鶏の鳴き声と共に、少女の一日は始まる。修練衣を着込んだ少女は銅鏡を覗き込んで髪を整えながら溜息を吐いた。銅鏡に映る少女の左頬から首筋まである青黒い痣と黄色く濁った眼球が目に付く。
僅かにたれ目気味な四白眼を瞑り、指で軽くまつ毛を軽く擦って汚れを落とす。そして腰まで届く髪を適当にうなじの位置で結び、最低限の身だしなみを整える。
部屋から荘園の中庭に出ると、今の彼女の心情にも負けない、今にも降り出しそうな曇り空が目に入る。少女は大げさな動きで肩を落としながらため息を吐いた。
少女は中庭を通り、厨房に向かった。そこで水瓶から金盥に水を汲むと手ぬぐいを持って、屋敷の本殿へと運ぶ。少女は気分を落ち着かせるために一度深呼吸を行う。
「師父、水をお持ちしました」
水の入った金盥を小脇に抱え、少女は本殿の、師と呼んだ人物の部屋の扉を開く。部屋の中にいたのは八十を超えた老人だった。老人の体は枯れ木の様にやせ細っており、髪も髭も白一色。右目も老齢故か、白く濁って焦点は合っていない。
少女は部屋の円卓の上に金盥を置き、部屋の隅に控える。それに頷き応えた老人は手と顔を洗い、少女は近づき手ぬぐいを差し出す。顔と手を拭いた老人は少女に手ぬぐいを返しながら、言葉をかける。
「小雀、今日は屋敷の掃除はいらん、昨日伝えた通りに準備せよ」
「はい、朝餉の準備が終えましたら」
金盥と手ぬぐいを受け取り、小雀と呼ばれた少女は深く一礼し、部屋から退出する。そして厨房に入り、扉を閉めると、またしても大きくため息を吐いた。手ぬぐいを物干し竿へと放り、金盥の水を流し場に捨てると二人分の朝餉の準備に取り掛かる。
米と水を鍋に投入し、雑穀の粥を煮る。その合間に取り置き可能な漬物を数種、保管用のツボから小皿にとりわけていく。老齢の師に合わせ献立は和尚や道士の如き質素なものとなっており、弟子たる彼女の献立がそれより良いものであることは礼儀に悖るため、同じものを用意し続けてきた。
日が昇るにつれ、蒸し暑くなっていき、団扇で窯に風を送り続け火の勢いを保つ作業は何度も額の汗を袖で拭かねばならなかった。最後に粥に黒酢で味を調えて碗に盛っていく。
兎に角、出来上がった朝餉を師の分を蓋つきの籠に入れ、持ち手に腕を通して、師の部屋へと向かう。
「師父、朝餉です」
少女は円卓に皿と碗を並べていく。その横では老人が広げられた布の上で、金属の管や発条等を弄っている。少女は老人の邪魔にならないように皿と碗を並べていく。
「では、ごゆるりと」
作業を続け反応を見せない老人に対し一礼し、部屋を出る。三度厨房に戻り、一人食事を済ませる。
本来ならこの後に洗い物や屋敷の掃除などの家事、雑務と武功の修行が彼女の日課なのだが、今日この日は特別な意味を持つ日である。故にこれらは全て些事として切り捨てられる。
自室に戻った少女は部屋の棚から細長い杉の木箱を取り、机の上に置く。そして差し込み蓋を開き、中身を取り出していく。
一つ一つ、机の上に並べられていくのは、何れも人を殺すための武具。その中でも暗器と呼ばれる隠し武器の類である。それぞれ違った使い方と、それに沿った形状を有するそれらを注意深く点検していく。じっくりと、慎重に。己の命を預ける武具たちを。
そしてその内、この後使うだろう物を選り分け、それ以外を箱に戻していく。そして壁際の棚から葛篭を持ってきて中から、袖広裾長の黒い外衣を取り出す。内側のあちこちに、暗器が仕込めるように作られた衣服である。少女は次々と暗器を吟味し、外衣に仕込んでいく。
己の恩人を、師を、その命を奪うために、溜息と吐きながら。
しとしとと、雨が石畳の色を変えていく。七孔より血を流す師の遺体を前に、少女は跪き、額を三度石畳に打ち付け、彼女なりに謝意と敬意を示した。薄っすら額に滲んだ血はすぐに雨に流される。
少女は師の遺体を肩に乗せ、師の寝室に運ぶ。厨房に向かい、金盥に水を入れ、手拭を一緒にもっていく。陶至賢の顔の雨水とわずかに残った血痕をふき取り、軽く櫛を整える。
