女侠転生記  ~中ボス女侠の胃痛録~   作:郭尭

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真命天子
陰の一


 

 

 人ある處に江湖あり。法の支配の裏にある、義理と恩讐の世界。

 

 

 

 山西平陽府(さんせい へいようふ)は丘陽県。黄土の荒野の街の一角に銅花門と看板を掲げた、広い荘園を有した古びた屋敷がある。嘗て江湖で名の知れた人物、陶至賢という老人が掌門を務める、嘗ては荘園に五十を超える門内弟子を抱えていたこともあった武功の一門である。だが後継者と目し、衣鉢を託さんとした弟子を立て続けに江湖の争いで失い、最後の一人は袂を分かち門派を離れた。

 消沈し、精彩を失った陶至賢は江湖との関りを断ち、新たに弟子を取ることもなくなった。やがて既存の弟子たちも離れて行き、広い荘園で一人朽ち行くだけの日々を過ごしていたのである。

 

 そんな老人の下にわざわざ弟子入りを願い現れたのが黄小雀と名乗る、何かしらの病なのか、黄色く濁った左目と頬に黒い痣を持った少女だった。

 資質に恵まれた少女ではあった。今まで後継者へと願った弟子たちに勝るとも劣らない才覚だった。

 

 初め、老人は少女を弟子に迎える心算はなかった。だが弟子入りを望んだ少女は門前に跪き続けた。盛夏の熱さの中、二日間跪き続けて倒れたのを、仕方なく屋敷の中に入れたのである。

 その後、少女は進んで使用人の様に、老人の世話や屋敷の掃除などを買って出た。

 

 少女は初めて出会った頃から、既に優れた別門派の武功を修めていた。仕事の合間に時間を見つけては練功している様子に、老人の心は動いた。

 老人とて嘗ては江湖に名を馳せた漢である。己の門派が己の代で絶えることも、己の名跡がこのまま忘れられて果てることも、望むはずがなく。きっとこの少女が老人にとって最後の機なのだと思った。老人は少女に己の武功を全て伝えることに決めたのだった。

 そして凡そ二年間、少女に己の全てを伝えた。他門派で既に基礎を身に付けていた少女は程なく銅花門の基礎も身に付け、門派の要たる暗器術と機関術を素早く理解する聡明さも見せた。

 教えるべきが尽きるまで一年余、その後は練度を磨き続ける時間だった。順当に行けば、彼女が陶至賢の領域に至るのは早晩の事であると確信できた。だが、それを待つには老人は老いを自覚しすぎていた。少女の武功が大成するまで保つとは思えず、仮にその頃まで生きてることが出来たとして、満足な指導ができる体ではなくなっているだろうという確信があった。それ程に、老人の体は衰えていた。

 

 時間を意識した時、老人が少女に見た渺茫なる希望は焦燥へと変わった。

 

 少女が思惑有って弟子となるを願ったのは察していた。時折屋敷を抜け出し誰かと会っていた事も。本来門派への裏切りさへ疑うことであるが、陶至賢には最早些事であった。

 

 少女が運んできた朝食を済ませた陶至賢は、部屋の棚から長方形の木箱を持って、机の上に置く。箱から取り出したのは麻の布に覆われた何か。それを机に広げると、姿を見せたのは真鍮の色に鈍く光る金属管や発条などの絡繰の材料だった。

 視力は既に衰えているが、老人はそれを感じさせぬほどに手触りだけで、ゆっくりとだがしっかりとした動きで組み立てていく。途中々々、引っ掛かりやざらつきを感じる度に手順を戻し、工具で削り、均し、調整していく。既に一月以上を掛けて造られた部品は、最後の仕上げの過程に入っている。完成まで然して時間は掛からない。

 窓の外から雷鼓が鳴る音が聞こえる。何時天気が崩れてもおかしくない、そう感じ、陶至賢は眉を顰め、手を動かし続ける。

 

 一刻余の時間の後、陶至賢の手元には花弁の閉じた蓮の装飾を持った簪があった。一見は些か華美な金簪にも見える、発条仕掛けの寸鉄の射出機構、門派の機関術の粋を集めた逸品である。老人は簪を布で包んみ、棚から更に桐の小箱を取り出し、その内に収める。そして蓋の上から紅い紙で封を施した。

