これではないと僕は泣いた -二度目の人生で、ゲームと一杯のラーメンを完成させるまで- 作:朝凪小夜
秋の半ばに世の中が軋みはじめる。
遠い海の向こうで戦が起きたという。その戦のせいで油が高くなるという。油が高くなると何もかもが高くなる。ラジオがそう告げる。新聞がそう書く。最初は遠い話だった。すぐに近い話になる。下宿の主が家賃を上げると言う。食堂の品書きの値が書き換えられる。昨日まで一杯だった中華そばが今日は少し高い。明日はもっと高い。物の値が坂を転げるように上がっていく。
値上げは容赦がない。
朝に見た値が夕には変わっている。学生たちが下宿で頭を抱える。仕送りは決まった額しか来ない。来る額は同じで物の値だけが上がる。同じ金で買えるものが日ごとに減っていく。米が上がる。醤油が上がる。銭湯が上がる。誰もが財布の紐を締める。締めながら不安がる。この先どこまで上がるのか。上がり続けたらどうなるのか。街じゅうが同じ不安を吸って同じ息を吐いている。高度成長という言葉を僕は前の生涯で歴史として習った。その終わりの日を今まさに肌で浴びている。坂の上りが不意に止まった。止まった先に何があるのかまだ誰も知らない。
紙を節約せよと偉い人が言う。
その一言が街を妙な熱に浸す。紙がなくなるという噂が走る。人々が店に殺到する。棚から紙が消える。洗剤が消える。砂糖が消える。塩が消える。なくなると聞けばなくなる前に買う。買うからなくなる。なくなるからまた買う。噂が品不足を作り品不足が噂を裏づける。僕はその渦を横目に見ながら思う。これはひとつの暴走だ。単純な不安がひとつあってそこから止めどない行動が生まれる。人を夢中にさせる仕組みとよく似ている。ただしこれは誰も幸せにしない暴走だ。
紙を求めて主婦たちが列を作ったという話が伝わってくる。
どこかの町の店で紙が安く売られると聞いて人が殺到したという。あっという間に売り切れたという。それを新聞が大きく書き立てた。書き立てられてまた別の町で列ができた。列が列を呼ぶ。実のところ紙は足りているのだと後で誰かが言う。作る量は減っていないのだと。それでも一度走り出した不安は止まらない。無いという言葉だけが独り歩きして棚を空にする。僕はその話を聞いて背筋が冷える。人は本当にあるかないかで動くのではない。あると思うかないと思うかで動く。情報が現実を作る。歪んだ情報が歪んだ現実を作る。前の生涯でも僕はこれを何度も見た。二度目の世界でも人はまるで変わらない。
夜の街が暗い。
電気も惜しめと言われてネオンが消える。看板の光が落ちる。かつて眩しかった通りが影に沈む。僕は暗い道を下宿へ帰る。前の生涯の街はいつも明るかった。夜でも昼のように明るかった。その明るさを僕は当たり前だと思っていた。明るさにも油が要る。油にも限りがある。当たり前だと思っていたものはみな誰かが油を焚いて支えていた。二度目の生涯の暗い夜道で僕はそれを知る。
この窮乏は僕たちの学問にも降りてくる。
紙が惜しまれる世相はコーディングシートを惜しませる。あの升目の紙も札の紙もただの紙だ。ただの紙が急に貴くなる。無駄に書き損じるなと言われる。札を打ち損じて捨てるたびに肩身が狭い。器の中の語を惜しんで戦っていた僕たちが今度は紙そのものを惜しんで戦う。二重の窮乏だ。狭い器と細る紙。内も外も乏しい。
僕は書き損じの一枚にまで気を遣うようになる。
前は違った。間違えれば新しい紙に書き直せばよかった。今は一枚が惜しい。升目の紙が配給めいて配られる。無駄にすれば白い目で見られる。僕は鉛筆を握って升目の前で長く考える。書く前に考える。書いてから直すのではなく書く前にほとんど仕上げてしまう。紙が乏しいから頭で仕上げる。器が乏しいから頭で仕上げる。時間が乏しいから頭で仕上げる。乏しさが三つ重なって僕をますます頭の中だけで完成させる人間にしていく。皮肉なことだ。窮乏が僕を鍛える。前の生涯の贅沢が僕を鈍らせたように。
電気を惜しめばセンターも止まる。
運転の時間が削られる。機械が動く枠が痩せる。ただでさえ順番待ちの長い実機の枠がさらに細くなる。一日に通せる束の数が減る。窓口の列がいっそう長くなる。一発に賭ける重みが増す。前は翌日返ればよかった。今は数日返らないこともある。数日待った印字が三行目の綴り違いひとつなら目も当てられない。
