これではないと僕は泣いた -二度目の人生で、ゲームと一杯のラーメンを完成させるまで-   作:朝凪小夜

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第五話 紙の上のプログラム

 

 初めて課題が出た日僕は紙を渡される。

 升目の印刷された細長い紙だ。ここに手順を書けと言われる。一行にひとつ。桁の位置が決まっている。行の頭の何桁かは番号のため。その次の一桁は続きのしるし。本文はそこから先の決まった幅に収める。幅からはみ出してはいけない。桁をひとつ間違えれば意味が変わる。あるいは意味を失う。鉛筆で書くその一文字が機械にとっての命令になる。

 僕は升目を見つめる。

 前の生涯で僕は書いたそばから走らせていた。画面に打ち込めばその場で動いた。間違えれば線が赤くなって教えてくれた。ここは違う。紙に鉛筆で書く。書いたものは動かない。ただの紙だ。この紙が命令になるまでには長い道のりがある。僕は手順を升目に写していく。頭の中では一瞬で終わる流れを一行ずつ紙に下ろす。下ろしながら奇妙な気持ちになる。踊りを踊るかわりに踊りの譜面を書いている。踊りたいのに書かされている。

 最初の課題はごく小さなものだ。数をいくつか並べ替えるだけの手順だ。前の生涯なら瞬きの間に書ける。ここでは半日かかる。升目に一行ずつ下ろすたびに桁を数える。頭の何桁が番号でどこから本文かを指で確かめる。本文の幅からはみ出しそうになって書き直す。鉛筆の先が紙に食い込む。消しゴムの滓が机に散る。窓の外で川が光っている。僕は机に屈み込んで踊りの譜面を書き続ける。一文字の位置がすべてを決める世界だ。位置がずれれば命令が別の命令になる。あるいは何の命令でもなくなる。厳格だ。厳格すぎる。けれどその厳格さの底に僕は奇妙な安心を覚える。前の生涯のあいまいな速さにはなかった手応えがある。一文字ずつが重い。重いから疎かにできない。

 書き終えた紙をキーパンチにかける。

 鍵盤を叩くと硬い札に穴が開く。一行が一枚の札になる。手順の束がそのまま札の束になる。この束がプログラムだ。紙でもなく画面でもなく穴の開いた札の束がプログラムそのものだ。僕はその束を窓口に出す。あとは待つ。技官が束を機械にかける。順番が来れば走る。結果は印字になって返る。早くて数時間。遅ければ翌日。

 キーパンチの部屋はいつも硬い音で満ちている。

 何台もの機械が並んで学生たちが鍵盤を叩いている。叩くたびに札に穴が開く。かちゃりかちゃりと音が絶えない。打ち間違えればその札は捨てて打ち直す。一枚が一行だから一行の打ち直しに一枚が要る。捨てられた札が屑籠に溜まっていく。僕もその列に加わって束を打つ。手順の紙を横に置いて一行ずつ札に移す。移し終えた束は指でそろえて輪ゴムで留める。留めた束を抱えて窓口へ運ぶ。窓口には先客の束がもう積まれている。僕の束はその一番上に載る。あとは順番を待つだけだ。自分の手はもう何もできない。機械に委ねて待つしかない。この待ちの長さに僕は毎回焦れる。焦れながら覚えていく。焦れても始まらないということを。

 翌日僕の束は印字になって返ってくる。

 紙をめくる。手順は途中で止まっている。三行目でつまずいている。桁をひとつ書き損じていた。たったそれだけだ。たったそれだけで機械はそこから先へ進まなかった。一日待った結果がこれだ。僕は札を打ち直してまた出す。また一日。前の生涯なら三秒で済んだ直しに二日かかる。息をするように試して直していたあの速さが懐かしい。懐かしくてたまらない。けれど懐かしがっても始まらない。ここではこの速さで生きるしかない。

 やがて僕はこの遅さと折り合いをつけはじめる。

 一日待つあいだ僕は次の束を頭の中で組む。窓口に出したものが走るのを待つ間もう別の手順を紙の上で練る。待ち時間を無駄にしないように二重三重に仕事を回す。それでも足りない。一日に一度しか試せないなら試す前に間違いを潰しておくしかない。僕は紙の上で自分の手順を何度も読み返す。声に出して読む。指で桁を追う。走らせる前に頭の中で走らせきる。機械の代わりに自分がなる。これは苦行だ。けれど苦行が僕を変えていく。前の生涯では走らせて確かめればよかったから僕は考え抜く前に手を動かした。ここではそれが許されない。許されないから僕は考える人間になっていく。手より先に頭が動く人間に。

