これではないと僕は泣いた -二度目の人生で、ゲームと一杯のラーメンを完成させるまで- 作:朝凪小夜
最終学年になると誰もが行き先の話をする。
学問に残る者がいる。教える道へ進む者がいる。生まれたばかりのこの学問はまだ人手が足りない。残ればそのまま研究者になれる。何人かはそうやって残っていく。遠山は先に発った。院へ進んで大きな機械の奥へ潜っていった。あの無精髭の背中はもうこの街にいない。時々あの深夜を思い出す。二人で暗い坂を上ったあの夜を。遠山が抜けた後の教室は少し広く感じられる。
同級生たちも散っていく。
ある者は教職につくと言う。ある者は郷里に帰って家業を継ぐと言う。ある者は計算とは縁のない役所へ行く。この学問を出たからといって皆が計算機の道へ進むわけではない。まだそういう時代だ。情報という字のついた学科を出た人間が世の中でどう使われるのか誰も知らない。道が定まっていない。定まっていないぶん皆それぞれの勘で行き先を選ぶ。僕は四年をここで過ごして骨を鍛えた。手探りの学問の中で誰よりも深く骨を掘った。その骨を持ってどこへ行くか。それはもう決めている。
僕は学問には残らない。
残る気は最初からなかった。前の生涯でも僕は学者ではなかった。物を作る人間だった。二度目もそこは変わらない。作りたいものが僕の中にある。それは論文の中にはない。黒板の記号の中にもない。走る機械の中にある。人を夢中にさせる仕組みの中にある。だから僕は残らない。残って骨を掘り続ける道は遠山の道だ。僕の道ではない。
では僕はどこへ行くのか。
答えはあの夜に出ている。機械に触れた夜に。分けてもらう一夜では足りないとわかった夜に。僕には毎日機械に就ける場所が要る。借り物ではない自分の時間が要る。そういう場所はどこにあるか。企業の計算機部門だ。計算機を作り計算機を動かす会社の現場だ。そこなら毎日機械が回っている。金属にじかに触れられる。
僕は自分の中で計算する。
あの場所には三つある。ひとつ。毎日機械に就ける。金属の手触りを毎日確かめられる。ふたつ。給料が出る。食っていける。父の仕送りにもう頼らずに済む。みっつ。そしてこれがいちばん大事だ。あの場所は隠れ蓑になる。会社の仕事をこなしながらその陰で自分のものを作れる。夜に。休みの日に。誰にも急かされず誰にも見られずに。前の生涯で僕は急ぎすぎた。独りで何もかも作ろうとして足場を固めないまま走って果てた。二度目は違う。急がない。まず足場を固める。給料と機械と時間。この三つを手に入れてから本当の勝負を始める。
前の生涯の終わりを僕はよく覚えている。
独りだった。何もかも独りでやろうとしていた。作りたいものは山ほどあった。けれど時間がなかった。金がなかった。体を壊しても休めなかった。足場のないまま走り続けて息が切れて倒れた。誰も助けてくれなかった。助けを求める相手もいなかった。丼を独りで啜ってそれきりだった。あの終わり方を僕は二度としたくない。だから今度は順番を守る。焦って本丸へ突っ込まない。まず堀を埋める。土塁を築く。兵糧を蓄える。足場を固めきってから城を攻める。給料と機械と時間。この三つの足場を先に固める。固めてからでも遅くはない。むしろそのほうが遠くまで行ける。
だから僕は計算機部門を選ぶ。
この時代の計算機を作る会社はいくつもある。生まれたばかりの産業だ。国じゅうがこの新しい機械に沸いている。海の向こうの巨人に追いつこうと各社が競っている。その現場では若い技術者が足りない。情報の学科を出た人間はまだ珍しい。だから引く手はある。僕は機械を深く触れる部門を選ぶ。計算機をただ使うだけの部署ではない。機械の地肌に近い場所だ。前の話で紙の上に降りたあの地肌に毎日就ける場所だ。
この産業には妙な熱がある。
油の危機で世の中が沈んでもこの分野だけは前へ進もうとしている。国が金を出す。会社が人を集める。海の向こうの巨人が築いた城に追いつき追い越そうと国じゅうが躍起になっている。その熱を僕は知っている。前の生涯でこの産業がどこまで大きくなるかを見てきた。今はまだ小さい。小さいけれどこれから世界を飲み込む。今この熱の中に入るのは正しい。誰も先を知らない今のうちに中へ入って足場を築く。二度目の生涯の強みはそこにある。皆が手探りの分野に僕だけが遠い地図を持って飛び込める。