窓口に張り紙が出る。
運転時間短縮のお知らせ。一日に処理できる本数に限りがあること。急ぎでない計算は控えるようにとの願い。学生たちがそれを見てため息をつく。ただでさえ細い枠がさらに細る。誰もが少ない枠を奪い合う。一発でしくじれば次の順番は遠い。だから皆いつになく紙の上で慎重になる。慎重にならざるをえない。窮乏は皮肉にも学生たちを一様に丁寧な書き手に変えていく。乱暴に試して直す贅沢が誰にも許されないからだ。
だから僕は極限まで紙の上で詰める。
前の話で覚えた地肌の詰め方を総動員する。一発で通すために頭の中で機械を何度も走らせる。語の生き死にを追う。どの順に置けば無駄がないかを読む。走らせる前にすべてを見通す。何枚も没案を書く。書いては違うと丸めて屑籠に捨てる。捨てた紙が惜しい。惜しいから次はもっと考えてから書く。窮乏が僕をさらに研ぐ。
その頃父から手紙が来る。
文字が硬い。相変わらず不器用な字だ。物の値が上がって暮らしが苦しいと書いてある。仕送りを続けるのは楽ではないと書いてある。健が大きくなって腹を空かせると書いてある。それから最後に一行ある。そんな勉強で本当に食えるのか。責めているのではない。心配しているのだ。けれどその一行は幼い日の父の顔を僕に思い出させる。計算機に未来があるとは思えん。あのとき父はそう言った。言いながら僕を送り出した。父はまだ半分疑っている。半分疑いながら仕送りを削って僕を支えている。
手紙の余白に健のことが少しだけ書いてある。
弟はよく食べるようになったという。背が伸びたという。兄さんはいつ帰るのかと聞くという。その一文が僕の胸を締めつける。健が生まれた冬の朝を思い出す。あの小さな塊が今は腹を空かせるほど大きくなった。僕はその成長をそばで見ていない。西の都で紙と格闘している間に故郷の弟が育っている。二つの川はもう別々の谷を流れている。それでも同じ源から出た水だ。いつかどこかでまた合わさる。僕は勝手にそう信じている。信じる根拠はない。ただそう信じていたい。
僕は返事を書く。
大丈夫だとは書けない。この学問が金になる保証など僕にもない。ただこれは大事なものになると書く。今はまだ形がないけれどいつか世の中を変えると書く。書きながら自分でも大きすぎる言葉だと思う。けれど嘘ではない。僕はそれを知っている。三十年先を知っている。父にはそれが伝わらない。伝わらないまま僕は筆を置く。切れかけた糸をなんとか繋ぐように書く。
その夜も食堂で中華そばを啜る。
値が上がってなお僕はそれを頼む。濃い汁が値の分だけ薄くなった気がする。世相が一杯の中にまで滲んでくる。それでも啜る。啜りながら封印がまた疼く。あの一杯があればと思う。値上げも窮乏も忘れさせるひと啜りがあればと思う。まだない。まだ作れない。僕は蓋をして残りの汁を飲む。
値の上がった一杯を啜りながら僕はふと思う。
こういう時こそ人は温かい一杯を欲しがる。世の中が軋んで財布が細って夜の街が暗いとき。そういうときにこそ一杯の湯気が人を救う。前の生涯でも僕はそうだった。うまくいかない夜ほど丼に顔を寄せた。あの湯気だけが僕を許してくれた。もしあの一杯をこの手で出せたなら。窮乏の底で人を束の間だけでも幸せにできたなら。それはきっと世界を変えるどんな機械にも劣らない仕事だ。僕はそう思う。思ってから苦笑する。まだ何も作れないくせに。紙の上で語を詰めるのがやっとのくせに。それでも渇きは確かにそこにある。ゲームと機械とラーメン。三つの渇きが窮乏の秋の底で静かに燃えている。
事が動いたのはある夕方だ。
僕はいつものように没案を書いては捨てていた。センターの近くの机だ。屑籠に丸めた紙を放り込んで席を立った。一枚が籠の縁に当たって床に落ちた。僕はそれに気づかず帰った。落ちた紙をひとりの男が拾った。
その男が床の紙をどう拾いどう広げたかを僕は後で知る。
男は屑籠の脇に落ちた丸い紙を何気なく拾ったという。捨てられた没案だ。普通なら誰も見ない。丸めて捨てた失敗作だ。けれど男はそれを広げて読んだ。読んで動きが止まったという。しばらくその場で紙を睨んでいたという。それから皺を丁寧に伸ばして懐に入れた。捨てられた紙が一人の男を捉えた。僕の失敗作が僕の知らないところで一人の男の足を止めていた。
