【御礼】この度、二代目・桃白白を襲名いたす運びと相成りました!! 作:拙者
夜の街は活気に満ちていた。
酒場からは笑い声が響き、屋台からは香ばしい肉の匂いが漂う。
酔っぱらい同士が肩を組み、商人たちは一日の稼ぎを数え、子どもたちは路地裏を駆け回る。
誰もが、それぞれの夜を過ごしていた。
ただ一人を除いて。
桃白白。
世界一の殺し屋。
長い三つ編みを揺らし、人混みの中をゆっくり歩く。
その足取りに迷いはない。
目的地は、目の前を歩く一人の男。
ガン・ロウ商会の会長だった。
両脇には護衛が四人。
さらに少し離れた場所にも二人。
周囲へ目を光らせている。
だが、その視線は誰一人として桃白白を捉えない。
ただ歩いているだけの男。
そう見えていた。
距離が縮まる。
十歩。
五歩。
三歩。
すれ違う。
「失礼」
右手がわずかに動いた。
人差し指が、商会長の額へ触れる。
本当に軽く。
だが、常人の目には写らないほどの速度で。
桃白白は振り返らない。
そのまま歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
「会長?」
護衛が声を掛ける。
返事はない。
ドサッ。
巨体が石畳へ崩れ落ちた。
「会長!」
「医者だ!」
「誰か医者を呼べ!」
悲鳴が夜の街へ広がる。
額の中央には、小さな赤い点。
それだけだった。
「退屈な仕事だ」
桃白白は路地へ入り、懐へ手を入れる。
依頼人との待ち合わせ場所までは少し距離がある。
飛行機を出すつもりだった。
「……」
ない。
もう一度探る。
ない。
懐も袖も腰も探る。
ない。
桃白白は目を閉じる。
ほんの数秒前。
標的とすれ違う瞬間。
反対側から、小さな黒い影が横を抜けた。
その時か。
「盗まれたか」
怒りはしない。
ただ、少しだけ口元が緩んだ。
「面白い」
世界一の殺し屋から物を盗んだ人間。
初めてだった。
◆◆◆
黒い影は屋根の上を駆けていた。
細い塀の上を軽々と走り、物干し竿を飛び越え、雨樋へ飛び移る。
音はほとんどしない。
月明かりだけが、その姿を照らしていた。
黒い耳。
二本の尻尾。
まだ幼さの残る顔。
シャオロン(小籠)だった。
「へへっ」
人目につかない路地へ降り立つ。
左右を確認。
誰もいない。
ようやく拳を開いた。
中にはホイポイカプセルが一つ。
「大当たりじゃん」
腹が鳴る。
「……先に飯だな」
腹が減っては逃げる気にもならない。
シャオロンは馴染みの雑貨屋へ向かった。
店の扉を開ける。
カラン、と鈴が鳴った。
「おっちゃん、いるか?」
帳簿を付けていた店主が顔を上げる。
「またお前か」
「今日は何を盗ってきた」
「言い方ひでぇな」
シャオロンは笑いながらホイポイカプセルを放り投げた。
店主は慌てて受け止める。
「おい! 割れたらどうする!」
「ホイポイカプセルはそんなヤワじゃねぇって」
「……ったく」
店主は手の中のカプセルを見た瞬間、表情を変えた。
見たことのない高級品だった。
「これ……どこで手に入れた」
「拾った」
「嘘つけ」
「じゃあ盗った」
「正直だなお前は……」
店主はため息をつきながらカプセルを光にかざす。
本物。
しかも状態はいい。
売ればかなりの値になる。
だが、それをそのまま払うほど甘くはない。
「二千ゼニー」
「はぁ!?」
「冗談だろ!」
「盗品だ」
「足がつく」
「嫌なら他所へ行きな」
「チッ……」
