これではないと僕は泣いた -二度目の人生で、ゲームと一杯のラーメンを完成させるまで-   作:朝凪小夜

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第三話 計算する手

 背が伸びるにつれて、僕は自分を隠しきれなくなっていく。

 子供のうちはよかった。わざと間違えわざと首をかしげ、可愛げという保護色をかぶっていれば済んだ。けれど年を重ねるほどその保護色は薄くなる。試験の点は嘘をつけない。読む本の背表紙も嘘をつけない。中学に上がるころには僕はもう「よくできる子」を通り越して「気味の悪いほどできる子」になりかけていた。だから僕はやり方を変えた。隠すのをやめて、代わりに向ける先を絞った。どうせ目立つなら行きたい場所へ行くために目立つ。才気を散らさず一本の矢にする。その矢の先には空調の効いた部屋の、あの機械があった。僕はもう、加減の仕方ではなく進み方を計算するようになっていた。

 あるとき数学の教師が放課後に僕を呼び止めた。

 年老いた寡黙な人だった。彼は一枚の紙を僕に見せた。授業では出したことのない、込み入った問いだった。解いてごらん、と彼は言った。僕は少し迷った。ここでどこまで見せるべきか。けれどその人の目には戸惑いではなく静かな期待があった。久しぶりに見る目だった。僕を遠ざけない目だった。だから僕は解いた。素直に、いちばん速い道を通って解いた。教師はそれを長いこと眺めていた。それから、君はここにいる子ではないな、と言った。悪い意味ではなかった。もっと遠くへ行きなさい、という意味だった。西に新しい学問を始めた大学がある。計算のための機械を、若い連中が手探りでいじっている。君のような手はあそこでこそ要るのかもしれん。

 その日から、その老教師は時々、僕に難しい紙を渡すようになった。答え合わせはしなかった。ただ黙って受け取り、黙って次の紙を寄越した。言葉は少なかった。けれど僕には、その沈黙の中に確かな敬意があるのがわかった。この時代で、僕を子供扱いも化け物扱いもせず、ただ一人の対等な頭として扱ってくれた最初の人だった。僕はその紙を解くたびに、遠くへ行く覚悟を、少しずつ固めていった。その夜、僕は布団の中で天井を見つめながら、初めて具体的な地名を胸に灯した。

 その頃には僕は、原っぱの子供たちの、少し年上の兄貴分になっていた。

 石蹴りの四角から始まった遊びは、年ごとに複雑になっていった。僕は紙に升目を描き、賽を振らせ、駒を進ませた。神社の境内で陣取りの決まりを作った。空き地でボールを使った競いの規則をこしらえた。どれも道具はその辺のものばかりだ。石。棒。拾った空き缶。紙と鉛筆。けれど僕は、その素朴な素材の上に、面白さの骨組みだけをそっと乗せる。単純にする。すぐわかるようにする。運と工夫がちょうど半分ずつになるように匙加減する。勝った子が驕らず負けた子が腐らず、どちらももう一回と言いたくなる、その隙間を、いつも空けておく。

 子供たちはそれに夢中になった。日が暮れても帰らなかった。近所の母親たちは、うちの子が遊んでばかりでと僕を睨むふりをしながら、内心では、あの子が見てくれるなら安心だと思っていた。僕は遊びの真ん中に座って、次はどんな決まりにするかを考えた。人がどこで飽きるか。どこで熱くなるか。どこであと一回と言うか。僕はそれを、この時代の誰よりもよく知っていた。前の生涯で、何百万人という顔の見えない誰かを相手に、飽きるほど計ってきたことだ。それを今、目の前の、顔の見える子供たちで確かめている。手応えは、画面の向こうの気配よりも、ずっと生々しく温かかった。

 仲間の中に、一人、いつも僕の隣にいる子がいた。

 あの、いちばん最初に石を蹴って、もう一回と叫んだ子だ。彼はとりわけ賢いわけでも器用なわけでもなかった。ただ、まっすぐで、笑い上戸で、僕の作る遊びを誰よりも本気で楽しんだ。彼は僕を不思議がりながらも、決して遠ざけなかった。兄ちゃんは変わってるけど面白い、と彼は言った。僕はその「面白い」が、ラジオを直したときの大人たちの目とは、正反対の色をしているのに気づいていた。前の生涯で、僕には友がいなかった。作るものを介してしか、人と繋がれなかった。今もそれは同じかもしれない。けれど、作るものを介してでも繋がれる相手が、目の前にいる。それは、独りで死んだ男には、なかったものだった。