師の遺体を一時彼の寝室に遺し、少女は祭宗堂と扁額が飾れた建物に入る。部屋の正面の壁際には複数段の位牌棚に、四つの位牌が飾られ、その前には香を捧げるための香炉がある。
位牌は銅花門の歴代掌門のものである。開祖の位牌を上段に、残りの掌門たちの物は下段に。少女は棚から線香を取り出し、香炉の横に配置された蝋燭で火を点ける。跪き香を額の高さに構え、三度位牌棚に向け首を垂れ腰を折る。起き上がった少女は香炉に線香を差す。
門派の歴々への焼香を終えた少女は堂を出る。外は雨が少し勢いを増していた。少女は雨の中、何事もない様に中庭の中央まで歩む。過去、弟子たちの武功の鍛錬にも使われていた、この荘園で最も広く場所を取っている区画である。正門近くまで進んだ少女は簫墻まで跳び上がり、その上をさらに蹴って跳び、正門の上に立つ。そして振り返り、師を謀り、殺め、手に入れた全てを視界に収め、憂鬱を隠さず溜息を吐いた。
雨は間もなく上がった。少女は身を翻し、荘園を離れた。向かった先は普通の人の脚なら四半刻ほどの距離にある林、そこを貫通する道から少し外れた位置にある、寂れた廃廟だった。土の塀は所々崩れ、石畳の敷かれた庭も雑草が茂っている。大きくない廟の中は元々何を祭っていたのか、埃と蜘蛛の巣に塗れた台座が只々そこにあるだけだった。
ただ、今は軽く掃除され、床の埃と焚火の跡が僅かな人の痕跡として残っていることを、少女は知っている。何故ならこの廃廟は、最初の師と連絡を取るために人と会うのに使ってきたからである。
少女は焚火跡の横に置かれた二つの座布団の片方を拾い上げ、雑に台座の上に置いて崩した胡坐を組む。
廟の外から二つの気配が駆けてきたのは、すぐの事である。現れたのは黒一色の着物を纏い、黒い紗で囲われた帷帽で顔を隠した、二人の女だった。
二人は少女の前で片膝を着き左拳を右掌で覆い、礼を示す。
「「御前に参上仕りました、莫掌房。お迎えに上がれず、お許しください」」
目上の者の予定にない来訪に対する定例文的な言葉。その声色に混ざる焦りと畏れがに、諦念交じりの苛立ちを感じていた。
「ここでその名前を使うな。ないだろうが、聞かれたら面倒が増えるだろう」
痣と眼球の異常を、長く毒を飲み続けて維持し、黄小雀の名で過ごしてきた。軽いものではあるが、痛みや熱を感じ続けてきた。それなりに苦痛を伴った時間を、万が一にも台無しにされては敵わない。
少女の言葉に苛立ちの情が混ざったことを聞き取り、黒衣の二人はすぐさま頭を下げる。
「「お許しを!」」
怯えに声を震わせる二人に少女は心中納得し難いものを感じながら、敢えてその様子を無視して台座を降りる。なんでそこまで怖がるかね。
「とにかくだ、こちらの師の葬儀と諸々、形だけでも喪に服して見せなければいけないから、一月はやった方がいいか。まあ、三か月くらいで帰路に発てるだろう。六人残すからその心算で準備しておけ」
片膝を着いた姿勢で頭を下げ続ける二人の間を通り抜け、少女は廃廟を出る。
日本人不懂武侠
日本人は武侠を理解していない
昔、中国でそんなスレットを建てられたゲームがあった。
『風吹紅塵録』。日本のゲームメーカー作った、中国の娯楽ジャンルである武侠モノを扱った珍しいJRPGである。日本のゲームファンの一部に武侠モノという日本では馴染みの薄いジャンルの知名度を(少しだけ)上げた(と私は思う)作品である。
制作会社のスタッフに熱心な中国映画のファンがいたとか、そこから持ち上がった企画だったそうで、折角だからと中小メーカーとしては珍しく中華圏でも同時発売されたことでも話題になっていたのを覚えいる。
