これではないと僕は泣いた -二度目の人生で、ゲームと一杯のラーメンを完成させるまで- 作:朝凪小夜
その晩遠山が僕を呼び出す。
深夜だ。とうに講義は終わり学生は下宿に帰り街は寝静まっている。遠山は下宿の窓を外から叩いた。来い、とだけ言う。今夜なら枠が空いている、と。僕はすぐに支度をして外へ出る。何の枠かはわかっている。あの部屋だ。硝子の向こうの神の部屋だ。遠山は運転の絞られた深夜の割り当てをいくらか使えるらしい。研究の手伝いで操作卓に馴染んだ数少ない学生だからだ。その一部を今夜僕に分けてくれるという。
二人で暗い坂を上る。
夜の構内は妙に静かだ。昼はあれほど人が行き交う場所が今は誰もいない。灯はほとんど消えている。節電で夜がいっそう深い。僕たちの足音だけが石畳に響く。並木が黒い影になって空に枝を張っている。窓という窓が暗い。世界じゅうが眠っているようだ。眠った世界の底を二人だけが歩いている。前の生涯でも僕は深夜の街を歩いた。けれどあのころの深夜はいつも独りだった。今は隣に遠山がいる。同じ場所を目指して二人で暗い坂を上っている。それだけで夜の質が違う。
昼の大学は人の声で満ちている。議論の声。笑い声。靴音。今その全部が消えている。消えた後に別の音が現れる。虫の声だ。昼には決して聞こえない虫の声が植込みから湧いている。遠くで水の流れる音がする。自分の心臓の音まで聞こえる気がする。世界がこんなに静かになるのを僕は知らなかった。深夜の大学は昼とは別の場所だ。同じ石畳同じ並木なのにまるで違う顔をしている。人がいなくなると場所は素顔になる。その素顔の底を僕たちは歩いている。許されて歩いているのか忍んで歩いているのかわからない。ただこの静けさが今夜を特別なものにしている。何か大きなことが起きる前の静けさだ。
センターの建物にだけ明かりがある。
世界が眠る中でその一角だけが起きている。近づくと低い唸りが聞こえる。機械の唸りだ。人が寝ても機械は寝ない。昼も夜も同じ調子で回り続けている。遠山が硝子の扉を開ける。冷えた空気が僕を包む。ずっと外から掌を当てていたあの冷たさだ。今その内側へ入る。
部屋の中は別の世界だ。
白い床。低い天井。空調が絶えず唸っている。大きな箱がいくつも据えられている。操作卓の面にはランプが並んでいる。赤や橙の小さな光が明滅している。壁際で磁気テープのリールが回っている。二つのリールの間をテープが行き来する。時々止まり時々巻き戻る。少し離れてラインプリンタが紙を吐いている。連続した紙が折り畳まれながら籠に落ちていく。深夜の当直の技官が一人隅に座っている。遠山に軽くうなずいて、また手元に戻る。
僕は立ち尽くす。
ずっと硝子の向こうに見ていた神の懐に今僕は立っている。冷たくて清潔で低く唸る神殿だ。前の生涯で僕はこれの遠い子孫を膝に載せて使っていた。それを当たり前だと思っていた。今はこの大きな箱が部屋を占領して人間を見下ろしている。触れることを許されない存在だった。その部屋に僕は入っている。息が浅くなる。
空気が違う。匂いが違う。
埃ひとつない部屋だ。人の汗の匂いも煙草の匂いもしない。あるのは金属と油と冷えた電気の匂いだけだ。機械のために保たれた部屋だ。人ではなく機械が主人の部屋だ。僕はその中で場違いな生き物のように立っている。壁のランプがゆっくりと呼吸するように明滅する。遠くの箱が時々かちりと音を立てる。何かを決めた音だ。人には見えない場所で無数の判断が下されている。僕はその気配に鳥肌が立つ。前の生涯でこれの子孫を膝に載せて撫でていた僕が今この巨大な祖先の前で震えている。血筋は同じだ。けれど格が違う。この時代の機械には人を畏れさせる巨きさがある。
持ってきたか、と遠山が言う。
僕はうなずいて束を出す。何日もかけて紙の上で締めた手順だ。地肌の言葉で書いて極限まで詰めた束だ。遠山はそれを受け取ってざっと目を通す。ふん、と鼻を鳴らす。これを走らせたいんだな。走らせたい、と僕は言う。印字はもう何度も見た。けれど走る機械そのものを一度も見ていない。この束が機械の中でどう動くのかをこの目で見たい。遠山は僕をちらと見る。それから操作卓に向かう。
遠山の手つきは慣れている。