 

 これで、託すべき物の準備はすべて整った。陶至賢は戸棚から上下を古風な白袍に着替え、暗器を机の上に並べて点検する。少女と違うのは、仕込むのは最も使い慣れた基本の槍の穂先型の物を一揃え、即ち十三枚だけ。嘗て江湖にて『奪命十三鏢』の二つ名で畏れられた老掌門の矜持でもあった。

 

 

 

 

 

 黄小雀からすれば、目的あっての弟子入りであった。仮に銅花門がもっと繁盛し、徒弟の多い門派であったなら彼女は陶至賢を尋ねることもなかっただろう。

 とは言え陶至賢に対しては彼女なりに情もあれば、確かに恩義も感じている。故にこれからの事を考えれば罪悪感で臓腑が締め付けられる気分だった。少女は中庭の石畳の上、正房の門前に向かって膝立ちで、瞑目し深く呼吸を繰り返して平常心を取り戻す努力を続けていた。

 どれだけ時間が過ぎたか、やがて白袍に身を包んだ陶至賢が、正房の扉を開き現れる。両膝で跪いている大弟子に、陶至賢は尋ねる。

 

「何の過ちが有ってそうしている?」

 

 背を伸ばし、両膝を地につける姿勢は、過ちを認め罰を待つという意味合いで使われることが多いからである。

 

「師父に伝えることが叶わない罪過がございます」

 

「……そうか。まあ、良かろう。罪過も、言えぬ訳も問わん。どうせこの老朽には意味のないことだ」

 

 陶至賢は黄小雀に立ち上がるように、手で促す。黄小雀は顔を伏せたままそれに従った。

 

「以前から言った通りだ。今日の試練を生き延びれば、門派の掌門位も、僅かだがこの老い耄れの遺産も、全てお前のものとなる」

 

 老人の言葉の節々から、永年に渡り積もり続けた疲労が聞こえてきた。全盛期は一度に五十人余の弟子たちを世話していた屋敷の、今は閑散とした中庭の様子に目を細めながら、老人は言葉を続ける。

 

「これより比武を始める。見事儂を殺して見せよ」

 

 師たる者が、己の命を懸けて最後の試練となるというのは、決してなくはない。だが陶至賢の言葉に乗せられた思いは、そのような義務と期待ではなく未練と諦観であった。

 今まで目を掛けた高弟たちを、大成する前に失い、心折れ、それでも心中燻り続けるものに目を逸らし続けた二十年余があった。

 

 これに対して、黄小雀は内心複雑な感情を抱いていた。『一日師と為せば、終生父と為す』という言葉がある。多くの門派がそうであるように、彼女も何年もこの屋敷に住み込んで、下働きをしながら師事を受けてきた。二年も寝食を共にすれば、大凡の人間は情が沸くものである。彼女もその例に漏れず、師父の死を求めるが如き行動に些か思う所があった。同時にそれを思い留めさせることができないことも。結果としてここまで従っているのだ。

 

 そして老人と少女は対峙する。八十を超えた老人と花の年頃の少女。何れも本来は人の危機感に訴えるものに乏しい筈の存在。だがもしこの場に相応の功夫を積んだ人間が見れば、両者ともに只者ではないと見て取るだろう。

 師たる者が、命の奪い合いを弟子に強いる、その意味。少女は敢えて何もかもを頭の中から消し去る。それは彼女にとっても都合のいいことの筈なのだ。

 今日、少女は殺さなくてはいかないのだ。師として多くを教わってきた相手を。親として同じ屋根の下に過ごしてきた相手を。

 少女は半身を向けて足を開く。湧き上がる罪悪感も、胸を刺す嫌悪感も、身を覆う焦燥感も。胸中の重く澱んだものから目を逸らしながら。

 

 

 達人同士の死合で合図などない。二人とも、ただ全身の経脈に気を巡らせる短い時間だけが、暗黙の了解により確保される。即ち内功を練る時間を。そして互いの呼吸を読み合い、動き出す隙、切っ掛けを探し合う。

