これではないと僕は泣いた -二度目の人生で、ゲームと一杯のラーメンを完成させるまで- 作:朝凪小夜
ある日遠山が現れた。
何十年ぶりだろう。学生のあの夜明けに別れて以来だ。工房の入口に立つ男を見て、僕は最初それが誰かわからない。歳を取り、痩せ、髪が白くなっている。けれどその目だけは変わっていない。あの鋭い目だ。遠山だ。あの無精髭の天才が、今、僕の会社の入口に立っている。
僕はしばらく声も出せずに立ち尽くす。
ずっと霧の中に消えていた男だ。何度手を伸ばしても掴めなかった影だ。その影が今生身の姿で目の前にいる。歳を取っている。無精髭には白いものが混じっている。かつての鋭さの中に疲れと何かに打ちのめされた翳りがある。それでも遠山だ。間違いなく遠山だ。僕の紙一枚から機械の呼吸を読み取った男。玩具に未来はないと言い切った男。あの夜明けの店で僕の誘いを断って去った男。その男が何十年もの歳月を経て僕の前にもう一度立っている。
久しぶりだな、と遠山が言う。
声も変わっていない。低く静かで少し無愛想な声だ。僕は言葉を失う。ずっと探していた男だ。連環の逆算の壁の前で一杯の派生の壁の前で何度も思った男だ。会いたくて、手紙を書いて、伝手をたどって、それでも掴めなかった男だ。その男が向こうから現れた。まただ。学生のときと同じだ。あのときも僕が探すより先に、僕の捨てた紙が遠山を呼び寄せた。今度は何が遠山を呼び寄せたのか。
遠山は堅い道の崩れに沈んでいた。
問わず語りに遠山は話す。院を出て研究の道を進んだ。情報の骨をとことん掘った。大きな機械の奥の深い理屈を極めた。けれど時代が回った。遠山の掘った深い井戸に誰も水を汲みに来なくなった。大きな機械は小さな箱に追い越された。深い理屈より、大衆の茶の間の遊びが世を動かした。遠山の学問は行き場を失った。そこへ宴の崩れが来た。堅い世界がまとめて沈んだ。遠山の拠って立つ場所も沈んだ。研究の職を失い気づけば何も残っていなかった。玩具に未来はないと言って選んだ堅い道が崩れて遠山を放り出した。
遠山の話は淡々としていた。
自慢もなく、恨みもなく、ただ事実を並べるように話した。深く掘れば掘るほど世間から遠くなった。深い理屈は少数の学者にしか通じなかった。大衆には届かなかった。届かないものに金は集まらなかった。研究の場は細っていった。細っていく場所にしがみついているうちに、気づけば時代は遥か先へ行っていた。玩具と見下していた小さな箱が世界を動かしていた。遠山が振り返ったときにはもう戻る道がなかった。そこへ崩れが来てとどめを刺した。遠山は全部を失った。職も地位も拠って立つ理屈の価値も。深く掘りすぎた者の、深すぎた井戸の底で遠山は独りになっていた。
俺は間違っていた、と遠山が言う。
あの夜明けの店でおまえに言ったな。玩具に未来はないと。遊戯に未来があるとは思えんと。あれは間違いだった。玩具にこそ未来があった。俺は最も遠くを見ているつもりで足元の玩具の未来を見落とした。深く掘ることに夢中で育つものを見なかった。おまえの言う通りだった。遠山はそう言う。悔しさの滲む声だ。あの誇り高い男が、自分の間違いを認めている。僕は胸が痛む。
僕は複雑な気持ちで遠山の言葉を聞く。
遠山の見立てはたいてい正しかった。誰よりも深く物を見透かす男だった。その男が唯一見誤ったのが玩具の未来だった。そしてその見誤りが遠山の人生を狂わせた。もし遠山があの夜僕の誘いに乗っていたら。玩具に賭けていたら。遠山はきっと僕以上の何かを成しただろう。あの深い理屈があれば壁など最初からなかっただろう。ブロスは最初から十割の遊びを作れただろう。けれど遠山は乗らなかった。堅い道を選んだ。そして沈んだ。僕は勝ち、遠山は負けた。同じ夜同じ場所で道を分けて。その結末を思うと僕は勝者の喜びより、敗者への痛みのほうが大きい。
遠山はブロスの遊びを遊んでいたという。
