これではないと僕は泣いた -二度目の人生で、ゲームと一杯のラーメンを完成させるまで- 作:朝凪小夜
僕は湯気の匂いで目を覚ます。
そういう朝がある。まだ何も食べていないのに鼻の奥に醤油と鶏の脂の匂いが立って胸が締めつけられる。天井は低い。木と埃の匂いがする。畳の目が頬に食い込んでいる。僕は寝返りを打って自分の手を目の前に持ち上げる。小さい。指が短くて爪がやわらかい。この手は僕の手だ。そのはずだ。なのに、どこか遠くから借りてきたもののように思える。手を握る。開く。また握る。ちゃんと僕の言うことをきく。きくのにまだ馴染まない。
僕はもうすぐ五つになる。東京の下町。路地の奥の平屋。父は近くの町工場に勤めて母はいつも割烹着を着ている。朝は味噌汁の匂いで満ちて夕は魚を焼く煙で満ちる。ラジオが野球を流し隣の家の赤ん坊が泣く。井戸端で母たちが笑う。それが僕の世界のすべてだ。すべてのはずだ。
けれど時々おかしなものが滲んでくる。
思い出すというのとは少し違う。滲む。染みる。まぶたの裏に光る四角い板が浮かぶ。指がそれを叩くと白い文字が下から上へ流れていく。青白い光が顔を照らす。窓の外はいつも夜だ。狭い部屋。畳まれていない布団。流しに積み上がった器。汁の乾いた丼。割り箸の袋。伸びきった麺を独りで啜る音。どれも僕の知らないものだ。知らないのに懐かしい。懐かしいのに胸が痛い。
日が経つごとに滲みは濃くなる。輪郭を持ちはじめる。まるで遠い霧の奥から誰かがこちらへ歩いてくるみたいに。その誰かは僕によく似ている。いや似ているのではない。
そうしてある朝わかってしまう。
あれは僕だ。まだ生まれてもいない僕だ。
うまく言えない。僕は五つの子供で言葉をまだ半分しか持っていない。けれど頭のどこかにはもう一人分の生涯がまるごと畳んで仕舞われている。長い夜と光る画面。指が覚えている無数の動き。あれを作っていた。僕は何かを作る人間だった。人を夢中にさせる何かを。単純なのにやめられない何かを。子供が石を蹴りながら家まで帰れないほど夢中になる。そういうものを僕は手で組み上げていた。うまくいった夜のことを体がまだ覚えている。誰にも言えない小さな勝利。画面の向こうの誰かが息を止めて指を動かす。その気配だけで僕は生きていられた。
そしてもう一つ。僕はよく食べた。夜ごと湯気の立つ丼に顔を寄せた。あれだけが独りの時間の慰めだった。仕事の合間に啜り休みの日には足を棒にして食べ歩いた。知らない街の暖簾をくぐるたび胸が高鳴った。あの一杯があれば他に何もいらなかった。誰もいなくてもよかった。やがて体が重くなり階段で息が上がるようになっても僕は箸を置かなかった。医者の言葉を聞き流した。置けなかったのだ。あれは僕の楽しみで僕の逃げ場で僕のいちばん深い場所だった。
最後の記憶はひどく静かだ。誰もいない。丼だけがある。それきりだ。
だから今こうして小さな手で畳を掴んでいるのが不思議でならない。僕は一度終わった。終わったのにここにいる。理由はわからない。どうして戻れたのかもわからない。同じように二度目を歩いている誰かがこの空の下のどこかにいるのかもわからない。もしいるのならいつか気づいてほしい。僕はここにいると。けれどそれを確かめる術はない。今わかるのはただ渇きだけだ。もう一度作りたい。もう一度あれを食べたい。まだ生まれていないものへの渇き。三十年より遠い場所への渇き。
その渇きに名前がつく日が来る。
今日がその日だ。
日曜の昼だ。父が珍しく家にいて母が僕の髪を撫でつける。今日は外で食べようと父が言う。町の中華そば屋だ。母がそう繰り返した瞬間に僕の心臓が跳ねる。中華そば。その響きだけで口の中に唾が湧く。ようやくだ。ようやくあれが食べられる。僕はまだ一度もこの世界の一杯を口にしていない。母の味噌汁もふかし芋も好きだ。けれど僕がずっと待っていたのはあれなのだ。
徹はほんとに中華そばが好きねえ、と母が笑う。まだ食べてもいないのにと父も笑う。二人は僕の高鳴りの本当の理由を知らない。知りようがない。
僕は父の手を握って商店街を歩く。八百屋の店先に西瓜が積まれている。魚屋の氷が溶けて路地を黒く濡らす。どこかでミシンの音がする。ラジオの歌がいくつも重なって聞こえる。誰もが忙しく誰もが貧しくそれでも街には妙な熱がある。前へ前へと傾いでいく熱だ。上を向けば電線が空を細かく切っている。まだ高い建物はほとんどない。低い屋根が地平まで続いている。僕はこの街が数十年でどれほど変わるかを知っている。この空にいくつも塔が立ち、この路地が舗装され、西瓜を積んだ店が消えていくのを知っている。知っているのに口に出せない。出したところで誰にも届かない。だから僕はただ父の手の硬さを握りしめる。この手はまだ温かい。今はまだ温かい。それだけで胸がいっぱいになる。
角を曲がると暖簾が見える。すすけた紺の暖簾。白い文字。それを見ただけで足が速くなる。