切替をいくつか操作する。テープをかける。束を読ませる。指がよどみなく動く。何度もやった手つきだ。僕はその横で息を殺して見ている。やがて遠山が一つの鍵を押す。
機械が動きはじめる。
操作卓のランプが明滅する。ある列が点きある列が消える。規則正しく、また不規則に。テープのリールがひときわ速く回る。止まる。また回る。機械が考えている。僕の書いた手順を今この機械が読んで実行している。僕はその明滅を食い入るように見つめる。
そして気づく。
これは僕の知っている明滅だ。
紙の上で僕はこの動きを何度も頭の中で走らせた。ここで機械が一度手を止める。ここで語が生きここで語が死ぬ。ここで一気に流れる。すべて紙の上で思い描いた通りだ。今それが目の前で光になって現れている。僕の想像と機械の実際がぴたりと重なる。ずれがない。一分のずれもない。僕は震える。走る機械を初めて見た。初めて見たのに初めてではない。ずっと知っていた動きがそこにある。
僕は眩暈を覚える。
紙の上で走らせた幻と目の前の実物が重なりすぎている。どちらが幻でどちらが実物かわからなくなる。僕が頭の中で描いた明滅と機械が実際に刻む明滅が同じ拍で打っている。まるで僕の頭がそのまま外に取り出されて光になったようだ。前の生涯で染みついた感覚がこの時代の機械にそのまま通じている。三十年の隔たりを越えて僕の勘と金属が握手している。ありえないことだ。ありえないのに起きている。僕は自分が何者なのかを一瞬見失う。二度目の生涯の意味がこの明滅の中に光っている気がする。作るために戻されたのだと明滅が言っている気がする。
遠山が僕の顔を見ている。
僕ではなく僕の顔を見ている。値踏みするような目だ。おまえ今この明滅を読んでいるな、と遠山が言う。読んでいる、と僕は答える。ここで手を止めた。ここで流れた。全部わかる。遠山が黙る。長く黙る。それから低く言う。初めて就いた人間の顔じゃない。何十回も就いた人間の顔だ。なのにおまえは今日が初めてだと言う。ありえない。遠山の声に畏れに似たものが混じる。畏れと悔しさが半分ずつだ。
俺は何年もかけてこの機械の癖を覚えた、と遠山が言う。
操作卓に就いて幾晩も睨んで転んで覚えた。どこで機械が息を継ぐか。どこで詰まるか。体で覚えるしかなかった。それをおまえは紙の上だけで先回りしている。就いたこともないのに機械の内側を歩いている。遠山は僕の束をもう一度手に取ってしげしげと見る。この紙は化物だ、と低く言う。書いた人間も化物だ。褒めているのか呆れているのかわからない声だ。僕は何も言えない。種を明かせない。前の生涯だとは言えない。だから僕はただ勘だと繰り返す。遠山は疑わしげに、同時に面白そうに僕を見る。
やがてラインプリンタが答えを吐く。
紙をめくると答えが正しく並んでいる。走り切った。締めた手順が実機の中で端正に走り切った。前の生涯で画面の向こうの何かが動いたときと同じ悦びだ。同じでもっと濃い。あのころは画面という薄い硝子の向こうだった。今は目の前で機械そのものが唸り光り回っている。その体ごと僕の手順を生きてくれた。悦びが胸から溢れる。
やってみるか、と遠山が言う。
僕は顔を上げる。遠山が操作卓の一点を指す。次のテープをかけて起動の鍵を押す。それだけだ。やってみろ。僕は息を呑む。神に触れることを許されている。僕は震える指でテープをリールにかける。遠山が手を添えて教える。ここをこう通す。こう留める。僕はその通りにする。それから起動の鍵に指を置く。冷たい鍵だ。押す。
機械が僕の一手で動きはじめる。
ランプが明滅する。僕の指が起こした明滅だ。テープが回る。僕の指が回したテープだ。硝子の向こうの神が今僕の手の下で息をしている。前の生涯で僕は指先ひとつで機械を動かしていた。それを取り戻した。三十年より遠くまで失って今この冷たい部屋で取り戻した。僕は鍵に指を置いたまましばらく動けない。
指の下で機械の律動が伝わってくる。
