――冷たい。
最初に感じたのは、頬に当たるひんやりとした土の感触だった。そして、どこか懐かしい土の匂い。目を開けると、見慣れない木々が生い茂っているのが見える。ここはどこだ。道路はどこだ。確か俺はさっきまで深夜の道路に立っていて、それで――。
「あ?」
声を出して違和感に気づく。声が高い。自分の声じゃないみたいだ。慌てて起き上がると、異様に視界が低い。体を見下ろすと、着ている服も違えば、手足も明らかに小さい。まるで子供のようだ。
「なんだこれ……」
混乱しながらも立ち上がり、近くにあった水たまりを覗き込む。そこに映っていたのは、見覚えのない子供の顔だった。いや、正確には覚えがある。これは――幼い頃の自分だ。6歳くらいの、まだ何も知らなかった頃の顔。
「冗談だろ……」
水たまりの自分の顔をつついてみるが、当然ながら水面が揺れるだけだ。冷たい感触に、これが夢ではないことを思い知らされる。
パニックになりかけたその時、背後で枯れ葉を踏む音がした。
「おや、目を覚ましたか」
振り返ると、そこには一人の老人が立っていた。白髪交じりの髪を後ろで束ね、着物のような見慣れない服を着ている。その佇まいには妙な威圧感があった。
「お前は誰だよ」
「これは口の悪いガキじゃのう。まあいい、わしはただの隠居者じゃ。お前さん、そこで倒れておったから拾ったんじゃ」
「拾った?」
「そうじゃ。丸一日眠っておったぞ」
「ここはどこなんだよ。日本じゃないのか?」
「ニホン?なんじゃそれは」
どうやらここは日本ではないらしい。呆然とする俺に、老人は淡々と告げる。
「ここはリンデル王国の外れの森じゃ。まあ、そう難しいことは気にするでない」
「んなこと言われても……」
混乱する俺を見て、老人は少しだけ口元を緩めた。
「わしもな、暇を持て余しておってな。せっかくじゃ、お前さんに色々と教えてやってもいいぞ。もっとも、役に立つかどうかはわからんがの」
そう言って、老人は腰に差していた刀をポンと叩いた。その動作には無駄がなく、ただの老人ではないことを感じさせる。
「なんかよくわからんけど、面白そうだな」
「ほう、やる気はあるようじゃな。よかろう、まずは飯じゃ。腹が減ってはなんとやらでな」
そうして、俺の二度目の人生は始まった。
それから10年。じじいの元での修行は、地獄のようだった。
最初の一年は、ただひたすら気配を消す訓練だった。呼吸のリズムを変え、心臓の鼓動すら意識的に遅くする。筋肉の緊張を抜き、体温さえも周囲に同化させるイメージを持つ。
二年目からは、それに加えて足音を消す歩法だ。落ち葉の上を、枝の上を、水の上を、音もなく移動する。失敗するたびにじじぃの木刀が飛んできた。
三年目、ようやく実践的な技術に入った。暗闇での戦い方、相手の死角への入り方、急所の正確な位置と、それを一撃で貫くための刃の角度。
五年目には、鋼のような硬い物体すら斬る技術を教えられた。物理的に無理だと思ったが、じじぃはそれをやってのける。コツは「切ろうと思うな、切れると思え」という訳のわからない精神論だった。バカじゃねぇーの
八年目まじで?刀は刃こぼれしてボロボロになっていたが、それでも切ろうと思ったらなんでも切れる様になった。俺すご
九年目――じじいは死んだ。朝起きたら、家の前のいつもの場所に座ったまま、冷たくなっていた。あまりに自然な最期で、不思議と悲しさは湧いてこなかった。墓を掘って埋めて、特に祈りもせずに山を下りた。
森を抜ける途中で、傭兵団の団長に金で雇われた。
なんで俺が雇われたのかはよく覚えていない。
ただ、「お前、使えるな」とだけ言われたのを覚えている。そうして俺は、傭兵団の一員として戦場に出ることになった。
俺たちが参戦することになったのは、小さな国の争いだった。
団長によれば、隣国との国境沿いで起こった紛争がエスカレートし、今では全面戦争の様相を呈しているとのこと。
初めて戦場に出た日のことは忘れられない。鼻をつくのは焼け焦げた土の臭い、そしてどこか甘ったるい鉄の香り。甲冑を着込んだ兵士たちが押し寄せ、剣戟の金属音が絶え間なく響いていた。号令と共に弓兵隊が一斉に矢を放ち、上空に黒い雨が降るように鏃が乱れ飛ぶ。魔導師たちは詠唱を終え、炎弾や氷槍が弧を描いて敵陣へと吸い込まれていく。
「おい坊主! ぼーっとしてるな!」
隣にいた髭面の傭兵が肩を掴んだ。「お前の仕事は斥候だろうが! 行け!」