就職の口はすぐに決まる。
面接で僕は多くを語らない。語りすぎれば怪しまれる。前の生涯の知識を出せば気味悪がられる。だから僕は加減する。ちょうど優秀な新卒くらいの顔をする。それでも机の上の小さな課題を出されたとき僕の手は勝手に締まった答えを書いてしまう。面接官が少し目を見張る。この綴じ方は誰に習ったのかと聞かれる。勘です、と僕は答える。いつもの答えだ。遠山にしたのと同じ答えだ。
面接を終えて外に出ると胸の内で計算が回る。
この会社は僕を優秀な新人として雇うだろう。会社の仕事をきちんとこなせばいい。目立ちすぎず埋もれすぎず。真面目な技術者の顔をして日々の仕事を回す。その顔の裏で僕は自分のものを育てる。会社には言わない。同僚にも言わない。遊びを作りたいなどと口にすれば笑われるか気味悪がられる。遠山でさえ玩具だと切り捨てた夢だ。会社の人間に理解されるはずがない。だから隠す。隠して機械を借りて技を盗んで力を蓄える。いつか独り立ちするその日まで。僕は面接の帰り道でひとり戦略を練る。二度目の生涯は戦い方を知っている。
行き先が決まると木戸のことが気にかかる。
木戸も進路を決めている。木戸はやはり機械そのものへ行く。計算機を作る会社の現場だ。ただし僕とは別の会社別の土地だ。木戸が向かうのは機械の体を組み立て守る側だ。どの部品がどう動きどこが壊れどう直すか。木戸はそれを一生の仕事にする。子供のころ壊れた機械を分解しては叱られた男がとうとうそれで飯を食う。木戸らしい。
二人で最後の夜に紙をにらむ。
もう課題のためではない。ただ癖でにらむ。慣れた沈黙だ。やがて木戸が言う。おまえは機械を作りたいんじゃないんだろう。機械で何かを作りたいんだろう。僕はうなずく。木戸はよく見ている。僕は機械そのものが好きな木戸とは少し違う。僕は機械の上に何かを立ち上げたい。人を夢中にさせる何かを。木戸はそれを知っている。知っていてなお僕を面白がってくれる。
木戸と過ごした四年を僕は思い返す。
札束を落とした夜。冷たい廊下で一枚ずつ順番を組み直した夜。徹夜で一つのバグを追った夜。遠山を交えて三人で机を囲んだ夜。どれも僕が前の生涯で一度も持てなかったものだ。独りで作り独りで死んだ僕が今度は隣に人を得た。木戸は僕の速さを気味悪がらなかった。変な奴だと笑いながら面白がってくれた。その存在に僕はどれだけ救われたか。その木戸とももう別れる。同じ街にいた四年が終わる。
離れても手紙を書こう、と僕は言う。
木戸がうなずく。互いの現場で何を掴んだかを報告し合おう。どんな機械に触れたか。どんな壁にぶつかったか。どう越えたか。技術者どうしの文通だ。そして僕は付け加える。僕はそこに遊びの構想も書く。頭の中に溜まっていく遊びの設計を手紙に書き綴る。誰にも言えない構想を木戸にだけは書く。木戸は笑う。おまえの手紙は半分が愚痴で半分が夢物語になりそうだな。そうかもしれない、と僕も笑う。
手紙に書くのはただの近況ではない。
僕の頭の中で膨らんでいく遊びの形を書く。光の雨を指先で潜り抜ける遊び。切れた世界を巡って人を繋いでいく長い物語。夜に灯りの下で読み進める静かな遊び。まだこの世にない遊びの設計図を僕は手紙に書き綴っていく。木戸は機械の体を知る男だ。僕の夢物語を読んで技術の側から答えてくれるかもしれない。それはこういう部品ならできる。それはまだ無理だ。そんなやりとりがいつか本物の設計になるかもしれない。手紙の往復が二人の工房になるかもしれない。離れていても紙の上でなら二人はまだ同じ机に向かえる。
僕は一度だけ木戸を誘っている。
いつか僕が本当に遊びを作る会社を始めたら手伝ってくれないか。そう言ったことがある。木戸ははっきりとは答えなかった。遠山のように断りもしなかった。ただ薄く笑って言った。おまえがほんとに始めたら考えるよ。それだけだ。断られたのではない。宙に浮いたままだ。糸は切れていない。細く垂れたまま宙に残っている。いつか手繰り寄せられる日が来るかもしれない。僕はその糸を胸に仕舞う。
遠山は断った。木戸は保留した。
