お昼休み。
聖は一年生の教室を尋ねていた。目的はお弁当とその調理人。
二年生なんて見慣れているだろうに、すれ違う一年生たちは聖を遠巻きに眺めてはしゃいでいる。
「ごきげんよう。白薔薇の蕾。」
周りの視線が煩わしいと思い始めた時だった。眉の太い、気の強そうな顔つきの少女が声をかけてきた。
「桜さんなら音楽室からまだ戻ってきていませんよ。」
「そう、教えてくれてありがとう。」
同じクラスには正式な蕾の妹である令がいるというのに、ご用があるのは桜だと疑わない少女。話が早いのは嫌いではないけれど見透かされているようで不快だった。
いつもの中庭のベンチで待とうと行きかけた足を止めた。理由はただの好奇心。桜のことならなんでも知りたい私は、彼女が音楽室に残った理由を知りたかった。
二重扉の外側の取っ手を引くと、隙間からピアノの音が聞こえた。曲名はわからないけれどクラシックであることはわかる。どこか弾んだ調子の音色は演奏する喜びに溢れている。邪魔をしないように静かになってから、そぉーっと扉を開けた。
「きゃっ。」
すると可愛らしい悲鳴とともに胸のあたりに紅い頭が飛び込んできた。
「うわっ。」
「わっ。」
なかなかの勢いで飛び出したようで、たたらを踏んでも踏ん張れず、尻もちをついた。
「っ痛。」
肘をついて上体を起こすと、胸からお腹にかけてやわらかい圧迫感があった。両肩には小さな手が置かれ、鮮やかな真紅の髪が帳のように聖の顔を覆った。
「う、ん。」
うめき声とともにあげられた顔。透けるような白い肌には産毛すら見当たらない。長いまつ毛に縁どられた深い緑色の瞳には呆けた聖の顔が映っていた。
事故とはいえ、桜から触れられたのは初めてだった。
何が起こったのかすぐにはわからないようで、吐息がかかるような距離なのに聖の上から逃げようとしない。心臓が太鼓のように激しく打ち鳴らしている。
「大丈夫ですか?」
「佐藤さん。大丈夫?」
音楽の先生と桜と一緒にいたであろう生徒の慌てた声が聞こえた。
「桜、立てる?」
「うん。」
桜を差し出された手を素直に掴んで立ち上がった。助け起こした髪の長いその生徒は、大人びた雰囲気で上級生かと身構えたけれど、桜の接し方からして一年生のようだ。離れていく重さを寂しく思いながらも聖も立ち上がる。
「佐藤さん、頭打ってない?」
「大丈夫ですよ。」
桜が飛び込んだ胸がジンジンと痛かったけれど言わなかった。桜はぶつけた花が痛いのか涙声で頭を下げた。
「聖さま、申し訳ございません。私が前を見ていなかったばかりに押し倒してしまって。」
「私のほうこそごめんなさい、モーディー。そちらも驚かせてしまったわよね。」
もう一人の生徒はまさか自分に声をかけられると思わなかったのかキョトンと目を丸くしていた。
「いいえ。お二人に怪我がなくてよかったです。」
華やかに微笑む彼女。今、思い出した。合唱部の期待の新入生として注目されている蟹名静さんだ。以前、紅薔薇さまが薔薇の館に書類を提出しにきた合唱部の部長とお話をしているときに、ちらと話しに出てきた。確か、彼女は桜と同じクラスではないのに、どうして一緒に音楽室にいたのだろう。
その後、桜とお弁当を食べながら尋ねたけれど答えてくれなかった。
「モーディーのけち。」
「けちで結構です。」
悪態を涼やかに受け流して、黄金色のクッキーの入ったタッパーを差し出した。
「久しぶりに作ってみたんです。よかったら食べていただけませんか。」
「いいの?」
普段はこういう差し入れは断るけれど、桜のは別だ。バターのいい匂いのするクッキーをサクサク食べていると、桜は穏やかな表情で聖を眺めていた。