促されるままに戦場へ向かうと、目の前に広がるのは地獄だった。
馬に乗った騎士が槍を振るい、民兵たちが盾を構えて突進していく。魔法障壁が砕け、断末魔が上がる。血しぶきが舞い、土煙が視界を塞ぐ。
ここで俺は何をしているのか――。
そんな自問も虚しく、俺は斥候として前線に送り込まれた。
じじいとの修行で培った技術は確かに役に立っていた。敵兵の背後に回り込み、喉笛を掻き切る。鎧の隙間からボロボロの刀を滑り込ませる。気づかれることなく、確実に命を刈り取る。そうして生き延びてきた。
人を殺すの苦痛だった。
喉を掻き切る感覚、血の匂い、断末魔全てが脳にこべりついて離れなかった。
戦場から逃げ出したい、この終わらない地獄から抜け出したい。
団長のベリルにある晩、酒に薬を盛られて、気がついた時には首に奴隷の首輪が嵌められていた。
逃げようにも、この首輪がある限り無理だ。逆らえば魔法で締め上げられ、最悪首が飛ぶ。
ある夜のことだった。
俺は暗闇に紛れて敵陣に潜り込んでいた。任務は情報収集と、可能であれば重要人物の排除。いつものごとく気配を殺し、相手の呼吸のリズムを探りながら接近する。音を立てることなく目標に迫り、あとは一瞬で仕留めるだけ――。
しかし今回は様子が違った。気配を感じない。なのに妙な威圧感がある。本能が危険を訴え、俺は反射的に身を翻した。次の瞬間、背後で風切り音が鳴る。
(なんだ……!)
咄嗟に伏せて避けた直後、金属製の大剣が地面を裂いた。火花とともに土砂が吹き上がり、俺はさらに跳躍して距離を取る。振り返ると、金色の髪を揺らし、黄金に輝く大剣を携えた男が立っていた。見た目も体格もイケメンで主人公顔だった。ああいうのは大抵強キャラと相場が決まっている。
「君が噂の忍者君か」
男の声は落ち着いていて、しかし侮りは全く感じられない。眼差しが鋭く俺を射抜く。
「俺のこと知ってんのか?」
「もちろんだ。戦場の死神という異名、聞いたことがあるぞ」
「……趣味の悪いあだ名だ」
「だが的確だ。君の技はまさに死そのものだな」
男は大剣を担ぎ直し、わずかに笑みを浮かべた。余裕のある態度だが油断はない。
対峙しただけで理解できる。こいつは強い。これまでに遭遇してきたどんな相手よりも洗練されている。
動きに無駄がなく、重心の置き方も絶妙だ。何よりあの瞳――すべてを見透かすような冷静な眼差しが嫌な予感を掻き立てる。
一撃で勝負を決めなければならない。
(なら、やることは一つだ)
俺は静かに刀を構えた。じじいから叩き込まれた呼吸法を使い、体内の酸素と血液を集中させていく。視界がクリアになり、耳に入る音すべてが鮮明に聞こえるようになった。風向き、土埃の動き、鳥の羽音。全てが計算式の一部となって脳内で組み立てられる。
相手が動くまでの0.02秒――その刹那を見極める。
次の瞬間、俺は地面を蹴った。脚力と体重を一点に集中させ、まるで雷のごとく前方へ駆け抜ける。狙うは首。一刀必殺。相手の防御が間に合わないほどの速度と精密さで斬り捨てるつもりだった。
だが――
「ほう」
男は微塵も動揺せず、大剣を軽々と横に薙いだ。風圧が肌を刺す。
(早い……!)
咄嗟に回避行動を取りながらも、右腕に鈍い衝撃が走った。皮膚が裂け、血が滲む。浅い傷とはいえ、完全に見切られていることに舌打ちしたくなる。
「避けるか。流石だな」
男は微笑を浮かべたまま、さらに踏み込んできた。その動きには一切の無駄がない。反撃のチャンスを探しつつ、俺もまた間合いを測る。だが、どう動こうとしても彼の剣の範囲から逃れられない。
(まずいな……)
俺は正面から突っ込んだ。男の間合いへ深く踏み込み、喉元へ向けて刃を突き出す。しかし、その攻撃は予想されていたかのように大剣で防がれる。
火花が散り、互いの武器が交錯する。だが俺は止まらない。力を込めて刀を滑らせ、そのまま左側へ回り込むように動く。男が俺の動きに対応しようと重心を移動させた瞬間――
「もらった」
俺は左足で地面を強く蹴り、空中で身体を捻った。勢いを利用して男の頭部へ向けて斬りかかる。
ところが――
「面白い技だ」
男は驚くべき反射神経でそれに対応し、片手で大剣を操り受け止めてしまう。さらに、もう片方の手で俺の胸元を掴むと、力任せに投げ飛ばした。
「ぐっ……!」
地面に叩きつけられ、肺から空気が漏れる。全身の疲労感と痛みでに立ち上がれない、思考が濁り、意識が遠のく。
視界が歪む意識が途切れた。