これではないと僕は泣いた -二度目の人生で、ゲームと一杯のラーメンを完成させるまで-   作:朝凪小夜

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第十話 玩具の火

 その夏街に妙な箱が現れる。

 喫茶店のテーブルがいつのまにか箱になっている。天板の下に画面が埋め込まれている。硝子の天板越しにその画面を覗き込んで若者たちが夢中になっている。コーヒーを頼むふりをして何時間も箱に張りついている。店の隅には両替機が置かれている。硬貨を入れる音が絶えず鳴っている。最初それが何かわからない。ただ街のあちこちでその箱が増えていくのを感じる。喫茶店だけではない。駅前にも路地裏にも箱が置かれる。箱ばかりを並べた店まで現れる。薄暗い店の中で無数の画面が青白く光り若者がずらりと箱に向かっている。異様な光景だ。異様なのに誰も異様と思っていない。

 僕は仕事帰りにその店の前でしばらく足を止める。

 硝子越しに中を覗く。青白い光が何十も並んで揺れている。人影がその光に照らされて浮かんでいる。皆うつむいて画面を見ている。誰も喋らない。硬貨の落ちる音と電子の音だけが漏れてくる。奇妙に静かで奇妙に熱い。祈りの場のようだ。前の生涯で僕はこういう光景を知っていた。無数の人が小さな画面に向かってうつむいている光景を。あのころは誰もが自分の手のひらの画面を覗いていた。今は街角の箱を囲んでいる。形は違えど同じだ。人は光る画面に吸い寄せられる。その習性の始まりが今ここにある。僕はその始まりの前に立っている。

 やがて噂が耳に入る。

 箱の中で遊ぶのだという。画面の中の敵を撃ち落とすのだという。それが恐ろしく面白いのだという。若者が小銭を握りしめて列を作る。喫茶店が本業の飲み物より箱の稼ぎで潤う。銀行から硬貨が消えるという話まで流れる。人々が箱に硬貨を吸い込ませすぎて世の中の硬貨が足りなくなったのだという。国の銀行が慌てて硬貨を刷り増したのだという。まさかと思う。硬貨が足りなくなるほど人が一つの遊びに熱をあげる。そんなことがあるものか。まさかと思いながら僕はその箱の一つに近づく。

 僕は硬貨を入れて座る。

 画面の上のほうに敵がびっしり並んでいる。列をなしてゆっくり左右に動きながら少しずつ下りてくる。僕の手元には下の一点を左右に動かす操作と撃つ操作しかない。それだけだ。決まりはそれだけだ。撃って敵を減らす。敵が下りきる前に全部撃ち落とす。撃ち落とせなければ陣地を侵される。単純だ。呆れるほど単純だ。子供でも一目で決まりがわかる。

 けれど始めた途端に僕は引き込まれる。

 敵は撃つほど数が減る。数が減ると動きが速くなる。速くなると撃ち落とすのが難しくなる。終わりに近づくほど緊張が高まる。あと一匹。あと一匹で終わるという場面で指が震える。撃ち損じれば侵される。侵されれば終わりだ。その瀬戸際の痺れるような緊張。心臓が鳴る。手が汗ばむ。僕は夢中になる。硬貨を入れ直す。もう一度。もう一度だけ。もう一度で終わりにする。そう思いながら何度も硬貨を入れる。気づけばずいぶんな時間が経っている。前の男が去り次の男が座る。誰もが同じ顔で箱に食い入っている。夢中の顔だ。我を忘れた顔だ。

 僕は席を譲って店の中を見回す。

 どの箱にも人が張りついている。学生服の少年が身を乗り出している。背広の男が鞄を膝に挟んだまま指を動かしている。女の子が友達の肩越しに覗き込んでいる。皆が画面の一点を睨んでいる。皆が同じ瞬間に息を止める。同じ瞬間に肩を落とす。硬貨の落ちる音がひっきりなしに鳴る。両替機の前には列ができている。この店は喫茶店の顔をしているが実のところ箱で回っている。飲み物はついでだ。人々は箱のために来る。箱のために硬貨を崩す。僕はその光景を見て背筋がざわめく。これは熱狂だ。ひとつの遊びが街の人間をこれほど動かしている。金を動かし時間を動かし心を動かしている。

 箱から顔を上げて僕は震える。

 これだ。

 これは僕の知っている形だ。単純な決まりをひとつ置いてそこから底のない駆け引きが生まれる。原っぱで子供たちを夢中にさせたあの形だ。紙の上で語を締めたあの形だ。木戸に手紙で書き送ったあの形だ。撃つと減る。減ると速くなる。速くなると難しくなる。難しくなると緊張する。たったそれだけの仕組みで人はこんなにも夢中になる。あと一匹の緊張のために硬貨を注ぎ込む。日が暮れるのも忘れる。まさに僕が作りたかったものだ。まさに僕が二度目の生涯で世に出したいと願ってきたものだ。