で、そんな『風吹紅塵録』、どんなストーリーかというと、幼い頃に家族を皆殺しにされた主人公の少女が、武功を身に付け、色んな出会いや事件を経て仇を探すという、武侠モノの始まりとしてはオーソドックスな内容。そしてこのメーカーお得意の乙女ゲーストーリーで、相手ごとのマルチシナリオ。乙女ゲー好きってわけじゃないけど、丁度中国アクション映画がマイブームだったから興味を持って、攻略対象全員三週以上は楽しませてもらった。
そして笑いありコメディありの良質なストーリーと、アクションゲー的戦闘システムで結構楽しめたゲームだった。
さて、武侠モノというジャンルを日本人に分かり易く伝えるなら、世紀末に相手のツボついて爆発させる主人公の冒険を、中国時代劇でやってると言えば分かり易いだろうか。まあ、相手を爆殺する技なんて、滅多にないけど。
さて置き、元々続編ありきのストーリーだったようで、本作中に仇の正体に辿り着けず、幾つもの伏線が未回収で終わってしまった。
まあ、そんな感じで続きが潰れた、もったいない作品だった。
そんな作品のリメイクが発表されたのは十年近くたった頃だった。ネットでそれを知り、半年後まで迫った発売日を楽しみに布団に入った私は、気が付いたら自分ではない女の子の体で、見知らぬ山の中で目を覚ましたわけである。
何がどうなってそうなったのか、未だに分からない。そこから何故か人売りにエンカウントして、馬車に揺られて売られた先が私の武功の師となり、この時代での育ての親でもある人物だった。
そして否応なしに始まった弟子としての苦行の日々。私を買い取った人物を師父と呼び、日々武功や文字などを学び、屋敷の雑事を片付け続け、この時期に私は自分の身に起きたことを大凡理解していったわけで。
私を買ったのは欧陽旋(おうよう せん)という名の、筋骨隆々の中年男だった。
ここで初めてある可能性に思い至ったわけで。ここが単純に古代中国なのではなく、『風吹紅塵録』基準の、即ち歴史的に正しいわけではない明朝であると。
何故なら私を買った、私の育ての親となり、武功の師となる人物がゲームのラスボスとして、まだ時期的には先の話だが、永楽帝の治世をひっくり返そうとした人物なのだ。別に本人が皇帝になりたいって訳ではないんだけど。
そして私は長い時間をそんな人物の下で過ごすこととなった。
さて、この欧陽旋なる人物、ラスボスやるくらいなので当然と言えば当然だけど、当代指折りの武功の達人であり、武林の頂点に与えられる名称、五頂峰の一角として名を知られている。そしてストーリーで中ボス格である、少数精鋭の直弟子たちを育てた指導者でもある。少数精鋭過ぎて四人しかおらず、数が必要な時はそこらのごろつきや別勢力の力を借りる必要がある小規模勢力だけど。
買われた私はこの頃に、様々な経緯で集められた子供たちと共に武功を叩きこまれた。肉体的にも精神的にも辛いものだったが、文字通り死に物狂いで着いていった。何せ都度二回の足切りを乗り越えないと、ほんとに命に係わることを知っていたから。
最初の足切りは物理的に首切られ、二回目の足切りだと喉を切られて声を奪われる。欧陽家の武功の流出防止の措置ってことで、二回目なら使用人として命だけは、ってわけで。
そんなこんなで二年の間に二度の足切りをクリアし、正式に武功を学ぶことを許される。尚、
拒否権は行使すると喉を切られて使用人コースなので実質存在しない。
そして私は更に二年、併せて四年程を掛けて玄蛛功を修め、加えてこの時代では立派に特殊技能であった文字や、教養としての琴棋書画を学ばせてもらい、独り立ちしなければならなくなった時に生活に困らないように刺繍も大したもんだと自賛できるくらいになった。
私の立場からは嫌う理由は幾つもあるが、同時にこの時代を生き抜くに必要な能力を与えてくれた恩人でもあるのだ。もし私が自分の保身を第一にするなら、早い段階で師父の下から逃げるべきだとは思う。そしで名を変えて適当な場所で大人しく生きてくだけならできなくもないだろうし。
