でも、私にとって幼馴染はただ一人。
誰よりも優しいあの人だけ。
図書館の前に、一人、少女が居る。
中等部の制服を着た美しい少女は、時折、左の手首をみて、それから高等部の校舎のほうを眺めている。時計と校舎を行き来する視線は忙しく。その度に、ふわふわの亜麻色の髪が波打つ。
待ち人はまだ来ない。
「まだ」というが、少女が待っている人は約束もしていなかった人だから、会えるかどうかもわからない。けれど、少女は待っている。待ち人と必ず会えると信じている。
通り過ぎていく生徒たちが、少女の憂いを帯びた横顔を盗み見して騒いでいるが気づく様子はない。少女の心は、ある人の面影でいっぱいだから、そんな些細なことを気にしている余裕はないのだ。
辺りがだんだん暗くなっていく。
それでも健気に待ち続ける少女をマリア様も哀れんだのだろうか。少女に声をかける者が現れた。
「あ、志摩子ちゃん。久しぶりだね。」
懐かしい声。
待ち望んでいた声だった。
「桜さん!」
優しそうな声、穏やかな笑顔、華奢な身体。一つ一つが愛しくて、振り返った志摩子は胸に湧く喜びの衝動のままに赤い髪の少女、桜さんに飛びついた。平均よりも背の高い志摩子と平均よりも低い桜さん。抱きしめると志摩子の長い腕が桜さんを持っている荷物ごと包み込んだ。
「リリアンに入学したと聞いてから会いたかったです。」
「えー、嬉しい。私も志摩子ちゃんに会いたかったよ。」
桜さんは満面の笑みを浮かべて、志摩子のことを抱きしめ返してくれた。石鹸と甘い花が混ざったような優しい香り。名前を知る前から親しんできた落ち着く香り。この香りと温もりを逃がさないように、このままずっと抱きしめていたいと思った。
志摩子には兄がいるけれど、年が一回り以上も離れているから、一つ上の桜さんとはよく遊んでいた。昼間は手をつないで野原や山を駆け、疲れたら木陰で休んで、夜はお寺に泊まっては一緒の布団でお話しをしながら眠った。志摩子にとって桜さんは心置きなく甘えられる姉のような存在だった。
「ねえ、モーディー。その子は誰かしら。」
しかし、幸せは儚いもの。第三者の登場で我に返った志摩子は名残惜しくも桜さんから身を離した。すると、トンビのように素早く桜さんを捕まえる腕があった。
「拗ねないでくださいよ。今、紹介しますから。」
「それには及ばないわ。この子に直接聞くから。」
見知らぬ上級生は桜さんを自分のほうに引き寄せると、志摩子を見下ろすように尋ねた。
「私は佐藤聖よ。あなたのお名前を伺ってもよろしいかしら?」
「ごきげんよう。白薔薇の蕾。私は中等部3年の藤堂志摩子と申します。」
「ふうん。」
聖さまは腕の中で暴れる桜さんの頭を撫でながら、気のない返事をした。「放せ、放せ」ともがく桜さんは毛を逆立てる仔猫みたいで可愛らしい。志摩子も頭をなでたら桜さんは怒るかしら。
「ちょ、ちょっと志摩子さん?」
「……?」
「いや、首をかしげられても。可愛いけれど。」
気づけば志摩子は赤い髪を漉くように撫でていた。
「ふふふ。」
「あ、これ。わかっているやつだ。」
「桜さんは相変わらず可愛らしいですね。」
白い頬を膨らませているところをみるとつついてみたくなる。慌てている姿をみると、いけないことだと思いながらもっと慌てさせたいと思うときもある。
「私は可愛くないよ。」
「そういうところがですよ。」
志摩子は時々、この人が年上であることを忘れそうになる。ルネサンス期に描かれた幼い天使の絵「プット」にもみたあどけない寝顔や、人を疑うことを知らない純粋な瞳で見つめられると志摩子の心も清められるような気がするのだ。
「志摩子さん、だっけ?」
険しい顔をした聖さまが志摩子に物申した。
「確かにモーディーは可愛いけれど、あなたより年上よ。上級生にたいする態度ではないわ。」
「白薔薇の蕾。」
「モーディーが嫌がらないことをいいことに頭を撫でるなんて。私だって許されたのは最近だっていうのに。」
「申し訳ございません。」
なんということだ。久しぶりで会えた嬉しさに我を忘れてしまうとは。聖さまの言うことは尤もなこと。志摩子が桜さんに再会してからの自らの振る舞いを恥じていると、誰かにギュッと抱きしめられた。
「白薔薇の蕾。志摩子ちゃんを苛めないでください。」
「モ、モーディー?」
「志摩子ちゃんは大事な幼馴染なんです。志摩子ちゃんにされて嫌なことは一切ございません。むしろどんとこいです。『さま』づけされる方がショックです。」
胸を張って宣言する桜さん。
たいする白薔薇の蕾はたじろいでいる。
ところで先ほどから仰っている「モーディー」とは何だろう。察するに桜さんの綽名だと思うのだけど、西洋風の顔立ちからして外国の子どもみたいな呼び方だ。けれどしっくりくる。
「ねえ、モーディー。そちらの志摩子さんとはどういう関係なの?」
「幼馴染ですよ。前に住んでいた家が志摩子ちゃんの家の近所だったんです。」