 奇妙な気持ちだ。

 嬉しさと悔しさが同時に来る。嬉しいのは僕の信じてきたものが正しかったからだ。人を夢中にさせる仕組みには力がある。それを世の中がとうとう認めた。僕の孤独な確信が街の熱によって裏づけられた。悔しいのはそれを最初に世に出したのが僕ではないからだ。誰かが先に箱を作った。誰かが先に人々を夢中にさせた。僕はそれを客の側から眺めている。硬貨を入れる側から。作る側ではなく遊ぶ側から。前の生涯で味わった感覚がよみがえる。いつも僕は少し遅れて立っていた。見えているのに手が動かせない場所に。けれど今度は違う。今度こそ僕は作る側へ回る。この熱の中へ客としてではなく作り手として飛び込む。

 僕がずっと胸の奥に畳んできたものが今街角で燃えている。

 しかも僕一人が知っているのではない。街じゅうが燃えている。子供も学生も勤め人も箱に張りついている。硬貨が足りなくなるほどの熱だ。これはもう一部の物好きの遊びではない。世の中を巻き込む大きな熱だ。前の生涯でこの熱がどこまで大きくなるかを僕は知っている。今はまだ始まりにすぎない。始まりでこれだけの熱だ。この先この熱は国を越え世界を覆う。何十年ののちには人が最も金を使う遊びの一つになる。僕はそれを知っている。知りながらこの目で始まりを見ている。始まりに立ち会っている。

 かつてこの手の遊びは限られた場所にしかなかった。

 僕は前の生涯の知識でそれを知っている。ずっと昔は大学の研究室で学生が余技に作って学生どうしで遊ぶだけのものだった。そこに商いはなかった。遊ぶ者はみな機械に通じた者だった。だから決まりが難しくてもよかった。それが今どうだ。喫茶店のテーブルに座った普通の人が硬貨一枚で遊ぶ。機械のことなど何も知らない人が夢中になる。研究室の隅の玩具が街の真ん中に出てきた。出てきた途端に世の中を掴んだ。遊びが産業になった瞬間だ。僕はその瞬間を目撃している。

 僕は遠山を思い出す。

 玩具だ、と遠山は言った。あの夜明け前の店で。遊戯に未来があるとは思えん、と。人を夢中にさせて何になる、と。子供の遊びに一生は賭けられない、と。あの言葉を僕はまだ覚えている。最も遠くを見る男の言葉だった。誰よりも深く情報の骨を見抜く男の言葉だった。僕の紙一枚から機械の呼吸を読み取った男の言葉だった。その男が唯一見誤ったものが今ここにある。玩具が街を飲み込んでいる。子供の遊びが硬貨を枯らしている。人を夢中にさせることが国の銀行を動かすほどの熱を生んでいる。

 もし今遠山がこの店に立ったらどんな顔をするだろう。

 僕はそれを想像してみる。あの無精髭の男が箱の前で腕を組む姿を。おそらく遠山はしばらく黙って箱を眺めるだろう。それから言うだろう。ふん、こんなもの、と。単純すぎる、と。中身は貧しい機械だ、と。深い理屈は何もない、と。そしてきっとこう続ける。だが人が群がっている、と。硬貨が動いている、と。遠山は馬鹿ではない。目の前の熱を否定はできない。ただそれでもあの男は自分の道を変えないだろう。玩具は玩具だと言い張るだろう。深い機械の奥にこそ本物があると信じ続けるだろう。その頑なさが遠山を遠くまで運び同時に横で育つ熱から遠ざける。僕は会ってもいない遠山とそんな問答を胸の中でする。

 遠山だけではない。

 僕の勤める会社でも同じ声がある。計算機は真面目な道具だ。帳簿を計算し在庫を数える道具だ。それで遊ぶなど子供の戯言だ。大の大人が扱うものではない。会社の誰もがそう思っている。昼休みに箱の話が出ても皆が鼻で笑う。あんな子供だましのどこがいいのか、と。世の中の大人の多くが同じ顔をする。玩具。戯れ。余りもの。真面目な機械の使い道の外にあるもの。その蔑みの声を僕は黙って聞いている。聞きながら胸の奥で笑う。あなたたちは知らない。その余りものがやがて世界一の産業の一つになることを。