沈んで職を失って、何もすることがなくなって、街の箱の遊びに触れたのだという。そこでブロスの遊びに出会った。光雨に触れた。連環に触れた。灯に触れた。遊んで、遠山は驚いたという。この遊びは妙に気持ちがいい。なぜこんなに滑らかに動くのか。中身を調べて、さらに驚いたという。地肌の奥に見たこともない小技が仕込まれている。桁を裏返し、模様を重ねて消す、見えない奇術が。これは誰が作ったのかと調べたらブロスだった。ブロスの主は二川徹だった。あの学生のときの、おまえだった。
その発見のときの遠山の顔を僕は想像する。
沈んで、何もかも失って、慰めに触れた玩具。妙に良くできている。調べてみれば、見たこともない地肌の奇術。これを作ったのは誰だ。調べればかつて自分が玩具と切り捨てた道を選んだ男。かつて自分が断った誘いの主。あの勘だけの変な奴。あいつが、これを作ったのか。あいつは玩具に賭けて、こんなところまで来たのか。俺が堅い道で沈んでいる間に。遠山はどんな気持ちでそれを知っただろう。悔しかっただろう。同時に、会いたくなっただろう。自分が間違っていたと認めて、なおもう一度あの男と何かをしたくなっただろう。だから遠山は僕を訪ねてきた。
遠山は連環の逆算の壁に気づいたという。
連環を遊びながら、ある粗さに気づいたという。世界を巡って戻ったとき継ぎ目にわずかな粗さがある。ときおり機械が一瞬もたつく。遊ぶ者は気づかない。けれど遠山は気づいた。目が化粧の下の素顔を見抜いた。これは逆をたどる計算が甘い、と遠山は見抜いた。膨大を種へ畳み戻す理屈が足りていない、と。そしてわかったという。ここは俺の領分だ、と。おまえの作る手では届かないここは俺の手が要る場所だ、と。
遊ぶ者の誰も気づかない粗さだった。
僕が化粧で隠しきったはずの三割だった。澪の絵でぼかし、設計で旅の情緒に見せかけた、継ぎ目のもたつき。何百万の遊び手が誰一人気づかなかった。皆が連環を完全の傑作だと思った。ただ一人、遠山だけが気づいた。これは七割だ、と見抜いた。僕がずっと一人で抱えてきた三割の秘密を遠山だけが言い当てた。それがどれほど嬉しかったか。誰にも見えなかった僕の欠けを見える男がとうとう現れた。この男なら埋められる。僕の欠けを埋められる。
遠山は僕に言う。
おまえの遊びには俺の理屈が要る。おまえの逆算の壁を、俺なら抜ける。膨大を種へ畳み戻す理屈を、俺は書ける。おまえの七掛けを、俺の理屈で十割にできる。どうだ、俺を使わないか。遠山はそう言う。かつて誘い、断った。今度は遠山が申し出ている。立場が逆になっている。堅い道の崩れに沈んだ天才が、玩具の会社に拾ってくれと言っている。
僕はうなずく。
もちろんだ、と言おうとして、声が詰まる。胸に込み上げるものがある。ずっと空けてきた席だ。連環を作るときも、一杯を作るときも、ずっと空けてきた遠山の席だ。その席にとうとう遠山が座ろうとしている。何十年も待った席に。僕は込み上げるものを抑えられない。
遠山は僕の返事を待っている。
拾ってくれと頼んだ側の少し身を硬くした顔で待っている。かつての誇り高い天才が、今は職を失い、玩具の会社に頭を下げている。その姿を見て、僕はいろんなものが胸に押し寄せる。喜びだけではない。哀しみでもない。もっと入り混じった名づけようのない感情だ。何十年ぶりに同じ目をした男が目の前にいる。その事実だけで、胸がいっぱいになる。
不幸を願う気も、喜ぶ気もなかった、と僕は言う。
おまえが堅い道の崩れに沈んだことをざまあみろと思ったことは一度もない。玩具と笑って去ったおまえが崩れたことを喜んだことも一度もない。ただ、ずっと会いたかった。この壁の前で何度もおまえを思った。おまえがいればと。だから、今、こうしてまた会えて、一緒に何かできるということが、嬉しい。僕はそう言う。言いながら、泣きそうになっている。何十年ぶりに同じ目をした男が、隣に戻ってくる。その嬉しさで、僕は泣きそうになっている。
言葉が途切れる。
うまく言えない。前の生涯のことは言えない。この歳月の重みの半分は遠山には見えない。あの深夜に二人で暗い坂を上った夜からずっと僕は遠山を同類だと思ってきた。同じ目をした同じ世界を見る男だと。前の生涯で一人も持てなかった、そういう相手だと。その相手に断られて、何十年も一人で壁に挑んできた。挑むたびに遠山を思った。おまえがいればと。その願いが今叶おうとしている。だから嬉しい。ただ嬉しい。勝ち負けではない。おまえが沈んだことなどどうでもいい。ただ、もう一度、同じものを睨める。それが嬉しい。