 

 先に動いたのは黄小雀だった。陶子賢に隙を見つけたわけではない。見つからないから無理にこじ開ける他ないという判断した過ぎない。左腕をしならせるように振り上げ、上衣の袖に仕込んでいた、飛鏢(ひひょう)と呼ばれる、槍の穂先に似た物の後ろに赤い布を結んだ飛び道具を放つ。避けられるにせよ、防がれるにせよ、直撃することだけはないと断じていた黄小雀はすぐに動けるように備える。

 

 

      一つ

 

 

 同じ拵えの飛鏢が、同じ動作で、陶至賢の手から放たれ、黄小雀の物を弾く。次いで左手に三つの飛鏢を挟んで横投げに放つ。

 

 

      四つ

 

 

 微妙に左右に広がり、避けられない速度で足元を狙う。誘導ということを承知の上で少女は後方に大きく飛び上がる。後方の左房の屋根まで跳び上がる。

 

 

      五つ

 

 

 空中に上がり、動きに制限が掛かった黄小雀に向け次が放たれる。上体を捻り、横方向の回転しながらの方向転換、その勢いに乗じる形で今度は黄小雀が回旋鏢(かいせんひょう)という、くの字型の飛鏢と通常の飛鏢を放つ。直線を移動する飛鏢と弧を描き飛ぶ回旋鏢、時間差の二方向からの攻撃。同時に、少女は勢いのまま四つん這いに近い姿勢で瓦屋根に着地すると、すぐさま師との距離を保ちつつ向かって左側に回り込むように駆け出す。

 陶子賢は自身に放たれた二つの鏢の内、先ずは顔面に向かって直進する飛鏢を捌く。飛鏢の鎬の部分を右の手刀で袈裟斬りに叩き落とし、次いで彼にとって左後方から飛来する回旋鏢を身を半回転させて振り上げた右足で踏み下ろす。その結果、彼の側面を狙って飛び込んだ左半身を前に出す構えとなって相対した。

 

 隙を作るための二つの鏢を捌かれ、ほぼ正面からの近接戦になってしまった黄小雀。銅花門の武功の本領は投擲であるが、体術も無論存在する。これは使い手が接近された時の対処や、暗器の使用を相手の思考の外に追いやる手段として。

 親指を掌に着けた形の手刀での突きを矢継ぎ早に繰り出す。これをやはり手刀の形で方向を逸らされ、老人の首元を紙一重で触れられず。

 少女は続け様に数手放ち続けるも、同じ門派で手の内を互いに知り尽くしていることもあり、次々捌かれていく。そして陶子賢は黄小雀の右手による突きを逸らし、更にその手首を掴んで伸ばすように引っ張って、彼女の体幹を崩す。そして取り出した飛鏢を指で挟んだまま首めがけて突く。重心を前に持っていかれていた黄小雀は体全体を大きく後ろに逸らし、辛うじて首の皮一枚で済ませる。そして老人は軸足として残された右足の甲に向けて、指の動きだけで飛鏢を投げ落とす。

 

 

      六つ

 

 

 普通に足を引っ込めるには間に合わない、半ば反射的に横軸に体全体を捻って回転しながら後方に逃げる。低く距離の長い跳躍の着地は、高度の都合でまたも四つん這いの姿勢となった。

 

 

      七つ

 

 

 着地から顔を上げた瞬間には追撃の飛鏢がすでに放たれていた。立ち上がる余裕もなく、咄嗟に四肢を使って横回転に跳ねる。勢いのまま両足で着地し、更にもう一度跳ぶ。

 

 

      八つ

 

 

 黄小雀は続けて放たれた飛鏢を、左房の柱を三角跳びに跳ねて避ける。そのまま反対側の右房の屋根の上に転がるように着地する。そのままの勢いで起き上がり小指の先ほどの大きさの金属球型の飛び道具を複数同時に投げつける。これを今度は飛鏢で撃ち落とすでなく後方に飛び上がり、左房の屋根に降り立つ。そして避けられた球体は中庭の土にめり込むと、ほぼ同時に炸裂して掘り返した。