 弟はもう、そこそこ大きな少年になっていた。

 あの猿のような赤ん坊が、走り回り、喧嘩をし、駄菓子屋の前で膝を擦りむいて帰ってくる。まっすぐで、単純で、眩しいほど普通だった。弟は僕を少し不思議がっていた。兄ちゃんはいつも本ばかり読んでいる。兄ちゃんは何を考えているのかわからない。それでも弟は僕を慕った。原っぱで僕が遊びの決まりを作ると、弟はいちばん夢中になって駆け回った。ある日、弟が僕に聞いたことがある。兄ちゃんは大きくなったら何になるの。僕は少し考えて、遠くへ行って機械をいじる仕事をするよ、と答えた。弟は不満そうに口を尖らせた。遠くって、どこ。ずっと遠く。帰ってこないの。僕は答えられなかった。帰ってくるよ、とだけ言った。それが本当かどうか、僕にもわからなかった。弟はしばらく黙って、それから、じゃあ土産を買ってきてよ、と言った。僕は笑って、うん、と頷いた。その約束を、僕はずっとあとになるまで思い出さなかった。

 西の街で、大きな博覧会が開かれたのはそのころだ。

 国じゅうがその話でわいた。未来がそこにある、と誰もが言った。父が奮発して、家族でその街まで出かけた。人の波だった。銀色の建物が空を突き、丸い屋根が並び、見たこともない乗り物が人を運んだ。弟は口を開けっぱなしにして走り回った。母は迷子になるまいと弟の手を強く握った。父は珍しく子供のような顔をしていた。誰もが「未来」を見上げて、はしゃいでいた。

 僕はある建物の前で、足を止めた。

 硝子の向こうに、それがあった。灰色の大きな箱がいくつも並び、テープの盤がゆっくりと回り、小さな灯が点滅していた。白衣の人がその前に立ち、穴の開いた紙を機械に食わせていた。僕は硝子に額をつけるようにして、それを見た。胸が、割れそうになった。

 これだ。これが僕の待っていたものだ。まだ大きく、まだ鈍く、まだ人を寄せつけないけれど、確かにこれの先に、僕のいた世界がある。この灰色の箱の子孫が、やがて机の上に乗り、やがて掌に乗り、やがて世界じゅうの人間の手に握られる。この点滅の先に光る画面があり、そこで人が息を止めて指を動かす。僕はそれを知っている。この博覧会の人混みの誰も知らないことを、僕だけが知っている。皆が見上げている「未来」の、そのもっと先の、その先の翳りまで、僕は知ってしまっている。

 周りの人々は、その灰色の箱を、乗り物や月の石ほどには面白がらなかった。地味だったからだ。派手さがなかったからだ。人々は写真だけ撮って、すぐに次の華やかな建物へ流れていった。僕だけがそこに残った。硝子の前に、長いこと立っていた。あの箱に触れたい。あの手順を、この手で書きたい。渇きが、もう一つ、僕の中で確かな形を持った。母が呼びに来るまで、僕はその点滅から目を離せなかった。徹、置いていくよ、と母が笑った。置いていかれてなるものか、と僕は思った。あれのある場所へ、僕は自分の足で行くのだ。

 その熱狂の絶頂の裏で、しかし、僕は翳りの気配を嗅いでいた。

 物の値が上がりはじめていた。遠い国の争いのせいで、油の値が跳ねる日が近いことを、僕の中の男は知っていた。あれほど前へ前へと傾いていた熱が、じきに一度、冷たい壁にぶつかる。誰もまだそれを知らない。博覧会の人波も、商店街の大人たちも、上ばかり見ている。僕はその横顔をまた見ていた。知らないということの、まっすぐさと、脆さを。知らないから、人はこんなにも一心に未来を信じられる。知っている僕は、その信心の輪の外に、いつも一人で立っている。

 家に帰ってから、僕は父に、京都の大学へ行きたいと切り出した。

 父は箸を止めた。母も手を止めた。京都、と父が繰り返した。なんでそんな遠くへ。ここにも学校はあるだろう。僕は、計算のための機械を学べる場所がそこにしかない、と言った。父はしばらく黙って、それから静かに言った。計算機。あの、部屋みたいな機械か。あんなもので、飯が食えるのか。