遠山が僕を見る。
なんでそんな泣きそうな顔をしてるんだ、と遠山が言う。呆れたような、困ったような声だ。俺は拾ってくれと頼みに来た側だぞ。おまえが泣いてどうする。遠山はそう言って少し笑う。あの無愛想な男が、少し笑う。
変な奴だ、と遠山が言う。
昔から変な奴だった。勘だ、勘だと言って、誰にも作れないものを作る。おまえは昔から俺の理解を超えていた。俺は理屈で世界を掴もうとした。おまえは勘で世界を掴んでいた。俺は堅い道で沈み、おまえは玩具の道で立っている。どっちが賢かったんだろうな。遠山はそう言って自嘲する。僕は首を振る。賢い賢くないじゃない。おまえは深く掘る才で、僕は形を作る才だ。違う才だ。違う才が二つ揃えば、一人では届かないところへ行ける。だから来てくれ。おまえの才が要る。遠山はしばらく僕を見て、それから頷く。わかった。掘ってやる。おまえの届かないところまで掘ってやる。
僕も笑う。泣きそうな顔のまま笑う。勝ちたかったのではない。並びたかったのだ。あの夜明けに断られてから、ずっとそう思ってきた。その願いが、今、叶う。同じ目をした男が、とうとう隣に並ぶ。
二人でしばらく黙って向かい合う。
言葉はもう要らない。何十年ぶりに、同じ目をした二人が、また同じ場所に立っている。長い長い回り道だった。まるで違う場所へ流れて、そして今、また出会った。回り道の果てに、また同じ机の前に立っている。学生のあの夜、三人で机を囲んだ夜を僕は思い出す。木戸がいて、遠山がいて、僕がいた。あの夜の三人がまた揃う。木戸はずっと隣にいた。遠山がとうとう戻ってきた。切れかけた縁が何十年もの時を越えてまた繋がる。
遠山がブロスに加わる。
空いていた席がとうとう埋まる。骨と体と物語とそして、理。ブロスの最後の空席が埋まる。遠山は逆算の壁に挑む。膨大を種へ畳み戻す理屈を掘る。何日も掘り続ける。あの深く掘る手が僕には届かなかった深みへ潜っていく。そしてとうとう抜く。逆算の壁を抜く。継ぎ目の粗さが消える。もたつきが消える。世界がどこまでもなめらかに繋ぎ直される。七掛けだった環が十割に届く。
遠山の掘り方は僕とはまるで違う。
僕は勘で近づく。ここをこうすれば速くなる気がすると手を動かす。遠山は理屈で攻める。なぜ速くなるのか、その理由を数の底まで掘り下げる。掘り下げて根本の仕組みを掴む。掴んだ仕組みから一気に正しい答えを導く。僕が何十回も試して近づく壁を遠山は一度掘り当てて抜く。膨大な派生を小さな種へ畳み戻す、その一往復を遠山は理屈で組み立てる。僕には輪郭しか見えなかった宝の掘り方を遠山は知っている。作る手と掘る手。二つが揃って初めて壁が本当に抜ける。僕はそれを目の当たりにして、改めて遠山という才の深さに打たれる。この才を何十年も待った。待った甲斐があった。
僕は十割になった連環を見て震える。
ずっと見ていた三割の空席が、埋まった。あの化粧の下の素顔がとうとう十割になった。僕一人では永遠に届かなかった十割だ。遠山の掘る手がそれを届かせた。作る手と掘る手が揃って初めて本物の十割ができる。僕はそれを噛みしめる。前の生涯で僕は独りで作ろうとして七掛けにも届かず果てた。今仲間の手が揃って十割に届いた。
そしてある夜、僕は遠山を台所へ連れていく。
僕が鶏を炊いている場所だ。遠山は訝しがる。ゲーム会社の社長がなぜ鶏を炊いているのかと。僕は説明する。あの一杯を作りたいのだ、と。澄んだ湯と濁った湯を溶かして、全く別の先へ導く一杯を。そこに深い派生の壁がある、と。連環の逆算の壁と同じ壁だ、と。おまえの掘る手が、そこにも要るかもしれない、と。
遠山は湯を見る。
最初は半信半疑だ。ラーメンと情報の理屈に何の関係があるのかと。けれど遠山は湯の派生の話を聞くうちに目の色が変わる。単純な鶏から、澄みと濁りと、その混合とさらにその先へ枝分かれしていく。その枝分かれの理屈。どの成分をどう組み合わせればどう化けるか。素材をどこまで引き出せるか。遠山はそれを聞いて唸る。これは、ゲームの逆算と同じ形だ、と。膨大な派生を生む種の理屈だ、と。掘れるかもしれない、と遠山は言う。
