「桜さん?」
少女が1人、そこに立っていた。ふわふわの巻き毛に陶磁器のような白い肌は西洋人形のように可愛らしい。
固まっている桜に、少女は戸惑いながら呼びかけてきた。
「どうされたのですか?」
志摩子ちゃん。
優しく芯のつよいひとつ下の女の子。見かけに反して銀杏や煮豆とか渋いものが大好きで、穏やかなしっかり者。
そして、笑うと桜の胸に蝋燭が灯るように明るく照らしてくれる素敵な女の子だ。
初めて愛しいと思った相手。
生きている人間と思えた相手。
だが、今は会いたくなかった。
桜は彼女からの妹の申し出を断っている。ロザリオをくださいと言う彼女の言葉を無視するどころか避けているぐらい。
「なんでもないよ、」
「そのようには見えません。」
志摩子ちゃんの顔が苦しそうに歪んだ。
「申し訳ございません。きっと桜さんの悩みの原因は私にあるのでしょう。ごめんなさい。桜さんが誰かにロザリオを渡すところを想像したら、居ても立ってもいられなくて。」
「……どうして私の妹になりたいの。」
納屋で母親の形見のロザリオをじっと見つめる志摩子ちゃんを思い出した。一枚の宗教画のような厳かな光景の前に桜は敗北したと感じた。
「志摩子ちゃん。あなたはシスターになるのでしょう?だったら、私との姉妹関係は足枷になるよ。」
一瞬、志摩子ちゃんの表情が怯んだ。
しかし、それはほんのちょっとの間のことで、すぐにはっきりした言葉で答えた。
「そう感じることはない、とは言い切れません。私は今でも信仰の道に進みたいと思っていますから。いつでも身軽でありたいと願っています。」
やはりそうか。
世界は違っても彼女の在り方は変わらない。
うつむきかけた桜の耳にふいに、明朗な声が響いた。
「父は言いました。お前はまだ宗教の何足るかを知らない、と。実際、私にはわからないことばかりです。でも、惑うことがなければいつかはわかる日がくると思っていました。」
微かに混じった否定の意に桜は静かに尋ねた。
「今はそう思っていないの?」
「はい。」
そうだと、志摩子ちゃんは微笑んだ。
「惑うことで見つける道もあると、そう思っています。揺らぎながら迷いながら進む道のほうが、もしかしたら豊かな道なのかもしれません。前を見てばかりいては野端に咲く花に気づけませんから。」
「……惑うことで」
桜は自嘲的な薄ら笑いを浮かべた。
「なら、私は志摩子ちゃんを迷わせる悪魔ということになるね。私は志摩子ちゃんから離れるべきなのだろう。」
「違います。」
志摩子ちゃんはきっぱりと言った。
「桜さんがその花なのです。」
「私が……」
「そうです。桜さんがいると私の世界は美しいものになる。あなたと過ごした日々、あなたへの想いが、より神様への感謝を強くしてくれる。」
志摩子ちゃんの言葉は乾いた砂に水が染み込むように桜の心に届いた。桜は純粋に驚いた。志摩子ちゃんがそれほどまでに自分を想ってくれるなんて、とても信じがたかった。
「けれど……いつかは選ばないといけない日がくるかもしれない。神様か、道端の花かを。」
「そうかもしれませんね。」
けれどと、志摩子ちゃんの声に力がこもった。
「けれど、私はあなたを諦めません。」
なんて我が儘なんだと呆然とした。口の中はからからで、声は喉の奥に引っ込んだ。
にっこりと志摩子ちゃんは笑った。
「私がリリアンに入学した日を覚えていますか?」
「覚えているよ。」
「この桜の木の下で写真を撮ったことも?」
「……覚えている。」
入学式の日、おじさまは法事があって来られなかった。代わりに桜がカメラマンを仰せつかった。
(本当に綺麗だった)
清らかに淡く美しく咲き誇る桜の木の下に志摩子ちゃんを立たせて写真を撮った。ちらちらと雪のように舞い散る花弁を髪に受け、微笑む少女はまるで春の精のように神秘的で、そのまま薄紅色の霞に消えていくのではないかと切なくなった。
「あれから二年か。」
「三年目の春、今度は私が写真を撮りたかったのに。声をかける前に帰ってしまって、少し残念でした。」
「ごめんね。」
「いいえ。約束していませんでしたから。」
志摩子ちゃんは苦笑してかぶりをふった。
でも、期待していたのだろうなと思うと胸が痛くなった。
「だから、約束してください。来年の春は私と一緒にこの桜をみてください。」
「……いいよ。」
「そして、私にロザリオをください。桜さんは嫌かもしれないけれど。」
苦しげに志摩子ちゃんは喘いだ。
「桜さんが姉妹関係を結びたくのは知っています。けれど、誰かがその立場になるかもしれないと思うと不安なの。だから……だからできれば私を妹にして。」
泣きそうになりながらも、なんとか言いたいことを言いきった少女。その健気さに、桜も応えなくてはならない。
「あのね……正直に言うとね。私に志摩子ちゃんへロザリオを渡す気はなかった。」
花が枯れるように志摩子ちゃんは項垂れた。それを見るだけで心が痛む。潤んだ目から涙が溢れる前に急いでつづけて言った。
「だけどね。昔からずっと、志摩子ちゃんのことは妹のように思っている。」
「え?」
「私は志摩子ちゃんのことが好きだよ。志摩子ちゃんが笑顔だと嬉しいし、悲しそうにしていると胸が苦しくなる。」
この世を現実と思えず、どこか空虚で夢見心地な桜に、生きている実感を思い出させてくれた。そんな少女が、私はとても愛おしかった
もっともっと頼ってほしい。甘えたいなら、いくらでも甘やかしてやりたい。そして、ずっとそばにいたいと願っていた。
だからと、桜は約束した。
「志摩子ちゃんが諦めないというのなら約束する。次の春、私はあなたにロザリオを渡す。」
「桜さん。」
志摩子ちゃんは嬉しそうに目を細めた。
白睡蓮のような純粋無垢な笑顔。その清純な微笑みに、少しだけ残っていた後ろめたさも消えていく。
「ありがとうございます。」
そういって志摩子ちゃんは桜を抱きしめた。驚きで身がこわばったけれど、恐る恐る抱きしめかえした。温かい。志摩子ちゃんの体温がこちらに伝わってくる。
あまりの愛おしさに、桜の頬を涙がつたった。
(ああ、あの人のところにも行かないと)
まだあの人が桜のことを、私に愛想を尽かしていなければいいのだけど。と考えてかぶりをふった。
いいや、断られたら何度も申し込めばいい。根気よく数え切れないほど声をかけてくださったのだから、今度は桜から。あの人が心の底から拒絶するときまで伝えつづけよう。
分厚い雲の隙間から西日が射してきた。
一直線に地上に突き刺す光は、濡れた木の葉や屋根を照らして幻想的で美しい。
もうすぐ梅雨があける。