 金属球の内に炸薬を詰め込み強い衝撃で炸裂する暗器、霹靂子(へきれきし)と門派内で名付けられている、機関術の賜物であった。

 元来鎧兜に身を包んだ相手の鎧の破壊、もしくは衝撃での内傷を狙った代物が、生身にどれほどになるか。如何に達人である老人でも、裂傷と火傷を同時に受けるのは確実だった。故に選んだ回避だったが、それが対峙する少女の誘導であると理解した上で。敢えて乗ることにしたのである。

 

 そして正房の屋根を駆けて大回りして速度を稼いだ黄小雀は勢い良く跳び上がる。そして低い軌道で着地と同時に衝撃を逃がすがままに、身を沈めるような低い構えから掌底を放つ。虎爪の形に近い掌の形、腰を深く沈めた構え、何れも陶至賢の教えにはないものである。

 黄小雀は陶至賢に弟子入りする以前にすでに別の武功を修めていた。複数の門派の武功を身に着ける発想は武林、武術家の世界ではそれほど珍しいものではないし、寧ろ門派内で複数種類の武功を有している名門も少なくない。故に不思議にも思わず詮索することもなかった。だがこの体術に切り替えてから精度も速度も大きく向上を見せ、本来の実力はある程度どころではなく、門派によって既に大成と呼んでも差し支えないほどであった。

 

 武功の練度もそうだが、南方武功に多い重心の低い構えの利を活かし易い、屋根の上という足場の悪い場所に誘い込もうとする、武辺一辺倒ではない部分も老人にとっては喜ばしかった。これは彼が敢えて乗ったという側面を考慮しても、である。

 銅花門は暗器、それも飛び道具の扱いを以って江湖に名を轟かせた門派である。他派の武功を用いようと、門派の名が傷つく可能性は低く、むしろ暗器術を際立たせる良い添え物となるだろうと考えた。生半可な相手なら、本領を見せるまでもないと。

 

 人の老いが現れるのは肉体的な部分だけではない。黄小雀の武功の考察に、陶至賢に若干の集中力に乱れが生じる。その一瞬の隙に黄小雀は低い姿勢から相手の顎を打ち上げるように、大きな動きで掌底を放つ。溜めの動きが若干大きくなったその一撃は、それでも老人が咄嗟に躱せるだけの余裕があった。

 だが、黄小雀とて貴重な機会を徒に浪費したわけではない。すぐさま相手の横をすれ違うように駆け、後ろを取るように動く。陶至賢がその動きを目で追い、永年の反復で身に付けた反射により体が動き出したその瞬間、視界の端に鈍色の塊が映る。

 

 

     九つ

 

 

 陶至賢が咄嗟に放った飛鏢が塊を串刺す。鈍色の塊は門派の機関術の産物、鉄蓮花であった。閉じた蓮の花を模した絡繰であり、起動すれば開花と共に四方八方に鉄釘を発条で飛ばしていく代物である。黄小雀はこれを自身の体を遮蔽物として設置し、更に相手を盾にするように移動したのである。

 彼は鉄蓮花が開く前に飛鏢を放って内部機構を破壊して起動を阻止したのである。鉄蓮花の殺傷力の高さは他ならぬ開発者である老人自身が良く知っていた。

 だが鉄蓮花の処理に費やした一瞬は、黄小雀が師の背後を取るに充分な時間を稼いだ。

 

 腰を落とす勢いを乗せて打ち下ろされる掌撃。力の伝達に優れた掌打をもろに受け、背骨と臓器を強く傷つけた。

 

「ぐふっ!」

 

 衝撃で老人の体が空に舞い、そのままの勢いで屋根の上から落とされる。陶至賢は何とか片膝を着きながらも着地して見せるが、喉を押さえながら大量の血を吐きだした。

 

「師父、私の勝ちでよろしいか!?」

 

 今の一撃、黄小雀の手には十分の手応えがあった。師の老齢故の衰えも加味すれば、既に致命傷足り得る筈であると感じるほどに。

 

「死合であると言ったぞ、愚か者!」

 

