これではないと僕は泣いた -二度目の人生で、ゲームと一杯のラーメンを完成させるまで-   作:朝凪小夜

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第十二話 独り立ちへ

 何年かが過ぎて僕は足場が固まったのを感じる。

 会社での仕事はもう手のうちだ。金属の現場の泥も知り尽くした。どの機械にどんな癖があるか。どこで詰まりどう直すか。体で覚えた。給料も貯まった。派手に使わなかったから貯まった。掌の機械で夜ごと遊びの原型を組み続けてきた。指は機械の地肌を隅々まで知っている。木戸という糸も切れずに続いている。手紙は二人の工房になった。街には玩具の火が燃え広がっている。人がその火に金を注ぐことを世の中はもう疑わない。市場はそこにある。腕もある。金もある。仲間の予感もある。あの夜に数えた三つの足場が固まり、その上にさらにいくつもの石が積まれた。もう十分だ。

 二度目の生涯を始めてもう二十年以上が過ぎた。

 生家の畳で目を覚まし前世の残響に戸惑った五つの子供はもういない。西の都で骨を鍛えた学生ももういない。今の僕は二十代の半ばを過ぎた一人前の技術者だ。給料をもらい税を納め世の中の歯車として回っている。誰の目にもまともな社会人だ。けれどその皮の下で僕はずっと一つのことだけを企ててきた。作ること。人を夢中にさせるものを世に出すこと。あの中華そばの日から灯り続けた火をとうとう表で燃やすこと。長い長い助走だった。二十年余りの助走だった。その助走がようやく終わりに近づいている。

 助走は苦しくもあり幸せでもあった。

 苦しかったのは知っていることを隠し続けたことだ。答えが見えているのに黙り速い道を知っているのにわざと遅い道を歩いた。幸せだったのは独りではなかったことだ。前の生涯の助走は独りだった。今度の助走には木戸がいた。手紙の中に工房があった。街には同じ火を灯す者がいた。父の不器用な誇りがあった。母のやわらかな心配があった。弟の成長があった。二十年余りかけて僕はただ腕を磨いただけではない。人との糸を少しずつ結んできた。切れた糸を繋ぎ細い糸を保ってきた。その糸の網が今の僕を支えている。前の生涯で僕に決定的に欠けていたものだ。

 そこへ新しい機械が世に出る。

 これまでの掌の機械とは格が違う。画面がついている。文字が出る。絵が出る。人に優しい言葉で書ける。もう十六の数字だけで機械の地肌を直に叩く時代ではない。数式のように書ける言葉で遊びが組める。組んだそばから画面に映る。しかもその機械が個人の手の届く値で売られる。安くはない。給料の何か月かぶんはする。それでも手が出ないほどではない。技術者でなくても買える。家に置ける。机の上に一台の計算機を置いて一人で向き合える。この機械の登場で何かが決定的に変わる。個人が家で本物の遊びを作れる時代が来たのだ。

 僕はその机上の機械を手に入れて夜ごと向かう。

 掌の機械では点をいくつか動かすのがやっとだった。この機械なら違う。画面いっぱいに絵を描ける。弾を降らせる。それを避ける機を左右に動かす。音まで鳴らせる。前の生涯の記憶の底にあった遊びが今度こそ本当の姿に近づいていく。街の箱に負けない遊びが個人の手で作れる。僕は震える。とうとうここまで来た。道具が僕に追いついた。長いこと僕は道具のない場所で夢だけを抱えてきた。硝子の向こうの神を仰ぎ紙の上で機械を夢見た。その道具がとうとう机の上に載る値で手に入る。二度目の生涯を始めてから、ずっと遠かった場所が急に近づいた。

 僕は新しい機械の前で少し戸惑う。

 人に優しい言葉で書けると言われても僕の手はつい地肌へ潜ろうとする。数式のような言葉は楽だが器を贅沢に食う。速さも鈍い。僕の狙う締まった動きには向かない。だから肝心なところは相変わらず機械の地肌の言葉で書く。弾がなめらかに降る速さ。機がきびきび動く手応え。その芯の部分は地肌で刻む。人に優しい言葉で外側を組み地肌の言葉で芯を締める。二つを使い分ける。学生のころ紙の上で潜った地肌の技がこの新しい機械でも生きる。道具が豊かになっても土台の技は変わらない。むしろ土台のある者だけが豊かな道具を使いこなせる。木戸の言った通りだ。地肌を磨いておけと。磨いておいてよかった。