 世間の風当たりはむしろ強くなる。

 箱に夢中の若者を大人が眉をひそめて見る。学業を怠けて箱に通う者がいる。小銭欲しさに悪事に走る者まで出る。新聞が書き立てる。子供を惑わす害毒だと。学校が箱のある店への出入りを禁じる。世の中は玩具の火を危ういものとして扱いはじめる。産業として認めるどころか不良の温床として叩く。僕はそれも知っている。前の生涯でも新しい遊びはいつも最初こう叩かれた。叩かれながら育った。叩かれるのは大きく育つものの宿命だ。世間が叩くほど僕は確信する。これは本物だ。世間を揺さぶるほどの力がある。

 僕はその叩かれ方をむしろ頼もしく思う。

 害があると言われるのは力がある証だ。無力なものは叩かれもしない。世間はまだこの遊びの正体を掴めていない。得体の知れない熱に怯えて叩いている。子供を惑わす害毒だと。学業の敵だと。けれど怯えるということはそれだけ大きいということだ。前の生涯でも新しい娯楽はいつも最初は害毒と呼ばれた。読み物も芝居も動く絵も。呼ばれながらどれもやがて世の中に根を張った。害毒と呼ばれた娯楽が次の時代の文化になった。この箱もそうなる。今叩いている大人たちの孫がいつか当たり前にこの遊びと暮らす。僕はその未来を知っている。だから世間の叩く声の中に僕はむしろ産声を聞く。

 僕は箱の前に座り直す。

 今度は遊ぶためではない。読むために座る。作り手の目で箱を読む。なぜこれが人を掴むのか。何が効いているのか。敵の下りてくる速さ。撃ち返しの間合い。逃げ場の狭さ。あと一匹という瀬戸際の作り方。数が減るほど速くなるという仕掛け。それらが精密に噛み合って人を痺れさせている。作った人間は人の心の痺れる場所を知っている。そこを的確に突いている。設計を一つ一つ読み解いていく。硬貨を入れながら手ではなく頭で遊ぶ。

 この遊びの巧さは緩急にある。

 初めは敵が多くてゆっくり動く。撃ちやすい。人は簡単に何匹か落とせる。落とせるから面白い。ところが減るほど速くなる。同じ人が同じ腕なのに終盤は急に難しくなる。この速さの変化が絶妙だ。速すぎず遅すぎず。人がちょうど手に汗を握る速さで上がっていく。しかもその速さは初めから狙って設計されたのではないと僕は見抜く。敵が減れば機械の負担が減る。負担が減れば動きが速くなる。機械の都合がたまたま人の快さと一致している。作った者はその偶然を捨てずに拾った。機械の癖を遊びの味に変えた。僕はそこに舌を巻く。制約が味を生んでいる。狭い機械の窮乏がそのまま遊びの妙味になっている。まさに僕が紙の上で学んだあの原理だ。狭さが豊かさを生む。作り手はそれを知っていたか偶然掴んだ。どちらにせよ見事だ。

 読み解きながら僕の中で別の声が湧く。

 僕ならこうする。ここをこう調えればもっと痺れる。この間合いを少しずらせばもっと際どくなる。逃げ場をここに一つ足せば駆け引きが深くなる。敵の並びに癖をつければ覚える楽しみが増える。この単純な骨にもっと豊かな肉をつけられる。僕の頭の中で勝手に設計が回りはじめる。前の生涯で染みついた設計の勘が箱を前にして一気に目を覚ます。眠っていたものが起きる。作りたい。今すぐ作りたい。この骨の上に僕の肉をのせたい。僕にしか作れない一つを世に出したい。

 火がつく。

 胸の奥でずっとくすぶっていた火が一息に燃え上がる。ずっと待っていた。足場を固めるために待っていた。給料と機械と時間を蓄えるために待っていた。その待ちの間ずっと火種は消えずにあった。今その火種に街の熱が触れた。触れた途端に燃え上がった。もう待てないという声と足場を固めきれという声が胸の中でせめぎ合う。急いではいけない。前の生涯で急いで果てた。焦って独りで走って倒れた。その終わりを二度と繰り返さない。けれど始めるべき時は近い。確かに近づいている。この熱がそれを証している。時代がとうとう僕の側へ回りはじめた。長く待った甲斐があった。待っていたからこそ今この熱に応えられる用意がある。

 その夜ほとんど眠れない。

 目を閉じても箱の画面が浮かぶ。敵が降りてくる。撃つ。減る。速くなる。あと一匹。その痺れが体に残っている。同時に僕の頭の中では別の画面が回っている。まだ誰も見たことのない僕の遊びの画面だ。弾が雨のように降り注ぐ。それを指先だけで縫って潜り抜ける。街の箱よりもっと激しくもっと美しく。前の生涯の記憶の底にあるあの遊びだ。僕はそれをこの手で作れる。作りたくてたまらない。布団の中で拳を握る。何度も握る。火が体の芯で燃えている。この火を絶やしてはいけない。かといって焦って燃やし尽くしてもいけない。薪をくべる順番を守らねばならない。僕は自分に言い聞かせる。順番を守れ。まず掌の機械だ。

