もうすっかり忘れてしまった。
いつの間にか、貴女は私の背丈を越していた。
セーラ服がよく似合う貴女が他人に見えたっけ。
桜並木の下で。
ライカのレンズごしに見る貴女は、本当に綺麗だった。
8話 幼馴染の想い出は
「どうして桜はリリアン女学園を受けようと思ったの?」
「あ。それ私も気になっていた。」
その日は薔薇様方は集会で、二年生は修学旅行の説明会があるとかで薔薇の館に一年生しかいない日のことだった。何かの拍子に祥子が入学した経緯について尋ねてきた。
「そうだね。」
「もったいぶらないで教えてよ。」
私は手元のカップを両手で持ちながら考えていた。正直に好きな作品の聖地巡礼に来ました、なんて言ったら病気を疑われるし、将来を考えてというのも理由には薄いし。乃梨子ちゃんみたいに親戚の顔をたててというのもない。
「幼馴染がいるからかな。」
「幼馴染?」
無意識のうちに答えていた。
「うん。中等部にさ。小さいころから遊んでいた幼馴染がいるの。」
脳裏に浮かぶのは可愛らしい幼馴染の面影。
リリアン女学園に入学するときに、再会したらどんな顔をするだろうと思ったこともある。
幼馴染、志摩子ちゃんに会ったのは小学校に上がる前のことだった。物心つくかつかないかの頃だから、彼女が覚えているかどうかはわからない。
けれど、私は志摩子ちゃんと初めて会った日を覚えている。
私は4歳、志摩子ちゃんは3歳だった。
「御覧、桜ちゃん。志摩子というのよ。」
「しまこ?」
お母さんと一緒に尋ねたお寺で、住職の奥さんに紹介された。志摩子ちゃんはまだ赤ん坊みたいに小さくて奥さんの腕の中でぐっすり眠っていた。
「年は桜ちゃんの一つ下よ。大きくなったら遊んであげてね。」
「うん。もちろん。」
「よかったね、桜。前に妹が欲しいって言っていたじゃない。」
そのとき、私は志摩子ちゃんが原作の登場人物だということも忘れて、奥さんの言葉に頷いた。私は前世のころから妹や弟といった下の兄弟に憧れていたから嬉しかったのだ。
近所には私たち以外に子どもがいなくて、遊び相手はお互いの他にいない。もちろん、幼稚園に行けばいるのだけど、家に帰った後や休みの日に遊べる友達は2人だけ。志摩子ちゃんのお兄さん(厳密には叔父さん)の賢文さんも遊んでくれるけれど、干支が一回り以上も離れた高校生だし、お寺にいても修行で忙しそう。
「志摩子ちゃん。こんにちは。」
「さくらちゃん!」
お寺に遊びに行くと、いつも志摩子ちゃんは笑顔で駆け寄ってきてくれた。高等部で讃えられた美貌は幼いながらも、あどけなさの影に隠れていて、お人形さんのように可愛らしい。
賢文さん曰く、母親のユリアさんは肌が白くて柔らかそうな茶色の髪の持ち主だという。父親の准至さんも天女のようにきれいな顔をしているというから、志摩子ちゃんが将来美人さんになるのは約束された未来なのだろう。
ふわふわの栗色の髪に薔薇色のほっぺ。
形のよいおでこにキスをすると、にっこりと微笑み、口元にはエクボができる。志摩子ちゃんのほうからもお返しに桜のほっぺにキスをしてくれたっけ。
はっきり断言しよう。
大島桜は志摩子ちゃんのことをこれ以上ないというほど甘やかしていた。それでも我が儘な子どもに育たなかったのは、彼女の生来の気質だろう。
原作通り、12歳になる年に住職に勘当してほしいと申込んだからね。志摩子ちゃんの信仰心は私という変数もものともしないほど厚いものだと証明された。別に悲しくなんてないんだからね。
お寺でかくれんぼをしていたら、納戸で蓋を開けた行李の前に座っている志摩子ちゃんを見つけた。私が近づくのも気づかずにロザリオを手にとって眺めていた。
「志摩子ちゃん。」
「あ、桜ちゃん。」
声をかけると細い肩が軽く跳ねた。
(原作通りの展開だ)
私の記憶が正しければ、そのロザリオは志摩子ちゃんの母親の物だった。准至さんと一緒になるために駆け落ちしても、最後の最後に捨てきれなかった信仰心の象徴。
「これは何というのかしら。」
「それはロザリオというんだよ。」
「ロザリオ。」
うわ言のように呟く志摩子ちゃん。原作で教えたのは誰だったのだろう。もしかしたら賢文さんだったのかもしれない。図らずも私は志摩子ちゃんに信仰心が目覚めた瞬間に居合わせた。