 しかも作った遊びは売れる。

 個人が作った遊びを雑誌が載せる。手順をそのまま紙に刷って読者に配る。読者はそれを自分の機械に打ち込んで遊ぶ。あるいは磁気の帯に写して店で売る。まだ小さな市場だ。手作りの市場だ。けれど確かに市場だ。個人が家で作った遊びが人の手に渡り金に変わる。作る者と遊ぶ者が雑誌と店を通して繋がりはじめている。前の生涯でこれがどれほど大きな商いになるかを僕は知っている。今はまだその産声だ。産声のうちに中へ入る。誰も先を見ない今のうちに。大きくなってから入るのでは遅い。小さい今こそ入り時だ。

 僕は試しに小さな遊びを一つ雑誌に送ってみる。

 掌の機械で育てた原型を新しい機械で組み直した小品だ。弾が降る。避ける。それだけの遊びだ。けれど緩急を丁寧に調えた。数字の一点を何度も探って締めた。送った手順が誌面に刷られる。自分の書いた命令の列が活字になって並んでいる。奇妙な気持ちだ。やがて読者からの便りが編集を通して届く。面白かったという声だ。徹夜で遊んだという声だ。会ったこともない誰かが僕の組んだ遊びに夜を忘れた。前の生涯で僕は画面の向こうの見えない誰かのために作っていた。その手応えがかすかに戻ってくる。見知らぬ誰かが僕の遊びに夢中になる手応えが。小さな声だ。けれど確かな声だ。この声をもっと大きくしたい。もっと多くの見知らぬ誰かを夢中にさせたい。

 その頃から会社の枷が急に重くなる。

 昼の仕事に身が入らない。頭の中はいつも夜の遊びのことでいっぱいだ。会議で仕様の話をしている最中も僕の頭は弾の降り方を計算している。会社では相変わらず帳簿の機械を組む。誰にでも読める平らな手順を書く。仕様どおりに納期どおりに。それは悪いことではない。真面目な仕事だ。世の中の役に立つ仕事だ。けれど僕の作りたいものはそこにはない。会社は遊びを作らない。玩具は作らない。会社にとって計算機は真面目な道具のままだ。上役に遊びの機械の話をしても鼻で笑われるだけだ。夜の工房と昼の勤めの隔たりが日ごと広がっていく。同じ手で作りながら二つはまるで別の世界だ。

 一度だけ僕は上役に水を向けたことがある。

 これからは個人が家で遊びを作って売る時代が来ます。会社でもそういう機械を手がけては。僕はそう遠回しに言ってみた。上役は湯呑みを置いて僕を見た。それから笑った。遊びで飯が食えるか。うちは真面目な機械を作る会社だ。子供のおもちゃなど作らん。若いのが夢みたいなことを言うな。そう言って話は終わった。悪気はない。上役は会社の常識を口にしただけだ。会社の常識では計算機は帳簿と在庫のための道具だ。それ以外は戯れだ。僕はうなずいて引き下がった。引き下がりながら胸の中で線を引いた。ここではない。僕の作りたいものはここにはない。ここにいる限り作れない。

 ある日僕は自分の手が止まっているのに気づく。

 会社の机で仕様書を前にして手が動かない。頭が夜の遊びへ飛んでいる。慌てて仕事に戻る。戻りながら思う。こんな上の空で会社にいても会社にも僕にも良くない。僕はもう心の半分どころか大半を夜の工房に置いている。体だけを昼の会社に置いている。この分け方はもう限界だ。どちらかを選ばねばならない。

 二重の暮らしはもう限界に近い。

 夜に遊びを組んで朝に会社へ行く。眠りは足りない。体は重い。市電で舟を漕ぐ。それでも夜の工房はやめられない。やめれば僕が僕でなくなる。かといって昼を減らせば食えなくなる。二つは両立しない。牛の歩みで夜だけ進んでいてはいつまでも原型のままだ。時代は今まさに動いている。道具が揃い市場が生まれ火が燃え広がっている。この波に本気で乗るには昼も夜も遊びに注げる場所が要る。会社を離れて自分の場所を持たねばならない。半分ずつでは波に乗れない。全部を賭けねば乗れない波だ。

 けれど世の中は独立に最悪の顔をしている。

 また油が高くなる。海の向こうでまた事が起きて油の値がまた跳ね上がる。二度目の狂乱だ。物価がまた上がる。会社が身を縮める。世の中に不安が満ちる。皆が財布の紐を締める。こんな時に安定した勤めを捨てる者などいない。皆が堅実にしがみつく時期だ。周りの誰もがそう言うだろう。今は動くな。嵐が過ぎるまで会社にいろ。せっかくの大会社の職を捨てるなど正気の沙汰ではない、と。