暖簾をくぐると湯気が顔を包む。醤油の匂い。鶏ガラの匂い。焦げたねぎの匂い。僕はそれを胸いっぱいに吸い込む。懐かしさで泣きそうになる。ここだ。ここにあるはずだ。狭い店だ。赤いテーブルが四つ。油で曇った窓。壁に短冊の品書きが貼ってある。支那そば。中華そば。もやしそば。玉子丼。おやじさんが額の汗を手ぬぐいで拭いながら大きな寸胴の蓋を開ける。白い湯気が天井まで昇る。父が支那そばを三つ頼む。へい、と低い声が返る。
僕はテーブルの縁を両手で掴んで待つ。待っている間じゅう僕の中の霧の男が僕と一緒に前のめりになっている。二人で一つの丼を待っている。
やがて丼が運ばれてくる。
僕はそれを見る。澄んだ琥珀色の汁。細く縮れた麺。薄いチャーシューが一枚。なるとが一枚。刻んだねぎ。しなびた木耳とメンマ。湯気の向こうでそれは正直に湯気を立てている。何も飾らない。何も隠さない。まっすぐな一杯だ。おやじさんが鶏ガラと背脂と醤油だけで真面目に取った汁。嘘のない味だ。それが僕にはもう見ただけでわかる。
僕は割り箸を割る。少し歪んで割れる。麺を持ち上げる。息を吹きかける。母がその様子を微笑んで見ている。僕は啜る。
汁が舌にのる。
――違う。
温かい。しょっぱい。鶏の匂いがちゃんと立ちのぼる。悪くない。悪くないどころか良い。正直で優しい味だ。真面目な人が真面目に取った出汁の味だ。けれどこれではない。僕の中の一杯はこんなものではなかった。もっと深かった。もっと底がなかった。澄んだ汁と濁った汁が一つに溶け合って舌の上でほどけていった。ほどけながら何度も形を変えた。軽くなり重くなり泡になり冷たく固まりまた溶けた。単純な素材ひとつを限りまで使い切っていた。使い切った先で別の景色に出ていた。啜るたびに裏切られた。裏切られたくてまた啜った。あの一杯だ。あれが欲しい。あれでなければ僕の渇きは終わらない。
けれどそれはここにない。
僕は麺を噛みながら気づく。ゆっくりと。残酷なほどはっきりと。あれはまだこの世界のどこにもない。誰も作っていない。作り方すら誰も知らない。おやじさんも知らない。この街の誰も知らない。あの味へ辿り着くための道具も技も言葉も何ひとつまだ生まれていない。あれが生まれるのは何十年も先だ。僕がもう一度年老いてしまうほど先だ。今この湯気の中にいる誰も未来の誰かがそこへ辿り着くことを知らずに生きて死んでいく。
喉の奥が熱くなる。目の縁に水が溜まる。悔しさなのか寂しさなのか自分でもわからない。五つの体はその大きすぎる感情を入れる器を持っていない。器が小さすぎて溢れる。だから涙になって零れる。零れて丼に落ちる。
どうした熱かったか、と父が笑う。母が慌てて僕の口元を拭く。この子は猫舌なのねと母が言う。ちがう。ちがうのだ。僕は首を振ることもできずただ啜る。うまい。うまいのだ。この一杯は本当にうまい。うまいのにこれではないのだ。その二つが同時に喉を通っていく。涙と一緒に通っていく。
僕は丼を空にする。汁の一滴まで飲み干す。空になった丼の底を見つめる。白い底に葱の欠片がひとつ残っている。
言葉にはできない。言葉にしても誰にも届かない。僕は五つで僕の渇きは三十年より遠い。だから僕はそれを飲み込む。涙も渇きも一緒に飲み込んで蓋をする。ここに置いておく。深い場所に沈めて忘れないでおく。いつか開けるために。いつか自分の手で応えるために。
けれど飲み込んだ底の方で何かが小さく灯る。
無いのなら。誰も作っていないのなら。いつか僕が作ればいい。あの一杯も。人を息を止めて夢中にさせる方のあれも。どちらも僕はやり方を知っている。舌が覚えている。指が覚えている。まだ何もできない小さな手だけれど中身は空っぽではない。二度目の生涯はそのためにあるのかもしれない。そう思うと不思議と涙が止まる。渇きだけが澄んで残る。澄んだ渇きは怖くない。行き先を教えてくれる灯だ。
ごちそうさまと父が言い母が僕の分まで手を合わせる。僕も小さな手を合わせる。おやじさんがまた汗を拭く。ありがとうございましたと低い声が背中に落ちる。真面目な一杯だった。僕はもう一度その顔を見る。いつか僕もこういう顔で誰かの前に丼を出すのかもしれない。そんな遠い予感がよぎってすぐ消える。
店を出ると陽が高い。商店街は白く光っている。西瓜も氷も暖簾も何もかもが眩しい。父が僕を肩車する。父の肩は硬くて温かい。高いところから見る街はどこまでも低く続いて僕の知らない未来へ延びている。塔のない空へ延びている。僕はもう泣いていない。ただ静かに決めている。
いつか。いつか必ず。
その日まで僕はこの渇きを忘れないでおく。忘れないと今は思っている。まだ何も知らないから思っている。この渇きがやがて何十年もの仕事と人の縁の中でどんな形になっていくのか。何を忘れ何が残るのか。今の僕にはまだ何ひとつわからない。
わかっているのはただ一つ。
僕はもう一度始めるのだ。