 

     十

 

 

 だが陶至賢は内傷を感じさせない身のこなしで立ち上がると、怒号と共に飛鏢を放った。

 

 黄小雀はこれを後ろにのけ反り回避する。殺気はあれど殺意は乗せられていない一撃。叱咤、と呼ぶには物騒に過ぎるが、その程度の意図しかない投擲。

 体制を整えた黄小雀の表情は苦み走っている。それは師という、父にも等しい存在の命を奪わねばならないことを厭んで、というだけではなかった。理解できないものへの、嫌悪に近いものも混ざっているのが陶至賢には見て取れた。

 黄小雀は武人としての名声や栄誉などといったものより、実を尊ぶ傾向のある娘であった。江湖や武林の仕来りに従いはすれ、そこに共感も理解もない。だがそれでも彼女は確かな実力と、それなりに義理と筋は通そうとする人格故に老人は彼女を選んだのだ。相応の重石を押し付けてしまえば、彼女は逃げられない、と。

 

 尤も、彼女が師殺しを成し遂げられねば、その計らいもご破算であるが。

 

 一方で黄小雀の方も可能ならここで終わりということにしたかったのが正直なところであった。二年程世話になった恩人に手を下さねばならないことへの心理的な抵抗などの心情的なものの他に、彼女自身が最後まで殺し合って確実に生き残れるという確信が持てなかいことが大きかった。

 

 全盛期の陶至賢の二つ名の一つが『奪命十三鏢』。

 

 飛鏢を取り扱う門派の多くは十三個を一組とし、十三個目を『絶鏢』と称し、他と違う何かしらの工夫がされた物となっている。そして陶至賢が命のやり取りの際、この十三個で殺せなかった人間は二人だけと黄小雀も伝え聞いていたし、今現在身を以て味わっている最中である。

 

 黄小雀は小さく息を吐き、改めて構えてから屋根から跳びかかった。彼女が師を相手取って優位を保つには、兎に角近づき投擲の間合いにさせないことに尽きる。

 とは言え、嘗ては江湖に名声を響かせた男が築いた門派である銅花門。拳脚功夫にも当然、そのような状況へ対処するための技は存在する。

 黄小雀の突き上げる右手の掌撃。陶至賢はその手首を掴み、掌撃の勢いに合わせて背を合わせるように半回転してから手を放す。自身の勢いが更に追加された上で重心を崩された黄小雀は、つんのめるようにしながら老人の側を通り過ぎてしまう。

 空いた距離は僅か三尺余。腕を振るって鏢を放つにはまだ近すぎる距離。

 

 

     十一

 

 

 だがその程度の距離でも、銅花門の鏢法には十分である。ただらを踏む黄小雀の背と、反対に伸ばされた右手の指と手首の動きだけで振るって放たれた。

 振り向いた瞬間には既に放たれていた一撃。飛来した物が飛鏢であると認識するより先に、咄嗟に上体を全力で仰け反らせて躱す。この時、逆さまに屋敷が目に入り、彼女は閃いた。

 黄小雀は仰け反った勢いのままに、側転で距離を取り、身体を捻りながら跳躍する。跳んだ彼女はそのまま建物の窓の木蓋を突き破り屋内に身を潜める。

 この時、陶至賢は追うべきか数瞬躊躇した。黄小雀が突き破った窓の向こうが、暗がりとなって彼には完全に見えなくなっているからである。だが屋内の黄小雀からは違った。既に次の一手に移っていた。

 窓の陰から閃く二つの光。陶至賢に向けられたそれに、陶至賢は咄嗟に手を動かす。陰から放たれたそれは繍花針、即ち裁縫針であり、咄嗟に掴んだのはその針に繋がった糸であった。

 

「ぬぅっ!?」

 