他人に干渉されることがあんなに嫌だったのに、不思議なもので目の前の少女にだけはもっと関わりたいと思う。リリアンに通う生徒は裕福な家庭のものが大半だから、どこかおっとりしてスレている少女はほぼいない。素行が悪くて退学を言い渡された生徒は聖が知るかぎりいない。
よく言えば純粋、悪く言えば世間知らず。
それが聖の持つ同級生達への眼差しだった。
善良な彼女たちを穿った視点からみてしまう己のひねくれ具合は本当にどうしようもない。自分も彼女たちのように素直に生きていくことができたらどんなに楽だろうと考えたことがある。
(そのままずっと見ていてほしい)
他の誰もみないで。
私にだけ優しくして。
そうしたら私は素直な私のままでいられるから。
桜の前では聖は偽らず、卑屈にならず、力をぬいて過ごすことができる。固く閉じた蕾がうららかな日差しにふわりと咲くほころぶように、まだ会って数か月だというのに、共に過ごした一日一日が私の心も少しずつとかしていく。
桜と出会ってから私は驚くほど積極的になったと思う。
彼女は私に好意を持って接してくれているけれど、決して近づいてこない。抱きしめても薄い膜を隔てて触れているような気がする。やわらかさや肌の熱さは本物だというのに。
手始めに桜の登校時間や通学路を調べて重なるようにした。薔薇の館の雑談で目星をつけながら。最初は校門で待ち伏せして、次は駅やバス停で時間帯を探って。
我ながら執念深いと思う。
これでは江利子のことを笑えない。私は彼女よりもしつこく、粘着的に桜をつけているのだから。
調べてみてわかったのは桜の交流関係は広いということ。教室から一緒に連れ添ったりバス停で会ったり、その場で会った人に気軽に声をかけて楽しそうにおしゃべりしている。
桜は受験組だから知り合いは少ないだろうと思っていたけれど、認識を改めないといけない。三年にいる桜の従姉の久仁子さまが裏で手をまわしたのだろうか。聖は密かに久仁子さまが桜のお姉さまになるのではないかと警戒してた。
まあ、一番の難敵は桜本人なのだけど。
桜はよっぽどのことがなければ聖の頼みを何でも聞いてくれるのに、姉妹の申し出は断る。一度、既成事実を作ろうと隙をみてロザリオを首からかけようとしたら、祥子の影から出てこなくなった。さりげなくアシストしてくれる令と違って祥子は手ごわい。
直情型で曲がったことが大嫌いだし、筋を通すことに重きをおいているから、姑息な手段をしている限り味方になってくれない。邪魔するわけでもなく中立公正なのはありがたいけれど。
だから、聖は清く正しく桜にアプローチする。
「ねえ、モーディー。一緒に帰りましょう。」
「ぜひともお願いいたします。」
桜は先約がない限り誘いを断らない。聖も拒絶されるなんて露ほども思っていない。私たちの関係は傍からみればアンバランスだろう。
しかし、この関係が心地よい。
相応しい名前がなければ無理につけなくていいと思う。けれどできないのは聖が桜を独占したいから。
(私以外を姉にするなら姉妹制度になんて興味をもたないで)
モーディーを誰にも渡したくない。もしも、彼女が私以外の妹になったら。そう考えるだけで心の中がどす黒いものでいっぱいになる。身勝手な願いが当たり前になったときだった。志摩子が現れたのは。
「あ、志摩子ちゃん。久しぶりだね。」
見知らぬ中等部の生徒を見つけて、桜は聖をおいて「シマコ」という少女のもとに駆け寄った。
「桜さん!」
飼い主を見つけた犬のように駆け寄るシマコを満面の笑みを浮かべて抱きしめた。
面白くない。
私が抱き着くとすぐに離すのに、その子には自分から触れるんだ。そう思うと途端に中等部の少女が目障りに感じた。桜を取り戻して敵意を隠さずに尋ねた。
