A【高校三年生 四月】
朝、寮を出て学校へ行き、三年Cクラスの扉を開けると清隆がいた。
なんてことはない。昨日からクラス移転をしたことは既に三年生全体に周知済みだ。三年Aクラスから三年Cクラスへ綾小路清隆が移ってきた。ただそれだけの話。少なくとも、掲示板に書くなら一行で済む。
「おはよー雪ちゃん。ね、見て見て、綾小路くんだって」
隣の席の帆足ちゃんが、声を潜める気のない小声で話しかけてきた。
帆足ちゃんはよく話しかけてくれる。ただ、私と親友というわけではない。昼休みに机を寄せるほどではなく、体育で二人組を作る時に困ったら声をかけてくれるくらい。三年Cクラスにおける私は、その程度の位置にいる。
嫌ではない。むしろ、その程度がいい。
坂柳さんのように中心に立つ必要はない。橋本くんのように誰とでも距離を詰める必要もない。
話しかけられたら答える。頼まれたら手伝う。でも、最初には選ばれない。
それが三年間で作った椿雪だった。
「急にどうしたんだろうね。綾小路くんとはほとんど絡んだことないけど」
「わたしもな~い。確か一時期話題になったよね?イケメンだって」
一年生の時、女子の間でイケメンランキングなるものを作ったことがある。
入学したての女子高生がよくやるものだと聞いた。男子も男子で似たようなことをするらしい。
清隆は一応候補に入ったが、すぐに外れた。顔が悪いわけではない。むしろ、たぶん一番良い。そう思ってから、私はすぐにその考えをしまった。評価する側が盛り上がれる要素が少なかったらしい。
「まぁ、及第点ってところかな」
帆足ちゃんの言葉を聞いて私は新鮮な気持ちになる。
私もだけど、清隆に点をつける行為は、昔から山ほど見てきた。測定、評価、序列、比較。どれも私達の周りにあった。でも帆足ちゃんの言う『及第点』という概念はなかった。
「で、で、雪ちゃん的にはどうなんスか?」
「何が?」
「とぼけないでよ、綾小路くんの事!!」
ここで帆足ちゃんは少しだけ声を落とした。
「…別に、同じクラスになったクラスメイトって感じかな」
「いや、そうじゃなくて。顔とか、雰囲気とか」
「そういう尺度で人を見たことがないから分からないよ…強いて言うなら、普通?」
「うそだぁ。普通ではないでしょ」
帆足ちゃんはケラケラと笑った。
私は少し遅れて笑う。
清隆は教室の窓側で、白石さんと森下さんに話しかけられていた。白石さんは困ったように笑い、森下さんは何か珍しい虫でも見つけたような顔をしている。清隆はそのどちらにも、必要な分だけを返していたのだが、あの森下さんにはツボにハマっているらしい。出来ればその席を変わってほしかったのだが、私はクラス内有数の変人の一人に意見を言える人間ではなかった。
昨日から同じクラスにおり、私は何度も目を向けたい衝動に駆られた。だが、彼はこちらを見なかった。
他人への視線には敏感な方だ。
見てくる人はいる。地味で、断り方も強くなさそうで、少し押せば届くと思っている男子は多い。彼らの視線を、私は蠅なのか蚊なのか分類できない。鬱陶しいという点では同じだからだ。
「あれ?雪ちゃん、今ちょっと怖い顔してた?」
「元からじゃないの?」
「いや、元からではないかな~。素顔を巧みに隠しているけど、よく見りゃ可愛いじゃん」
彼女がなんだか変態親父みたいなことを言ってくる。
「はいはい、帆足ちゃんの方が可愛いよ」
*
ホームルームが終わった後、教室を出て人気のない階段下へ向かう。
事前に携帯で連絡を取っていた、とある人物に会うためだ。
「椿、急に悪いな呼び出して」
「おはよう、葛城くん。大丈夫だよ」
そういうと彼はホッとした顔をする。
「そういえばお前には妹がいたな、去年の無人島特別試験で見かけた時、似ていると思っていた」
私が微笑んでいると、彼が本題に入る。
「妙な形になったな。いや、綾小路の事も、俺の事もな。お前は驚いていないように見えるが」
「ううん、結構驚いてるよ」
葛城くんは少しだけ眉を動かした。
「弥彦がいれば、もっと騒いだだろうな」
その名前が出るのは、予想していた。
「やっぱりその事?」
「あぁ、俺は、あいつを守れなかったからな」
と、今でも去年の事を悔やんでいる様に、顔を上げた。
大手派閥となった坂柳派閥と、少数精鋭の葛城派閥の件。
