【御礼】この度、二代目・桃白白を襲名いたす運びと相成りました!! 作:拙者
山を越える。
谷を渡る。
川を泳ぐ。
息を切らしながら、それでも足を止めない。
黒猫の獣人――シャオロンは、ただひたすら東へ向かって走っていた。
夜が明ける。
日が暮れる。
また夜が明ける。
木の実をもぎ取り、喉が渇けば川の水を飲む。
疲れれば木の上で数時間だけ眠り、目を覚ませばまた走る。
それを何日も、何週間も繰り返していた。
桃白白に連れ去られてから、もう数か月が経つ。
その間、桃白白から与えられた命令は、たった三つだけだった。
『ついてこい』
『逃げれば殺す』
『役に立て』
それだけ。
修行らしい修行はない。
武術を教えられることもない。
ある日突然、桃白白は電話を受ける。
依頼を聞き終えると、そのまま空へ飛んでいく。
電話の盗み聞きは得意だ。
シャオロンは慌てて電話の内容を思い返し、目的地を頭に叩き込み、走り出す。
追いつかなければならない。
遅れれば――。
「殺される……」
最初は冗談だと思っていた。
だが、一週間もしないうちに、それが本気だと分かった。
シャオロンが現場に着いたとき、桃白白はバカンスを楽しんでいた。そしてひと言。
「もう半日遅ければ殺していた」
笑いもせず。
怒りもせず。
本当に、事実を述べるように。
その日から、シャオロンは一度も立ち止まらなくなった。
桃白白には家がない。
いや、あるのかもしれない。
だがシャオロンは一度も見たことがなかった。
宿も別。
食事も別。
寝床も別。
桃白白は何一つ世話を焼かない。
「飯がなければ盗め」
「寝床がなければ探せ」
「死ぬならその程度だったということだ」
ただ、それだけだった。
最初は憎かった。
何度も逃げようと思った。
だが、そのたびに脳裏へ浮かぶ。
『逃げれば殺す』
あの目は本気だった。
だから逃げない。
いや、逃げられない。
今回の依頼先は東の都の近く。
電話で聞こえた地名を何度も頭の中で繰り返しながら、シャオロンは山道を駆け下りる。
何度目かの朝日が目にしみる。
耳がぴくりと動く。
街の音だ。
ようやく着いた。
東の都。
「……まずは地図だ。」
おおよその位置は電話を盗み聞きしていたが、詳しい情報は現地で打ち合わせることになっていた。
だからこそ、先に土地を知る必要があった。
街角に設置された大きな案内板。
シャオロンは真剣な顔で地図を見つめる。
「確か大きな農場の地上げがどうとか……あった」
東の都から外れた郊外。
広大な農地。
そこを頭へ叩き込む。
次に鼻を利かせる。
ほんの僅かに残る桃白白の匂い。
「こっちだ」
地図と嗅覚。
二つだけを頼りに、再び走り出した。
空を飛べないシャオロンには、それしか方法がなかった。
桃白白の匂いは、郊外向かうにつれて濃くなっていった。
やがて、一軒の高級料理店の前でぴたりと止まる。
磨き上げられた石畳。
門番。
豪華な庭園。
どう見ても、シャオロンのような薄汚れた子どもが入れる場所ではない。
「……ここか」
腹が鳴る。
ここ数日は木の実と魚しか食べていない。
店の中から漂う肉料理の匂いに、思わず喉が鳴った。
恐る恐る入口へ近づく。
「おい、小僧」
門番が槍を横に向けた。
「ここはお前みたいなのが来る場所じゃない。帰れ」
「いや、おいら……」
「帰れと言っている」
門番が一歩踏み出した、その時だった。
「通せ」
低く響くような声が店の奥から響く。
決して大きな声ではなかったが、他の音が遠慮して潜んでいるかのように、厳かに、絶対的な力を持って届いた。
門番の顔色が変わる。
「し、しかし、お客様……」
「聞こえなかったか」
「通せ」
「……はっ!」
門番は慌てて槍を下ろした。
シャオロンは首を傾げながら店内へ入る。
豪華な廊下を進み、一番奥の個室。
襖を開けると、桃白白が一人、料理を前に酒を飲んでいた。
机の上には食べきれないほどの料理が並んでいる。
「来たか」
桃白白は箸を止めもしない。
「今回は速かったな」
シャオロンはその場へへたり込んだ。
「ここ数か月、走ってばっかりなんだ……嫌でも速くなる⋯⋯ます」
息を整えながら桃白白を見る。
「それで……おいらも仕事に参加する……ですか?」
桃白白は酒を一口飲み、鼻で笑った。
「愚問だ」
「依頼は一昨日終わっている。」
「……え?」
「今回は遠かったから大目に見たが、明日になっても追いつかなければ、お前を殺すつもりだった」
シャオロンは固まった。
「おっかねぇ!」
「そういうことは先に言えよ……ください!」
桃白白は静かに箸を置いた。
「危機感が足りん」
「命令は命を懸けて遂行しろ」
「でなければ、貴様のようなガキが使い物になることはない」
「今お前が生きているのは、私の気まぐれだ」
「それを忘れるな」
シャオロンは背筋を伸ばした。
「……はい」
「よろしい」
桃白白は立ち上がる。
食事はまだ半分以上残っていた。
「えっ?」
「もう行くの?」
「おいら、今着いたばっか――」
ギロリ。
桃白白が振り返る。
それだけで、シャオロンの言葉は喉へ引っ込んだ。
「……い、いや」
「次はどこ行くんだです?」
桃白白は僅かに笑った。