シャオロンは不満そうに頬を膨らませた。
「肉まん三つしか買えないじゃん」
「四つ食える」
「じゃあ四つでいいや」
店主は呆れながら金を渡した。
「無駄遣いするなよ」
「へいへい」
シャオロンは金を受け取ると、軽く手を振って店を飛び出した。
店主は苦笑しながら、その背中を見送る。
「まったく……」
◆◆◆
シャオロンは屋台の前で立ち止まった。
湯気を上げる蒸籠。
ふっくらと膨らんだ肉まん。
鼻をくすぐる匂いに腹が鳴る。
「おっちゃん、肉まん四つ!」
「おう!」
受け取った肉まんを一つ頬張る。
「あっつ!」
口の中を火傷しそうになりながらも笑う。
「うっめぇ!」
◆◆◆
その頃、雑貨屋の扉が、静かに開いた。
カラン。
「まだ店は開いているか」
店主が顔を上げる。
「いらっしゃ……」
言葉が止まる。
長い三つ編み。
桃色の服。
そして、人を見下ろすような鋭い眼。
「……」
店主の額を、冷たい汗が伝った。
桃白白は店内をゆっくり見回す。
そして棚に置かれたホイポイカプセルへ視線を止めた。
「それ」
「私の物だ」
店内の空気が、一瞬で凍り付いた。
店主は笑顔を作ろうとした。
「な、何を仰ってるんです?」
「中古品ですよ。」
「客から買い取ったばかりで……」
桃白白は一歩近付く。
「誰だ」
短い一言。
店主は答えない。
桃白白は静かにため息をついた。
「勘違いするな」
「私は返してほしいと言っているわけではない」
「誰から買った」
店主は唾を飲み込む。
この男は危険だ。
本能が警鐘を鳴らしている。
だが、客の情報を売れば信用を失う。
店主は首を横に振った。
「言えません」
桃白白は少しだけ笑った。
「そうか」
次の瞬間。
店主の視界がぐるりと回転した。
何が起きたのか理解する前に、胸へ人差し指が突き刺さる。
ズブッ――
血が溢れた。
店主は崩れ落ちる。
桃白白はしゃがみ込み、耳元で静かに囁いた。
「私は短気でな」
「同じ質問は二度しない」
店主は震える指で胸に空いた穴を押さえた。
血は止まらない。
息が苦しい。
「……す、スラムの……」
「ほう。」
「黒猫の……ガキです……」
「名前は……シャオロン……」
桃白白は満足そうに頷いた。
「最初からそう言えばいい。」
そう言うと、店主の額にもう一つの穴をあける。
店主の体から力が抜けた。
桃白白は立ち上がり、静かにホイポイカプセルを懐へ戻す。
「さて」
「盗人を捕まえるか」
◆◆◆
シャオロンは歩きながらもう一つ、さらに一つと肉まんを口に運んでいた。
スラムまではあと少し、カプセルを売った雑貨屋が再び見えてきた時だった。
店の周りに何やら大きな人だかりが見えた。
「何だ?」
野次馬をかき分け、隙間から店の中を覗く。
見慣れた雑貨屋。
床には赤黒い血が広がり、その中央で店主が仰向けに倒れていた。
額と胸に、指で突いたような小さな穴が一つ。
店内は荒らされた様子もない。
「殺されたのか……」
「一撃だったらしいぞ」
「何者なんだ?」
「金は残ってるって話だ」
「恨みか?」
警備隊が店の中を慌ただしく動き回っている。
シャオロンは黙って立ち尽くした。
さっきまで笑っていた店主。
「また来たのか」と呆れていた顔。
もう動かない。
胸ポケットの金を無意識に握る。
嫌な汗が背中を流れた。
(……あいつだ。)
あの三つ編みの男。
理由は分からない。
だが、本能がそう告げていた。
「……チッ」