「ねえ、モーディー。その子は誰かしら。」
我ながら幼稚だ。
母親を下の兄弟にとられたような感覚といえばよいのか。桜を独占したい。私だけのものにしたいという気持ちが鎌首をもたげて誘惑してくる。
シマコは今更、聖の存在に気付いたようでそれも気に食わない。青灰色の瞳が名残惜しそうに桜を見つめているのも。
「拗ねないでくださいよ。今、紹介しますから。」
「それには及ばないわ。この子に直接聞くから。」
ギャップのある少女だと思った。
色の薄いやわらかそうな癖っ毛と白い肌。匂いたつ薔薇の色の頬に優しそうな垂れ目。しかし、その目は芯のある輝きを放っている。人形のような可愛らしい外見に騙されたら痛い目をみそう。
「私は佐藤聖よ。あなたの名前を伺ってもよろしいかしら。」
「ごきげんよう。白薔薇の蕾。私は中等部の3年の藤堂志摩子と申します。」
祥子とは異なる意味で妹にしづらそうな下級生だ。2年離れた上級生相手にも物怖じするところがない。
「ちょっと聖さま!放してください。」
「うーん?」
目の前の下級生をどうやって追っ払おうか考えながら桜を撫でていると、志摩子は羨ましそうな表情をしていた。その顔をみて少しだけ溜飲が下がった。いくら入学前から知り合いでも、こんなことができるのは年上の聖だけの特権だろう、と勝ち誇ろうとしたときだった。
「ちょ、ちょっと志摩子ちゃん?」
おもむろに志摩子は桜の頭を撫で始めた。白い指で赤い髪を漉くように何度も、何度も。
「桜さんは相変わらず可愛らしいですね。」
「私は可愛くないよ。」
「そういうところがですよ。」
桜も困惑しながらも嬉しそうにみえる。
「志摩子さん、だっけ?」
無意識のうちに口が動いていた。
「確かにモーディーは可愛いけれど、あなたより年上よ。上級生にたいする態度ではないわ。」
「白薔薇の蕾。」
「モーディーが嫌がらないことをいいことに頭を撫でるなんて。私だって許されたのは最近だっていうのに。」
「申し訳ございません。」
志摩子は青ざめた顔で謝った。
気に食わなかったとはいえ年下の下級生を怖がらせるのはやり過ぎた。少し脅しすぎたかなと思ったら、モーディーが腕の中からの抜けだして志摩子のことを抱きしめた。
「白薔薇の蕾。志摩子ちゃんを苛めないでください。」
「モ、モーディー?」
「志摩子ちゃんは大事な幼馴染なんです。志摩子ちゃんにされて嫌なことは一切ございません。むしろどんとこいです。『さま』づけされる方がショックです。」
胸を張って宣言する桜。
子猫を守る母猫みたい。子どものほうが大きいのはご愛敬か、それとも皮肉か。
「ねえ、モーディー。そちらの志摩子さんとはどういう関係なの?」
「幼馴染ですよ。前に住んでいた家が志摩子ちゃんの家の近所だったんです。」
桜が自慢げに説明する。とろけるような甘いまなざしは志摩子だけに注がれている。
「桜さまの仰る通り、家が近所だったんです。幼稚園と小学校は同じ学校でした。」
「中学校は志摩子ちゃんがリリアンに進学したから別になっちゃったけどね。あと『さま』づけ禁止。」
「かしこまりました。桜さん。」
ズルい。
「羨ましい。私もモーディーと同じ学校に通いたかった。」
「まさに今、通っているじゃないですか。」
「そうだけど。ランドセルを背負ったモーディーを見てみたかった。」
どうして私がそこにいないの。
私だって桜のことが好きなのに、大事にしたいと思っているのに。出会った時期が早いか遅いかだけで優劣をつけるなんてあんまりにも理不尽。
「あの。白薔薇の蕾。一つ伺ってもよろしいでしょうか。」
「何かしら。」
恐る恐る尋ねてきた志摩子にぶっきらぼうに返事をした。桜に愛された彼女は、これ以上何を言うのだろう。身構えた私に尋ねられたのは、予想外のことだった。