 翌朝僕はいつもの顔で会社へ行く。

 昨夜の火など噯にも出さない。真面目な技術者の顔で帳簿の機械の手順を書く。昼休みに同僚が箱の話をする。あんな子供だましに大の大人が並んでみっともない、と誰かが言う。僕は曖昧に笑ってうなずく。心の中では別のことを考えている。あの箱をどう作り直すか。掌の機械で何を作るか。表の顔と裏の火。その二枚を僕は使い分ける。隠れ蓑の下で火は静かに燃えている。誰にも気づかれずに。気づかれてはいけない。まだ早い。

 僕はその夜下宿で木戸に手紙を書く。

 見たか、と僕は書く。そちらの街の箱を見たか。あれこそ僕たちがずっと話してきた形だ。単純な骨から底のない駆け引きが生まれる形だ。あれが今街を飲み込んでいる。玩具だと笑われてきたものが産業になろうとしている。世間はまだ子供だましだと叩いている。会社の連中も鼻で笑っている。けれど僕にはわかる。おまえにもわかるだろう。時代がついに追いついてきた。木戸。僕たちの工房を紙の上だけに置いておく時代はもうすぐ終わる。僕はそんな手紙を一気に書き上げる。書きながら手が震えている。興奮で震えている。

 木戸からの返事は早かった。

 こちらの街にも箱が並んでいる、と木戸は書いてくる。あれを動かしているのは僕たちが毎日触っている類の機械だ。地肌の言葉で書かれた手順だ。あれくらいの機械ならもうすぐ個人の手にも届く。掌に載る安い機械が世に出はじめている。組み立て式の小さな機械だ。技術者の玩具のような代物だが中身は本物の計算機だ。おまえが夜に企んでいるものをあれで作れる日が近い。木戸の返事にはいつもの技術の裏づけがある。裏づけのある励ましがある。掌に載る機械。組み立て式の小さな機械。その言葉が僕の胸に刺さる。それこそ僕が次に手に入れるべきものだ。

 木戸の手紙にはもう一つ書いてあった。

 こちらの会社でも箱の話が出るという。技術の連中は皆あれがどう作られているかに興味津々だという。中身を開けて調べた者までいるという。真面目な機械を作る技術者たちが玩具の中身に見入っている。木戸はそれを面白がっている。会社は帳簿の機械を作れと言う。だが技術者の本音はあの箱を作りたいのだ、と木戸は書く。皆が口には出さないだけだ、と。僕はその一節を読んで胸が熱くなる。僕だけではない。玩具の火に惹かれている技術者はきっと大勢いる。表向きは真面目な顔をして裏では箱に見入っている者たちが。時代の底で同じ火が無数に灯りはじめている。

 遠山が閉ざした扉の向こうで時代が動いている。

 あの男は街の箱のことなど気にも留めていないだろう。留めたとしても玩具だと切り捨てているだろう。深く潜る者は横を見ない。横で何が育っているかを見ない。僕は違う。僕はこの玩具の火を追う。この火の中に僕の二度目の生涯の意味がある。作るために戻された。人を夢中にさせるために戻された。街角の熱がそれを証している。玩具だと笑われるものの中にこそ僕の生きる場所がある。

 蓄えを数える。

 給料はある。機械の技もついた。夜の時間もある。木戸という糸もある。そして掌に載る機械がもうすぐ手に入る。足場はもう十分に固まった。あとは踏み出すだけだ。まだ会社は辞めない。隠れ蓑はまだ要る。焦って本丸へ突っ込まない。けれど夜の企みをもう一段深いところへ進める時が来た。手紙の上の工房を現実の工房へ変える時が。心の中の設計図を実際の機械の上へ移す時が。僕は次の一歩を見据える。掌に載る機械を手に入れることだ。組み立て式の小さな計算機を。

 二十代の半ばに差しかかった僕の体にはまだ何も成し遂げたものがない。会社の一技術者にすぎない。夜な夜な手紙に夢を書き綴るだけの男にすぎない。けれどその夢はもう夢だけのものではなくなった。街がそれを現実にしはじめた。手のひらの機械がそれを個人の手に届けはじめた。時代の道具と時代の熱がとうとう僕の前に揃おうとしている。長く待った。待ちながら足場を固めた。その足場の上に今ようやく最初の一歩を置ける。

 玩具の火は街で燃えている。次は僕が自分の火を自分の手で灯す番だ。

 

 

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