これではないと僕は泣いた -二度目の人生で、ゲームと一杯のラーメンを完成させるまで-   作:朝凪小夜

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第二十四話 二つの川

 僕は久しぶりに東の故郷へ帰る。

 今度は独りではない。隣に澪がいる。後ろに子供たちがいる。長男と長女だ。二人とももう大きい。西の商都で生まれ育った子供たちだ。東の故郷を見るのは初めてだ。僕は妻と子を連れて、生まれ育った下町へ帰る。二度目の生涯で生まれた街だ。西へ発ってから、ほとんど帰らなかった街だ。忙しさにかまけて帰らずにいるうちに、長い歳月が過ぎた。

 列車に揺られながら、僕は妙に落ち着かない。

 何を話せばいいだろう。両親とも長く会っていない。手紙のやりとりも途絶えがちだった。今さら妻と子を連れて帰る。喜んでくれるだろうか。それとも今まで帰らなかったことを責められるだろうか。僕がそわそわしていると、澪が笑う。大丈夫ですよ。親御さんはきっと喜んでくれます。あなたが元気で家族を連れて帰るんですから。子供たちは車窓に張りついている。おじいちゃんとおばあちゃんに会うのは初めてだ。二人とも少し緊張している。二川の家の川が今新しい流れを連れて源へ遡ろうとしている。実家では、父も母も元気に僕たちを待っていた。

 僕が西で忙しくしている間も二人は達者で暮らしていた。父はもうずいぶんな歳だ。母もだ。それでも二人とも元気だ。健が近くにいて二人をよく支えてくれている。僕が帰ると報せると父も母も待ちかねていたという。あの子がとうとう嫁と孫を連れて帰ってくる、と。僕は間に合った。両親が元気なうちに妻と子を連れて帰ることに間に合った。

 間に合ったという言葉が、僕の胸に沁みる。

 なぜだろう。ただ両親が元気で、妻子を連れて帰るというだけのことだ。当たり前の家族なら、珍しくもないことだ。それなのに、僕にはそれがたまらなく得難いことに思える。間に合わないかもしれないとどこかでずっと恐れていた気がする。大事な人の最期に間に合わないのではないかと。その恐れの正体を僕はうまく言えない。ただ間に合ったという安堵が、理屈を超えて胸に満ちる。今日僕は間に合った。それだけで僕はこの帰郷を何にも代えがたく思う。

 実家の戸を開けると懐かしい匂いがする。

 子供の頃と同じ匂いだ。母がめしを炊いている匂い。父の煙草の匂い。古い畳の匂い。何十年ぶりだろう。この匂いを嗅ぐのは。父が奥から出てくる。歳を取った。腰が少し曲がっている。それでも目は昔のままだ。おう帰ったか、と父が言う。ぶっきらぼうな声だ。その声を聞いて、僕は胸が詰まる。あのとき「行って確かめてこい」と送り出してくれた父だ。その父が今目の前にいる。生きて目の前にいる。

 僕は父の顔をまじまじと見る。

 皺が増えた。白髪も増えた。かつて計算機に未来があるとは思えんと言った父。それでも仕送りを削って僕を支えてくれた父。行って確かめてこいと、僕を送り出してくれた父。手紙の余白にいつも不器用な誇りを滲ませていた父。その父が生きて僕の前に立っている。歳は取ったが生きている。僕は思わず父の手を握りたくなる。柄にもなく。けれど握らない。ただおうと返す。ただいま父さん。父はふんと鼻を鳴らす。遅かったじゃないか。それだけ言って、奥へ引っ込む。その背中に、隠しきれない喜びが滲んでいる。僕にはわかる。父の背中の喜びが。

 母が澪の手を取る。

 よく来てくれたねえ、と母が言う。あんたが徹の。話は聞いてるよ。テレビであんたたちの作った遊びも見たよ。母は澪の手を握って離さない。澪が少し戸惑いながら頭を下げる。お義母さん、はじめまして。澪です。徹さんと一緒に仕事をしています。母は嬉しそうに笑う。仕事も一緒、暮らしも一緒か。いい人に巡り合ったねえ、徹。僕は照れくさくなる。子供たちがおずおずと祖父母に挨拶する。父と母の顔がくしゃくしゃになる。

 母は孫たちを抱き寄せる。

 まあこんなに大きくなって。徹の子かい。目元が徹に似てるねえ。母は孫の頭を撫でる。子供たちは最初こそ緊張していたがすぐに祖母に懐く。おばあちゃんの家古いね。うん古いよ。ここでお父さんが小さい頃育ったんだよ。母がそう言うと子供たちが目を丸くする。お父さんがここで。信じられないという顔だ。僕にも信じられないような気がする。この古い家で二度目の生涯が始まった。ここで僕は前の生涯の記憶を抱えて生まれ直した。その家に今僕の子供たちが立っている。時が巡っている。二川の家の川が巡り巡ってまた戻ってきた。