それは坂柳クラスの生徒ならば誰もが知るところだ。
「お前がいなかったら、俺はもっと早く潰れていたかもしれない」
感謝の言葉に聞こえるが、声は少しも柔らかくなかった。
「だから余計に腹が立つ」
「……うん」
「弥彦は戻らない。俺は龍園のクラスに移った。結果だけ見れば、お前の判断は間違っていない」
葛城くんは私を見た。
「だが、正しかったことと、許されることは違う」
「龍園くんのクラスは、葛城くんが入ってから安定したね」
「……そう、それも聞きたかった。お前が俺を龍園に繋げたのは、善意だったのか?」
私が答えに窮していると、彼が続ける。
「龍園のクラスでなければ、俺は今も何かを守ったつもりで腐っていたかもしれない、だから感謝はしている」
彼は、そこで一度だけ目を伏せた。
「だが、許したわけではない」
「……分かってる」
私はそれだけ言った。
謝れば楽になる。
でも、葛城くんが欲しいのは謝罪ではない。
だから私は、別の言葉を選んだ。
「これからも、協力関係でいてほしい」
葛城くんは少しだけ目を細めた。
「お前は本当に、嫌な言葉の選び方をする」
私が何も言わずにいると、葛城くんは「あぁ、分かった」と呟いた。
*
昼休み前、堀北さんと櫛田さんが三年Cクラスの前に来た。
堀北さんは教室の中を一度見た。視線は清隆の方へ向かったが、すぐに私へ戻った。櫛田さんはいつものように笑顔だった。私を呼び出すことが不自然に見えないようにしている。
その時点で、用件は分かった。約束の回収である。
私は立ち上がり、二人についていく。清隆の方は見なかった。
廊下へ出て購買部に歩きながら堀北さんは口にする。
「椿さん、早速で悪いのだけど、生徒会の件、返事を聞かせてほしいの」
「…断れる話?」
「断ることはできるわよ、あなたの選択だもの」
「じゃあ、断ったら、堀北さんは敵に回るのかな?」
堀北さんは少し黙った。櫛田さんの笑顔が薄くなる。
二人は同じことを別の角度から心配していた。Aクラス卒業が心配なのは当然の事。
堀北さんは約束の実行を。櫛田さんは、その約束が私に残すものを。
「約束が消えるわけではないわ。実際、もう実行された訳だしね。ただ、私たちがあなたを信用する理由は減るかもしれないわね。何度も手を差し伸べてくれたのは、そりゃ感謝しているわ。でもね、私はあなたと一緒に生徒会を回して欲しいのよ」
堀北さんたちがAクラスに上がるまで、私は何度か手を貸した。
直接勝たせたわけではない。
ただ、坂柳クラスが勝ち切らなくても不自然ではない理由を用意しただけだ。
それを手助けと呼ぶか、裏切りと呼ぶかは、たぶん見る場所によって違う。
「分かってる…けどね、坂柳さんがなんて言うか」
私は眼鏡に触れそうになって、手を止めた。
「ねぇ、雪ちゃん。無理なら、無理って言っていいんじゃないかな」
今度は櫛田さんが説得する。
「別に無理って訳じゃないけど…?」
「堀北生徒会長が土下座してもダメ?」
「何それ…」
「それはしないわ」
私達は新発売のトマトパンを分け合った。酸味が少し強かった。
堀北さんは顔をしかめ、櫛田さんは笑った。
その何でもないやり取りを見ながら、私は思った。
こういう場所を守りたいと思っているくせに、自分はずっと別の場所を見ている。
「入るよ」
私が言うと、堀北さんの手が止まった。
「生徒会に?」
「うん」
「本当にいいの?」と、櫛田さんが聞いた。
「よくない」と、私はトマトパンをもう一口食べた。
「でも、約束だから」
*
休日、私は体育館の小ホールにいた。
柔道部が大会で使っていない時間を、一夏がどこからか押さえてきたらしい。
全てを隠せるわけではないけれど、「たまに本気でやりたい」という一夏の願いを叶えるために、私達四人は数カ月に一度集まって稽古をする。
畳の上で、一夏が楽しそうに笑っており、八神くんは壁際で準備運動をしている。
清隆は何も言わず、帯を直していた。
道着を身に着けるといつもなんだか懐かしい気持ちになるし、心が落ち着く気がする。
ホワイトルームでは感情を意識する余裕なんてなかったが、きっと私はイヤイヤ受けていたのだろうと思う。
でも、たまにこうやって型の稽古をする程度は、定期的にやってもいいかもしれない。