小さく舌打ちすると、その場を離れる。
警備隊に見つかるのはまずい。
それに――。
(ねぐら、大丈夫かな……)
胸騒ぎがした。
胸騒ぎが止まらない。
さっきの男。
三つ編み。
あの目。
(……嫌な予感しかしねぇ)
◆◆◆
ねぐらが見えてきた。
だが、いつも聞こえる笑い声はない。
代わりに怒鳴り声が響いていた。
「知らねぇ!」
「本当に知らねぇんだ!」
シャオロンは反射的に廃材の陰へ身を隠す。
そっと覗く。
広場の中央。
一人の少年が地面に転がっていた。
腹を押さえ、苦しそうにもがいている。
その前に立つのは――
桃白白。
「もう一度聞く」
「黒猫のガキはどこだ」
少年は涙目で首を振る。
「知らねぇ……!」
桃白白は少年の答えを最後まで聞かなかった。
ドッ。
軽く蹴る。
それだけで少年の体は数メートル吹き飛び、積み上げられた木箱へ叩きつけられた。
木箱が派手な音を立てて崩れる。
「ゴホッ……!」
血を吐く少年。
その様子を見ていた子どもたちの顔が怒りに染まった。
「やりやがったな!」
「みんな!」
「ぶっ飛ばせ!」
棒。
鉄パイプ。
レンガ。
拾い集めた得物を手に、一斉に飛び掛かる。
二十人近い子どもたち。
桃白白は動かない。
ため息をひとつ。
「舐めるな」
次の瞬間。
姿が消えた。
「え?」
最初の一人が言葉を漏らした時には遅かった。
ドゴッ!
腹へ拳がめり込む。
少年が吹き飛ぶ。
その反動を利用するように桃白白は身体をひねり、
バキッ!
後ろの少年を裏拳で殴り飛ばす。
さらに一歩。
ドッ。
ガッ。
ゴッ。
誰一人、桃白白の姿を捉えられない。
「ぐあっ!」
「いってぇ!」
「うわぁ!」
数秒後。
立っている子どもは一人もいなかった。
地面に転がり、顔を腫らし、鼻血を流し、呻いている。
桃白白は服についた埃を払う。
「私が世界一の殺し屋だと知らんらしい」
静かな声だった。
「無知とは怖いものだな」
子どもたちは震えることしかできない。
桃白白は再び口を開く。
「黒猫のガキはどこだ」
一人の少年が震える指で、ねぐらを指差した。
「……さ、さっきまでいたけど……」
「今はいねぇ……」
「そのうち戻ってくる……」
桃白白は小さく頷いた。
「そうか」
近くの木箱へ腰掛ける。
腕を組み、目を閉じた。
「なら三十分以内に連れてこい。できなければどうなるかはわかるな?」
子どもたちは顔を見合わせる。
誰かが小さく呟いた。
「小籠(シャオロン)を見つけろ……」
「早くしねぇと……」
「今度は俺たちが殺される……」
皆、一斉に立ち上がり、走り出した。
シャオロンも先んじて走り出していた。
ねぐらを通り過ぎた先にスラムを抜ける道がある。
後方では子供たちの声が響いていた。
「探せ!」
「見つけねぇと俺たちが殺される!」
聞き慣れた仲間たちの声。
だが、その声には怯えが混じっていた。
物陰からそっと覗く。
二十人近い子どもたちが集まっている。
顔は青あざだらけ。
鼻血を流している者。
腕を押さえてうずくまる者。
皆、何かに怯えた目をしていた。
「いたか!?」
「いや!」
「どこにもいねぇ!」
「早く見つけろ!」
「アイツが戻ってきたら今度こそ殺される!」
シャオロンの背筋を冷たいものが走る。
(俺を……探してる。)
その瞬間だった。
「いた!」
背後から少年の声が響く。
振り返る。声の主である少年と目が合った。
互いに動きが止まる。
一秒。
二秒。