遠山は湯の派生に情報の理屈を持ち込む。
鶏という一つの素材からどれだけの旨みを引き出せるか。どう組み合わせればどう化けるか。遠山はそれを情報を縮めて開く理屈で捉える。素材の持つ情報をどこまで凝らせるか。凝らせた旨みをどう舌の上で開かせるか。畳んで開く。ゲームの世界を種に畳んで開くのと同じ理屈だ。遠山は台所でゲームの逆算を掘ったのと同じ手つきで出汁の派生を掘りはじめる。鍋を睨む遠山の目はかつて操作卓を睨んだ目と同じだ。深く掘る男の目だ。その目が今、一杯の湯の奥を睨んでいる。
ゲームとラーメンが、遠山の手の中で繋がる。
まるで違う二つのもの。片や画面の中の遊び。片や丼の中の湯。けれどその奥にある理屈は同じだった。単純な基底から圧倒的な派生を引く。その深い理屈は同じ形をしていた。だから同じ掘る手で掘れる。遠山の理屈が、ゲームの逆算の壁を抜きそして一杯の派生の壁にも挑む。一人の男の掘る手が、二つの夢を同時に前へ進める。
僕は前の生涯からずっと感じてきたことを今はっきりと確かめる。
ゲームもラーメンも突き詰めれば同じ形をしている。単純な基底から圧倒的な派生を引く形だ。鶏という単純から無数の旨みを引く。種という単純から広大な世界を生む。決まり一つという単純から底のない駆け引きを生む。どれも同じだ。単純を極めて派生を極める。その一点でゲームと出汁と遊びは繋がっている。世間はそれを別々のものだと思っている。ゲーム会社の社長がなぜラーメンを、と訝る。けれど僕の中では最初から地続きだった。遠山の掘る手が、その地続きを証してみせる。同じ理屈で両方の壁が抜ける。ならば同じものだったのだ、最初から。
僕は不思議な感慨に打たれる。
切れていたものが繋がっていく。遠山と僕の縁が繋がった。ゲームとラーメンが繋がった。作る手と掘る手が繋がった。ばらばらに流れていたものが、一つに合わさっていく。連環の主人公が裂かれた国を繋ぎ直したように、僕自身の周りの切れたものが、一つずつ繋ぎ直されていく。木戸が繋がり、澪が繋がり、健が繋がり、そして今、遠山が繋がった。空いていた席が全部埋まった。
残っていた三割が埋まっていく。
連環の三割が埋まった。僕の縁の三割も埋まりつつある。遠山の空席が埋まった。健との川が合わさった。あとは一杯だ。あの一杯が完成すれば、僕の抱えてきた三割は、ほとんど埋まる。前の生涯で果たせなかったものが、二度目の生涯で果たされていく。切れた物はまた繋がる。ずっとそう信じてきた。その信が今一つずつ形になっている。
ふと僕は数えてみる。繋いだ縁を。木戸。澪。健。遠山。そして数えきれない遊び手たち。前の生涯で僕は一つの縁も繋げなかった。ただの一つも。独りで作り、独りで消費し独りで果てた。今、僕の周りには繋いだ縁がいくつもある。一本ずつ何十年もかけて繋いできた縁だ。切れかけては繋ぎ細っては手繰り寄せそうやって繋いできた。その縁の網が今の僕を支えている。前の生涯に決定的に欠けていた、縁の網が。
遠山が隣で湯を睨んでいる。
かつて実機の明滅を二人で読んだ夜のように、今は一杯の湯を二人で睨んでいる。あの夜、道が分かれた。玩具に未来はないと遠山は去った。何十年も別々の道を流れた。けれど今、また隣に並んでいる。同じ湯を睨んで、同じ壁に挑んでいる。切れて、繋がる。分かれて、また交わる。僕はその隣で前の生涯では持てなかった歳月の重みを噛みしめる。
遠山は知らない。この一杯が僕にとってどれほど大きな夢かを。前の生涯からずっと抱えてきた夢だとは言えない。けれど遠山は僕がこの一杯に本気なのを見て取っている。ゲームと同じ本気で一杯に向かっているのを。だから遠山も本気で掘る。理由は問わない。ただ隣で掘る。あの学生の夜実機の明滅を二人で読んだように。今、一杯の湯を二人で睨む。何十年もの回り道を経て僕たちはまた同じものを睨んでいる。分かれた二つの川が、また一つの流れに戻ったように。
次の頁で、僕たちは一杯の壁に挑む。二人の手で、とうとうあの一杯を完成へ近づける。