣れているし、空腹に抗うことなどできないはずだ。
ああ。そうだ、忘れていた。私には覚えたばかりの言葉があったじゃないか。
「……テュル……ちゅ、ち、ル? ……チュる」
何かが違う。やはり難しい。彼の発声はもう少し軽い感じの音だったはずだ。
「……つ、ちゅ……つ、る」
音の具合はこのくらいだったはずだと、練習を続けていると、俯いて口元に手を当てていた彼女がゆっくりとこちらに視線を合わせた。
私の拙い言葉が伝わったようで何よりだ。それに彼女にとってはこれは予想外だったようで驚きの表情を浮かべていた。
あとは、そうだ、もう何度か彼女の名前を聞かせてくれないだろうか。そうすれば彼女の名前をしっかりと言える気がするのだ。
願いが通じたのか、彼女はまだ私には分からない言葉を混ぜながらも、自身の名を一語ずつ口にしてくれていた。
彼女の発声に合わせて、私は彼女の名前を繰り返す。
「つ、ちゅ……つる。つる」
頬を緩めた彼女の名前はつるというらしい。
気持ちの良い満足感に浸っていると本来の目的を忘れそうになってしまう。
「つる、ぐあブ」
名前とボディランゲージ、そして彼女の──つるの察しの良さに期待して、私は男を指差しながら二人の名前を連呼する。果たして思いは伝わったのか、つるが窘めるような目つきで私を掴む男性と話を始めた。
話し声に耳を澄ませていると時折、つるの名や、先に聞いた男性の名が出てくるのが分かった。矢継ぎ早に出る音声は私には聞き取りにくく分かりにくいが、ガープというのがこの表情豊かな男性の名なのだろう。
何往復かした会話を経て、理解と納得と不服が混ざったような顔をしていたガープは、一瞬私を掴む手に力が入ったのち、遂に私をベッドに降ろしてくれた。それからガープは改めて飴玉を手に取り、私が器のような形にした手のひらの上へ置いた。
私はそれを摘まむと丸窓から差し込む日の光に当てて、キラキラと輝く飴玉をしばらく眺め見ていた。くすんだ赤色で透明度は低いものの、宝石の原石のような美しさがそこにあった。そして口の中へ入れれば、思い描いた通りの味が溶け広がっていく。
コロコロと口の中で転がせば軽やかな甘味が新しく上塗りされて、飽きることなく舐め続けることができた。そうして甘くなった唾液を飲み込むと、私の身体は快楽を錯覚したかのようで思わず吐息を漏らしたくなってしまう。
不意に頭の上に大きな手のひらが乗せられた。
私は湧き出る不思議な懐かしさを感じ、飴玉の甘さも相まって心が解けていくようで、その手を取り頬擦りした。
一種の幻覚を見ていたような夢心地はいつの間にか過ぎ去り、言葉にできない感情が溢れ出て暴走していた私は、こちらをじっと見つめている二人の姿にようやく気が付いた。
私にまだ何か用があるのだろうかと首を傾げていると、ガープという名の男性が再び彼自身を指差しその名を口にし始めた。彼はどうしても正確な名前を呼ばせたいのだろうかと思ったが、先の行動とは少し違う気がした。
彼自身の名を呼ぶ、つるの名を呼ぶ、そして私を指差して言葉を口にする。
少し考え、なるほどと私は得心がいった。
ツバメ。
どうやらそれが私の名前らしい。