白薔薇の蕾に尋ねられた桜さんが自慢げに説明した。
実家のことを言われるかもと少しだけ身構えてしまったけれど、桜さんは志摩子の事情を汲んで話さないでくれた。ささやかな助けこそ嬉しいもの。その心遣いが嬉しかった。
「桜さまの仰る通り、家が近所だったんです。幼稚園と小学校は同じ学校でした。」
「中学校は志摩子ちゃんがリリアンに進学したから別になっちゃったけどね。あと『さま』づけ禁止。」
「かしこまりました。桜さん。」
志摩子と桜さんが微笑みあっていると、聖さまがわなわなと震えた。
「羨ましい。私もモーディーと同じ学校に通いたかった。」
「まさに今、通っているじゃないですか。」
「そうだけど。ランドセルを背負ったモーディーを見てみたかった。」
白薔薇のつぼみは桜さんのことを大層気に入っているみたいだ。
(もしかして姉妹なのかしら)
リリアン女学園高等部には姉妹制度という独自の伝統がある。上級生が姉として下級生の妹を教え導くのだ。
「あの。白薔薇の蕾。一つ伺ってもよろしいでしょうか。」
「何かしら。」
「白薔薇の蕾は桜さんのお姉さまですか。」
志摩子の質問をうけて目の前の上級生たちは異なる反応をしめした。
一人は満面の笑みを。
一人は渋面を。
「あなたには私とモーディーが姉妹に見えるの?」
「はい。とても仲睦まじい様子なので、てっきりそうなのかと思いましたが違うのですか。」
白薔薇の蕾だけでなく、桜さんだって邪険に扱っているけれど心を開いている様子。お二人の関係は姉妹だと言われても納得できるほど仲良しにみえた。
「そうよ。私たちは姉妹なの。」
「違うよ。私たちは姉妹じゃない。」
でも、桜さんは否定された。
「私は山百合会にお手伝いで呼ばれているだけのただの一年生。白薔薇の蕾とは姉妹でも何でもないから。」
「はあ。」
首元を確認するとロザリオをかけていない。桜さんの仰る通り、単なる仲のよい上級生と下級生なのだろうか。しかし、白薔薇の蕾は桜さんの隣でニッコリと笑った。
「姉妹になるのは決定事項よ。ただロザリオを渡すのが早いか遅いかの違いでしょう。」
「いいかげん。諦めてくださいってば。もっと相応しい人がいるはずです。」
「なら連れてきなさい。そのうえで貴女に姉妹の申し出をするから。」
白薔薇の蕾が詰め寄ると、桜さんは一瞬だけ顔を強張らせた。すると何を思ったのか何故か志摩子を前に押してきた。
「え?」
「え?」
自然と白薔薇の蕾と志摩子は見つめあう位置になる。
「例えば志摩子ちゃんなんてどうでしょうか。」
「え!?」
突然何をいうのだろう。困惑する志摩子を置き去りにして桜さんは白薔薇の蕾に露店の口上のように売り込んでいく。頭がいい、性格がいい、礼儀正しい、エトセトラエトセトラ。聞いているうちに恥ずかしくなって俯いてしまった。
「ふうん。とっても優秀なのね。志摩子さんは。」
「そうです。白薔薇の蕾の妹にこれ以上相応しい人はいません。」
桜さんの言葉は嬉しいのだけど、同時に悲しくもあった。彼女に志摩子を妹にするという考えがないことを察してしまったから。
(そんなに褒めてくれるのに。私を妹にする気はないのですか)
これでは尋ねる前にフラれたようなもの。口から問いかけが飛び出さないように、志摩子は黙った。
志摩子が密かに落胆していると、白薔薇の蕾がグイっと桜さんの腕を掴んで背中から前に引きずり出した。たたらを踏んだ桜さんが白薔薇の蕾の腕の中に勢いよく飛び込んだ。
「残念。貴女の審美眼では私のオーダーは完遂できないみたい。」
「で、では合唱部の歌姫はどうですか。蟹名静さんという、」
「モーディー。」
白薔薇の蕾は桜さんの唇に人差し指を添えた。
「いい加減観念なさい。私はモーディーを妹にしたいの。他でもない貴女を。」
「聖さま。」
「頷くまで離さないわ。」
とても強引なやり方。でも、これ以上熱烈な姉妹の申し出はないだろう。先ほどの桜さんの発言で傷ついた志摩子も便乗することにした。
「桜さん。」
「し、志摩子ちゃん。」
「何ですか。」
空いている背中側から桜さんのことを抱きしめた。
「私のことも妹にしてください。してくれるとお約束するまで離しません。」
「志摩子ちゃんはまだ中等部でしょう。」
「お願いすることは禁止されていませんから。」
聖さまの申し出を前にして、はっきりわかった。
(桜さんを姉と慕うのは私だけでいい)
桜さんが誰も妹にしたくないというのなら大人しく身を引こう。だけど、他の人を妹にしているところを想像すると心の中がよくないもので曇っていく。
「ピュー、志摩子もやるねぇ。」
白薔薇の蕾は志摩子のことを仲間認定したのか呼び捨てにした。二人に挟まる形になった桜さんは白い肌を紅潮させて慌てふためいている。
「はいと言いなさい。」
「約束してください。」
白薔薇の蕾と志摩子。
二人から詰め寄られた桜さんは、
「え、モーディー?」
気を失ってしまった。