「白薔薇の蕾は桜さんのお姉さまですか。」
お姉さま。私が桜のお姉さま。志摩子にはそのように見えているのか。
「あなたには私とモーディーが姉妹に見えるの?」
「はい。とても仲睦まじい様子なので、てっきりそうなのかと思いましたが違うのですか。」
現金なのもので姉妹と間違われて私の心は晴れやかになった。
「そうよ。私たちは姉妹なの。」
「違うよ。私たちは姉妹じゃない。」
でも、桜は否定した。
一歩横にずれた足が小枝をポキリと折った。
「私は山百合会にお手伝いで呼ばれているだけのただの一年生。白薔薇の蕾とは姉妹でも何でもないから。」
「姉妹になるのは決定事項よ。ただロザリオを渡すのが早いか遅いかの違いでしょう。」
聖が一歩詰め寄ると、桜が一歩後退する。
「いいかげん。諦めてくださいってば。もっと相応しい人がいるはずです。」
「なら連れてきなさい。そのうえで貴女に姉妹の申し出をするから。」
桜は一瞬だけ顔を強張らせた。何か罪を犯してしまったような辛そうな顔だった。すると何を思ったのか傍にいた志摩子を前に押してきた。
「え?」
「え?」
自然と聖と志摩子は見つめあう位置になる。
「例えば志摩子ちゃんなんてどうでしょうか。」
「え!?」
呆気にとられた様子の志摩子を置き去りにして桜はがま油売りの口上のように志摩子の長所を並べていく。
「ふうん。とっても優秀なのね。志摩子さんは。」
「そうです。白薔薇の蕾の妹にこれ以上相応しい人はいません。」
胸を張る桜に聖は冷たい眼差しを向けた。
桜は私のことを一番に考えてくれているようだけど、それを聖が望んでいないといつになったらわかってくれるのだろう。いい加減じれったくなってきた。
グイっと桜の腕を掴んで志摩子の背中から引きずり出した。音楽室のときのように私の胸へ勢いよく飛び込む。「妹になる」と言うまで、永遠に腕の中に閉じ込めてしまおうか。
「残念。貴女の審美眼では私のオーダーは完遂できないみたい。」
「で、では合唱部の歌姫はどうですか。蟹名静さんという、」
「モーディー。」
往生際の悪い下級生に優しく言い聞かせる。
「いい加減観念なさい。私はモーディーを妹にしたいの。他でもない貴女を。」
「聖さま。」
「頷くまで離さないわ。」
緑の瞳が不安げに揺らめくが腕の力を弛めない。受け入れるか、諦めるか。二択を迫る私は桜には悪魔にみえることだろう。
「桜さん。」
もう一人、悪魔が増えた。
「し、志摩子ちゃん。」
「何ですか。」
桜の背中に張り付いて、とろけるような甘い声で誘惑する。
「私のことも妹にしてください。してくれるとお約束するまで離しません。」
「志摩子ちゃんはまだ中等部でしょう。」
「お願いすることは禁止されていませんから。」
匂いたつような美しい顔を近づけ、穏やかな聖母のような表情で懇願する様子は並みの生徒なら一発で落ちるだろう。
「ピュー、志摩子もやるねぇ。」
この子と私は同類だ。
桜が大好きで、独り占めしたくてしたくてたまらない。気に食わないところはあるけれど共同戦線をはってもいいかなと思った。
「はいと言いなさい。」
「約束してください。」
その後、突然くたりと気を失ってしまったときは驚いたし、薔薇の館に連れられて他家の生暖かい視線を受けながらの白薔薇様の説教はなかなか堪えたけれど、諦めるつもりは毛頭ない。志摩子も神妙な顔をしているが今後も変わらず桜に迫るだろう。
悪魔の姉と妹に挟まれた哀れなモーディー。彼女の不運はかの不滅のアリス以来最も可愛らしく、最も感動的で最も愉快な子であったこと。だから厄介な人間たちに好かれてしまうのだ。