二人の答えは違う。遠山ははっきりと自分の道を選んで去った。玩具に一生は賭けられないと言い切って。木戸は違う。木戸は僕の夢を頭から否定しない。ただ今はまだ機械そのものへの興味のほうが勝っている。それでいい。今は各々の道を行けばいい。けれど木戸の保留は遠山の拒絶とは質が違う。木戸の中には小さな扉が開いたままだ。おまえがほんとに始めたら考える。その一言に僕は賭ける。いつか僕が本当に始めたとき木戸がその扉をくぐってくれることに。切れた物はまた繋がる。分かれた道はまた交わる。僕はそう信じている。
発つ前に僕はどうしても行きたい店がある。
この街に来てから噂に聞いていた一杯だ。大学の東の界隈に一軒の屋台が出る。若い男が一人で引いている。何年も同じ場所で同じ一杯を練り続けているという。その一杯が普通ではないという。僕はある夜その屋台の縄暖簾をくぐる。
屋台は小さい。
裸電球が一つぶら下がっている。折り畳みの椅子が並んでいる。客は数人だ。皆黙って丼に向かっている。男は口数が少ない。ただ鍋と向き合っている。大きな寸胴の中で何かが長い時間をかけて煮えている。骨と野菜だ。原型がなくなるまで煮溶かされた骨と野菜だ。その匂いがあたりに満ちている。獣めいて濃くて甘い匂いだ。故郷の澄んだ支那そばの匂いとはまるで違う。西の街の濃い匂いよりもさらに深い。僕はその匂いだけで前の生涯の記憶を揺さぶられる。
湯気が濃い。
立ちのぼる湯気からしてこれまでの一杯とは違う。男が丼に汁を注ぐ。その汁を見て僕は息を呑む。濁っている。とろりと濁っている。澄んだ醤油の汁ではない。鶏と野菜を長い時間をかけて煮溶かした汁だ。原型がなくなるまで煮込んで一つのとろみに変えた汁だ。ポタージュのようだ。飲むというより食べるような汁だ。僕は箸を割って啜る。
濃厚な鶏の旨みが舌を覆う。
白湯だ。これは鶏の白湯だ。
舌の上で旨みがほどけていく。鶏の脂と骨の髄と野菜の甘みが渾然と溶け合っている。一つ一つの素材の輪郭はもう見えない。すべてが一つのとろみに融けている。これを作るのにどれほどの手間がかかっているか僕にはわかる。長い時間をかけて煮溶かし灰汁を掬い濃さを見極める。単純な素材を限りまで炊いて別の何かに変える。紙の上で僕が語を締めたのと同じことだ。この男は骨と野菜で同じことをしている。削って締めて別の景色へ出ている。
僕の胸が高鳴る。前の生涯の遠い記憶があの一杯を思い出す。澄んだ湯と濁った湯。清湯と白湯。その白湯の側がここにある。僕がずっと焦がれてきたあの一杯の半分がここにある。この時代にもう鶏の白湯を練り上げている男がいる。誰に教わるでもなく独りで何年もかけて。僕は感動で震える。ここまで来ている。もうここまで来ている。
けれど啜り進めるうちに僕は気づく。
これではない。
近い。半分は確かにここにある。けれどこれではない。僕の一杯には澄んだ側がない。この濁りと溶け合う澄んだ清湯がない。二つが一つに溶け合って舌の上でほどけていくあの派生がない。この一杯は濃厚な白湯の一点で完成している。完成しているからこそその先へは伸びない。僕の求めるものはこの濃さと澄みが混ざり合った先にある。まだ誰も辿り着いていない先にある。この屋台の男でさえまだそこにはいない。
けれど落胆はしない。
半分でも辿り着いた者がいる。それが僕には希望だ。この時代にもう鶏の白湯を練り上げる男がいる。ならば清湯と白湯が溶け合う先へ辿り着く者もいつか現れる。あるいは僕自身が現れる。前の生涯で味わったあの一杯は幻ではなかった。この世界でも近いところまで来ている。ということはあの一杯は作れる。いつか誰かの手で。いつか僕の手で。屋台のこの一杯は僕に道を半分見せてくれた。残りの半分は僕が見つける。
僕は男の手元を見る。
男は黙々と鍋を見ている。額に汗を浮かべて鍋をかき混ぜている。何年もこうしてきたのだろう。自分にしか作れない味を求めて。誰にも真似できない一杯を求めて。その背中を見て僕は自分の未来を見る。いつか僕もこうなるのだ。鍋の前で汗を浮かべて独りで一杯を練るのだ。この男が白湯に辿り着いたように僕はその先へ辿り着く。清湯と白湯が溶け合う先へ。まだ何十年もかかるだろう。それでも辿り着く。
封印がこじ開けられそうになる。
今すぐ鍋の前に立ちたい。今すぐあの一杯を練りはじめたい。渇きが胸を突き上げる。けれど僕は蓋をする。まだだ。今はまだその時ではない。僕にはまず機械の足場がある。急いではいけない。前の生涯で急いで果てた。二度目は順番を守る。機械が先だ。一杯はその後だ。僕は残りの汁を飲み干す。濃厚な鶏の旨みが喉を通る。これではない。けれどいつか必ず。僕は男に礼を言って屋台を出る。