ただこれだけ長く一緒に暮らせば、情も義理も生まれるもの。古代中国式師弟関係はかなり密なものであり、師父だけでなく師兄師妹だって仲は大凡悪くない、と思う。全てを捨てて逃げ出すには、私はこの疑似家族に絆され過ぎたわけだ。
だから私は、将来的に師父がやらかす計画を、私なりに手伝うことにした。原作では主人公たちと、江湖の正派と呼ばれる連中に阻止される反乱計画を。私という原作に存在しないイレギュラーが関わることによって。ただ、さすがに命までは賭けられるほどの覚悟は私にはなかったから、いざという時のために逃げ道を用意しながら。
嘗て江湖で名を馳せていた時期がある門派を乗っ取り、別人の身分を作る。私なりにこれから起こるであろう諸々に対して動きやすくするために。師父のための使い捨てられる手駒として。そしていざという時に逃げ込める保険とするために。
そのためには、大分ご無礼なのだけど、黄小雀と偽名を名乗り銅花門の門を叩いた。
まあ、こちらにも二年、同じ屋根の下で世話になったし、こちらの師父も察しの悪い御仁じゃなかったし、企みがあることは分かっていたと思う。私が外と連絡取ってたことも。
結局の所、私は己の師を殺した。どこかのタイミングで死んでもらわねばならなかったとは言え、師父の提案は渡りに船だった。私の心情的に。江湖なんて人の命の軽い時代に浸かってきたとは言え、やっぱり長く接してきた人を殺すのは心に来る。
師、陶至賢の死を街の役所に届け出て、正式にその荘園は黄小雀のものとなった。街に待機させていた部下たちを師の葬儀のために雇い入れたとして屋敷に招いた。
落ちぶれたとはいえ銅花門はこの地に長く根差した門派である。地元の名家や村々から多くの弔問客が訪れ、師の遺体を収めた棺に向かって号泣し、その嘆きを示した。生者の嘆きの大きさで、死者の生前の徳の高さを示すという風習である。
黄小雀からすれば大袈裟で芝居がかっており、事実礼節の一環として大袈裟にやっているのは事実ではある。その様子に、喪主として葬式を取り仕切る黄小雀は内心の辟易を隠しながら遺族の喪服である白一色の衣装でこれに対応し続けた。仮に陶至賢に他の親族がおり、黄小雀が喪主を務めることがなければ、棺の横に控え、延々泣き続ける作業を課せられていただろう。
その後葬儀を終えた黄小雀は、父に相当する立場にある陶至賢の喪を早くに切り上げ、部下を六人と新たに雇い入れた数人の下働きに残し、荘園を後にした。
故師から受け継いだ荘園を離れ、目指すは我が最初の師である欧陽旋(おうよう せん)の本拠、江西撫州府(こうせい ぶしゅうふ)が宜黄(ぎこう)県である。黄河を経由し南下、順調なら二か月ちょっとで到着できる。
黄小雀は離れる前、陶至賢の生前からそうしていたように灰色の書生服という男装で、周囲に長期留守にする旨の挨拶を交わした。特徴のある服装を強く印象付け、今後違う服装で出会っても同一人物だと簡単にばれないようにするために。船を調達するまではわざわざこの姿で居続け、船の天幕の内で漸く、彼女は彼女の本来の身分としての姿を不安なく取り戻せる。いや、厳密にはそちらも本当の意味での彼女の姿とは言い難いのではあるが。
船に弓形に設置された竹製の骨格に油布を張っただけの簡易な天幕。周囲から視覚的に隔てられた場所で黄小雀は座禅を組み、その左右を部下の少女二人が侍る。
「すぅー、ふぅー……」
瞑目し、規則的に深い呼吸を繰り返す。一呼吸毎に腹の下、即ち丹田に熱が溜まっていく。熱は経脈を通し、全身を廻っていく。武功における内功、俗に気の循環を操作して身体機能を向上させる技術がある。その応用として体内の異物を排出するためのことも可能なのだ。
内功を廻らせる内に、やがて額に浮かぶいくつもの玉のような汗。同時に頬の黒い痣も薄れていく。そして顔の痣が完全の消えた後、黄小雀は部下に命令する。
「瓶」
