「ちょっと聞いてよステラ!」
暖色の照明が壁に並んだ瓶を照らすバーの店内に、やや乱暴なドアベルの音と女性の声が響いた。
強めの酒を傾けながら煙を燻らせ、落ち着いた空間で夜の時間を思い思いに楽しんでいた客たちが、何事かと顔を上げる。
しかし声の主――流行りのファッションに身を包んだ若い女性は彼らの視線を気にも留めず、一目散にカウンターへ歩み寄った。
「いらっしゃいませ、メリッサ。いつものでいい?」
彼女の目的はマスターではなく、カウンターの隅でグラスと皿を拭いている女性店員だった。ステラというのは彼女の名らしいと、客たちは察する。
ステラは真っ直ぐな濃藍の髪をシニヨンにしていて、メリッサと呼ばれた客と同じくらい若かった。
髪と同じ濃藍の大きな目と通った鼻筋、薄めの唇がバランス良く配置された顔立ちは、整っていると言っていい。
ただし化粧っ気は薄く、酒を出す店で接客をする女性としては少し地味だ。
しかし、突然現れた騒がしい客を前にしても全く動じていないところが、彼女がこの店で雇われている理由の一端なのだろうということはすぐにわかった。
「もっと強いのにして。ロックで飲める奴」
メリッサと呼ばれた女性は不機嫌を隠さず、ステラの対面のハイチェアにどかっと座る。足を組んで頬杖をつき、日が暮れても形の崩れていない巻き毛を背中に払った。
「荒れてるね。ほどほどにしなよ」
対するステラは、濃いアイメイクに縁取られた気の強そうな視線に怖じ気づくこともなく、大きな丸い氷を入れたグラスに琥珀色の酒を注ぐ。
「荒れもするわよ。ホンット最悪。ステラがいる日で良かった!」
メリッサは差し出されたグラスを受け取るなり一気に煽り、おかわりを要求する。良くない飲み方だが、のっぴきならない事情を察したステラはため息をついて、二杯目を作ってやった。
「また彼氏と喧嘩?」
「喧嘩。そんで別れた」
「え? ……婚約してたんじゃなかった?」
メリッサは店の常連だ。歳が近くて親しみやすいという理由でステラを気に入り、この端の席で他愛ない世間の噂から仕事の愚痴、身の上話まで、とりとめなく話して帰っていく。
言われてみれば、いつもなら酒を飲むと浮腫んできつくなるからと、薬指の婚約指輪を外してから飲み始めるのが慣例となっていたのだが、今日はそれがなかった。
「アイツ、急に『真実の愛を見つけたから別れてほしい』とか言いやがったのよ。あたしと正反対の、紅茶とケーキでできてそうなフワフワした女連れてさあ」
「二股してたってことじゃん」
「そうなの! 一応あたしもキープしておいて、あの女を無事に落とせたからこっちと縁切りに来たんだわ! 何が真実の愛よ、あー腹立つ!!」
さすがに三杯目のおかわり要求には、ステラも一旦首を振った。金を落としてくれるのはありがたいが、身体に障る飲み方を放置するのはこの店のやり方ではない。
ステラはその辺りの塩梅を見極めるのが上手いので、マスターから信頼されていた。
するとメリッサは少し冷静になったのか、『もう一気飲みしないから』と言って、氷だけになったグラスを両手で捧げ持って頼んできた。ステラはため息をついてもう一杯作ってやった。
「あと、なんか適当におつまみ」
怒りが寂しさと悲しみに変わり始め、カウンターに頬を付けて突っ伏したメリッサに、ステラはドライフルーツとチョコレートを少量乗せた小皿を差し出す。
「うう、ささくれた心に甘さが沁みる……」
突っ伏したまま、行儀悪くチョコレートをつまんで口に放り込んだメリッサは、ようやく一息ついた様子で大きく息を吐き、鼻をすすった。
「もちろん、素直に言うこと聞いたわけじゃないでしょう? それからどうしたの?」
ステラは穏やかに訊ねる。
メリッサは外見のとおり、かなり気が強くプライドも高い。別れてくれと言われて簡単に引き下がるタイプではないと、ステラは知っていた。
「婚約指輪を返せって言われたから、つけた拳で思い切り殴り倒して、綺麗に洗って質に入れてきた。おかげで今日の飲み代は潤沢よ」
「おお……」
修羅場の顛末をつい盗み聞いていた他の客たちの声を代表するかのように、ステラが小さく感嘆の息を漏らす。
「ま、結婚する前にアイツがバカだってことがわかって良かったかも」
と、洗いざらいぶちまけてすっきりした顔になった瞬間、グラスの中の氷が割れてカランと音を立てた。
「いつも愚痴聞いてくれてありがとう。なんかステラって、話しやすいのよね」
酒が回り始めてほんのりと朱が差した顔で、メリッサは微笑む。
「どういたしまして。私もメリッサと話すのは楽しいよ」
「あら嬉しい。多めにチップあげちゃう」
そして札を二枚差し出した。
「ありがとうございます。今後ともご贔屓に」
「調子がいいんだから」
遠慮なく受け取るステラを見て、メリッサは吹き出した。憑きものが落ちたような爽やかな表情は、彼女の幸せな未来を示唆しているようだった。
それから、元彼のことは忘れたかのように話題は移り変わった。
根も葉もないゴシップから最新の経済情報まで網羅するメリッサの話は、ステラにとっても興味深い話題が多く、他の客と話す時にも役立つ。
