「私に……?」
驚いている隣で、マスターが大きく頷く。
「ステラ。さっき言っていた、きみと話したいっていうお客様の一人だよ」
もう一度正面に向き直ったステラを、心臓の弱い者なら卒倒してしまいそうな琥珀色の瞳が見つめる。
「ステラさんと仰るんですね」
視線で焼き殺されてしまうのかと思いきや、青年はしっとりと目を細めた。
「マスターからあなたが出勤する日を聞いたんです。間に合って良かった」
本人は何気なく言っているのだろうが、真っ直ぐに見つめてくる姿は運命の恋人に出会ったかのようだった。
「私が聞き上手だなんて、誰がそんなこと……。人違いではありませんか? ねえ、マスター」
このまま彼を直視していたら窒息死してしまいそうで、ステラは目を逸らすついでにマスターに助けを求めた。しかし、
「いや、ステラがお客様の間で聞き上手だって言われてるのは本当のことだよ。ちょうどさっき言いかけたのが、その話だった」
マスターは無情にも首を振った。おかげで青年の表情がパアッと明るくなり、湿度の高い後光が更に増してしまった。
「ちなみにどなたからのご紹介か、お訊ねしても?」
「新聞社に勤めている知り合いです。モーリスという男なんですが」
それを聞いて、ステラはようやく納得する。
「モーリスさんですか。……それなら私で間違いなさそうです」
新聞記者のモーリスは確かに店の常連で、ステラを贔屓にする物好きの一人だ。
メリッサ同様、愚痴や四方山話をつらつらと喋っては、多めにチップを払ってすっきりした顔で帰っていく気前の良い客だった。
「じゃあ、アヴリール様のお相手はステラに任せようか。構わないかい?」
「はい」
モーリスに何か特別なことをした覚えはないので、いつもどおり少し喋ればいいのだろう。どうせ帰ったところで後は寝るだけだし、マスターには悪いが長引けば残業代がつく。
そんな打算から、ステラは二つ返事で承知した。
その返事を聞いたマスターは、青年に『ごゆっくりどうぞ』と優雅に一礼し、奥に引っ込んだ。ステラが相手をしている間に、今日の売り上げの計算や閉店準備を進めるつもりに違いない。
「何かお作りしましょうか」
「では、カクテルのおすすめを。柑橘系だと嬉しいです」
「畏まりました。お酒は強い方ですか?」
「うーん、それなりですかね」
口を隠してふふ、と笑い、淑女のように恥じらう姿を見て、ステラは強いらしいと察した。度数に気を遣わなくて良いのはありがたい。
「あまり真剣に見られると恥ずかしいです。まだ見習いなものですから」
『聞き上手』を探してきたと言うからにはお喋り好きなのかと思いきや、彼はじっとステラがカクテルを作る手元を見つめるばかりだった。意識すると緊張で指先が冷たくなるので、自己申告して茶化してみる。
「ああ、ごめんなさい。とても滑らかな動きで、見蕩れてしまいました」
「恐縮です。……ハッタリが得意なだけですよ」
自信がなさそうな素振りを見せると客が心配する。人前で何かをする時は姿勢を正して不安そうな顔をせず、堂々と振る舞えば案外なんとかなるものだというのが、ステラが十九年の人生で学んだことだった。
「どうぞ。ブルームーンです」
話しているうちに出来上がったのは、紫色が美しいカクテルだ。
「わあ、綺麗な色」
「スミレのリキュールの色です」
何を出そうかと考えた時、真っ先に思いついたのがブルームーンだった。
青年の髪色はもとより、彼が纏う上品で妖艶な雰囲気には、紫色が似合う気がした。それでいてさっぱりとしたレモンの酸味があるので、リクエストの柑橘系という条件にも合う。
「へえ……」
青年は目を細め、しばらくうっとりと眺めてから、グラスの端にそっと口をつけた。
何をしても様になるな、とステラはつい感心してしまったが、客をしげしげと観察するのは良くないと、すぐに手元に視線を戻す。
「美味しいです。今のお仕事は、始めてどれくらいですか?」
「まだ一年にもなりません」
「本当に? すっかり様になっていますよ。それまでは何を?」
驚いて目を丸くした時、一瞬だけ幼い子どものような顔になった。もしや彼の素はこちらなのではと、ステラはなんとなくそう感じた。
「首都から車で何時間もかかる田舎で、家族と暮らしていました。ようやく首都の人の多さに慣れてきたところで」
「また、どうして首都に? ああ、すみません。質問ばかりで」
モーリスに何を吹き込まれたのか知らないが、どうやら彼は自分に興味があるらしいと勘付く。
だが、時代が時代なら国が傾きそうな色男だというのに、その態度にはステラを性的な目で見ているような雰囲気はない。
それよりも、珍獣の生態を知ろうとしている子どもの好奇心に近い気がして、一応持っていた警戒心を緩めた。
「構いません。よく聞かれますから。……弟が首都の学校に通うことになって。その保護者兼、出稼ぎですかね」
ステラの四つ下、十五歳になる弟は、幼い頃から優秀な子どもだった。しかし田舎には彼の才能を伸ばせる教育機関がない。
そこでステラは『自分が一緒に住むから、いっそ首都の学校に通うのはどうか』と提案したのだ。
勢いのままに姉弟で首都に出てきたものの、両親からの仕送りだけでは物価の高い首都で不自由なく暮らすには足りない。学費と生活費の足しにするため、こうして割の良い夜の仕事に勤しんでいるというわけだった。
「じゃあ、今は弟さんと二人暮らしなんですね。なるほど……」
何がなるほどなのか。そう思ったのも束の間、彼は少し身を乗り出して頬杖をつき、提案してきた。
「ステラさん。もし良ければ、僕と一緒に仕事をしませんか?」
口角をうっすらと上げ、少し上目遣いでステラを見上げる姿は、もはや人間というより色欲を司る悪魔だと言われた方が信じられるほどだった。