「で、今日は組手ですか?」
八神くんが言った。
「あぁ、軽くやろう」
清隆が答える。
「軽く…ですか?綾小路先輩?」
「拓也、今日はやめて」
私は危険を察知した。八神くんがこちらを見る。
「何をですか?」
「清隆に勝とうとすること」
「勝とうとしてはいけない理由をお伺いしても?」
「…休日だから?」
「理由になっていません」
「じゃあ、私が嫌だから」
拓也は少しだけ目を細めた。
一夏が「お」と楽しそうな声を出す。
「雪先輩、今のちょっと……可愛すぎです」
「…うわぁ、うるさいなー」
五期生はどんな特別授業を受けたのかと、後輩と話しているとよく思う。
なんなら先生方の性格がおかしいと、現実のクラスメイトと比べるとそれしか答えがないんじゃないかとすら思う。
教える側が歪んでいて、一夏や拓也も歪んだという事だ。
「清隆先輩、聞きました?雪先輩が嫌だそうです」
「聞こえている」
清隆はそれだけ言った。
一夏は清隆を興味深そうに見ると、私に目を向けた。
やがて拓也に向き直る。
「……先輩方、失礼しました! 飲み物の用意がなかったので、後輩のあたしが拓也とパシられて来ますね」
「え?いらないだろ?」
「いるいる、綾小路先輩、いりますよねぇ。雪先輩は、水?スポドリ?」
「水かな~」
「清隆先輩は?」
「…オレも水」
一夏は八神くんの腕を掴んだ。
八神くんは振り払わなかった。
振り払わないということは、意図を読んだということだ。
「ホラ、拓也」と、多少強引に進めようとする。
「なぜ僕がパシリなんて…?」
「空気を読んでくださいよぉ」
「君に言われるのは心外ですね」
グチグチ言いながらも誰かに従うのなんてとても人間らしい。
という感想を抱きながら、二人が出ていく扉を見る。
扉が閉まり、小ホールに私と清隆だけが残った。
二人の間の無言が少し気まずい。
同じ施設で、同じ時間割の中にいた。
それなのに、今の清隆を前にすると、知らない人を見る時のような感覚になる。
胸が急に熱くなってきて、私は平静を装うために話しかける。
「…なんか一夏変じゃなかった?どうしたんだろうね」
私は言った。
「一夏は前から変なヤツだったぞ?」
「ふふ、そうだね。こうやって話すの久しぶりじゃない?」
「そうだな、同じクラスなのに、なんか不思議な気分かもしれない」
こうやってまじまじと見ることすら珍しい。
清隆は、昔より普通に見える。
それが努力なのか、擬態なのか、私にはまだ分からない。
分からないのに、見ていたいと思った。
その時点で、たぶん私はミスっているのだが。
相変わらず一夏は好き好きアピールが激しい。
私達はたまのこういう時間に、何でもない話をする。
清隆は、必要以上に踏み込まない。
だから話せる。
だから、少し傷つく。
もし優しさなら困る。
もし無関心なら、もっと困る。
私はその区別をつけないまま、彼の隣にいる時間だけを大事なものみたいに扱っていた。
でも、もう一人の私が傷ついている事には、気付いていた。
同時に、気付かないフリをしていた。
扉の向こうから、一夏の笑い声が聞こえた。
私は姿勢を正して、眼鏡を直す。
レンズの奥で、清隆がこちらを見ていた。
たぶん、何も分かっていない顔だった。
それなのに私は、見抜かれたような気がした。
こんな状態で、稽古なんてできるはずがなかった。
A´【十二歳 八月】
沖縄の空港で最初に見つけたのは、綾小路清隆くんと椿雪ちゃんだった。
私が着いた時、二人は到着口の端に並んで立っていた。子供同士というより、同じ荷物置き場に置かれた二つの鞄みたいだった。
距離は近いけれど、仲が良さそうには見えない。
近づく理由があったのではなく、離れる理由がないからそこにいる。そんな立ち方だった。
「こんにちは、引率を担当する星之宮です。ええと、綾小路清隆くんと、椿雪ちゃん?」
「「はい」」
「息ぴったりだね」
私が微笑んで言うと、椿ちゃんは何か言おうとしてやめた。
どうしたのかと思っていたが、口を開く前に、先に言葉を選んでいるのだと分かった。
「ごめんね。まだ他の二人が来てないみたいだから、少し待ってようか」
そういうと、椿ちゃんは頷いた。
綾小路くんは私を見ても興味なさそうで、何も言わなかったが、私が指した待機場所へ先に歩き出した。椿ちゃんはその半歩後ろをついていく。