 その晩二川の家に皆が集まる。

父がいる。母がいる。僕がいる。澪がいる。子供たちがいる。健がいる。健の妻がいる。健の子がいる。二川の家の卓を、大勢で囲む。こんなことは初めてだ。前の生涯で僕は独りで卓に向かった。誰もいない部屋で独りで丼を啜った。今は違う。大勢で一つの卓を囲んでいる。母が次々と料理を運んでくる。父が酒を注ぐ。健が子供たちをからかう。賑やかだ。二川の家がこんなに賑やかなのは、何十年ぶりだろう。

 僕はその賑やかさをしばらく味わう。

 前の生涯の食卓を思い出す。独りだった。誰の声もなかった。テレビの音だけが、部屋に響いていた。冷めた丼を、独りで啜った。その静けさが、僕の生涯だった。今は違う。声がある。笑いがある。皿のぶつかる音がある。子供のはしゃぐ声がある。父の咳払いがある。母の小言がある。健の軽口がある。澪の控えめな相槌がある。いくつもの音が、一つの卓の上で混じり合っている。この賑やかさこそ、僕が前の生涯でいちばん欲しくて手に入らなかったものだ。今それが目の前にある。手を伸ばせば届くところに。僕はその温もりに静かに酔う。

 僕は健に向き直る。

 健。待たせたな、と僕は言う。健が怪訝な顔をする。何をだ、と。僕は持ってきた大きな包みを卓に置く。お土産だ、と僕は言う。何だこれは、と健が包みを開ける。中から出てくるのは、箱の山だ。光雨。連環。灯。そのほか、ブロスがこれまでに世に出した全部の遊びだ。僕たちが二人で始めた会社の全部の作品だ。健が目を丸くする。

 卓の上に箱が積み上がっていく。

 光雨。あの弾の雨の遊びだ。連環。裂かれた国を繋ぎ直す長い物語だ。灯。暗がりに寄り添う静かな遊びだ。そのほか数えきれないほどの遊び。二人でアパートの一室から始めて、何十年もかけて世に出してきた全部。一つ一つに徹夜の苦労がある。崩落を生き延びた記憶がある。仲間と積み上げた歳月がある。その全部を僕は包みにして持ってきた。弟に渡すために。ずっと渡したかった。会社が大きくなるたびに、新しい遊びを出すたびに、思っていた。いつかこれを全部健に見せたいと。健に俺はここまで来たぞと見せたいと。その日が、とうとう来た。

 全部おまえにやる、と僕は言う。

 俺たちが作ったものだ。おまえに見てほしかった。ずっと見てほしかった。原っぱでおまえは俺の最初の遊びの最初の客だった。覚えてるか。あのとき俺が作った変な遊びにおまえが真っ先に加わってくれた。あれが俺の原点だ。あそこから始まって俺はここまで来た。全部、おまえが最初の客だったから始まったんだ。だから全部おまえにやる。待たせて悪かった。ずいぶん長いこと待たせた。やっと持ってこられた。

 声が少し震える。

 言いながら、僕は自分でも意外なほど胸がいっぱいになる。原っぱの夕暮れが、目に浮かぶ。まだ小さかった健が僕の作った遊びに目を輝かせて加わってくれた。皆を巻き込む前に、まず健が来てくれた。あの小さな手が僕の遊びの最初の手応えだった。世の中の誰も僕の作るものを認めなかった頃。前の生涯でも今の生涯でも。ただ健だけは最初からそばにいてくれた。血を分けた弟として。最初の客として。その健に全部を返したかった。おまえが最初に信じてくれたものがこんなに大きくなったぞと。全部おまえのおかげだと。

 健はしばらく箱の山を見ている。

 それからぶっきらぼうに言う。何だよ、急に。水くさいな。健の声が少し震えている。覚えてるよ。原っぱのあれだろ。皆が夢中になった。俺は一番近くで見てた。兄貴が本当にすごい奴になるって俺はあのときから知ってた。テレビで兄貴の会社の遊びが出るたびに、俺はあれは俺の兄貴が作ったんだって自慢してた。健はそう言う。父も母もその箱の山を眺めている。これを徹が作ったのかい、と母が言う。あのわからない子だった徹が。父が黙って頷いている。その目が、少し潤んでいる。

