これではないと僕は泣いた -二度目の人生で、ゲームと一杯のラーメンを完成させるまで-   作:朝凪小夜

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第九話 金属の現場

 春に僕は西の大きな商都で働きはじめる。

 学び舎の街から東へは戻らない。故郷はまだ遠い。僕が向かったのは古都でもない別の街だ。商いの街だ。運河が縦横に走り煙突が煙を吐き人が声高に値をつけあう街だ。古都の静けさとはまるで違う。ここでは誰もが忙しい。誰もが儲けの話をしている。その騒がしさが僕には性に合っている。人いきれの中に紛れれば余計な目立ち方をせずに済む。

 古都を発つ朝はあまり感傷にならずに済んだ。

 四年住んだ下宿を引き払い浅い川に別れを告げ列車に乗った。木戸が見送ってくれた。それきり僕は前を向いた。新しい街は最初とっつきにくい。言葉の調子がまた少し違う。人の距離が近い。見知らぬ者にも平気で声をかけてくる。値切る。笑う。押しが強い。古都の水のような静けさとは正反対だ。僕は下宿を借りて会社への道を覚える。朝は満員の市電に揺られる。夕は屋台の匂いの中を帰る。独りの暮らしにはもう慣れている。前の生涯でも今の生涯でも僕は独りの部屋に帰る夜を数えきれないほど過ごしてきた。ただ今度の独りは終わりの独りではない。何かへ向かう途中の独りだ。

 僕の勤め先は計算機を作る会社だ。

 国じゅうがこの新しい機械に沸いている。海の向こうの巨人を追って各社が競っている。僕の入った会社もその一つだ。大きな機械を組み立て売り客の現場に据える。僕が配された部門は機械の地肌に近いところだ。周辺の装置を動かす手順を書く。機械と機械の間をつなぐ細かな仕組みを組む。学生のころ紙の上で降りたあの地肌に今は毎日就いている。

 入社の日会社は大勢の新人で溢れていた。

 同じ年ごろの若者が背広に慣れない様子で並んでいた。訓示があり配属が告げられた。僕は望みどおり機械の地肌に近い部門へ回された。周りには優秀な若者が揃っている。名の知れた大学を出た者もいる。僕は静かにその中に紛れる。目立たない。飛び抜けない。ちょうどよく有能な新人の一人として振る舞う。前の生涯で身につけた処世術がここでも役に立つ。知っていることを全部は出さない。出せば浮く。浮けば隠れられない。僕は隠れながら根を張る。

 毎日機械に就ける。それがまず何より嬉しい。

 もう分けてもらう夜ではない。もう一日待つ束でもない。会社の機械はいつでもそこにある。書けばすぐに試せる。間違えればすぐに直せる。一日に一度しか試せなかった学生の日々を思えば夢のようだ。紙に書いて札に打って窓口に出して翌日を待つ。あの遅さを僕はくぐってきた。くぐる間に頭の中で機械を走らせる術を身につけた。今その術を持ったまま速さが戻った。頭で先に走らせてから実機で確かめる。だから僕の手順はめったに転ばない。乏しさの中で鍛えた術が豊かさの中で花開く。窮乏は無駄ではなかった。前の生涯で当たり前だった速さがようやく戻ってきた。僕は水を得た魚のように手を動かす。地肌の言葉で書く。極小の器に締めて収める。学生のころ独りで磨いた技がここで存分に生きる。

 配属されて最初の数か月は覚えることばかりだ。

 会社の機械は学生のころ硝子越しに見た神とはまた違う。もっと実務的で無骨だ。銀行や工場や役所へ売られていく道具だ。その道具を動かす手順を僕は書く。書いた手順を実際の装置につないで動かす。動けば嬉しい。動かなければ原因を探す。先輩について現場へ出ることもある。客の建物の一室に据えられた機械の前で線を挿し札を通し印字を確かめる。機械はよく気まぐれを起こす。仕様書のとおりに動かない。書いた者と作った者の思い違いがそこかしこに潜んでいる。その食い違いを一つずつ埋めていく。埋めるたびに僕は現場の機械の本当の癖を知る。黒板にも紙にもなかった生きた癖だ。

 現場は僕にたくさんのことを教える。

 黒板の上の機械はいつも理想の顔をしていた。仕様どおりに動く清潔な機械だった。現場の機械は違う。埃をかぶり熱を持ち古い部品と新しい部品が混ざり合って唸っている。同じ型でも一台ごとに癖が違う。この一台はここが弱い。あの一台はここで詰まりやすい。人間のように個体差がある。僕はその個体差を体で覚えていく。手順の正しさだけでは足りない。この機械のこの癖に合わせて書く。相手の顔を見て書く。それは学問では決して学べなかったことだ。金属は生きている。生きているものと付き合う術を僕は現場で覚える。