翌日その男が僕を探して現れる。
背が高い。無精髭がある。目だけがやけに鋭い。手に見覚えのある紙を持っている。僕が昨日丸めて捨てた没案のコーディングシートだ。皺を伸ばしてある。男はそれを僕の目の前に突きつける。世間話もない。名乗りもしない。いきなり紙の一点を指で叩く。
これはおまえが書いたのか。
僕はうなずく。男の指は升目のある一行を押さえている。捨てた没案だ。器のやり繰りに詰まって放り出した紙だ。それの何が。僕は身構える。男が言う。
これは走る機械を見たことのない人間の書き方じゃない。
僕は息を呑む。
男は続ける。この置き方は機械が無駄なく回るように組んである。語がどこで生きてどこで死ぬかを実時間で読んでいる。走っている最中の機械の呼吸を知っている者の手つきだ。印字の結果を眺めているだけでは絶対に身につかない。操作卓に就いて走る機械そのものを何晩も睨んだ人間だけがこう書く。おまえはあれに就いたことがあるのか。あの冷たい部屋に入ったことがあるのか。
僕は首を振る。ない。一度もない。僕が知っているのは印字だけだ。走る機械を見たことは一度もない。
男の目の色が変わる。
ではどこで覚えた。誰に習った。男の声が低くなる。習ってなどいない。僕にはそれが説明できない。前の生涯だとは言えない。三十年先の記憶だとは言えない。僕は口ごもる。ずっと使ってきた言葉を口にする。勘だ。なんとなく、こう置けば機械が喜ぶ気がする。それだけだ。
勘、と男が繰り返す。
馬鹿にした響きではない。むしろ確かめるような響きだ。男はしばらく僕を見る。それから紙のべつの一行を指す。ここはなぜこう畳んだ。僕は答える。そこを普通に書くと機械が一度手を止める。手を止めさせたくなかった。だから前もって置き換えておいた。男の眉が動く。手を止める。おまえは機械が手を止めるのを見たことがないと言ったな。ないと僕は言う。見たことがないのに手を止めるのがわかるのか。わかる、と僕は言ってしまう。言ってから僕は自分の迂闊さに気づく。けれどもう遅い。
男はさらに紙の別の場所を指す。
ここでおまえは一つの語に二つの意味を詰めた。符号と大きさを同じ場所に押し込んだ。普通は分けて置く。分けたほうが安全だ。なぜ危ない橋を渡った。僕は答える。分けて置く余裕がなかった。詰めれば一語浮く。浮いた一語で全部が収まる。危ないのは承知の上だ。承知の上で機械がそこで転ばないように順を組んだ。男が僕を見る。転ばないように。おまえは機械がどこで転ぶかがわかるのか。だいたいは、と僕は言う。どこが際どいかは触ってみなくてもわかる。触ってみなくても。男が繰り返す。その声に苛立ちに似たものが混じる。俺は触って何度も転んで覚えた。おまえは触らずに知っている。それはずるいぞ。ずるいと言いながら男の目は笑っていない。値踏みするような真剣さだ。僕はその視線に炙られる。前世を悟られてはいないか。悟られようがない。それでも冷や汗が背を伝う。
男が初めて笑う。
薄い笑いだ。愉快そうな笑いだ。おまえ、変な奴だな。男はそう言う。俺は遠山だ。ようやく名乗る。遠山。噂の男。実機を動かしたことのある一つ上の男。僕がずっと胸に刻んできた名だ。その名の主が今僕の没案を手に僕の前に立っている。
胸の中で何かが鳴る。
ずっと遠くに探していた男だ。廊下で背中を見かけては目で追った男だ。会いたいと願い続けた男だ。その男が向こうから僕を見つけて現れた。僕が探し当てたのではない。僕の捨てた紙が男を呼び寄せた。人より先に紙が僕を語った。老教師の言葉が現実になろうとしている。同じ目の人間に出会ったら大事にしろ。会った。たしかに会った。無愛想で無精髭で人を値踏みするこの男が。僕はまだこの出会いが何をもたらすか知らない。知らないまま胸が高鳴っている。
遠山は近くの椅子を引いて座る。
俺はあれに就いたことがある、と遠山は言う。操作卓の前で走る機械を見た。ランプが明滅する。テープが回る。機械が考えている時間と手を止めている時間が体でわかるようになった。あの部屋で幾晩も過ごしてようやくだ。それをおまえは一度も就かずに紙の上だけで知っている。ありえない。ありえないのに現にここにある。遠山は僕の没案を指で弾く。この紙は嘘をつかない。