 僕は言葉に詰まった。

 食えるようになる、と僕は知っている。あれは世界を変える。あれで飯を食う人間が、やがて何百万人と生まれる。街の形も、暮らしの形も、人の繋がり方さえ、あれが塗り替えていく。僕はそれを、この目で一度見てきた。けれど、それを父に言うことはできない。言っても届かない。父は町工場で金属を削って生きてきた人だ。目に見えて、手で触れて、汗で確かめられるものだけを信じてきた人だ。目に見えない手順に未来を賭ける息子を、父は理解できない。理解できないまま、それでも心配している。

 しばらく重い沈黙が続いた。やがて父は、湯呑みを両手で包んだまま、ぽつりと言った。俺には、わからん。おまえの見ているものが、俺には一つも見えん。それが、悔しい。父がそんなことを言うのを、僕は初めて聞いた。父は長いため息をついて、続けた。だが、おまえが決めたなら、止めはしない。行け。行って、確かめてこい。俺に見えんものが、本当にあるのかを。そう言って、また箸を取った。それきり、その話はしなかった。僕は、父のその不器用な許しが、どんな理解よりも深く胸に沁みた。

 母は何も言わなかった。ただ、その夜、僕の学生服のほころびを、遅くまで繕っていた。針を動かしながら、母は一度だけ、遠くね、と呟いた。僕は襖の陰でそれを聞いた。遠くね。そうじゃなくてね、と困っていたころの母の声とは、少し違った。諦めと、寂しさと、それでも息子を送り出そうとする、母の声だった。僕はその夜、なかなか眠れなかった。

 旅立ちが近づいたある夕方、原っぱに、いつもの子供たちが集まった。

 誰が言い出したわけでもなかった。ただ、僕が遠くへ行くと知って、みんなが集まってきた。最後にもう一回、と、いちばん最初に石を蹴ったあの子が言った。僕は地面に、最後の四角を描いた。いつもより少しだけ、決まりを凝ったものにした。子供たちは日が暮れるまで走り、笑い、もう一回、もう一回、と繰り返した。西の空が赤くなっても、誰も帰ろうとしなかった。やがて一人、また一人と、母親に呼ばれて帰っていった。最後に残ったのは、あの子だった。彼は僕に、また作ってくれよ、と言った。遠くでも、いつか、俺たちの知らないすごい遊びを作ってくれよ、と。僕は、うん、と頷いた。作るよ、いつか、きっと。その約束は、原っぱの土に描いた四角と一緒に、夜の中へ消えていった。けれどその夕方の熱を、僕はずっと忘れなかった。忘れる日が来るまで、ずっと。

 僕は理解されないまま、遠くへ行く。

 それは前の生涯なら、なんでもないことだった。誰にも理解されず、誰にも見送られず、独りで行き、独りで死んだ。理解されないことに、痛みなど感じなかった。けれど今は違う。理解されないことが、痛い。見送られることが、切ない。この家に、この街に、置いていって惜しいものが、確かにある。父の不器用な許し。母の繕う手。弟の、土産を買ってこいという口約束。原っぱの、また作ってくれという声。前の僕は、これらを一つも持っていなかった。持っていなかったから、切れる痛みも知らなかった。僕はいま、切れる糸の痛みを、生まれて初めて、まっすぐに味わっている。そしてその痛みを、どこかで、少しだけ、誇らしく思っている。

 京都へ発つ数日前、僕はあの老教師を訪ねた。

 彼は相変わらず寡黙だった。僕が挨拶に来たと告げると、少しだけ頷いた。それから机の抽斗から、一冊の古い洋書を取り出した。表紙のすり切れた、外国語の数学の本だった。持っていけ、と彼は言った。俺にはもう、半分もわからん。だが、おまえなら読めるだろう。僕はそれを受け取った。ずしりと重かった。先生、と僕は言った。どうして僕を、あのとき呼び止めたんですか。老教師はしばらく黙って、窓の外を見た。長く教師をやっていると、と彼は言った。時々、教室に、こちらが教えるべきものを、もう知っているような目をした子が、混じっていることがある。そういう子は、この街には長くいられん。もっと広い水に放してやらんと、腐る。僕は息を呑んだ。この人は、僕の中の何かに、うっすらと気づいている。名前も理由もわからないまま、ただ、ここにいる器ではないと、見抜いている。