 けれど職としての金属は泥臭い。

 美しく締めるだけでは仕事にならない。客の現場は千差万別だ。機械は気まぐれに止まる。装置は仕様どおりに動かない。線が抜ける。札が詰まる。深夜に呼び出されて原因を探す。泥のような不具合を一つずつ潰していく。学問の黒板にはなかった汚れ仕事だ。それでも僕は嫌いではない。機械が実際に世の中で使われる現場には黒板にはない手応えがある。汗と油の匂いのする手応えだ。

 夜中に呼び出されることもある。

 客の機械が止まったという報せが入る。僕は寝間着を脱いで駆けつける。冷えた計算機室で装置を睨む。どこで詰まったかを探る。走っている最中の機械を前にして原因を読む。学生のあの夜に遠山の隣で読んだ明滅を今は独りで読む。あのとき借り物だった機械が今は毎日僕の手の内にある。真夜中の現場は静かだ。機械の唸りだけがある。僕は不具合の芯を見つけて手を打つ。機械がまた回りはじめる。客がほっとした顔をする。その顔を見るのは悪くない。誰かの役に立った手応えがある。前の生涯では画面の向こうの見えない誰かのために作っていた。今は目の前の顔のために手を動かしている。

 仕事の合間に僕はこっそり自分の手遊びを試す。

 与えられた課題を早く片付けてしまえば時間が余る。余った時間で僕は会社の機械の隅を借りる。小さな絵を画面に出してみる。点を動かしてみる。誰に見せるでもない実験だ。機械の上で何かを動かす感触を確かめる。この機械で遊びが作れるかを試す。まだ器が足りない。まだ絵を出す仕組みが貧しい。それでも僕は指が疼く。この現場の機械ですら遊びの片鱗が作れる。ならば数年後の機械なら。掌に載る安い機械なら。僕の頭の中で計算が回りはじめる。

 やがて僕は会社という新しい枷を知る。

 学問は手探りだが自由だった。誰も地図を持たない野原を好きに歩けた。会社は違う。会社には分業がある。上司がいる。納期がある。仕様書がある。決められた通りに決められた分だけ書く。自分の判断で最善を書けばいいというものではない。ある日僕は一つの手順をいつものように締めて出す。極限まで無駄を削った締まった手順だ。前の生涯なら誰もが唸る出来だ。ところが先輩が渋い顔をする。

 これは読めん、と先輩が言う。

 おまえにしかわからん書き方だ。おまえがいなくなったら誰が直すんだ。仕事は一人でやるんじゃない。後から別の人間が触る。だから誰にでも読める普通の書き方をしろ。締まっていなくていい。少々無駄でいい。読めることのほうが大事だ。僕は言葉を失う。締めることが正しいと信じてきた。締めることが美しいと。ここではその締まりが疎まれる。

 先輩は悪気があるわけではない。

 むしろ親切で言っている。おまえは腕がいい。それはわかる。だが腕がいいだけでは会社では困る。会社の仕事は続いていく。今日おまえが書いた手順を何年も後に別の誰かが直す。そのとき締まりすぎた手順は解けない結び目になる。誰も手が出せなくなる。だから緩く結べ。誰でもほどける結び方をしろ。先輩の言葉は理にかなっている。僕は反論できない。前の生涯で僕は独りで作って独りで抱えていた。誰かに引き継ぐことなど考えもしなかった。会社は引き継ぎで回る場所だ。個人の冴えよりも組織の続きが大事にされる場所だ。僕はその論理を初めて骨で理解する。

 それは前の生涯でも味わった疎まれ方だ。

 速すぎて煙たがられた。器用すぎて距離を置かれた。役に立つほど浮いた。あのころと同じことがここでも起きる。ただ今度は理由がわかる。会社は一人の天才で回すものではない。大勢の凡人が代わりばんこに触れるように回すものだ。だから飛び抜けた締まりよりも平らな読みやすさが要る。僕は納得する。納得して手を緩める。わざと平凡に書く。わざと少し無駄を残す。学生のころ答えを速く言いすぎないようにしたのと同じだ。加減を覚える。優秀すぎず埋もれすぎず。ちょうどいい真面目な技術者の顔をする。

