常に色気の蛇口が全開なのだと思っていたのに、それでもまだ抑えていたのだと気付いて、ステラは思わず一歩後ずさってしまった。
「ああ、ごめんなさい。初対面の相手から急にこんなことを言われても、怪しいですよね」
怪しいよりも妖しいが先に来ているわけだが、幸いにも青年はステラの動きを警戒心から来るものだと勘違いしてくれた。
どう話したものかと長い睫毛を伏せて思案する姿は、もはや芸術作品だ。
やがて何かに気付いて不意に顔を上げ、あ、と小さく漏らす声もまたびしょ濡れだった。
「そもそも、名乗ってもいませんでした。ええと……」
色気にあてられてそろそろ胃もたれがしてきたステラをよそに、青年はいそいそとジャケットの内側に手を入れ、薄いカードケースを取り出す。
ステラは長い指で差し出された名刺を両手で受け取り、まずはざっくりと目を通した。
「アスター・アヴリールと言います。アスターで構いません」
「承知しました。アスターさんですね」
本来なら客の名を呼ぶ時にはファミリーネームに様をつけ、礼儀を尽くすよう指導されているのだが、客がそれを望んでいなければ柔軟に対応して良いということになっている。
そしてステラの客はいずれも、彼女とカジュアルに話すことを望んだ。まだ少ししか話していないが、ステラには何故だか、彼もそうだと直感できた。
案の定、アスターはにこっと満足げに目を細める。
縁取りが箔押しされた真っ白な厚手の紙から、香水か何かの良い匂いがして更に怖じ気づいた。しかし態度には出さないようなんとか堪える。
ところが今度は名前の上に書かれたやたら長い肩書きが気になり、つい読み上げてしまった。
「未確認、現象……、調査室? 室長代理……?」
アスターはつっかえながら声に出したステラをじっと見つめ、顔の前で指を組み、少しだけ首を傾げる。まだ湿度を上げる小技があったかとステラは慄き、彼の肩越しに遠くを見た。
「【未確認現象調査室】。聞いたことは?」
「ありません」
「でしょうね。堅苦しく書いていますが、要は幽霊とか超能力とか、オカルト話を調査する機関です。胡散臭いでしょう?」
「ええと……。はい」
迷った末に正直に頷くと、アスターは気を悪くした様子もなく、眉尻を下げてくすくすと笑う。
「僕もそう思います。これでも一応、建国当初からある歴史の長い公的機関なんですけどね」
昔は違う名前だったそうです、と付け加えながらグラスを傾けた。
「にわかに信じられなくても仕方ありません。でも、僕はステラさんに仕事を手伝ってほしいんです」
飲み干した逆三角形のグラスを差し出し、また上目遣いでステラを見上げる。
「今のお仕事を続けながら、アルバイトという形でどうでしょう。お給料は日給で、例えばこれくらい」
と、指で提示してきた額はバーの収入よりも多かった。掛け持ちすれば実家からの仕送りがなくても暮らしていける額だ、と思わず計算して揺らいでしまう。
「仕事と言っても、難しいことは頼みません。僕の補佐として現場に同行してもらったり、書類仕事を手伝ってもらったり、その程度です」
おそらくマスターに『聞き上手の店員』の出勤日を聞いた際、身分と事情を明かしているはずだ。公的な機関というのが本当なら特別おかしな仕事ではあるまい。
そしてどれだけ見た目が怪しくても、人を見る目に長けたマスターが彼の相手を任せたということは、ステラがその提案に乗っても大丈夫だと判断したということになる。
――ならば、受けてもいいのではないだろうか。ステラの心の天秤は傾く。しかし、疑問は尽きない。
「どうして私なんですか?」
「あなたの『聞き上手』が、きっと僕の仕事の役に立つと思うから」
口説かれているような熱っぽい視線を受けながら、ステラは首を傾げた。どうにも芯の掴めない回答だ。
「私くらいの人間はいくらでもいると思いますが……」
コミュニケーションスキルというものは技術と経験で補える。ステラはこの店で働くことになった時に、マスターからそう教わった。
『相手の話を遮らずに最後まで聞くこと。ただ聞いてほしいだけなのか、何か意見が欲しいのかを見極めること。お客様が気持ち良く飲めるよう、余計なことは言わないこと』という基本的な教えを忠実に守っているだけだ。
するとアスターは、ふ、と小さく声を漏らして笑った。
「いいえ。ステラさんでなければいけないんです。……詳しくお話ししたいところですけど、閉店間際に長話はご迷惑になりますから、今夜はそろそろ帰ります。もしご興味を持っていただけたなら、お渡しした名刺の住所にいらしてください。日中なら、大抵そこにいますから」
***
帰路につき、寝付くまでの間真剣に熟考した末、結局ステラは翌日の昼下がり、名刺に書かれた住所にのこのこと足を運んでしまった。
しかし、辿り着いた場所にあった建物を見て、改めて首を傾げてしまう。
【未確認現象調査室】という堅い名前からなんとなく研究室やオフィスビルのような場所を想像していたのだが、住所が示していたのは、ステラの住む北区から首都に張り巡らされた路面電車を乗り継いだ先にある、中央区の国立図書館だった。
「ホントにここで合ってるのかな……」
アスターにもらった名刺に書かれた住所は確かにここだ。だが、国立図書館内とは書いていなかった。
「もしかしてからかわれた? でも、それにしては手が込みすぎてるよなあ」
名刺を取り出して確認し、昨晩のことを思い出す。
いっそのこと、あの妖艶な客の存在自体が夢だったと言われた方が納得できる。
しかし手の中にある小さな紙切れが、彼が幻ではなかったことを示していた。
「うーん、とりあえず職員さんに聞いてみよう」
訪れたのは初めてだが、国立図書館は市民に開かれた公共施設だ。道を訊ねるくらいで門前払いにされることはないだろう。
重厚で古めかしい石造りの建物に少々気圧されながら、ステラは恐る恐る足を踏み入れた。
「すみません。少しお訊ねしたいのですが」
「はい、何でしょう」
貸し出しカウンターに座る中年の女性は、上品なチェーンのついた眼鏡を押し上げ、にこやかに応対した。
「アヴリールさんという方は、こちらにいらっしゃいますか? 名刺をいただいて、この住所に来るよう言われたのですが……」
アヴリールという名前を聞いた途端、女性の顔が一瞬強張った。しかし、名刺を確認するとすぐに元の柔らかい表情になる。
「ご案内いたします。どうぞこちらへ」
どうやら住所は間違っていなかったようだ。姿勢の良い背中を追いながらステラがほっとしたのも束の間、女性は不意に立ち止まり、振り返った。
「初対面の方にこんなことを言うのは差し出がましいとは思いますが……。くれぐれも、彼の雰囲気に呑まれませんよう」
「え? はい……」
心から心配している声色で急に不穏なことを言われ、やっぱり安易に誘いに乗るべきではなかったかと、少し後悔したステラだった。