 課題が大きくなると別の壁が現れる。

 メモリだ。

 機械の覚えていられる量がひどく小さい。語の数が限られている。前の生涯で僕はこの資源を湯水のように使っていた。いくらでもあった。気にしたこともなかった。ここには少ししかない。手順を書き進めるとすぐに天井に頭がつかえる。もう入らない。あふれる。僕は愕然とする。こんなに小さな器で人はどうやって仕事をするのか。

 やり方を先輩に聞く。

 答えは職人の知恵だ。ひとつの語をいくつもの用に使い回す。もう要らなくなった場所へ新しいものを重ねる。ひとつの桁に無理やり二つの意味を詰め込む。使い終えた手順の置き場所へ別の手順を後から呼び込む。時間をかければ場所が空く。場所を惜しめば時間がかかる。時間と場所を天秤にかけて少しずつやり繰りする。器が小さいから何ひとつ無駄にできない。ひと桁ひと語を拝むように使う。

 ある課題で僕は初めて本気で器の壁にぶつかる。

 たくさんの数を読み込んで並べ替えて書き出す。それだけの手順だ。けれど数が多い。多すぎて器に入りきらない。全部を一度に覚えておくことができない。前の生涯なら全部を抱えたまま並べ替えた。ここではそれができない。器が小さすぎる。僕は途方に暮れる。全部を覚えられないなら少しずつ覚えるしかない。少しずつ読んで少しずつ片付けて場所を空けながら進むしかない。ひとつの語をとっておく場所を切り詰める。数える桁を減らす。ひとつの語に符号と大きさを二つながら詰め込む。使い終えた読み込みの場所へ書き出しの手順を後から呼び込んで重ねる。手でひと語ずつ追う。今この語に何が入っているか。次の一歩で何が消えるか。紙の余白に語の中身を書き出して指で追う。機械になったつもりで頭の中で走らせる。走らせては詰まり詰まっては組み替える。

 やがて僕は手軽な言葉を捨てる。

 数式をそのまま書けるという触れ込みの太い言葉がある。書くのは楽だ。けれど楽な言葉は器を贅沢に食う。僕の狙う締まりには向かない。僕はもっと下へ潜る。機械の地肌に近い言葉へ潜る。そこでは一語一語が機械の動きにじかに対応する。書くのはひどく面倒だ。ひとつのことをするのに何行も要る。けれどそのぶん隅々まで手が届く。どの語をどう使うかを指の先まで自分で決められる。器のやり繰りが丸ごと自分の手のうちに入る。面倒と引き換えに支配を得る。僕はその取引を選ぶ。楽をやめて地肌へ降りる。降りた先の狭くて硬い世界が僕には性に合っている。前の生涯でも僕はいつも地肌の近くにいたがった。人が触れたがらない低い層で機械と差し向かいになるのが好きだった。二度目もやはりそこへ引き寄せられる。

 最初それは僕には拷問だった。

 知っている道を通れない。贅沢に書けばすぐあふれる。あふれないように書くと道が曲がりくねる。まっすぐ書きたいのに書けない。僕は紙の上で唸る。消しては書き消しては書く。升目が黒く汚れる。前の生涯の指が悲鳴を上げる。こんな狭さで何ができるというのだ。

 けれどある夜それが裏返る。

 僕は極小の器に手順を収めようと格闘している。どうしても入らない。何度組み替えても一語だけあふれる。もう無理だと思ったとき僕はふと気づく。ここの計算とあそこの計算は形が同じだ。二つを一つにまとめれば語がひとつ浮く。浮いた語であふれた分が収まる。組み替えるとぴたりと収まる。無駄が消える。手順が締まる。締まって美しくなる。

 僕は自分の書いた紙を見つめる。

 美しい。狭さに追い詰められて絞り出したこの形が美しい。贅沢に書いていたら決して生まれなかった形だ。器が小さいからこそこの締まりが生まれた。制約が形を生んだ。僕はその瞬間に体の芯で理解する。これは同じ形だ。前の生涯で僕がいちばん好きだったあの形だ。

 単純な決まりをひとつ置いてそこから無数の手が生まれる仕組み。原っぱで子供たちを夢中にさせたあの遊びの形。狭い決まりの中で人が知恵を絞りそこから思いがけない景色が開ける。あの形だ。極小のメモリに手順を収める仕事はパズルだ。制約のきついパズルだ。そしてよくできたパズルは人を夢中にさせる。僕は今それに夢中になっている。拷問だったはずのものにいつのまにか夢中になっている。

 狭さは敵ではない。狭さは設計の母だ。

 僕はそれを紙の上で知る。前の生涯では贅沢が僕を鈍らせていた。いくらでも書けたから雑に書いた。ここでは一語も無駄にできないから隅々まで考え抜く。考え抜いた末に締まった形が立ち上がる。その形は前の生涯のどんな仕事より僕を満たす。金属に近いこの階は苦しい。苦しいのに面白い。苦しいほど面白い。