 加減は難しい。締めたい手をわざと緩めるのは苦しい。

 美しく書ける場所をわざと平凡に書く。無駄を削れる場所にわざと無駄を残す。職人が全力を出さずに仕事をするようなものだ。最初は歯がゆかった。けれどやがて僕はそこにも技があると気づく。誰にでも読める平らな手順を書くのも一つの技だ。冴えを隠す技だ。前の生涯では冴えを見せびらかして煙たがられた。今は冴えを隠して溶け込む。隠すことも作ることの一部だ。そう思えば苦しさは薄れる。僕は平らな手順を書きながら心の中で本当の締まりを味わう。誰にも見せない締まりを。

 顔をしながら僕は本当の狙いを忘れない。

 この場所は隠れ蓑だ。会社の仕事を平らにこなしながらその陰で僕は力を蓄える。毎日機械に就いて技を吸う。現場の泥から実際の機械の癖を学ぶ。給料をもらって暮らしを立てる。父の仕送りにはもう頼らない。給料と機械と時間。あの夜に数えた三つの足場がここで手に入る。足場さえ固めれば本当の勝負ができる。前の生涯で僕は足場のないまま走って果てた。今度は違う。急がない。堀を埋める。土塁を築く。

 だから僕はこの枷を恨まない。

 枷は同時に守りでもある。真面目な技術者の顔で平らに仕事をこなしていれば誰も僕の内側を覗かない。目立たないことは隠れるのに都合がいい。会社は僕に給料をくれる。機械をくれる。技をくれる。そして何より匿名の平穏をくれる。その平穏の陰で僕は好きなだけ企める。会社にとって僕は取り替えのきく歯車の一つだ。それでいい。歯車の顔をして回りながら僕は別の機械を心の中で組み上げている。誰にも気づかれずに。前の生涯の急ぎすぎた僕なら我慢できなかっただろう。今は待てる。待つことの強さを僕はもう知っている。

 僕は本心を誰にも明かさない。

 同僚とは適当に付き合う。昼は一緒に飯を食う。仕事の愚痴を言い合う。けれど遊びを作りたいなどとは口が裂けても言わない。言えば笑われるか気味悪がられる。会社の人間にとって計算機は真面目な道具だ。銀行の帳簿を計算し工場の在庫を数える道具だ。それで遊ぶなど子供の戯言だ。だから僕は黙っている。黙って真面目な顔で帳簿の機械を組む。心の奥に別の設計図を畳んだまま。

 その設計図を僕はただ一人にだけ開く。

 木戸だ。木戸も別の街で計算機を作る会社に入った。機械の体を組み守る現場だ。僕たちは約束どおり手紙を交わす。木戸の手紙には機械の話が詰まっている。どの装置が壊れやすいか。どう直したか。新しい部品の噂。読むだけで現場の油の匂いがする。僕の手紙は少し違う。近況のあとに僕は遊びの構想を書く。

 ある手紙で僕は一つの遊びの筋書きを詳しく書いた。

 画面の上から次々と敵が降りてくる。こちらは下の一点を左右に動かして撃ち返す。単純な決まりだ。けれどその単純さの上に無数の駆け引きが積める。敵の降りる速さ。弾の間合い。逃げ場の広さ。それを少しずつ調えれば人は際限なく夢中になる。原っぱの遊びと同じ形だ。紙の上で語を締めるのと同じ形だ。僕はそれを図に描いて手紙に添えた。木戸からの返事は具体的だった。それを動かすには画面に絵を描く仕組みが要る。今の安い機械ではまだ苦しい。だが数年で追いつくだろう。そのときのために今から地肌の言葉を磨いておけ。木戸の返事は励ましだった。技術の裏づけのある励ましだった。手紙の往復が二人の工房になっていく。離れていても紙の上でなら僕たちはまだ同じ机に向かえる。

 おまえまだあの夢を追ってるのか、と木戸が書いてくる。

 追ってる、と僕は返す。木戸は笑っているだろう。呆れながら面白がっているだろう。おまえがほんとに始めたら考える。あの一言を僕はまだ胸に仕舞っている。細く垂れた糸だ。切れてはいない。いつか手繰り寄せる日のために。

 遠山からは便りがない。

 院で情報の骨を掘っているのだろう。大きな機械の奥へ深く潜っているのだろう。あの無精髭の男は今ごろ誰にも読めない深い理屈と格闘しているに違いない。僕は時々あの深夜を思い出す。二人で暗い坂を上った夜を。実機の明滅を二人で読んだ夜を。誘いを断られた夜を。断られてなお僕はあの男を恨んでいない。道が分かれただけだ。いつか玩具と遊びの時代が来たとき遠山がどんな顔をするか。僕はそれを見たいような見たくないような気持ちで思う。