それは決して優しさではない。
獲物を試す獣の笑みだった。
「自分で考えろ」
「……」
「だが、一つだけ教えてやる」
桃白白は店の外を指差す。
「今から私が飛ぶ方向はフェイクだ」
「え?」
「追っても意味はない」
「匂いも残さない」
「途中で何度も進路を変え、高度も変え、目的地へ向かう」
シャオロンは目を丸くした。
「じゃあ、おいらはどうすれば……」
「頭を使え」
桃白白は冷たく言い放つ。
「以前言ったな」
「馬鹿は要らん」
「五日」
「五日以内に私を見つけろ」
「できなければ――」
一歩近づく。
「お前の額に穴を開けてやろう」
桃白白はそれだけ言うと、店を出た。
店の門扉を剥がし凄まじい勢いで西へ投げる。
そしてそれ以上のスピードで跳躍し跳び乗る。
そのまま西の空へと消えていく一直線に消えていった。
シャオロンは見送る。
「……西?」
違う。
桃白白はわざわざ「フェイク」と言った。
つまり、試されている。
シャオロンは懐から使い古した地図を取り出した。
「頭を使え……か」
地面へ広げる。
これまで桃白白が飛び去った場所。
その方角。
目的地。
全部覚えている。
「確か、あの時はこの場所から北へ飛んだ」
「でも依頼は北東だった」
「その次は西へ飛んだが、依頼は北西」
それ以外にも行先と実際桃白白飛ぶ先違うことがあった。
とにかく1秒でも早く追いくことばかり考えていて、追いかけることはしなかった。
最短一直線で進んでも間に合わないのだ。寄り道する余裕はなかった。
指で一本一本、線を引いていく。
やがて、何本もの線が一定の範囲へ集まり始めた。
「……ここだ。」
大小の島々が点在する海域。
その中心付近。
「アジトがあるなら、この辺しかない。」
シャオロンの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「見つけてやる」
◆
シャオロンは東の都へ引き返していた。
走りながら、頭の中で距離を計算する。
「ここから港まで半日……。」
「船じゃ間に合わない。」
「泳いでも……もっと無理だ。」
五日。
残された時間は少ない。
島へ着いてからも探さなければならない。
自力だけでは、どう考えても時間が足りなかった。
「……」
桃白白の言葉が頭をよぎる。
『命令は命を懸けて遂行しろ』
『できなければ殺す』
シャオロンは足を止めた。
夜風が耳を揺らす。
「だったら……」
顔を上げる。
街外れに並ぶホイポイカプセル専門店。
営業時間はとっくに終わり、店内は真っ暗だった。
「悪く思うなよ」
小さく呟く。
「おいらも死にたくねぇんだ」
路地裏へ身を滑り込ませる。
黒い光が身体を包み、人の姿がゆっくりと崩れていく。
細くしなやかな脚。
黒い毛並み。
二本の尻尾。
猫又の姿へ変わると、シャオロンは音もなく屋根へ飛び乗った。
換気窓から店内へ忍び込む。
床へ降りても音は立たない。
鼻をひくつかせる。
「……あった」
飛行機のカプセル。
目的はそれだけ。
他の高価な商品には目もくれない。
棚から一つだけ取り上げ、再び換気窓から外へ出た。
◆
海岸。
シャオロンはホイポイカプセルを地面へ投げた。
白い煙が上がる。
現れたのは、小型の飛行機だった。
「……これ、動くよな」
操縦席へ座る。
計器など分からない。
だが、桃白白が使っていた飛行機を何度も見てきた。
レバーを握る。
恐る恐る押し込む。
ゴゴゴゴ……
機体が震え、ゆっくりと浮き上がった。
「うわっ!」
慌てて姿勢を立て直す。
右へ傾く。
左へ傾く。
危うく海へ突っ込みそうになりながらも、少しずつ安定してきた。
「飛んだ……。」
思わず笑みがこぼれる。
景色がみるみる小さくなる。
海の向こうには、小さな島々が点々と浮かんでいた。
「待ってろよ、桃白白」
機体は一直線に海へ飛び出していく。
だが、その笑みは長くは続かなかった。
夜が明けた頃、燃料計の赤い針が、ゆっくりと『E』へ近付いていく。
「……やっぱり足りねぇか。」
予想通りだった。
だが、それでいい。かなり時間を稼げた。
飛べるところまで飛び、あとは泳ぎ、走り、探すだけだ。
それが、おいらのやり方だ。
数十分後。
飛行機は小さな無人島へ不時着した。
シャオロンは迷わず海へ飛び込む。
島から島へ。
岩場を駆け。
海を泳ぎ。
崖をよじ登る。
鼻だけを頼りに、一つ、また一つと島を渡っていく。
そして四日半が過ぎた頃。
小さな島へ足を踏み入れた瞬間だった。
耳がぴくりと動く。
鼻先を風が撫でる。
その匂いを嗅いだ瞬間、シャオロンの二本の尻尾がゆっくりと揺れた。
「……ビンゴ。」
間違いない。
桃白白の匂いだ。
それも、かなり濃い。
笑みを浮かべたシャオロンは、匂いを追って森の奥へ駆け出した。
木々が途切れる。
目の前に現れたのは、巨大な石造りの建物だった。
周囲の岩は砕け、地面は幾度も抉られている。
まるで、この場所だけ何度も戦争が繰り返されたかのような光景。
「……何だ、ここ」
思わず息を呑む。
その時。
建物の奥から、人の声が聞こえた。
「ほう…⋯命知らずのどら猫が迷い込んだか」
低く、年老いた男の声だった。