微かな震えだ。機械が働いている震えだ。その震えが指から腕へ胸へ上ってくる。生きているものに触れているようだ。冷たい金属なのに脈がある。僕はこの脈を知っている。前の生涯で幾晩も掌の下に感じた脈だ。独りの部屋で機械だけが僕の相手だった夜の脈だ。あのころ僕はこの脈に慰められて生きていた。今その脈がまた指の下にある。懐かしさで喉が詰まる。けれど今夜は独りではない。隣で遠山が見ている。当直の技官が隅にいる。同じ脈でも独りで感じた脈とは違う。温かい誰かの気配の中で感じる脈だ。
けれどその悦びの底で僕は冷たいことも知る。
この夜は借り物だ。遠山の枠を分けてもらった一夜だ。夜が明ければ僕はまた硝子の外だ。枠は細い。節電でいっそう細い。使用料は誰かの研究費から出ている。学生の僕は本来ここに就けない。今夜のこれは例外の中の例外だ。明日からまた紙と札と一日の待ちに戻る。この神は僕のものではない。分けてもらう神だ。
作りたいものを作るにはこれでは足りない。
僕は鍵から指を離す。分けてもらう夜では足りない。頭の中にあるものを本当に形にするには毎日この機械に就ける場所が要る。借り物ではない自分の時間が要る。今夜それがはっきりわかった。触れてしまったからこそわかった。触れる前は憧れだった。触れた今は渇きだ。もっと欲しい。毎日欲しい。
憧れは遠くから眺めていられる。渇きはそうはいかない。
一度この脈を指に覚えてしまえばもう忘れられない。忘れられないから毎日欲しくなる。分けてもらう一夜ではとても足りない。頭の中には作りたいものが溢れている。人を夢中にさせる仕組みが山ほどある。それを形にするには走らせて確かめる場所が要る。何度でも試して直せる場所が要る。借り物ではない自分の機械が。この時代にそんな贅沢はほとんど許されない。許されないなら許される場所を探すしかない。毎日機械が回っていて僕がその前に就ける場所を。
機械を離れると外は白みはじめている。
腹が減ったな、と遠山が言う。二人で坂を下りる。夜通し起きていた体が軽く痺れている。開いている店を遠山が知っている。深夜も朝も回している小さな中華そば屋だ。僕たちは暖簾をくぐる。湯気が顔を包む。二つの丼が運ばれてくる。西の濃い一杯だ。
僕は丼を前にして黙る。
舌の奥で封印がまた疼く。機械の熱を浴びた夜の果てにこの一杯があるとよけいに疼く。僕の中のもう一つの夢がここにある。けれど今はそれを言わない。言えない。今夜語りたいのは別の夢だ。僕は箸を割って一口啜る。それから遠山に切り出す。
夜明け前の店には僕たちのほかに客がいない。主人は無言で鍋を見ている。湯気が天井の裸電球を曇らせている。外はまだ薄暗い。窓の外を新聞配達の自転車が過ぎていく。世界が眠りから覚める境目の時間だ。この時間に熱い一杯を啜るのは奇妙に心地よい。夜を徹した体に汁が染みる。遠山も黙って啜っている。無精髭に湯気が絡んでいる。僕はこの男に話しておきたいと思う。今しかない気がする。実機に触れた興奮がまだ冷めないうちに。夜と朝の境目のこの無防備な時間に。
遠山。僕はいつか遊びを作りたい。
遠山が箸を止める。遊び、と繰り返す。僕は続ける。子供のころ原っぱで遊びを作ったことがある。単純な決まりをひとつ置いただけだ。それだけで子供たちが夢中になった。日が暮れるのも忘れて走り回った。あの手応えが忘れられない。あれを機械の上でやりたい。人を夢中にさせる仕組みを機械で作りたい。もっと大きく、もっと深く。単純な基底から底のない派生が生まれる。今夜僕が締めた手順と同じ形だ。あの形で人を夢中にさせたい。
僕の頭の中には遊びが溢れている。光の雨のように弾を降らせて指先だけで潜り抜ける遊び。切れた世界を巡ってばらばらの人々をもう一度繋いでいく長い長い物語の遊び。夜にひとり灯りの下で言葉を読み進める静かな遊び。どれもまだこの世のどこにもない。誰も作っていない。作り方すら誰も知らない。けれど僕の中にはもう形がある。あの原っぱの決まりのように単純で底のない形が。それを機械の上に立ち上げたい。人が日の暮れるのも忘れて夢中になるものを。世界じゅうの見知らぬ誰かが息を止めて指を動かすものを。
僕は一息に言う。
遠山ならできる。おまえの骨と僕の勘を合わせればとんでもないものが作れる。いつか一緒にやらないか。僕は遠山を誘う。前の生涯で一度も持てなかった仲間を今度こそ持ちたい。同じ目をした男を隣に置きたい。僕は本気だ。