 僕はこの発見を胸の奥で何度も転がす。

 単純な基底から圧倒的な派生が生まれる。決まりは少ないほうがいい。少ない決まりを深く掘るほうがいい。器は狭いほうがいい。狭さが知恵を呼ぶ。前の生涯で僕が作って人を夢中にさせたものはみなその形をしていた。覚える決まりは片手で足りる。けれどそこから開ける景色には底がない。誰もそれを言葉にしていなかった。僕自身も言葉にしていなかった。ただ手が知っていた。今この紙の上で僕はそれをようやく言葉で掴む。制約が設計を生む。狭さが豊かさを生む。この原理はいつか僕が作るものすべての背骨になる。まだ何も作れない今のうちにその背骨だけが先に太くなっていく。

 その面白さを分け合える相手がひとりいる。

 同じ課題に取り組む同級生だ。名を木戸という。木戸実。いつも機械の話をしている。機械のことになると目を輝かせる。器の狭さを嘆くのではなく狭さの中で何ができるかを楽しんでいる。あの計算をこう畳めば一語浮くと嬉しそうに言う。僕はその横顔を見て思う。この男は純粋に計算機が好きだ。役に立つからでも偉くなれるからでもない。ただ好きなのだ。手順が締まっていく手触りそのものが好きなのだ。前の生涯で僕もそうだった。

 木戸は僕とは逆の道を歩いてここへ来たらしい。

 子供のころ壊れた機械を分解しては叱られたという。中身がどうなっているか知りたくてたまらなかったという。僕は前の生涯の記憶を頼りにここにいる。木戸は生まれついての好奇心だけでここにいる。出発点はまるで違う。それなのに同じ場所で同じ札をにらんでいる。同じ狭さを面白がっている。僕は自分の秘密を木戸には話せない。前の生涯のことは誰にも話せない。けれど話せなくても分け合えるものがある。締まった手順の手触り。器に収まった瞬間の快さ。それを木戸とは言葉少なに分け合える。秘密を抱えたままでも友になれるのだと僕は知る。

 木戸と僕はよく一緒に紙をにらむ。

 ある晩事件が起きる。木戸が札の束を抱えて廊下を走ってくる。走ってつまずく。束が宙を舞う。何百枚もの札が廊下じゅうに散らばる。木戸の顔が青ざめる。番号を打っていなかったのだ。札には順番がある。順番が崩れればプログラムは死ぬ。散らばった札はただの穴の開いた紙の山になる。木戸がしゃがみ込む。何日もかけた課題だったという。

 僕はしゃがんで札を拾い始める。

 二人で一枚ずつ拾う。拾いながら僕は言う。手順を覚えているなら組み直せる。木戸が顔を上げる。二人で並べ直そう。僕たちは冷たい廊下に札を広げる。木戸が手順を口にする。ここはこの計算。次はこの分岐。僕がそれに合う札を探す。木戸が並べる。一枚ずつ順番を取り戻していく。夜が更ける。窓の外が白みはじめる。長い長い作業の果てに束がもう一度プログラムに戻る。

 拾い集める間じゅう僕たちはほとんど喋らない。

 喋る余裕がない。木戸が手順を思い出して声に出す。読み込みの札。数を比べる札。入れ替える札。書き出しの札。僕はその声を頼りに山から一枚を探す。穴の並びを読んで見当をつける。これか。ちがう。これだ。合った一枚を木戸に渡す。木戸が束の末尾に足す。冷たい床に膝をついて二人で機械の仕事を手でなぞる。機械が一瞬でやることを人間が一晩かけてなぞる。皮肉なほど遅い。遅いのに僕は少しも嫌ではない。隣に木戸がいる。同じ束を二人で組み直している。切れた順番を二人で繋いでいる。前の生涯の徹夜はいつも独りだった。独りで画面に向かい独りで丼を啜った。今の徹夜は独りではない。それだけで札の冷たさが苦にならない。

 木戸が札を抱えて泣きそうな顔で笑う。

 助かった、と木戸が言う。それから真顔になる。番号を打っておくべきだった、と。札の隅に通し番号を打っておけば散らばっても並べ直せる。順番を札そのものが覚えていてくれる。僕たちは笑う。当たり前の知恵をこんな目に遭ってようやく身につけたことを笑う。切れて散らばった束がまた繋がった。並べ直せば繋がる。順番さえ覚えていれば何度でも繋がる。