 その糸を放そうとしたが、その糸に手が吸い付いたように離れなくなる。

 長い経験の中で初めて見知った技に、老人は対処に窮した。その一瞬に、建物の内の黄小雀はすぐさま次の動きに入る。

 一旦右足を浮かせ、そして右腕を上に、左腕を下に腰を落として右に捻る。板張りの床を踏み砕く程の震脚を伴う、後方への体重移動を以って糸を引く。

 老いて枯れ木の如くとは言え人間一人の体重である。それが弾かれたような勢いで空を舞う。勢いのままでは窓枠の外の壁にぶつかってしまう。陶至賢は勢いに乗って前傾姿勢で頭から飛び込む。そして部屋の床に肩から転がり勢いを逃がす。だが室内の状態を確認できなかった陶至賢が受け身から起き上がるに合わせて黄小雀の指二本が、腎臓近くに突き刺さる。

 

「ぐっ!」

 

 威力に押され、後ずさる。針はいつの間にか手から離れ、突き刺さったはずの黄小雀の指に血は着いてはいない。

 

 何処かしらの経穴を突かれた。陶至賢はそう判断した。彼には知らない位置の経穴でありその効果もまた同様である。体の硬直も麻痺もない。ならば動きを止める余裕などない。突き出す手刀。黄小雀はこれに右手の拍打で合わせ、僅かに軌道を逸らし、最小限の状態の動きでこれを回避する。だが逸れた手刀を横薙ぎに振り、少女は上体を逸らして避ける。そしてその動きに合わせて下半身に向けての前蹴り。上体を大きく逸らした状態で、最小限な回避は黄小雀の功夫では不可能、床の上を弾かれたような勢いで一気に壁に張り付くまで移動する。

 

 一見して横に向かって落ちるような歩法。軽功の併用を前提としたものだろう、老いたる歴戦の達人の経験をして稀なものだった。類似したものを目にしたこともあれば、身で味わったこともある。だがこの齢で、これほどの身のこなしを身に付けている者はそうそういなかった。

 二人が対峙しているのは、今は使う者がいないためほとんど家具が配置されていない。故に離せる距離には限界があるが、それは却って投擲の間合いの外に逃げることが困難であり、身を隠す障害物もない空間でもある。老掌門にとっても悪い環境ではない。

 

 十二

 

 黄小雀は壁との衝突めいた接触で体幹が大きく崩れている。同じ歩法で別方向にというのは、恐らくできまい。そう考えた陶至賢は右手で刺された部位を押さえながら、早さを優先して左手首と指の動きだけでの投擲した。

 

 その一撃が当たらなかったこと自体は陶至賢にとっても想定出来た事であった。全ての投擲は例え牽制目的のものでも、あわよくば弟子の命を奪わんと殺意の籠った技である。だがその速度が余りに遅く、狙いが逸れていた。

 黄小雀は逸れた飛鏢に目も向けず真上に跳んで天井に張り付く。少女から引き出される更なる技巧。一体どれだけの業を、二年間も隠し通したのか。黄小雀は天井を素早く這うように移動し、陶至賢の頭上を越え、そのまま彼の背後の窓へと跳んで部屋から逃げ出す。

 

 陶至賢は自身の掌を見る。指の先がかじかみ、感覚が失われつつある。体の芯が冷えていっているのが自覚できた。

 凍えている?日が隠れているとは言え夏も近い時期の、この暑さで?

 

「寒毒(かんどく)か?」

 

 武功の世界で寒毒とは対象の冷気を発生させ続け、強力なものならそれこそ人間を凍死にすら至らしめるものとされる。

 

 指で刺された時にその類の何かを仕込まれたか。

 

「やってくれる」

 

 指の感覚が奪われては、投擲の正確性は大きく削がれる。だが、いいだろう。他門派の業も駆使してではあるが、自分を出し抜き続けているのは確かなのだ。

 懸念すべきは時間か。内功での治療時間は現実的ではない。このままの状態で続ける他ないだろう。

 

 陶至賢は黄小雀を追って窓から跳び出す。中庭の中央では右腕を隠すように、中腰の姿勢で構えている黄小雀が待ち構えている。両足を肩幅に広げ、右手に飛鏢を持ち、左肩の位置に構えている。陶至賢の最後の鏢に合わせての事だろうか、黄小雀は深い呼吸を繰り返している。