 僕は胸が熱くなる。

 前の生涯で僕は作ったものを誰にも見せられなかった。独りで作って独りで抱えて、独りで果てた。誰も僕の作ったものを知らなかった。今は違う。父が見ている。母が見ている。弟が見ている。弟の家族が見ている。僕の妻と子が見ている。皆が、僕の作ったものを囲んでいる。作ったものを家族みんなで囲む。それがどれほど幸せなことか。前の生涯の僕には、想像もつかなかった幸せだ。

 箱の山を囲んで、皆がそれぞれに口を開く。

 母はこれを徹がと繰り返す。父は黙って一つ一つ手に取り眺めている。裏に書かれた文字を老眼鏡をかけて読もうとしている。健は懐かしそうに連環はうちの子も遊んでたぞと言う。健の子がそれ俺めちゃくちゃやり込みましたと身を乗り出す。伯父さんの会社のだったんですね。すごいな。澪が微笑んでその箱の絵は私が描いたのよ、と言う。健の子が目を丸くする。一つの卓を囲んで三世代が僕たちの作ったものを語り合っている。作ったものが、家族を繋いでいる。僕の遊びが二川の家の団欒の真ん中にある。これ以上の、作り手冥利があるだろうか。

 子供たちが箱を手に取る。

 お父さんが作ったの、と長女が言う。全部、と長男が言う。すごい。二人とも目を輝かせている。僕は少し照れる。自分の子供に、自分の作ったものを見せる。それも前の生涯にはなかったことだ。子供たちは光雨の箱を開けて、祖父母に説明しはじめる。おじいちゃんこれはね弾を避ける遊びなんだよ。父がふんふんと聞いている。わからんがすごいのはわかる、と父が言う。皆が笑う。

 夜が更けても卓は賑やかだ。

 父が昔の話をする。徹は小さい頃から変わった子だった。ラジオを直したり原っぱで妙な遊びを作ったり。近所の中華そば屋でこれじゃないと言って泣いたこともあった。あれは何だったんだ、今でもわからん。父がそう言って笑う。僕はどきりとする。あの日のことを、父は覚えていた。けれど父はそれをただの子供の癇癪だと思っている。それでいい。前の生涯のことは、誰も知らなくていい。ただこうして皆で笑っていられればそれでいい。

 父の昔話は続く。

 あいつは学校でも、変わり者扱いされてな。誰も解けん問題をさっさと解いてしまう。速すぎて先生に煙たがられたこともあった。父はそう言って笑う。母が引き取る。でも優しい子だったよ。弟の面倒をよく見てね。原っぱで健と二人いつまでも遊んでた。日が暮れても帰ってこないから何度迎えに行ったか。母の話に健が照れる。子供たちが父さんにもそんな頃があったの、と笑う。僕は面映ゆい。両親の記憶の中の僕は僕の知らない僕だ。前の生涯の記憶を抱えて気難しかったはずの子供時代を両親はこんなふうに温かく覚えていてくれた。僕が思っていたよりずっと僕は愛されていたのかもしれない。

 僕はふと用件を思い出す。

 実は健に頼みがあって来たんだ、と僕は言う。ゲームとは別に作りたい一杯があってな。良い鶏が要る。おまえの力を借りたい。健が噴き出す。天下のゲーム会社の社長がとうとうラーメン屋か。血迷ったな。健は笑う。けれどその目は本気だ。わかった。兄貴が本気なら、俺も本気でやる。良い鶏を確かに届けてやる。それが俺の仕事だ。母が口を挟む。徹がラーメン屋いいじゃないか。うちの子は昔から食い意地が張ってたからねえ。皆がまた笑う。

 健が真顔になって言う。

 なあ、兄貴。ずっと聞きたかったんだ。なんで急に俺に会いに来た。鶏のためだけじゃないだろ。健の目が僕を見ている。僕は少し言葉に詰まる。前の生涯のことは言えない。死の齢が近づいて間に合ううちにと焦ったことも言えない。ただ、会いたかったんだ、と僕は言う。長いこと放っておいて、悪かった。会えるうちに会っておきたかった。健はしばらく僕を見てそれからふっと笑う。水くさい。会いたきゃいつでも来い。俺はずっとここにいる。その一言が、僕の胸に沁みる。俺はずっとここにいる。健はずっと故郷でこの家を守り両親のそばにいてくれた。僕が西で夢を追う間ずっと。