端的な一言に左側に侍る部下が木栓を抜いた陶器の瓶を差し出す。黄小雀は瓶の口に左の小指を添えると、小指の先端から針で指を刺したような血の球が現れる。黒々とした血の球は少しずつ大きくなり、ぽとりぽとりと瓶に落としていく。そして流れ出る血が赤みのあるものに変わった頃に黄小雀は指を戻し、口に含んで血の汚れを吸う。部下の少女は瓶に栓をし、赤い布で覆って封をする。
黄小雀は座禅を解き、立ち上がる。その顔にかつての痣の後は微塵もなく、開かれた彼女の左目の濁りも完全に消えていた。
「私の帷帽を」
彼女の手に右側の部下が黒い紗と、八本の紐にそれぞれ繋がれた水晶球で囲われた帷帽が手渡され、それを被り顔を隠し、腰には大が一つと小さな瓢箪を三つ括り、天幕を出る。
少女は銅花門現掌門、黄小雀としての一面を隠し、同一人物である事実を余人に知られないために戻る。育ての親であり最初の師、蠱烟島(こえんとう)の主、欧陽旋の直弟子莫三糸(ばく さんし)として旅の黒衣令嬢姿に。
銅花門を離れ師父欧陽旋の本拠、蠱烟島が見えた頃には既に額に汗が日中に渇くことのない時期になっていた。
山々の間に河が通り、その両岸を城壁のない街が挟み、その外を更に森林が囲む。平地の少ない起伏に富んだ中国南方らしい地域。この地の河川は広い場所なら、小さいとはいえ島を収めてしまうような場所さへあり、蠱烟島もまさにそんな島の一つなのだ。
船の天幕を出て、久方ぶりにその姿を見れば、何とも複雑な気分になる。この時代と言うべきか、この世界と言うべきか、こっちでは一番長い時間を過ごした場所。何度も死にかけ、多くの辛い記憶、少しの楽しい記憶、そして何人かの捨てられない人たち。
「莫掌房、船が揺れます」
私たちの乗る船の後方から船が近づいて来ていた。振り返ると、かなり大型の楼船で明の字の旗が掲げてある。朝廷の大型の軍艦か。今は異民族征伐や北平(後の北京)の紫禁城の建設で軍部があたふたしている様子が何年も続いている。あの船も河を下って、労役の人間を積むのか、物資を積むのか。どちらにせよ、道中聞き及ぶ限り、永楽帝の民衆から評判は低空飛行を続けている。そんなだから民衆は先帝の生存説を願って語るんだろう。
横を通り過ぎていく軍艦から目線を久方ぶりの島に戻す。緑生い茂り、その名の如く煙のように立ち上る幾筋もの湯気、講談に語られる梁山泊の如き峻険な地形、中々不便な生活を強いられた今世最も長くの時間を過ごした天然要塞。
さあ、戻って師父に諸々、報告しよう。師兄妹たちとも久しぶりに顔を合わせられる。
「うむ、お前の帰還、久方に会えて師も嬉しく思う。名を聞かなくなって久しいとは言え、銅花門の名跡は使いようもあろう」
正堂の上座で、剛毅な外観に似合わぬ典雅な所作で蓋碗でゆっくりと茶を嗜み、私は片膝を片手を着いて首を垂れる。
これは良いとして。
私が入室した際に既に、こっちに残してた部下が二人、両手を背中に縛られて跪かされてるのを見てから背中が寒くて仕方がない。
こいつら何やった?私の部下は、名目上蠱烟島の人間じゃなくて、私個人の部下として要求したからこそ、足切りで喉を裂かれずに済んだ者たちで、それもあって部下の面倒も罰則も基本私に一任されている。彼女らが他の立場の人間なら、ここで跪く機会さへなかっただろう。
「帰ってすぐに、疲れているだろうが、蠱烟島蔵書房、掌房として仕事をしてもらわねばならん」
「弟子は師のご指示に従います」
蠱烟島の、或いは師父の直弟子未満への扱いは酷薄だ、脱走を企てる者は時折出る。こいつらもその類か、他の使用人たちより良く扱っていた心算だったけど。
「この二人はお前が戻ってくると手紙が来て間もなく島からの脱走を試みた。蔵書房に収められた武術書を持ってな」
ん”ん”ん”~!罪加一等(更に罪が重くなった)!単に逃げただけなら、育成の手間や人手の確保で何とか生かしておけないか考えていたけど、んなもんこの業界じゃ最重要機密だぞ!金銀財宝盗んだ方がまだ罪が軽くなる!大手企業のデータバンクから重要機密抜いてったような、いややっぱそれどころじゃねえ!
