図書館の端の端にひっそりと佇む『関係者以外立入禁止』の文字が書かれたドアの向こうには、上階へ続く階段があった。
手すりも床も古めかしく、アンティークとでも言いたくなる階段だが、光沢のある滑らかな木材が照明を映していて、高級感と懐かしさを感じさせる。
しかし老朽化には勝てないようで、足を踏み出すごとにギシギシと音が鳴った。
踊り場で折り返して二階に辿り着き、階段と同じく光沢を放つ板張りの廊下をしばらく進む。
内装を興味深く眺めながら女性の後を追っていると、彼女はやがて廊下の突き当たりにある両開きの重厚な扉の前で止まった。
「申し訳ございませんが、わたくしの案内はここまでとなります。どうぞ、中にお入りください」
取り次いでくれるのかと思いきや、女性はそこに見えない壁があるかのように扉の数歩手前から動こうとしない。
何か事情があるのか、そういう取り決めになっているのかはわからないが、この部屋の主への声掛けは訪問者自身がするしきたりのようだ。
そう察したステラは、ひとまず女性に頭を下げた。
「わかりました。お仕事中に案内していただいて、ありがとうございました」
「お気遣いなく。これも職務ですから」
そう言って微笑む顔は、まだステラのことを心配しているように見えた。
コツコツとヒールの音を響かせながら立ち去る後ろ姿を見送り、ステラは意を決してドアをノックする。
「はぁい、どなたですか?」
「失礼します。昨晩バーで名刺をいただいたステラと申します」
「ああ、いらっしゃいませ。少しお待ちください」
分厚い扉越しのくぐもった声でも、湿度はしっかり貫通してきた。しかしおかげで間違いなくアスターの声だとわかったので、ステラは少しだけ緊張が解れた。
人の気配が近づいてきた後、片方の扉がそっと開く。
「ようこそ、ステラさん。来てくださって嬉しいです」
半日前に出会ったばかりの色男は、ひと月ぶりに会った恋人に見せるようなとろける笑顔でステラを出迎えた。
むせ返るほどの艶めかしさは昼間でも容赦なく、むしろ明るい照明の下で見ると細部の造形の美しさまでつぶさにわかるせいで、いっそう刺激が強い。
そこでステラはようやく、案内してくれた司書の女性が忠告してくれた理由に気付いた。おそらく、彼の持つ妙な色気に魅了されてしまわないようにという意味だったのだ。
色恋に疎く鈍い鈍いと言われてきた自分でさえ気を抜くと見蕩れてしまいそうになるのだから、ひと目見ただけで恋に落ちてしまう者も多いだろう。改めて気を引き締める。
「驚いたでしょう。変な場所にあって」
しかし当の本人はただ嬉しそうに眦を下げるばかりで、ステラを誘惑しようなどとは微塵も考えていないように見えた。
「ええと、はい。図書館の中にあるとは思いませんでした」
室内はそれなりに広く、歴史を感じる造りをしていたが、並べられた事務机の上に書類や本が積まれていたり、棚によくわからない置物が並べられていたりと、何だか雑然とした印象だった。
「北区からは遠かったんじゃありませんか? すぐにお茶を淹れますね」
職場見学もそこそこに、ごく自然な動作でエスコートされ、美しい組子細工の衝立で仕切られた応接スペースへと
「紅茶はお好きですか?」
「はい。ありがとうございます」
ステラが普段飲むのは専らコーヒーだが、紅茶も嫌いではない。
勧められるままにソファに座って頷くや否や、アスターは部屋の奥へ一度消え、戻ってきたその手にはステラの給料よりも高そうなティーセットがあった。
「実は昨晩の件、断られると思っていたんです」
慣れた手つきで茶の用意をしながら、ふふ、と小さく声を漏らす。
「どうしてですか?」
「だって、明らかに怪しいじゃないですか。バーに現れた客の男が、若い女性を急に仕事に誘うなんて。あの場でまともな機関だと証明する手段はありませんでしたし」
尤もな意見だが、自分のことだというのに、何やら他人事で自虐的な言い方だ。ステラは少し目を伏せ、ぽつりと零した。
「……信用している人が信用した人のことは、信じることにしてるんです」
田舎から出てきた世間知らずの若い女なんて、人の悪意の前では簡単に食い物にされてしまう。だから、ステラは他人と関わる時、一つ基準を設けていた。
最初に信用したのは首都で働いている父の旧友で、彼から紹介されたのが今住んでいるアパートの大家をしている女性だ。そして彼女の知り合いとして、バーのマスターを紹介されたのだ。
しかし、そういった経緯の説明を省いたせいで妙な言い方になってしまったことに気付いて、慌てて顔を上げる。
するとアスターは琥珀色の目を丸くして、また幼い表情でじっとステラの顔を見ていた。だが目が合った途端、視線はカップに移った。
「信用しているというのは、マスターのことですね。確かに、彼は信用に足る人物だと思います」
ローテーブルに二つ並んだ美しい柄のカップに、赤みの強い液体が注がれる。昨夜はアスターの目をウイスキー色だと思ったが、こうして見ると紅茶の色にも似ていた。
「では僕も、僕を信じてくれたマスターを裏切らないよう、ステラさんのことを大切に扱わないと」
自分の分も淹れて対面に座ったアスターは、改めてステラを真っ直ぐに見る。
「わからないこと、不審に思うこと、僕への不満、何でも言ってください。できる限り誠実にお答えします」
「わかりました……」
「ひとまず、昨日の話の続きからですね。僕の仕事の詳細と、ステラさんに声をかけた理由を説明しましょう」
「よろしくお願いします」
そうだ。まずはそれを聞かねば本当にできる仕事なのかもわからない。ステラは改めて背筋を伸ばした。
「昨夜も少しお話しましたが、ここ【未確認現象調査室】の仕事は、一般的な価値観では考えられない超常現象が発生した場合に、その原因を調査して正体を突き止めるのが主な仕事です」
「超常現象、ですか」
確か、幽霊とか超能力とか、と言っていた。
心霊スポットならステラの地元でも噂になったことがあったが、その時の正体は廃墟に住み着いた野良猫だった。
また別の時には、超能力や魔法というものを売りにした芸人や宗教団体が町にやってきたこともある。
彼らは高価な石やお祓いサービスなどを売りつけようとしていたが、総じていんちきだということがバレて、けんもほろろに叩き出されていた。
そういった経験から、ステラはオカルト話をあまり信じていない。というより、一般的な市民は大抵そうだ。
「依頼の大半は、『住民が見た怪しい影を調査してほしい』というようなものばかりです。警察や行政機関、後は信心深い貴族から持ち込まれることが多いですね」
「どうして、そんなあやふやなものを調査する組織を国が抱えているんです?」
市民の噂話程度のことを、何故そこまで大げさに取り扱う必要があるのだろうか。ステラは言われたとおり、遠慮なく訊ねた。
するとアスターは微かに口角を上げ、首を傾げる。
「どうしてだと思います?」
面白がっている声色だった。そう訊ねるということは、官僚の天下り先や左遷先といったまともな回答が欲しいわけではなさそうだ。
となれば、考えられる結論は一つしかなかった。
「……実在しているから、ですか。幽霊も超能力も」
ステラの答えを聞いたアスターはふ、と息を漏らして満足げに目を細める。
「さすがです。思ったとおり、ステラさんは頭の柔らかい方ですね」
にわかには信じがたい結論に達した理由の一つが、『目の前の男が妖精か悪魔だと言われた方が納得できるから』だとは、さすがに口に出せないステラだった。