少年は顔を真っ赤にして叫んだ。
「シャオロンだぁーーー!!」
周囲の子どもたちが一斉に振り向く。
「どこだ!」
「あそこだ!」
「逃がすな!!」
シャオロンは肉まんを投げ捨て、地面を蹴る。
風を切るように路地を駆け抜けた。
「待てぇ!!」
「逃がすな!」
後ろから十人近い足音が迫る。
振り返らない。
振り返る暇があれば、一歩でも前へ進む。
狭い路地へ飛び込む。
積み上げられた木箱を蹴り、塀へ飛び乗る。
そのまま屋根へ。
「上だ!」
「回り込め!」
子どもたちも必死だった。
いつも遊び場にしているスラムだ。
近道も抜け道も知っている。
だからこそ、簡単には撒けない。
「シャオロン!」
「悪く思うな!」
「アイツがお前を連れて来いって……!」
「俺たちだって死にたくねぇんだ!」
「チッ……!」
シャオロンは舌打ちした。
分かっていた。
あいつらだって悪くない。
立場が逆なら、自分だって同じことをしたかもしれない。
だから殴る気にもなれない。
ただ逃げる。
屋根から物干し竿へ飛び移り、その反動で隣の建物へ。
着地と同時に身を低くする。
耳がぴくりと動いた。
「いたぞ!」
前だ。
先回りされた。
「クソッ!」
右へ。
細い裏路地へ飛び込む。
行き止まり。
高い塀。
人一人通れるかどうかの細い隙間。
シャオロンは息を殺した。
足音が近づく。
「この辺に入ったぞ!」
「探せ!」
「まだ遠くへは行ってねぇ!」
時間がない。
「……仕方ねぇか」
小さく息を吐く。
その瞬間。
黒い光がふわりと身体を包み、小さく「ボン」と音がなる。
耳が伸びる。
手足が細くしなやかに変わる。
少し身体が縮み、形が変わる。
そこにいたのは、四足歩行の黒い獣だった。
人間よりひと回り小さい。
長い脚。
しなやかな身体。
二本の尻尾を揺らす、大きな黒猫。
シャオロンは軽く塀へ飛び乗る。
月明かりの下で前足を舐め始めた。
何食わぬ顔で。
野良猫のふりをする。
バタバタと子どもたちが駆け込んできた。
「いたか!?」
「いや!」
「おかしいな!」
「確かにここへ入ったのに……」
一人の少年が塀の上を見上げる。
「猫か……」
「こんな時に紛らわしいな」
「行くぞ!」
足音が遠ざかる。
静寂が戻る。
シャオロンはしばらく動かなかった。
耳だけを動かし、周囲の音を探る。
十秒。
二十秒。
もう誰もいない。
塀から飛び降りる。
着地と同時に身体が人の姿へ戻っていく。
「はぁ……」
大きく息を吐く。
「危なかった……」
その時だった。
「見事なものだ」
背後から声。
ゾクリと全身の毛が逆立つ。
振り向く間もなかった。
ドゴォッ!!
腹へめり込む蹴り。
景色が回る。
息が抜ける。
身体が石畳を何度も跳ね、壁へ叩きつけられた。
「……がっ……!」
立てない。
何が起きたのかも分からない。
霞む視界の向こう。
ゆっくりと近づいてくる一人の男。
月明かりに照らされた長い三つ編み。
桃白白だった。
シャオロンの前で立ち止まり、倒れた姿を見下ろす。
「盗み」
「気配」
「夜目」
「逃げ足」
一拍置く。
「変化まで使えるか」
桃白白は腕を組み、小さく鼻を鳴らした。
「殺すのは簡単だが⋯⋯」
シャオロンは歯を食いしばる。
最後まで言葉にならなかった。
意識が暗闇へ沈んでいく。
桃白白は軽々とシャオロンを肩へ担ぐ。
まるで荷物でも運ぶように。
「今日からお前は私の道具だ」
月だけが、その背中を静かに照らしていた。