小一時間ほど話したところで、メリッサは壁にかかったアンティーク時計を見上げた。
「そろそろ帰ろうかな。最近物騒だし」
「ああ、例の行方不明事件?」
それは首都に暮らす貴族や富豪、またはその家族が次々に失踪しているという事件だった。
中には『一緒に歩いていた連れが振り返るといなかった』という奇妙なパターンもあるらしく、一部では人ならざるものの仕業だとか、都市伝説のように語られ始めている。
「この店から出ていく客は、犯人に目をつけられててもおかしくないでしょ」
「確かに……」
ステラが働くバーを訪れるのは、ほとんどが富裕層だ。
席数は少なく小ぢんまりとしているものの、大通りから一本外れた静かに飲める立地と隠れ家的な雰囲気、マスターの人脈が相まって、知る人ぞ知る高級店のようになっていた。
「ステラも夜道には気をつけなよ」
「うん、お互いね」
メリッサだってああ見えて良家のご令嬢なので、すっかり出来上がってしまっても、外に出れば車が待機していることだろう。
マスターと他の客に軽やかに手を振り、騒がしくしたことを謝りながら去っていくスタイルのいい後ろ姿を見送りながら、スマートだなあと思うばかりのステラだった。
***
「ステラ、そろそろ上がっていいよ」
「ありがとうございます」
時計の針が頂上を過ぎ、店内から客が引いたところで、マスターがそう声をかけた。
「明日は休みだったっけ」
「ええ、お休みをいただいてます。……何か用事でしたか? 誰か、シフトを変わってほしいとか?」
なんとなく含みのある聞き方をするマスターに、ステラは首を傾げる。
するとマスターは首を振りながらも、腕を組んで考え込んだ。
「最近、ステラ目当ての客が増えてるんだよ。今日はメリッサ嬢がいたから私が相手をしたけど、他にもきみに話を聞いてほしいっていう人がいてね」
バーというのは、店員との会話を楽しむのも醍醐味の一つだ。性質上男性客が多いので、女性店員ならなおさら接待担当の役目が大きくなる。
しかしステラは他のアルバイトのように、華があったり会話を盛り上げたりできるわけではない。
淡々と酒を作り、客の話に適当に相槌を打ち、聞かれた時だけ自分の話をして、必要最低限の頻度で笑うだけだ。
メリッサのように話しやすいと言ってくれる常連客はちらほらいるものの、恋愛の真似事を求められることもない。
何なら、店員の人気ランキングがあればおそらく最下位だろうという自覚がある。
縁あって働かせてもらっているが、教養も愛想もない、平民の中でも貧民寄りの自分がどうしてクビにならないのかと、不思議に思うこともあるほどだ。
「物好きですねえ」
故に話したい客がいると言われても、自分なんぞに下心を持つ人間がいるのだなという感想にしかならなかった。
「いや、そういう意味じゃなくて――」
と、マスターが何か訂正しかけた時だった。
ドアベルが軽やかに鳴り、一人の客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
反射的にマスターが声をかけ、ステラも頭を下げる。
「こんばんは。すみません、まだやっていますか?」
話しているだけなのに、歌っているように聞こえた。顔を上げてその姿を直視したステラは、思わず『うわあ』と口から出そうになり、ぐっと飲み込んだ。
まず真っ先に目に入るのは、その華やかな容貌だ。
二十代そこそこに見える青年だった。艶やかな淡い紫色の長髪、職人が磨いたかの如き白い肌。ウイスキーのような色をした瞳が収まる垂れ目の下には、当然のように泣きぼくろを備えていた。
見目の良い男性を表す言葉は数あれど、美しいという言葉が真っ先に出てくることはそう多くない。
そして何より、ラストオーダーの時間が迫る頃に来てしまって申し訳ないと言いたげな少し眉尻の下がった微笑みから、むせ返るような色気が襲いかかってくる。
妙齢の未亡人でもここまでの妖艶さは出せまいと、見蕩れるより先にぞっとしてしまった。
「アヴリール様。ええ、どうぞお掛けになってください」
「ありがとうございます」
どうやらマスターとは顔見知りらしい。自分がいない日に来たことがあるのだろうと、ステラはすぐに察した。
服装は白いシャツとスラックスに、ジャケットを羽織ったカジュアルなスタイル。だが店に来る客たちを多数見てきたステラには、それら全てが上等なものだというのがすぐにわかった。
均整の取れた体つきからはきちんと鍛えていることが窺えるものの、優しげな顔立ちのせいか仕草のせいか、なんとなく女性的な雰囲気がある。
「良かった。実はもっと早く来る予定だったんですが、仕事が長引いてしまって」
ふふ、という品の良い笑い声も、そっと腰かける動きも、ただひたすらに艶めかしい。
いつだったか、メリッサが『セクシーな人って、声とか仕草の湿度が高いと思うのよね』と熱弁していたことがあった。それを思い出したステラの脳裏に『びしょびしょ』というオノマトペが過る。
「あなたが『聞き上手』のお嬢さんですね? ずっとお会いしたかったんです」
「えっ」
失礼なことを考えていると知ってか知らずか、やたらと色っぽい青年は、突然ステラにそう話しかけてきた。