 弟子の方にとっても、布石は出し尽くしたという所か。手の感覚を鈍らせる、という陶至賢の戦いから見ればこの上ない枷を嵌めて見せたのだ。

 

 陶至賢は袖の内から最後の一枚、絶手鏢を手に滑らせる。ゆっくりと投擲のための構えを取る。金属の冷たさを感じることもできず、形も大まかにしか感じられないほどに感覚は鈍っていた。最早十全には程遠い体調、寒さによる指の震えを押さえていられるのも、後どれくらいか。

 

 陶至賢と対峙する少女の顔は僅かに伏せられ、両目は前髪に隠され口元が下弦の三日月のように僅かに持ち上がっている。

 本人には自覚がないようだが、この弟子は強い嗜虐心を秘めている。他者を招いての組み手で時折このような表情を見せ、そしてその時が最も強い。

 陶至賢は左半身を僅かに前に前に出し、指三本で絶手鏢を持った右手をゆったりと下ろす。指の感覚は既に大分覚束なくなっている。後は七十年近い時間、繰り返してきた技の動きを、感覚無しでどれだけ再現できるか。陶至賢をして初めての状況。心ならずも口の端が持ち上がった。

 

 雨雲から轟音と共に雷光が駆ける。二人は光に弾かれたかのように動く。

 

 

 十三

 

 

 陶至賢は肩から横薙ぎに振るうように投げる。対して黄小雀は肘から先を上に向けて半円を描くように振るって投擲。そして二人の間で金属同士がぶつかり合う甲高い音が響く。

 

 指の感覚が大分鈍っているにも拘らず、陶至賢の絶手鏢は正確に黄小雀の喉元に向かった。故にこそ黄小雀の投擲はその軌道に乗せてぶつけることが出来たのだ。だが黄小雀の物より重さに勝る陶至賢の絶手鏢はそれを弾いて進んだ。

 黄小雀の足元に鮮血が零れる。だがそれは投擲の動作を終えてから、勢いが弱まった絶手鏢を捕まえた彼女の右手から流れ出たものだった。少女は『奪命十三鏢』の十三発目を耐えきったのだ。そして一拍を置き、陶至賢は膝から崩れ落ちた。

 

 首全体の筋肉が痙攣し呼吸が阻害されているのだ。陶至賢は本能的に首に両手をやった。その喉には繍花針が刺さっている。黄小雀が飛鏢を放った直後、小指と薬指で隠れるように挟んでいたのを弾くように飛ばしていたのだ。殭穴という種類の経穴を点いたのだ。

 感覚の鈍った両手で、なんとか針を探り当て何とか抜いて捨てる。だが、点穴の影響はすぐさま抜けず、呼吸は戻らない。

 

 黄小雀は脂汗を額に滲ませながら、窒息に喘ぐ師の元まで歩み至り、陶至賢はそれを仰ぎ見る。彼の目に映る弟子の貌を僅かに歪める諦念と呵責。そこにほんの僅かに混ざる、江湖の漢の頑なさと執着、命に対する軽視への侮蔑が混ざっていた。

 

 黄小雀は血に濡れた右腕を振り上げ、虎掌の形を作る。止めの一撃を繰り出すためである。最後の弟子が、衰えているとは言え己を超えて行かんというこの瞬間、心中に浮かんだのは喜びや安著ではなく浅ましい後悔だった。

 自ら放り捨てた道であるにも関わらず、託す段になって弟子を羨んでいるのだ。その先にあるのは自分が成し遂げたかったものだと。

 

「おさらばです、師父」

 

 僅かに吊り上がった口から、震える声と共に老人の天到にめがけ掌底が振り降ろされた。

 

 

 

 




急激に熱くなってきた今日この頃、皆様如何お過ごしでしょうか?どうも、郭尭です。

今回は武侠小説なる中華ファンタジー作品を書かせていただきました。ここ数年、中国系作品は増えているのですが、面白くはあるんですが古いタイプの武侠ものがなかなか見つからないので自分で書くしかないと、こうなりました。
今回は転生要素はほぼ見えてきませんが、一話は単品だけなら政党武侠ものを意識して書きました。ちゃんとした転生要素は自戒をお待ちください。
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