 街はまた暗くなる。

 一度目の油の危機で僕はまだ学生だった。京都の下宿で紙とカードの逼迫を眺めていた。今度は社会人としてそれを浴びる。物の値がまた上がる。会社は残業を削り採用を絞る。同僚たちが将来を不安がる。夜の街のネオンがまた落とされる。世の中全体が首をすくめる。二度目の狂乱だ。前の狂乱の底で街の箱が燃え上がったことを思えば、これも同じ底かもしれない。暗い底でこそ人は光る画面に手を伸ばす。僕はその皮肉をもう一度信じる。世が沈むほど僕の川は水嵩を増す。

 けれど僕は知っている。

 不況こそ人は安い娯楽を求める。世の中が沈むほど人は束の間の熱を欲しがる。街のあの箱も一度目の油の危機の底で燃え上がった。暗く沈んだ世相の中で人々は硬貨一枚の熱に群がった。不況は娯楽の敵ではない。むしろ味方だ。財布が寂しいほど人は安くて濃い熱を求める。高い旅行や贅沢は諦めても小さな熱には手を伸ばす。前の生涯でも僕はそれを何度も見た。世の中が暗いほど光る画面に人が集まった。だから世の中が沈む今こそ賭ける時だ。皆が守りに入る今こそ攻める時だ。逆風は僕には追い風だ。世間の常識の逆を行けるのが二度目の生涯の強みだ。

 そんな折故郷から報せが届く。

 弟が家を出て働きに出るという。健が運送の仕事に就いたという。手先が器用で物を運ぶのが得意な弟にふさわしい道だ。堅実な道だ。汗を流して物を運び確かな給料をもらう道だ。世の中がどれだけ沈もうと物は運ばれ続ける。健の選んだのは決して沈まない確かな川だ。健はもう立派な若者だ。二川の家からとうとう二人目の川も流れ出た。二つの川はいよいよ別々の谷を流れていく。

 僕は運送の仕事に就いた弟のことをしばらく思う。

 手先の器用な弟だ。子供のころ僕が原っぱで遊びを作れば真っ先に加わった弟だ。あの小さかった健が今は物を運ぶ確かな仕事に就いた。荷を積み道を覚え時間どおりに届ける。世の中がどう転んでも物は運ばれる。健の選んだ川には濁りがない。まっすぐで確かな川だ。僕はその弟を誇らしく思う。同時にどこか寂しく思う。二人はもうずいぶん違う場所を流れている。会えば話も合わないかもしれない。それでも僕は健の運ぶ荷のように確かなものを弟に感じる。そんな根拠のない予感を僕は抱く。

 健は僕のことを案じているという。

 母の手紙にそう書いてある。兄さんは大きな会社に勤めているのに何をそんなに根を詰めているのか。体を壊すのではないか。健はそう言っているという。そして僕が会社を辞めて何か始めるつもりだと風の噂に聞いて健は眉をひそめたという。まともな勤めを捨てて何をするのか。遊びの機械をいじって食べていけるのか。子供じみた夢を追って身を持ち崩すのではないか。せっかく父に誇られる勤めを得たのに何を血迷ったのか。

 僕はその報せに苦く笑う。

 健の言うことは正しい。世間の物差しでは全く正しい。堅実な弟の目には僕の賭けは危うい道楽にしか見えない。かつて父が計算機に未来はないと言ったのと同じだ。今度は弟が同じことを言う。二川の家の者には僕の見ているものが見えない。見えるはずもない。僕だけが遠い記憶の地図を持っている。二つの川は水の色まで違ってきた。健は確かな物を運ぶ濁りのない川だ。僕は見えない夢を追う得体の知れない川だ。同じ源から出たのに流れる谷が違う。いつか合わさる日が来るのか。今の僕にはわからない。ただ今は溝が開いていくのを感じるだけだ。弟が案じてくれるほどその案じ方が僕の道を否む形をしている。案じられるほど遠ざかる。切ないことだ。

 それでも僕は決める。

 会社は辞める。自分の場所を作る。この決断に前の生涯の教訓が効いている。前の生涯で僕は急いで果てた。足場のないまま独りで走って倒れた。作りたいものだけが山ほどあって それを支える土台が何もなかった。だから今度は待った。何年も待って足場を固めた。給料を貯め技を磨き掌の機械で腕を確かめ市場の産声を聞いた。もう十分だ。これ以上待てば波に乗り遅れる。待ちすぎるのも急ぎすぎるのと同じ過ちだ。臆病は慎重の顔をしてやってくる。慎重に足場を固めた今、その足場にしがみついて動かないのは臆病だ。機は熟した。熟した機を逃さないこともまた勇気だ。今こそ跳ぶ時だ。