「きれいね。」
「そうだね。」
幼い子どもの心は感じやすい。
大人の老いた心とは違う瑞々しい心だ。
水晶のような瞳に映ったロザリオはどんなものか知らないけれど、きっと桜が思うよりも美しいのだろう。それはきっと地獄で犍陀多が見つけた天上の蜘蛛の糸のような儚い煌めき。
志摩子ちゃんが両親を恋しがってすすり泣くのを慰めたことがある。母の日だった。一緒の布団で寝ていたときにポツリとカーネーションをお父さんのお墓に備えたのだと打ち明けてくれた。母親のユリアさんの遺骨は九州の教会に葬られている。だから、代わりに父親のお墓に備えたのだ。
私は何も声をかけられずに、ただただ小さな背中を摩っていた。ぼやけた視界でどうして神様はこんないい子に試練を与えるのだろうと思った。このとき、始めて私は志摩子ちゃんが本の中の登場人物ではなく、生きた人なのだと実感できた。
納屋で見つけたロザリオはユリアさんの愛の証。顔も知らない母親の温もりが残る形見は、彼女を淋しさも苦しみからも救ってくれる。どうか、娘の志摩子ちゃんを天国から見持ってくださいと、私はロザリオに見惚れる志摩子ちゃんの後ろで祈っていた。女神様ではなく、彼女の母親が信じる神様に。
その後、近所の公立の中学校ではなくリリアン女学園に進学した志摩子ちゃんとは、疎遠になってしまったけれど。手紙や季節の葉書などのやり取りは細々と続いている。
「じゃあ、桜はその幼馴染が心配でリリアン女学園に来たわけ?」
「それだけが理由ではないけれどね。」
「ふうん。」
両親が外国に行くにあたって、久仁子さんも通っている学校のほうが安心できたというのもある。家からも通いやすいし。それにくどいようだけどオタクとして通いたかったというのもあるし。
「名前は何というの?」
「来年、高等部に上がるからその時にね。」
「ということは私たちの一個下の学年か。」
令が面白くなってきたというような表情をしている。まるで姉の江利子さまみたい。黄薔薇ファミリーだと令だけ毛色が違うように感じるけれど、興味を惹かれたことや面白いことに関心を持つという根っこの部分は共通しているのではないかと思う。江利子さまの妹になった理由もそういう感じだったし。
「桜はその子を妹にするの?」
「え?しないよ。」
「桜にはその気はなくても向こうにはあるかもしれないわよ。」
「まさか。」
話しているうちに階段を誰かが登ってくる音が聞こえてきた。時計をみるとそろそろ集会も説明会も終わっている時間だ。薔薇様方か蕾の方々か。丁か半か。
「モーディーいる?」
正解は蕾でした。
聖さまは入ってくるなり、荷物を放り出して椅子に座っている桜を抱き上げて膝の上にのせた。あまりの早業。こんなの私じゃなかったら見逃しちゃうね。(そんなことはありません。)
「あー。疲れた。」
「聖も江利子もしゃっきりしなさい。」
「別にいいじゃない。」
「そうよ。そんなにカリカリしていると眉間のしわが深くなるわよ。」
「誰のせいよ!」
江利子さまと蓉子さまも部屋に入ってきた。祥子と令が手分けしてカップをだしてお姉さま方の紅茶を準備している。私も加わろうとお腹の前に回されている腕をくぐって二人のもとに行く。
「脱出するのも手馴れてきたわね。」
「だって誰も助けてくれないからね。」
祥子と軽口を叩きながらケトルでお湯を沸かしていると、後ろの蕾の会話が聞こえてくる。
「ねえ、聖。せっかく捕まえたなら、ついでにロザリオもつけちゃいなさいよ。」
「そうよ。簡単に逃げられちゃって。」
「大丈夫よ。私とモーディーはロザリオがなくても繋がっているんだから。」
江利子さまは鼻で笑った。
「余裕ぶっこいていると搔っ攫われるかもよ。」
「江利子、笑えない冗談はやめてくれない?」
「聖、落ち着いて。江利子も挑発しない。」
楽しそうな会話をしているなー。美少女たちの戯れは健康に効く。これ、本当の話ね。エビデンスもとれているから。(とれていない)
「あなたもいい加減腹をくくったらどうかしら?」
「桜。そろそろ年貢の納め時だよ。」
あー。聞こえない聞こえない。
自分でもそろそろ手遅れなんじゃないかと思うけれど。シュレーディンガーの猫よろしく、量子学的な考えでいこう。すなわち蓋をあけるまでは未来は確定しないということで。