 故郷とも手紙が続く。

 給料をもらうようになって僕は少しばかり家に金を送る。もう仕送りを受ける側ではない。送る側だ。父からの返事は相変わらず硬い。無理をするなと書いてある。体を壊すなと書いてある。その短さの奥に不器用な誇りがある。かつて計算機に未来はないと言った父が今は僕の仕事を誇っている。言葉にはしない。ただ硬い字の余白に滲んでいる。

 僕は父の手紙を何度か読み返してから仕舞う。

 不器用な人だ。喜びも誇りもまっすぐには書けない。無理をするな。体を壊すな。書いてあるのはそれだけだ。けれどその裏に息子を案じる心がある。かつて疑いながら送り出した息子が今は自分で稼いで家に金まで送っている。父はそれを口にはできない。ただ短い手紙の余白でそっと誇る。僕はその余白を読む。読めるようになった自分を少し不思議に思う。子供のころは父の沈黙が怖かった。今はその沈黙の中身が読める。歳月が僕にそれを教えた。

 健はもう立派な若者になったという。

 弟はよく食べよく働くという。手先が器用で物を運ぶのが得意だという。僕は西の街にいて弟は東の故郷にいる。二つの川は別々の谷を流れ続けている。会おうと思えば会えないこともない。けれど僕は帰らない。今は足場を固める時だ。故郷へ帰る旅より一日でも長く機械に就いていたい。二つの川はしばらく離れたまま流れる。それでも同じ源から出た水だ。いつか合わさる日が来る。僕は理由もなくそう信じている。

 母からも時々短い便りが挟まる。

 父の字とは違うやわらかな字だ。ちゃんと食べているか。無理をしていないか。母の心配はいつも食べ物のことから始まる。僕は西の街で独り身の食事を済ませている。安い食堂の濃い一杯を啜る夜が多い。母の味噌汁の味はもう遠い。遠いのに時々ふいに恋しくなる。恋しくなってから僕は苦笑する。もう子供ではない。二十を過ぎた社会人だ。それでも母の字を見ると胸のどこかが緩む。切れかけていた家との糸が手紙のたびに細く繋ぎ直される。糸は細い。細いが確かにそこにある。

 西の街にも濃い一杯がある。

 古都で出会ったあの鶏の白湯とはまた違う濃さだ。商都の一杯は脂が濃く出汁が強い。働く男たちが立ったまま啜っていく。僕も仕事帰りにその列に加わる。熱い汁が疲れた体に染みる。啜るたびに舌の奥で何かがうずく。前の生涯の遠い一杯だ。もう匂いも味もはっきりとは思い出せない。ただそこに空白があるのはわかる。埋めたい空白がある。この街のどの一杯もその空白を埋めない。近いものはある。けれどこれではないと舌の奥が言い続ける。僕はその声に蓋をして汁を飲み干す。今は機械の時だ。一杯はその後だ。順番は変えない。

 季節が巡る。

 僕は会社の仕事に慣れていく。慣れるほど手が空く。空いた手と頭で夜に何を企むか。それが僕の本当の日々だ。昼は真面目な技術者。夜は別の何かへ向かう男。二重の暮らしが回りはじめる。

 不思議なものだ。

 この生涯を始めたころ前の生涯はまだ生々しかった。目を閉じればあの光る画面が浮かんだ。独りで啜った丼の音が聞こえた。それが日ごと薄れていく。会社の仕事が忙しいからだ。目の前の機械と客と納期が僕の頭を埋めていく。前の生涯を思い出す暇がない。思い出さなくても困らない。あれはもう懐かしむ記憶ではなくなりつつある。ただの古い知識になりつつある。使える道具としての知識だけが残り纏わりついていた感情が剥がれ落ちていく。それでいいのだと僕は思う。感情が剥がれても知識は残る。渇きだけは残る。前へ進むのに必要なものだけが残っていく。

 足場は固まりつつある。

 給料が入る。機械が毎日回る。夜の時間がある。木戸という細い糸がある。あとは火だ。この蓄えた力を一気に燃やす火が要る。まだそれは来ていない。けれど遠くない。

 喫茶店の前を通ると若者が列を作っている。

 何かに夢中になっているらしい。子供が小銭を握りしめて店に吸い込まれていく。大人までが仕事の合間に通っているという。まだ僕はそれが何かを詳しくは知らない。ただ街の空気が変わりはじめているのを感じる。人々が何かに熱をあげている。その熱の中心に何があるのか。近いうちに僕はそれを知ることになる。知ったとき僕の中の火が一気に燃え上がることを僕はまだ知らない。世の中の空気がざわめきはじめている。街のどこかで新しい何かが起きようとしている。その気配を僕は肌で感じる。金属の現場で手を動かしながら僕は次の頁を待っている。

 

 

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