故郷へは帰らない。
発つ前に一度帰ろうかとも思った。けれどやめる。旅費も惜しい。時間も惜しい。それに顔を合わせればかえって言葉が出ない。僕は父に手紙を書く。就職が決まったこと。計算機を作る会社に入ること。給料が出るからもう仕送りは要らないこと。これからは自分で食っていくこと。そう書いて筆を置く。
しばらくして父から返事が来る。
相変わらず硬い字だ。短い手紙だ。就職おめでとうと書いてある。体を大事にしろと書いてある。それから最後に一行ある。あのとき計算機に未来があるとは思えんと言ってすまなかった。その一行を読んで僕は手紙を握りしめる。父が謝っている。かつて僕を疑った父が。疑いながらも送り出してくれた父が。今その疑いを取り下げている。半分は誇りさえ滲んでいる。不器用な誇りだ。言葉にならない誇りだ。僕は目の奥が熱くなる。
僕はその一行を何度も読み返す。
父は多くを語らない人だ。幼いころ僕がラジオを直したとき父は喜ぶかわりに強張った顔をした。計算機に未来があるとは思えんと言って僕を送り出した。その父が今初めてまっすぐに僕を認めている。すまなかったの一行にどれだけの思いが詰まっているか。不器用な人ほどその不器用な一行が重い。僕は西の都で四年かけて骨を鍛えた。その四年を父はずっと半信半疑で支えてくれた。今その父が謝りながら誇っている。切れかけていた父との糸がこの一行でまた太くなる。
手紙の余白に健のことも書いてある。
弟はもうすっかり大きくなったという。よく食べよく働くという。兄さんの背中を追いかけていると書いてある。僕は西の都で四年を過ごした。その間に故郷の弟は少年から若者になった。二つの川は別々の谷を流れ続けている。それでも同じ源から出た水だ。いつかどこかでまた合わさる。今はまだその時ではない。けれど水は流れ続けている。
発つ日が来る。
四年住んだ下宿を引き払う。窓から見えた浅い川ともお別れだ。水の音を最後にもう一度聞く。この街で僕は骨を鍛えた。紙の上で金属を知った。木戸と出会い遠山と出会った。分けてもらった一夜に走る機械へ触れた。白湯の一杯に夢の半分を見た。西の都は僕にたくさんのものをくれた。くれたものを全部抱えて僕は次の土地へ発つ。
四畳半の畳を最後に見つめる。
この部屋で僕は何百枚もの紙を書いた。器に語を詰めては消し詰めては消した。深夜に飛び起きて証明を組み上げた。手紙を書いた。夢を書いた。この狭い部屋が四年間の僕の城だった。前の生涯の狭い部屋を僕は思い出す。あの部屋には器が積み上がっていた。独りで啜る音だけがあった。この部屋は違う。この部屋には未来へ向かう紙が積み上がっていた。同じ狭さでも中身が違う。僕は畳に手をついて一礼する。ありがとう、と小さく言う。
駅で木戸が見送ってくれる。
じゃあな、と木戸が言う。手紙を書けよ、と。書く、と僕は返す。おまえもな。列車が動き出す。木戸の姿が小さくなる。ホームが遠ざかる。碁盤の目の街が遠ざかる。三方の山が遠ざかる。僕は窓に額をつけて景色が流れるのを見ている。四年前この街に着いたときと同じ姿勢で今度は去っていく。
次に僕を待つのは金属の現場だ。
毎日機械が回る場所だ。会社の仕事の陰で自分のものを作る場所だ。金属の苦闘がそこにある。紙の上の苦闘とは比べものにならない本物の苦闘が。僕はそれを恐れない。むしろ待っている。足場を固める時が来た。給料と機械と時間を手に入れる時が来た。その先に遊びがある。その先に一杯がある。
僕は膝の上で拳を握る。二十歳を過ぎたばかりのこの体にはまだ何も成し遂げたものがない。会社に入る一人の新人にすぎない。けれどこの拳の中には三十年ぶんの記憶と四年ぶんの骨がある。故郷の父の誇りがある。木戸との宙に垂れた糸がある。遠山に断られた夢がある。屋台の男に見た未来の後ろ姿がある。白湯の一杯に見た道の半分がある。それを全部握りしめて僕は次の土地へ運ばれていく。何も持たずに前の生涯を終えた僕が今は両手いっぱいに抱えて次の生涯を進んでいく。
列車が加速する。窓の外を新しい景色が流れていく。まだ先がある。まだいくらでも先がある。僕は次の頁をめくる。