遠山はしばらく丼を見つめている。
それから静かに言う。俺は院に行く。
もう決めた、と遠山は続ける。情報の骨をとことん掘る。大きな機械の奥にしか本物はない。そこで一生を賭ける。遠山の声に迷いはない。僕は言う。院と遊びは両方できる。遠山は首を振る。できない。遊びは遊びだ。玩具に一生は賭けられない。人を夢中にさせて何になる。それで飯が食えるか。学問になるか。世の中を動かすのは大きな機械の奥の理屈だ。子供の遊びじゃない。
僕は言葉を失う。
遠山の言葉には迷いがない。迷いがないから重い。冗談で言っているのでも僕を見下して言っているのでもない。遠山は本気で信じている。価値のあるものは大きな機械の奥の深い理屈の中にしかないと。遊びは所詮その余りものだと。それは遠山の一途さでもある。一つのものを信じきる強さだ。その強さで遠山は情報の骨を誰よりも深く掘るのだろう。掘って掘って世界の底に届くのだろう。けれどその一途さが遠山の目を狭くもしている。深く掘る者は横を見ない。横に何が育ちつつあるかを見ない。玩具のような小さな機械。子供のような遊び。それらが横で芽を出していることに遠山は気づかない。気づかないまま深く潜る。
遠山、と僕はもう一度言う。あの遊びはいつか大きな産業になる。人を夢中にさせる仕組みが世の中を動かす日が来る。僕にはそれが見える。遠山は薄く笑う。おまえは夢を見すぎだ、と言う。遊戯に未来があるとは思えん。悪いが乗れない。俺の道は決まっている。遠山はそう言って残りの汁を飲み干す。
僕は自分の丼に目を落とす。
最も遠くを見る男だ。誰よりも深く情報の骨を見抜く男だ。僕の紙一枚から機械の呼吸を読み取った男だ。その男が遊びの未来だけは見えないと言う。玩具だと言う。小さな計算機を玩具と切り捨てたのと同じ声で遊びも切り捨てる。僕は知っている。その玩具と遊びがやがて手を組んで世界を変えることを。遠山ほどの目をもってしてもそれが見えない。見えないまま遠山は大きな機械の奥へ深く潜っていく。潜るほど地上から遠くなる。
胸が痛む。
誘いは断られた。前の生涯でも僕の言葉はよく届かなかった。二度目でも同じか。そう思いかけて僕はやめる。ちがう。今夜のこれは前の生涯の孤独とは違う。遠山は僕を気味悪がって去るのではない。遠山は遠山の道を選んで去るだけだ。道が分かれるだけだ。切れるのではない。分かれるのだ。
切れた物はまた繋がる。
僕はそう自分に言い聞かせる。今は道が分かれる。遠山は院へ、僕は僕の道へ。けれどいつかまたどこかで交わるかもしれない。遠山がいつか玩具と遊びの時代に気づく日が来るかもしれない。その日まで縁が細く続いていればいい。手紙という細い糸で故郷と繋がっているように。僕は残りの一杯を啜る。値の上がった濃い汁が喉を通る。これではないと舌の奥が言う。それでも温かい。
店を出ると朝だ。
夜が明けて世界がまた起き出す。眠っていた街に人の気配が戻る。遠山と僕は坂の途中で別れる。じゃあな、と遠山は言う。またな、と僕は返す。遠山の背中が朝の光の中を遠ざかっていく。大きな機械の奥へ向かう背中だ。僕はそれを見送る。見送りながら決めている。
遠山の背が小さくなる。ゆうべ暗い坂を二人で上ったのが遠い昔のようだ。あのとき僕たちは同じ場所を目指していた。今は別々の方角へ下りていく。一晩で出会って一晩で道が分かれた。短い縁だ。けれど濃い縁だ。遠山は僕の紙から機械の呼吸を読んだ最初の人間だ。僕の作りを気味悪がらずに面白がった最初の人間だ。その一夜があっただけで僕はもう独りではなくなった。たとえ道が分かれても一度繋がった線は消えない。細くなっても消えない。いつか遠山が横を向く日が来たら。玩具と遊びの時代に気づく日が来たら。そのとき僕はまだこの道の先にいたい。先にいて遠山を迎えたい。
僕は僕の道を行く。
毎日機械に就ける場所へ行く。給料が出て機械が回り、誰にも咎められずに自分のものを作れる場所へ。そこを足がかりにいつか遊びを作る。人を夢中にさせるものを作る。誰も未来を見ない今のうちに僕だけが未来へ足を踏み出す。触れてしまった夜のあとで渇きははっきり形を持った。僕は朝の坂を下りる。次の頁はもう始まっている。