僕は黙っている。
黙ったまま胸の奥が熱くなる。誰かに見抜かれたのは初めてだ。前の生涯で僕の作るものは端正だと言われた。けれどなぜ端正なのかを言い当てた者はいなかった。皆ただ気味悪がるか感心するかだった。遠山は違う。遠山は僕の手つきの中身を読んだ。読んで言葉にした。走る機械の呼吸を知る者の手つきだと。それは僕自身も言葉にできなかったことだ。老教師の声が耳の底で鳴る。同じ目の人間に出会ったら大事にしろ。これがそれか。この無愛想な男がそれか。
遠山は機械の話を始める。
話し出すと止まらない。情報とは何かという話だ。突き詰めれば世の中のすべては情報の詰め方の問題だと遠山は言う。同じことをどれだけ短く言い表せるか。無駄をどれだけ削れるか。削って削って削り切った先に世界の骨が見える。遠山の言葉は独特だ。誰の受け売りでもない。自分の頭で掘り当てた言葉だ。僕はその話に引き込まれる。削って締めて骨を見る。それは僕が紙の上で味わっていることと同じ方角だ。あの一杯の底にあるものとも同じ方角だ。
遠山の話は夜更けまで続く。
同じ答えを出すのに長い手順と短い手順がある。短いほうが美しいと遠山は言う。美しいだけではない。短いほうが速い。短いほうが器を食わない。短いほうが機械を喜ばせる。美と速さと倹約が一つに重なる場所がある。そこを目指して人は削るのだと遠山は言う。僕は深くうなずく。削って締める。まさに僕が三つの場所で味わってきたことだ。紙の上で。原っぱの遊びで。そして遠い記憶のあの丼で。この男は情報の骨だけを見ているようで実はもっと広い何かの骨を見ている。僕はそう感じる。感じながら少し嬉しくなる。同じ骨を見ている人間がいる。前の生涯では一人もいなかった。
けれど途中で僕は小さな違和を覚える。
遠山はあの大きな機械にしか関心がない。冷たい部屋の奥の神にしか。話の途中で誰かが小さな計算機の噂をする。手のひらほどの部品でいつか個人が計算機を持てるようになるかもしれないと。遠山は鼻で笑う。玩具だ、と遠山は言う。あんな貧しい玩具で何ができる。本物の情報は本物の機械の中にしかない。遠山はそう言い切る。僕は何も言わない。言えない。僕は知っている。その玩具がやがて世界を変えることを。手のひらの部品が神を神棚から引きずり下ろすことを。遠山ほどの目を持つ男がそれを玩具と切り捨てる。僕はその一言を胸の奥に仕舞う。仕舞いながら小さく胸が痛む。
遠山は一学年上だ。
来年には出ていく。この街を離れて世の中のどこかへ行く。僕はまだここに残る。出会ったばかりなのにもう別れの影がある。切れて繋がる。切れてもまた繋がる。僕はそう自分に言い聞かせる。今はこの縁を大事にすればいい。老教師の言葉のとおりに。
その日から遠山は時々僕の前に現れる。
紙を覗いていく。ここはこうしろと言う。ここは面白いと言う。木戸も交えて三人で机を囲む夜がある。木戸は機械そのものを愛し遠山は情報の骨を愛し僕はその両方を遠い記憶から知っている。三人の目が同じ方を向く夜だ。前の生涯では一度も持てなかった夜だ。暗い街で電気は惜しまれても僕たちの机の上だけは妙に明るい。
三人はそれぞれ違う言葉で同じものを指す。
木戸は機械の体の話をする。どの部品がどう動くか。どこが熱を持つか。遠山は情報の骨の話をする。どう詰めればどう縮むか。僕はその二つが実は地続きだと知っている。体を知れば骨が見え骨を知れば体が動く。二人の話が僕の中で一つに溶ける。前の生涯で僕が独りで抱えていたものが二人の言葉に分かれて僕の前に並んでいる。僕はそれを黙って聞く。聞きながら胸がいっぱいになる。独りではないという当たり前のことがこんなにも温かい。丼を独りで啜った夜がもう遠い。
遠山があの部屋を知っている。
実機を動かしたことのある男が僕の隣にいる。硝子の向こうの神に触れたことのある男が。会いたさが叶ってしまえば次の渇きが顔を出す。僕も触れたい。印字ではなく走る機械そのものを見たい。遠山ならその戸を開けてくれるかもしれない。まだ頼んではいない。頼む前から僕は待ちはじめている。機械に触れる夜を。神の前に就く夜を。窮乏の秋の底で僕の二度目の生涯はまた一枚頁をめくる。