 二川の家の二つの川が一つの卓で合わさっている。

夢を追った兄の川と地道に運んだ弟の川。ずっと別々の谷を流れてきた二つの川が今、一つの卓で合わさっている。しかも、その周りには、父と母という源がまだ流れている。僕の妻と子という、新しい流れも生まれている。健の家族という流れもある。二川の家から流れ出た水が、枝分かれして、また一つの卓に集まっている。切れることなく、繋がったまま。

 母がふと言う。

 あんたたち、兄弟仲良くしてね、と。母さんも父さんもいつまでもいるわけじゃないんだから。その言葉に卓が一瞬静かになる。僕は母の顔を見る。歳を取った母の顔を。この母も、いつかは逝く。父も逝く。それはわかっている。けれど今二人はここにいる。生きてここにいる。僕は間に合った。二人が元気なうちに帰ってくることに間に合った。妻と子を見せることに作ったものを見せることに間に合った。

 母の言葉が静かに胸に残る。

 いつまでもいるわけじゃない。その通りだ。父も母も、いつかは逝く。それは避けられない。けれど少なくとも今日二人はここにいる。僕の妻と子を見た。僕の作ったものを見た。僕たち兄弟が笑い合うのを見た。二人の目に、その光景が焼きついた。もしいつか二人が逝くときその最期の記憶に今日のこの団欒があってほしい。息子が家族を連れて帰ってきた日。作ったものを見せてくれた日。皆で笑った日。その記憶を持って逝ってほしい。僕は前の生涯で大事な人にそういう記憶を残せなかった。今度は残せる。今日残した。それだけで、僕はこの帰郷に来た甲斐がある。

仲良くするよ、と僕は言う。

 健と二人、声を揃える。柄にもなく。父と母が嬉しそうに笑う。前の生涯で僕は大事な人の最期にことごとく間に合わなかった。作りたいものを作りきる前に果てた。何もかも間に合わなかった。けれどこの道では僕は間に合っている。全部に間に合っている。両親の健在に。兄弟の和解に。家族の団欒に。作ったものを見せることに。まだ全部間に合う場所に、僕は立っている。

 夜が更けて、皆が寝静まる。

独り縁側に出る。子供の頃と同じ庭がある。同じ空がある。星が出ている。西の商都では見えない星だ。僕はその星を見上げる。前の生涯で僕は独りの部屋の窓から、同じような星を見ていた。あのときは隣に誰もいなかった。今は家じゅうに家族が眠っている。父と母。弟とその家族。妻と子。皆が一つ屋根の下で眠っている。その寝息がこの家を満たしている。

 僕はその寝息に耳を澄ます。

 父の寝息。母の寝息。子供たちの寝息。弟の家族の寝息。妻の寝息。一つ屋根の下でいくつもの命が息をしている。その息が家を温めている。前の生涯の夜は静かすぎた。僕の息の音しか部屋になかった。あの静けさの中で、僕は少しずつ痩せていった。心が痩せ、体が痩せ、そして果てた。今の夜は息で満ちている。僕ひとりの息ではない。大勢の息だ。その息の中にいると僕は痩せない。むしろ満ちていく。命の息に囲まれて眠る夜がこんなにも人を満たすとは。前の生涯の僕は知らなかった。

 僕は満ち足りている。

 良い鶏はこれで手に入る。一杯はここから前へ進む。会社は回っている。作ったものは家族に届いた。両親は元気だ。兄弟は繋がった。妻と子がいる。何もかもが揃っている。切れていたものが一つも切れずに繋がっている。前の生涯で欠けていたものが一つも欠けずに、ここにある。

 星の下で、静かに笑う。

 明日皆でもう一度めしを食おう。父の好きなものを母に作ってもらおう。健の子供たちと、僕の子供たちを遊ばせよう。そしていつかあの一杯ができたら真っ先に父と母に飲ませよう。おまえの作った一杯かい、と父は言うだろう。うまいねえ、と母は言うだろう。

 その光景を、僕ははっきりと思い描ける。台所に立って、鶏を炊く僕。それを待つ父と母。丼を運ぶ。湯気が二人の顔を包む。父が一口啜る。母が一口啜る。うまいと二人が言う。前の生涯で僕は誰にも一杯を作ってやれなかった。作りたい一杯を作りきる前に果てた。今度は作る。父と母が元気なうちに作って飲ませる。それに間に合うように今日僕は帰ってきた。鶏を頼みに。二つの川を合わせに。そして何より二人の元気な顔を見に。

 その日まで、二人には元気でいてほしい。間に合ってほしい。今度こそ全部に間に合ってほしい。

 悔いのない星空だ。失った影のない星空だ。ただ満ちたものだけがある。

 二川の家の川は切れることなく明日へ流れていく。

 

 

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