その様子を見て、この二人はペアなのだろうと思った。
資料には四人の児童が来るとあったが、細かい関係までは知らされていない。
名前と年齢、最低限の注意事項だけ。
■参加者
綾小路清隆、十二歳。
椿雪、十二歳。
八神拓也、十一歳。
天沢一夏、十一歳。
■依頼
彼らの自主性を促すこと
黒スーツの田中さんは少し離れたところで、カメラケースを肩にかけていた。
私は二人をベンチに座らせる。普通の子供なら、そこで飲み物が欲しいとか、トイレに行きたいとか、荷物が重いとか言うのだけれど、二人は何も言わない。椿ちゃんは空港の天井を見ていた。
「二人は前から知り合いなの?」
私が聞くと、椿ちゃんが一度だけ綾小路くんを見た。
「はい、同じ施設にいます」
「そっか。じゃあ、仲良しなのかな~?」
「…えっと、分かりません」
私は返事に困る。反抗期に入るのは、もう少し先なのではないか。
もしかして、英才教育を受けている天才には良くあることなのだろうか。
「えっと、よく一緒にいるとか?」
「それは…はい、そうです。あたし達はいつも一緒です」
「そう、じゃあ、仲良しでいいんじゃないかな」
「え?そうなんですか?」
椿ちゃんは本気で聞いている顔だった。
私は笑ってごまかした。今なら分かる。あの子は言葉の意味を確認していた。仲が良いとは何か。一緒にいるだけで成立するのか。そこを聞いていた。けれど当時の私は、ただ少し変わった子だと思った。
しばらくして、八神拓也くんが現れた。
彼は年齢に不釣り合いなくらい丁寧に頭を下げた。
「八神拓也です。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。しっかりしてるね」
「必要な挨拶だと判断しましたので」
最後に来たのが天沢一夏ちゃんだった。
「天沢一夏です。あ、星之宮さんですか?若いですね」
「ありがとう。先生じゃないから、今日は補助のお姉さんかな」
「じゃあ…智恵…ちゃん?」
「それはまだ早いかなぁ」
「じゃあ星之宮さん」
そう天沢ちゃんは笑った。
その笑顔を見た瞬間、普通の子供もいると思い私は安心した。
四人の中に一人でも表情の分かりやすい子がいるとやりやすい。
*
沖縄に到着し、空港から車で施設に到着すると、私は四人を連れて海へ向かった。
そこでも最初は、綾小路くんと椿ちゃんが並んで歩いた。
八神くんは綾小路くんの少し後ろにつく。天沢ちゃんは、椿ちゃんの隣に入りそうで入らない位置を歩く。
砂浜へ出ると、椿ちゃんが足を止めた。
海を見ていた。
子供なら歓声を上げると思っていたが、皆そんな事はしなかった。青い海に白い砂、夕方の光と絵葉書みたいな場所に連れてこられれば、少しくらい普通の子供は笑う。
「海、初めてかな?」
私が聞くと、椿ちゃんはすぐに答えなかった。
私は待った。
この子は急かすとダメなタイプだ。空港からここまでで、それくらいは分かっていた。
「……はい、不思議な感覚…です」
「そっか、そうだよね」
子供の感想としては妥当なのだろうか。
測りかねるが、プライベートの事には口を出さない契約だった。
でも、なんとなく、感動しているんじゃないかと思った。
「ねぇねぇ!一枚、写真を撮っても良いかな?」
と言って、子供たちを集める。
田中さんは施設のチェックイン手続きで、少し離れていた。
そう思っていた。
けれど、私が携帯を開いた時、少し離れた施設のガラス扉に黒い影が映った。
カメラケースを肩にかけたまま、田中さんがこちらを見ていた。
私はそれを、念のための確認だと思った。
彼らの表情を見ていると、この子たちは娯楽を経験することなく育ったのではないかと仮説が立った。
それならせめて、思い出を作ってあげることはできるのではないか。
「はーい、寄って寄って!」
私はガラケーを横にして、一枚だけ写真を撮った。
画面の中で、私だけが自然に笑っていた。
天沢ちゃんは笑っているように見えた。
八神くんは不機嫌そうだった。
綾小路くんは、写真を撮られていることだけを受け入れた顔をしていた。
椿ちゃんは、自分ではなく、隣の綾小路くんを見ていた。
私はそれを、可愛いと思った。
少し離れた施設のガラス扉には、田中さんの黒い影がまだ映っていた。