 跳ぶと決めてから僕は妙に落ち着いている。

 長く迷っていたわけではない。心の底ではとうに決まっていた。生家で「これではない」と点火したあの日から決まっていた。ただ足場が固まるのを待っていただけだ。二十年余りの助走はこの一歩のためにあった。急いで果てた前の生涯を繰り返さないための助走だった。今その助走を使い切る。蓄えた力を一気に放つ。恐れがないと言えば嘘になる。会社を出れば給料は止まる。守ってくれる看板もなくなる。失敗すれば路頭に迷う。健の言う通り身を持ち崩すかもしれない。それでも僕は跳ぶ。恐れを抱えたまま跳ぶ。恐れないことが勇気なのではない。恐れながら跳ぶことが勇気だ。

 僕は辞表を胸に用意する。

 まだ出さない。段取りがある。金を数える。しばらく無収入でも食える蓄えはあるか。住む場所と工房をどうするか。最初に何を作って何を売るか。独りで始めるのか誰かと始めるのか。独りではまた前の生涯の轍を踏む。独りで抱えて独りで果てる。それだけは繰り返さない。今度は仲間と始める。同じ火を見る者と。力を合わせる者と。前の生涯で持てなかった相棒と。

 僕はその夜下宿で木戸に手紙を書く。

 木戸。とうとうその時が来た。僕は会社を辞める。自分の場所を作って遊びを世に出す。道具は揃った。画面のある机上の機械が出た。個人の作った遊びが売れる市場も生まれた。あとは人だ。おまえがいつか言ったな。おまえがほんとに始めたら考える、と。僕は今始める。だから聞く。来てほしい。おまえの手が要る。機械の体を知るおまえの手が。僕が骨を組む。おまえが体を面倒みる。二人でなら僕たちの紙の上の工房を本物の工房にできる。返事を待つ。無理にとは言わない。おまえにはおまえの暮らしがある。それでも僕はおまえと始めたい。

 僕は手紙を封じる。

 封じてしばらくそれを見つめる。細く垂れていた糸をとうとう手繰り寄せる時が来た。切れてはいなかった糸だ。学生の街で結ばれ手紙で保たれてきた糸だ。この糸の先に木戸がいる。木戸が扉をくぐってくれるかはわからない。堅実を選ぶかもしれない。健のように眉をひそめるかもしれない。それでも僕は投げる。投げなければ始まらない。遠山には断られた。木戸には保留された。今度こそその保留に答えが出る。

 窓の外で二度目の油の狂乱に沈む街の灯が揺れている。

 世の中は不安に満ちている。皆が守りに入っている。そんな中で僕は攻めに出る。安定を捨てて見えない夢へ跳ぶ。無謀に見えるだろう。道楽に見えるだろう。健にも世間にも父にもそう見えるだろう。玩具を作る会社。人を夢中にさせるだけの会社。何の役に立つのかと問われるだろう。けれど僕には見えている。この先に大きな熱が待っていることが。人を夢中にさせる遊びがやがて世界を覆うことが。今そこへ向かって足場を蹴る者はほとんどいない。だからこそ僕が蹴る。

 工房に灯がともってからずいぶん経った。

 夜だけの小さな灯だった。会社の隠れ蓑の陰でこっそり燃やす灯だった。次はこの灯を一日じゅう燃やす。隠れ蓑を脱いで表通りへ出る。玩具と笑われる火を堂々と掲げて表通りへ。長い長い助走がようやく終わろうとしている。生家で「これではない」と点火してから。西の都で骨を鍛えてから。機械に触れ玩具の火を見て掌に機械を組んでから。すべてはこの一歩のための助走だった。

 母に短い手紙を書く。

 心配をかけますが僕は僕の道を行きます。うまくいくかはわかりません。それでもやらずに悔いるよりやって悔いるほうを選びます。そう書いて健にもよろしくと添える。父には直に書けない。書けば言い訳めいてしまう。ただ心の中で父に語りかける。あのとき「行って確かめてこい」と送り出してくれた父へ。僕は今また新しい場所へ発ちます。計算機に未来があるかを確かめに行ったあの日のように。今度は遊びに未来があるかを確かめに行きます。いや確かめるのではない。もう答えは知っている。ただそれを世に証しに行くのです。

 二度目の生涯の本当の勝負がここから始まる。僕は火傷した指で辞表の角をそっとなぞる。次の頁はもう白く開いている。

 

 

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