「全て弟子の管理不行き届きです!如何なる罰も喜んで受けます!」
「お前は二年も島の外にいたのだ。何百里も遠くから完璧な統制などとれるものか。そのことで咎めなどせん」
「はっ!師父のご寛恕に感謝いたします!」
取り合えず私の命は繋がった!
「お前の仕事はこの二人の賊徒を如何に処置するかだ」
そっちの方は、寧ろ殺す以外の何があるのか。蠱烟島に限った話ではないが、武術集団で武術の秘伝書やらそういうものより大事なものなんて。
「しょ、掌房、助けてください!」
「命だけは!命だけは!」
師父の言葉に反応したのか、恐怖心が抑えられなくなったか。こちらへと声を向けてくる。どんな顔をしているのか、首を垂れ続ける私に彼女らの表情は見えない。ただ、彼女らを拾い上げたのは私であり、玄蛛功を収めてから一旦ここを離れる間の短い間、世話もした。問答無用で命を奪うのも、憚れるというのが正直なところではあるけど。
「一つ、二人に機会を与えようと思うのですが……」
立ち上がり、師父と目線を合わせる。声は震えていない、筈だ。心音がうるさくて自分でちょっと分からない。
「ほう、蔵書房の書を持ち出すは死罪に値せんと?」
師父が灰色が混ざり始めている顎鬚に手をやりながら、目を細めた。
「万死に値することは無論。よって殺す心算で罰を与えます。ですがそこを生き抜けるのならば、功を持って罪を償わせる価値があるかと」
死刑の執行はしないわけにはいかない。侠は面子商売、舐められたら立ち行かない。それが内からだろうと、外からだろうと。そしてそこになんとか生存の可能性を残すのが、私に許される限界だろう。
私は跪く部下二人の背中に歩み寄る。その背中を中指を根元から直角に曲げた形で二人の右肩甲骨の下部の穴位(けつい)に打ち込む。
「そんな、お許しを!なんでも致しますから!」
「それは我々では助かるなど!」
私が二人に打ち込んだ技は、内功と点穴の組み合わせで胆嚢の機能を誤作動させ、自分から寒毒を分泌させる技である。易筋融魂指(いきんゆうこんし)という名のこの技は陶師父に打ち込んだもののような即効性はなく、極めて少量づつ分泌される毒でゆっくりゆっくりと、筋機能を弱体化させる。そして七七、四十九日の後、呼吸する力さへ失い命を落とすのだ。
本来戦闘ではなく、恐怖による拷問用の技である。これを二人に打ち込んだ。後は牢に閉じ込め、自力で毒を解除できれば改めて償いの機を見繕う。
現状彼女らの内功では自力での解除は大凡不可能。だから助かるには頭の機転も必要。一応は助かる筋道が、絶対にないというわけではないのだから。
「……よかろう。お前の技を破れるならこやつらの評価も改めねるべきであるし、機会をやろう。だが示しは必要だ。誰ぞ!この不届き者どもを檻に入れ外園に晒せ!」
正殿の外に控えていた使用人たちが入ってきて、二人を引っ張っていった。
「些か甘きに過ぎんか?他が勘違いして増長するぞ」
「師父の威厳があればそれも叶うでしょうが、私では反発が強まって、却って面倒が増えるかと」
師父は目を細めてこちらをこちらを見つめてくる。思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「……これ以上は儂が言うべきことではないか。ただ結果の責任は己で負え」
「勿論です、師父」
「長旅で疲れただろう。今日はもう休め」
「いえ、こんなことがあったのです。蔵書房で目録と蔵書の確認をしてから休ませていただきます。他に何かなければ弟子はお暇させて頂きます」
金糸の蜈蚣紋が刺繍された黒い外套を翻しながら正堂を離れる師父に頭を下げ、師父が見えなくなってから私もこの場を離れる。
帰っていきなりこれで頭が痛い。他に何かなくなっていないか。蔵書の管理だけでなく、指定された蔵書の写本作業もある。師父に言われた書いてるアレも、何も言ってこないから隠せているはずだが、やはりこの目で確認しなければ不安だ。
ああ、銅花門の経営もどうにかしないと。まずこっちの何人かに銅花門の武功を仕込んで、向こうに残した奴らと交代させて。情報収集もできないと乗っ取った最低限の意味もなくなるから、取り合えず茶房とかやらせるか。荘園で自給自足目指すとしても、黄土って何が育つんだ?
ああ、本当に、やることが多い。