 行きなさい、と老教師は言った。そして、もし向こうで、おまえと同じ目をした人間に出会ったら、大事にしなさい。そういう人間は、めったにいない。出会えたら、それだけで、生涯の宝だ。僕は深く頭を下げた。この言葉を、僕は長く覚えていることになる。西の学び舎で、僕と同じ遠くを見る目に出会う日まで。そして、その目を一度取り逃がし、いつかもう一度繋ぎ直す日まで。けれど、それはまだ、ずっと先の話だ。

 旅立ちの前の晩、僕は台所に立った。

 誰もいない夜の台所で、僕は鍋に水を張り、鶏の骨を放り込んだ。母が煮物に使った、鶏の残りだ。それを弱い火でことこと煮た。何をしようとしているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、行く前に一度、確かめておきたかった。あの一杯に、どれだけ遠いのかを。汁を舐めた。鶏の匂いはする。けれど、薄く、平たく、まだ何もない。澄んでも濁ってもいない、ただの湯だ。あの一杯までの距離は、気が遠くなるほど遠い。技も、道具も、素材も、何一つ揃っていない。三十年より遠い。わかっていたはずのその遠さを、僕は火の前で、もう一度、はっきりと胸に刻んだ。

 けれど、不思議と、絶望はしなかった。

 遠いということは、道があるということだ。まだ誰も通っていない道が、まっすぐ、未来へ延びている。あの機械へ。あの一杯へ。人を夢中にさせる、あれへ。僕は火を止め、薄い湯を流しに捨て、鍋を洗った。渇きだけを、また深い場所に沈め、蓋をした。他のすべてを忘れる日が来ても、これだけは最後まで取っておく。行ってくる、と僕は暗い台所に小さく言った。

 朝が来た。

 僕は風呂敷包み一つを背負って、家を出た。父は工場へ行く時間だったのに、その朝は門の前まで送りに出た。何も言わず、ただ僕の肩を一度、硬い手で叩いた。母は目を赤くして、握り飯を持たせた。弟は寝ぼけ眼で、土産、忘れんなよ、と言った。僕は頷いた。路地を出て、角を曲がるとき、一度だけ振り返った。低い屋根の下で、三人がまだこちらを見ていた。その向こうの原っぱには、僕の描いた四角が、まだ薄く残っているはずだった。僕はもう一度前を向いて、歩き出した。

 列車が東京を離れる。

 窓の外を、僕の育った街が流れていく。塔の立ちはじめた空が、遠ざかっていく。やがて田や川や見知らぬ山が現れ、西へ西へと僕を運ぶ。座席で、僕は母の握り飯を食べた。塩の利いた、まっすぐな味だった。噛みしめながら、僕は思った。これから僕は、新しいばかりの学問の中へ入っていく。まだ誰も答えを持っていない場所へ。そこで僕は、機械に触れ、面白さを組み立て、いつか、あの一杯にたどり着くための、最初の一歩を踏み出す。置いてきた糸は、いつか、どこかで、また繋がるだろうか。わからない。わからないまま、それでも僕は行く。

 窓に、古い都の駅が近づいてくる。

 汽車を降りると、空気が違った。東京の、油と汗と槌音の匂いはそこになかった。古い都の空気は、どこか乾いて、静かで、時間の層が厚かった。低い山が街を囲み、瓦の波が遠くまで続いていた。真新しいものと、途方もなく古いものが、同じ通りに並んでいた。僕はその不思議な街を、風呂敷包みを抱えて歩いた。この街のどこかに、僕の目指す学び舎がある。まだ生まれたばかりの、手探りの学問がある。灰色の箱に触れられる場所がある。

 僕は深く息を吸った。乾いた古都の空気が、肺の奥まで届いた。ここでは、僕は、ただの新入りの学生だ。過去も、渇きも、知りすぎた未来も、風呂敷の底に畳んで、僕はまっさらな顔で、この街の門をくぐる。置いてきた糸の先で、父が、母が、弟が、あの友が、今日も普通に生きている。その温かさを胸の奥に一つ灯して。

 僕は風呂敷包みを抱え直し、歩き出す。ここからだ。二度目の生涯の、本当の始まりは、ここからだ。

 

 

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