 その夜から木戸は僕の友になる。

 ラジオを直したときの遠ざかる笑いを僕は覚えている。あのとき知識は壁になった。今は違う。同じ札を並べ同じバグを追ううちに僕たちの間に橋がかかる。作ることが人を遠ざけるとは限らない。同じものに夢中になる者どうしなら作ることは人を繋ぐ。木戸は僕の速さを気味悪がらない。むしろ面白がる。おまえの畳み方は変だと笑う。変だけど締まっていると言う。それが僕には嬉しくてたまらない。

 ある朝僕の小さな課題が初めてまともに走る。

 印字を受け取って束をめくる。途中で止まっていない。最後まで走っている。答えが正しく並んでいる。極小の器に収めた締まった手順が機械の中で端正に動いた。紙に書いた踊りが本当に踊った。けれど僕はその踊りを見ていない。踊ったのは硝子の向こうだ。僕の手にあるのは踊り終えた後の印字だけだ。機械が走る姿を僕はまだ一度も見たことがない。結果の紙から逆算して、たしかに踊ったのだと知るだけだ。僕は印字を握りしめる。前の生涯で画面の向こうの何かが動いたときと同じ悦びだ。同じなのに一日待った悦びだ。待った分だけ濃い。木戸が横で覗き込む。走ったな、と言う。走った、と僕は言う。

 走った一瞬の悦びを僕は何度も噛みしめる。たった小さな並べ替えだ。誰が見ても大したものではない。けれど極小の器に締めて収めた手順が最後まで端正に走った。紙に鉛筆で書いた命令が札の穴を通って機械の中で本当に動いた。書いた通りに寸分たがわず動いた。世界に小さな秩序をひとつ立てたような気がする。前の生涯で僕が幾度も味わった悦びだ。忘れかけていた悦びだ。この悦びのために僕は生きていたのだった。二度目の生涯でそれをもう一度掌に取り戻す。

 けれど同時に僕は思う。これでは足りない。

 紙に書いて札に打って一日待つ。この細さでは僕の作りたいものには遠く及ばない。もっと速く試したい。もっと大きなものを組みたい。窓口の向こうの機械にじかに触れたい。硝子の向こうの神に。そう思うたびに一人の名が浮かぶ。遠山。実機を動かしたことのある一つ上の男。あの男は僕が焦がれる場所を既に見ている。会いたさが日ごとに募る。

 下宿へ帰る道で僕はまた食堂の中華そばを啜る。

 濃い汁。厚い脂。獣めいた匂い。啜りながら僕は思う。極小の器に手順を締めて絞り出したあの美しさは料理にも通じるのではないか。ひとつの素材を限りまで使い切る。無駄を削って締める。締めた先に思いがけない景色が開ける。あの一杯もそうやって生まれるのではないか。舌の奥で封印がまた疼く。まだだ。まだその時ではない。けれど紙の上の仕事が僕にひとつのことを教えた。締めることは削ることではない。締めることは形を生むことだ。

 その夜僕は久しぶりに前の生涯の一杯をありありと思い出す。

 澄んだ湯と濁った湯。二つが溶け合ってほどけていったあの一杯。あれもきっと削って締めた果てにあったのだ。素材をむやみに増やしたのではない。むしろ限りまで切り詰めて一滴に凝らせたのだ。紙の上で僕が学んでいることと同じ原理があの丼の底にもある。まだ確かめる術はない。作る技も道具もこの時代にはない。それでも僕は感じる。ゲームの設計も機械の手順もあの一杯もみな地の底で一本に繋がっている。単純を極めて派生を極める。削って締めて景色を開く。同じ形だ。ぜんぶ同じ形だ。その気づきが封印の蓋をまた一突きする。突かれても蓋は閉じている。閉じたまま僕はその日を待つ。

 金属に近いこの階はまだ序の口だ。

 この頃から僕は遠山の姿を遠くに探すようになる。

 実機を動かしたことのある一つ上の男。紙と札と一日の待ちに縛られた僕たちの世界の外を既に見ている男。廊下で背の高い後ろ姿を見かけると遠山ではないかと目で追う。噂ばかりが先に立って本人とはまだ言葉を交わしていない。それでも僕は勝手に近しさを感じている。あの男もきっと地肌の近くにいる。あの男もきっと狭さの中の締まりを知っている。同じ目の人間に出会ったら大事にしろ。老教師の声がまた耳の底で鳴る。会う日は近い気がする。近いのに手が届かない。硝子の向こうの機械のように。

 紙の上でこれだけ苦しんでこれだけ面白いのなら、機械のじかに触れる場所はどれほどだろう。仕事として毎日それに向かう場所はどれほどだろう。僕はまだそれを知らない。知らないまま予感だけがある。この先に本物の金属の苦闘が待っている。待っていてほしいとさえ思う。木戸の並べ直した束を思い出す。切れても順番さえ覚えていれば繋がる。僕は自分の順番を胸に刻んで次の頁へ進む。

 

 

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